学位論文要旨



No 122051
著者(漢字) 山口,鉄生
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,テツオ
標題(和) ヒト骨格筋における熱ショックタンパク質の加齢変化と熱ストレス応答
標題(洋)
報告番号 122051
報告番号 甲22051
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第728号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 跡見,順子
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 助教授 八田,秀雄
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 助教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

 通常生体は環境の変化へ適切に応答することができる。時々刻々と変化する環境からの刺激(ストレス)に対して、生体はその恒常性を維持する方向で応答している。しかし、加齢に伴い出現する生体の変化(運動量の低下、慢性・炎症性疾患の出現、性ホルモンの変化、酸化ストレスの影響など)は、高齢者のストレスへの応答能力の低下を示しているものと考えられる。未曾有な少子高齢化を迎える人類社会では、これらの加齢に伴うストレス応答の減退を解消する適切な方法を明らかにすることが求められている。生体のストレス応答には多くの分子や、シグナル伝達系が関与することが明らかにされている。その中でも、タンパク質の恒常性を維持するために必須な熱ショックタンパク質(heat shock proteins;HSPs)やシグナル伝達系であるMitogen-activated protein kinases(MAPKs)が重要な役割を担っていると考えられている。

 運動器(骨、軟骨、筋、靭帯)は加齢に伴い、変形性関節症や筋腱炎などをおこし、生活の質(Quality of life)の低下をもたらす。これらの疾患に対しては、症状の程度によって種々の治療(薬物、運動など)が適用されるが、実際には温熱療法が用いられることも多い。一般的に、温熱療法の効果は加温に伴う組織の血流の改善に組織によってもたらされると考えられている。しかしながら、血流の影響に依存しない熱作用が細胞自体へどのような効果を及ぼすのかについて詳細な報告はこれまでほとんど見られていない。

 生物に対して通常有害な作用を示すストレスや薬物が、微量であれば逆に生理的な刺激作用を示す場合がある。この生理的刺激作用をHomesisという。ギリシャ語のhormeはto excite を意味しており、微量のストレスであれば生体に有益な効果をもたらすという生物の普遍的な適応応答効果を表している。Hormesisの効果(Hormeric効果)を引き出す要因としては、放射線、カロリー制限、熱、アルコール、運動などが知られており、その具体的な作用としては、細胞内においてタンパク質の合成・分解を亢進し、細胞の増殖、分化を適切に維持する影響が報告されている。高齢の動物由来の細胞では修飾されたタンパク質が蓄積しているが、Hormesisによってプロテアソーム系などのタンパク質分解系の機能を促進することで、細胞の抗加齢効果を有することが報告されている。本研究では筋組織に着目し、加齢に伴う細胞のストレス応答低下のメカニズムについて検討するために、HSPs の中で筋組織に多く発現しているsHSPsとそのリン酸化を制御するMAPKsの発現様式の加齢変化について検討した。また、医療の現場で実際に使用されているマイルドな熱ストレスの作用に注目して、恒温動物の筋分化と筋管の形態へ及ぼす影響について調べた。恒温動物の骨格筋培養細胞として、ヒト筋芽細胞、C2C12マウス筋芽細胞、鶏初代培養細胞を用いた。

 哺乳類のHSPsの中で、低分子量熱ショックタンパク質(small HSPs;sHSPs)は骨格筋に恒常的に発現している。安静時状態におけるヒト外側広筋についてsHSPs(HSP27とαB-crystallin)のリン酸化と細胞内分布の加齢変化についてウエスタンブロット法で調べた。またsHSPsのリン酸化を担っていると考えられている上流のリン酸化酵素である、p38 MAPK、MAPK-activated protein kinase-2、extracellular-signal regulated kinase-1/2についても調べた。対象は整形外科手術を予定していた若年グループ(15-38歳)、高齢グループ(51-78歳)、それぞれ9人とした。sHSPsのタンパク質レベルは、若年と比較すると高齢群の不溶性分画において高値を示した。sHSPsのリン酸化状態も高齢群の可溶性、不溶性、それぞれにおいて増加していた。さらに、sHSPsのリン酸化の上流であるリン酸化酵素の活性も高齢群において増加していた。また、一般的に加齢に伴うプロテアソームの機能低下により修飾(ユビキチン化、酸化、糖化など)されたタンパク質が蓄積すると、それらはプロテアソームの機能をより阻害してさらに不溶性分画へと蓄積する。今回の結果では、高齢群の骨格筋でポリユビキチン化タンパク質が集積していた。加齢による酸化ストレスや炎症反応の増加が報告されており、加齢による生体内のメカニズムの変化が、MAPKsの活性化やsHSPs のリン酸化や集積に影響していると考えられる。

