学位論文要旨



No 122036
著者(漢字) 梅原,千慶
著者(英字)
著者(カナ) ウメハラ,センケイ
標題(和) 大腸菌1細胞の環境応答に関する研究 : 孤立1細胞ダイナミクスのオンチップ直接観察
標題(洋) A study on the environmental response of Escherichia coli individuals : On-chip direct monitoring of the dynamics of isolated single cells
報告番号 122036
報告番号 甲22036
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第713号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 栗栖,源嗣
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 教授 池内,昌彦
 東京医科歯科大学 教授 安田,賢二
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

 生命活動には秩序があり、その秩序は情報によって保たれている。中でも、子孫へと安定して受け継がれる情報は遺伝情報と呼ばれ、ゲノムとして先天的に蓄積されていると考えられている。この先天的遺伝情報が許容する範囲内で、各個体・各細胞は環境変化に時々刻々と応答できる。環境変化への応答結果の安定性は様々であり、元の環境に戻されたときにすぐに消去されることもあれば、しばらくの間持続されることもある。あるいは、表現型の変化として安定化されて、あたかも遺伝現象のように世代間で伝承されることも考えられる(実際、個体発生における細胞の分化現象は、同一ゲノムを持つ細胞が異なる表現型へと安定化される例である)。そこで本研究では、環境変化への応答を、表現型の決定に影響を与えうる情報の獲得ととらえる。そして、ゲノムに蓄えられた先天的遺伝情報と対比させて、それ以外に環境から獲得した情報を広義の「後天的情報」と呼び、その安定性を議論する。

 先天的情報ではゲノムという普遍的な媒体が明らかとなったが、後天的情報の媒体はいまだ模索されている段階にある。だが、たとえその媒体が未知であろうとも、例えば環境から獲得した情報の安定性は、環境応答の履歴現象として観察できる可能性がある。そこで私は、この後天的情報を蓄えうる基本単位は1細胞であろうと仮定して、モデル細胞として大腸菌を選び、任意に設定した環境下での応答ダイナミクスを顕微鏡で世代間観察する方法(図1)を本研究における基礎とした。この方法により、大腸菌1細胞における環境応答結果の安定性を明らかにし、後天的情報の性質(特にその獲得・保持・伝承機構)の解明へとつなげることが本研究の目的である。

2. 集団ベースの環境応答ダイナミクス計測

 大腸菌の環境応答の一例として、初めに、栄養条件を変化させたときの細胞成長への影響を調べた。栄養を欠乏させるため、バッチ培養した大腸菌を半透膜チューブに移し、0.9%生理食塩水溶液中で連続透析を行ったところ、透析日数に応じて細胞長さの平均値が小さくなるダイナミクスを見出した。透析後の細胞は、顕微鏡下での寒天培養により、成長し分裂する能力(「生存能」と定義)を維持しているかが調べられた。その結果、無栄養下で生存能を維持する細胞に注目すると、細胞長の最適値(2.0 μm)と最小値(1.0 μm)が存在することが示唆された。この最小値の存在は、細胞が環境応答として許容しうる限界があることを意味する。

 このように、細胞集団の応答ダイナミクスは、透析と寒天培養という古典的な方法で追跡できた。しかし、特定1細胞の環境履歴を追えないがために、細胞集団としての変化は個々の細胞の変化の重ね合わせによるのか(「個々の順応」モデル)、あるいは集団における一部の適者が集団の大部分を構成するようになることで実現されるのか(「自然選択」モデル)が区別できない。さらに、細胞間相互作用や死細胞の分解による栄養条件の微視的な変化など、1細胞に対する厳密な環境制御という問題も認識するに至った。

3. 1細胞環境応答ダイナミクス計測:細胞成長

 第2章で明らかとなった問題点は、1細胞の長期連続計測により解決できる。そこで、1細胞の長期連続計測が可能な計測系として、マイクロチップ上に構築した微小構造物中に細胞を封入し、顕微鏡下で培養しながら観察するオンチップ1細胞培養系(図2)を採用することとした。この系は基本的に、(1) 細胞培養の場となるマイクロチャンバ、(2) 細胞ハンドリング用の光ピンセット、(3) 培養液循環モジュール、(4) 高倍率光学顕微鏡、の4つの要素からなり、本研究で中心的な役割を果たした。特に、光ピンセットによる孤立条件の維持は、同一遺伝情報を持つ直系子孫細胞の世代間計測に重要であった。細胞集団の一部を分取する方法と違い、環境変化前後で同一細胞(またはその子孫)を直接比較することで先天的情報一定の条件を保障し、細胞に起こる変化を新たな後天的情報の獲得と関連付けられる。

 1細胞状態を維持した連続培養で細胞の成長・分裂を観察し、途中で栄養条件を変化させて応答のダイナミクスを追った。その結果、栄養条件の調節で1細胞の成長・分裂周期を停止・再開できることがわかった。無栄養状態に移された孤立1細胞は、細胞周期の途中であっても20分以内に成長・分裂を停止した。その後、数十時間の後に再度栄養が供給されると、30分程度で成長を再開し、分裂と成長を繰り返した。成長再開後は細胞長さ、分裂感覚時間に揺らぎの上昇が見られたものの、その平均値には停止前後で細胞長さ・分裂間隔時間ともに変化が見られなかった。栄養変化前後で平均値が不変であったことから、細胞成長に関する情報は長期無栄養後も孤立1細胞内に保持されると結論づけた。

4. 成長・運動同時計測系の開発

 細胞成長の停止・再開として観察された細胞状態の変化をさらに詳しく調べるために、成長・分裂に加えて運動能を環境応答の新たな指標とすべく、装置の改良に取り組んだ。以前の系では運動能欠損株を用いる必要があったが、新しく設計したマイクロチャンバとプロトコルにより、べん毛運動性のある大腸菌1細胞の成長と運動の様子を同時に計測できるようになった。また、導入されたリアルタイム画像解析プログラムは、チャンバ内の1細胞の2値化画像に基づいてその細胞の重心位置、面積、長軸方向を0.1 s間隔で記録できた。装置の実用性チェックのために行った、細胞の直進遊泳の平均自由行程の解析からは、運動に関する細胞周期依存性は見られなかった。

5. 一定環境下での運動能1細胞計測と世代間比較

 マイクロチャンバのさらなる設計上の改良により、成長と運動の世代をまたがる長期同時計測が可能となった。そこで、まずは栄養条件一定のもとで、新たな計測指標となった細胞運動の"定常状態"を確かめることが必要と考え、数世代にわたる運動と細胞周期との関連付けおよび世代間比較を試みた。遊泳速度の変化を世代内、世代間で解析すると、同一世代内では細胞が成長するにつれて遊泳速度は低下し、細胞体が小さくなる細胞分裂時に速度が非連続的に上昇する現象が多く観察された。この結果に関しては、べん毛回転による発生トルクと細胞体にかかる粘性抵抗を考え、細胞成長に伴う粘性抵抗の増加が遊泳速度の低下をもたらしていると考察した。一方、タンブリング頻度の計測と解析を行ったところ、遊泳速度で見られたような細胞周期との相関は見られず、世代内でも世代間でも揺らいでいることがわかった。さらに、特徴的な現象として、分裂直前の収縮構造が見られる細胞で、それまでスムーズであった直進-タンブリングの切り替えが非同調的になるダイナミクスが観察された。タンブリング頻度は細胞内状態を反映する指標であることから、分裂前の個体内で後に2つの別個体となる制御系が共存して、互いの個性を発揮し始めている状態であると解釈した。

6. 1細胞環境応答ダイナミクス計測:細胞成長と細胞運動

 一定環境での運動の様子を明らかにした後に、第3章と同様の栄養条件変化を孤立1細胞に与え、成長・運動の両方について同時に計測することで、成長と運動での応答ダイナミクスを比較した。その結果、栄養条件変化に対する運動能の応答は細胞成長の応答に比べ遅延があり、無栄養化後も数時間程度は運動し続け、その後に運動を停止することがわかった。運動を維持している間に再度栄養が供給されると、成長と運動は無栄養前と同様の振る舞いを示したが、長時間の無栄養条件により運動が停止した後に栄養を供給すると、最大で6世代の後も運動の回復は見られなかった。このときのべん毛の状態を推定するために、遠心で無栄養状態に移されたバッチ系の大腸菌集団についてべん毛の蛍光染色を行ったところ、べん毛を持たない細胞の割合が増加していた。このことから、運動の停止には、脱落もしくは脱重合によるべん毛喪失が関わっていることが示唆された。

7. 総合討論

 大腸菌孤立1細胞のオンチップ直接観察という方法を用いることで、遺伝子型および過去の履歴が同一の直系子孫細胞を対象とでき、また細胞間相互作用の影響を取り除くことができた。そして、栄養条件をパラメータとして1細胞の環境応答ダイナミクスを世代間観察することができた。その結果、栄養条件変化に対する大腸菌1細胞の応答が、細胞成長では数十分なのに対し、細胞運動では数時間ないしそれ以上の時間を要することがわかった。この成長と運動での応答の非同調性からは、環境変化に対する個々の細胞の生存戦略として、細胞機能ごとにエネルギー配分が最適化されている可能性が考察された。また、富栄養定常条件での観察からは、分裂直前期に細胞の運動の様子が非同調的になるダイナミクスも明らかとなった。

 大腸菌1細胞における後天的情報の性質については、実験結果から (1) 成長過程に関与する後天的情報が無栄養下でも保持されること、(2) 後天的情報は細胞体分離前に分配されて独立に働き出すこと、(3) 後天的情報の安定性は関与している細胞機能ごとに異なること、を推察した。今後の課題としては、これら現象論からの推察を補う分析的手法の導入がある。具体的には、1細胞の刺激・応答を定量的に解析できる手法の開発とその導入による分子機構の解明、そして統計的な議論を可能にするための実験スループットの改善が挙げられる。

 以上、本研究では、環境から獲得する広義の「後天的情報」の性質の解明を目指して、大腸菌孤立1細胞の環境応答結果の安定性を調べてきた。この後天的情報の概念は、大腸菌に限らずすべての生命システムに共通する普遍的なものであろう。同様の手法でより複雑な対象(例えば真核細胞、多細胞生物、共生系)を調べていくことで、後天的情報の普遍的な性質、そして生命の複雑化に対する役割が明らかになっていくと期待される。

図1:環境応答ダイナミクスの世代間観察.環境応答の内容とともに、応答結果の安定性(どの程度保持されるのか、世代をまたがって伝承されるのか)に注目した.

図2:オンチップ1細胞培養系.(a)装置の概要.(b,c)マイクロチャンバ.マイクロチャンバはガラス基板上にアレイ状に作製され、1つ1つのマイクロチャンバ内で細胞は培養されながら観察される.(スケールバーは1mmおよび20μm)(d)1細胞計測の模式図.光ピンセットにより孤立状態が維持される.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、1細胞単位での細胞環境の制御を行いながら、その直系の世代間での細胞伸長速度、泳動速度、細胞周期などを連続して計測することが可能なオンチップ細胞培養計測手法を用い、大腸菌をモデルとして、細胞状態の変化を追いかけ、無栄養条件などの環境変化が細胞運動や成長速度、細胞周期に与える影響を明らかにするとともに、細胞分裂の過程のどの段階から細胞の情報が2つに分かれ始めるのかを明らかにした一連の「オンチップ1細胞培養計測」研究を報告したものである。

 本論文では、まず第1章の序論において、本研究の背景および研究の目的について述べている。ここでは、生命活動の秩序を司る情報の世代間の流れである遺伝(ゲノム)情報に対して、各個体・各細胞が環境変化に時々刻々と応答する結果の中でも、元の環境に戻されたときにも、あたかも遺伝現象のように世代間で伝承される非遺伝子的情「後天的情報」について着目した研究を行うことが述べられている。具体的には、この後天的情報を蓄えうる基本単位のモデル細胞1細胞として、大腸菌を選び、任意に設定した環境下での応答ダイナミクスを顕微鏡で世代間観察する方法を本研究における基礎として、この方法により、環境応答結果の安定性を明らかにし、後天的情報の性質(特にその獲得・保持・伝承機構)の解明へとつなげることが本研究の目的であることが述べられている。

 第2章では、下記、第3章からの1細胞ベースでの細胞計測との対比として、1細胞計測の必要性を明らかにするために集団ベースの環境応答ダイナミクス計測を行った研究について述べられている。すなわち、大腸菌集団の環境応答の一例として、初めに、栄養条件を富栄養から貧栄養(0.9%生理食塩水溶液)に変化させたときの細胞集団中の各細胞の成長速度への影響、細胞長さの平均値が小さくなるダイナミクスを観察することに成功し、成長し分裂する能力(「生存能」と定義)を維持する細胞長の最小値(1.0μm)が存在することを見出した。また、このような細胞集団ベースでの応答ダイナミクス計測では、細胞集団としての変化は個々の細胞の変化の重ね合わせによるのか(「個々の順応」モデル)、あるいは集団における一部の適者が集団の大部分を構成するようになることで実現されるのか(「自然選択」モデル)が区別できないだけでなく、細胞間相互作用や死細胞の分解による栄養条件の微視的な変化などを完全に制御するには不十分であることが述べられている。

 第3章では、第2章で明らかとなった無栄養条件下での細胞集団培養の問題点を解決する目的で行った1細胞孤立化状態での1細胞環境応答ダイナミクス計測について報告したものである。ここでは、1細胞の長期連続計測が可能な計測系として、マイクロチップ上に構築した微小構造物中に細胞を封入し、顕微鏡下で培養しながら観察するオンチップ1細胞培養系を採用することとしている。この系は基本的に、(1)細胞培養の場となるマイクロチャンバ、(2)細胞ハンドリング用の光ピンセット、(3)培養液循環モジュール、(4)高倍率光学顕微鏡、の4つの要素からなり、本研究での後に続く各章でも中心的な役割を果たしている。特に、光ピンセットによる孤立条件の維持は、同一遺伝情報を持つ直系子孫細胞の世代間計測に重要であり、環境変化前後で同一細胞(またはその子孫)を直接比較することで先天的情報一定の条件を保障し、細胞に起こる変化を新たな後天的情報の獲得と関連付けられる特徴を持っている。実際に、1細胞状態を維持した連続培養で細胞の成長・分裂を観察し、途中で栄養条件を変化させて応答のダイナミクスを追った結果によると、栄養条件の調節で1細胞の成長・分裂周期を停止・再開できることが明らかとなったことが報告されている。すなわち、無栄養状態に移された孤立1細胞は、細胞周期の途中であっても20分以内に成長・分裂を停止し、その後、数十時間の後に再度栄養が供給されると、30分程度で成長を再開し、分裂と成長を繰り返した。成長再開後は細胞長さ、分裂感覚時間に揺らぎの上昇が見られたものの、その平均値には停止前後で細胞長さ・分裂間隔時間ともに変化が見られなかった。栄養変化前後で平均値が不変であったことから、細胞成長に関する情報は長期無栄養後も孤立1細胞内に保持されると結論されている。

 第4章では、さらに上記第3章と同じ1細胞培養計測系を改良して、特定の1細胞の成長・運動同時計測系の開発を行ったことが述べられている。ここでは、細胞成長の停止・再開として観察された細胞状態の変化をさらに詳しく調べるために、成長・分裂に加えて運動能を環境応答の新たな指標とすべく、装置の改良に取り組み、以前の系では運動能欠損株を用いる必要があったのに対して、新しく設計したマイクロチャンバとプロトコルにより、べん毛運動性のある大腸菌1細胞の成長と運動の様子を同時に計測できるようになっっている。また、導入されたリアルタイム画像解析プログラムでは、チャンバ内の1細胞の2値化画像に基づいてその細胞の重心位置、面積、長軸方向を0.1s間隔で記録することを可能にしており、実際にこの装置システムを用いて得られた結果から、細胞の直進遊泳の平均自由行程の解析からは、運動に関する細胞周期依存性は見られなかったことが報告されている。

 第5章では、第4章で改良した1細胞培養計測システムを用いて、一定環境下での運動能1細胞計測と世代間比較を行った結果について述べている。このマイクロチャンバのさらなる設計上の改良により、成長と運動の世代をまたがる長期同時計測が可能となったことから、まずは栄養条件一定のもとで、新たな計測指標となった細胞運動の"定常状態"を確かめ、数世代にわたる運動と細胞周期との関連付けおよび世代間比較を試みている。そして、遊泳速度の変化を世代内、世代間で解析すると、同一世代内では細胞が成長するにつれて遊泳速度は低下し、細胞体が小さくなる細胞分裂時に速度が非連続的に上昇する現象が多く観察されたことが報告されている。この結果に関しては、べん毛回転による発生トルクと細胞体にかかる粘性抵抗を考え、細胞成長に伴う粘性抵抗の増加が遊泳速度の低下をもたらしているという考察が述べられている。他方、タンブリング頻度の計測と解析の結果からは、遊泳速度で見られたような細胞周期との相関は見られず、世代内でも世代間でも揺らいでいることが確認されている。特にこの章で観察した特徴的な現象として、分裂直前の収縮構造が見られる細胞で、それまでスムーズであった直進-タンブリングの切り替えが非同調的になるダイナミクスについては、分裂前の個体内で後に2つの別個体となる制御系が共存して、互いの個性を発揮し始めている状態であるという解釈が述べられている。

 第6章では、第5章の実験にさらに第3章で用いた無栄養条件の影響を加えて計測することを試みている。その結果、栄養条件変化に対する運動能の応答は細胞成長の応答に比べ遅延があり、無栄養化後も数時間程度は運動し続け、その後に運動を停止することがわかったことが述べられている。運動を維持している間に再度栄養が供給されると、成長と運動は無栄養前と同様の振る舞いを示したが、長時間の無栄養条件により運動が停止した後に栄養を供給すると、最大で6世代の後も運動の回復は見られなかったことが述べられ、さらに、このときのべん毛の状態を推定するために、遠心で無栄養状態に移されたバッチ系の大腸菌集団についてべん毛の蛍光染色を行ったところ、べん毛を持たない細胞の割合が増加していたことが報告されている。このことから、運動の停止には、脱落もしくは脱重合によるべん毛喪失が関わっていることが示唆されたことが述べられている。

 第7章では、本研究を総括して、本研究で得られた結果についてのまとめ、1細胞の中で起きている現象についての総合的解釈が述べられている。すなわち、大腸菌孤立1細胞のオンチップ直接観察という方法を用いることで、遺伝子型および過去の履歴が同一の直系子孫細胞を対象とでき、また細胞間相互作用の影響を取り除くことができたこと、栄養条件をパラメータとして1細胞の環境応答ダイナミクスを世代間観察することができたこと、その結果、栄養条件変化に対する大腸菌1細胞の応答が、細胞成長では数十分なのに対し、細胞運動では数時間ないしそれ以上の時間を要することなどが述べられている。また、この成長と運動での応答の非同調性からは、環境変化に対する個々の細胞の生存戦略として、細胞機能ごとにエネルギー配分が最適化されている可能性が考察された。また、富栄養定常条件での観察からは、分裂直前期に細胞の運動の様子が非同調的になるダイナミクスも明らかとなったことがまとめられている。そして、大腸菌1細胞における後天的情報の性質については、実験結果から (1)成長過程に関与する後天的情報が無栄養下でも保持されること、(2)後天的情報は細胞体分離前に分配されて独立に働き出すこと、(3)後天的情報の安定性は関与している細胞機能ごとに異なること、などが総括されてている。

 以上、本研究では、環境から獲得する広い意味での後天的情報の性質の解明を目指して、大腸菌孤立1細胞の環境応答結果の安定性を調べてきた。いずれの研究内容も従来の細胞培養技術では実現できない1細胞培養システムでの完全な環境制御の下での細胞の応答の計測であり、世代間比較の手法も結果もオリジナルであり、今までに報告されていない知見である。このこと自体が、その研究水準の高さを示すものと考えられる。

 したがって本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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