 筋管形成に対する熱ストレスの直接的な影響を調べたところ、ヒトの骨格筋初代培養細胞とC2C12マウス筋芽細胞では、39℃で筋芽細胞の融合と伴に筋管形成が促進され、さらに筋管が拡張していた。鳥類(鶏胚)は体温が41℃であるが、鶏胚筋芽細胞も2℃の温度上昇により筋管の拡張が観察され、およそ2℃の上昇による筋管径の増加は恒温動物において普遍的な現象である事を明らかにした。2℃の温度上昇による遺伝子の変化について、1例ではあるがヒト筋芽細胞を用いてDNAマイクロアレイで調べたところ、抗アポトーシス作用を有するB-cell CLL/lymphoma 2(Bcl-2)の発現量の増加、myosin heavy chain(MYH)7(骨格筋遅筋型ミオシン)の発現量の増加、MYH1(骨格筋速筋型ミオシン)の減少が観察された。熱ストレス(2℃の温度上昇)後に観察された筋管径の増加は、遅筋線維への細胞特性の促進が示唆された。さらに、熱ストレス後のC2C12細胞における変化をウエスタンブロット法で調べたところ、不溶性分画でのmyogeninの発現量が増加していた。myogeninは遅筋線維で多く発現することから、今回の筋管拡張は筋管の遅筋化を伴っている可能性がある。2℃の温度上昇というマイルドなストレスによりmyogeninによる筋芽細胞融合と最終分化の促進、MYHのアイソフォームの変化、Bcl-2による抗アポトーシス作用などの変化がもたらされ、筋管拡張が誘導されたと考えられる。今回得られたこれらの変化について、今後さらに詳細な解析を行う予定である。

 骨格筋においては、加齢変化によるミトコンドリアの減少や機能低下が報告されている。ミトコンドリアの機能低下は、エネルギーを必要とする骨格筋のタンパク質の恒常性維持の低下や、インスリン抵抗性の増大につながる。加齢に伴う筋のMYHのアイソフォームの変化については一定の見解は得られていないが、マイルドなストレスによりMYH 7の増加、即ち遅筋化を促すことは、ミトコンドリアの減少や機能低下という加齢変化に対しては抗加齢的な効果であり、Hormeric効果を有するのではないかと考えられる。また、本研究の結果、高齢者では安静時にすでに沈殿分画におけるsHSPsの上昇を伴ったMAPKsの活性化上昇が観察された。持続的持久性運動を定期的に習慣づけることで、MAPKsのストレス応答が改善することが報告されており、本研究の結果から安静時のMAPKsの活性化を減弱させることが重要であることが示された。今後は、適応能の高い骨格筋の加齢を予防するという観点から、個人に適したマイルドなストレスがあることを科学的に提示すること、そして温熱負荷も含めてHormeric効果を引き出す生活を構築・実践していくことがきわめて重要となってくるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 人のほとんどすべての活動は神経系と連携して働く骨格筋により成されるといっても過言ではない。骨格筋は、心筋と異なり組織の中に将来骨格筋細胞に分化することのできるサテライトセル(幹細胞)を豊富にもつきわめて適応能力の高い組織である。未分化な幹細胞をもつということは、損傷を受けても適切な環境刺激があれば再生治癒することを意味する。従来、骨格筋の可塑性の研究は使用性肥大廃用性萎縮に焦点をあて研究されてきたが、高齢化社会においては、安全でかつ日常生活において実施可能な適切適度な骨格筋適応能を維持増進する研究が求められている。加齢に伴い多くの生体機能が低下することが報告されてきたが、高齢になっても元気に活動している人も多い。仮に加齢による骨格筋の萎縮が、不活動性の萎縮と同様のメカニズムによりもたらされるとすると、適切に骨格筋の活動を上昇させることが高齢化社会においてのQOL向上のための方策になるはずである。人間は、科学的な根拠を学び、意欲的、自発的に行動を変えてゆくことができる唯一の動物である。これまで考えられてきた人間の成長、成熟、老化という「自然」現象に対して、今後は人間の努力を引き出すための科学が求められているともいえる。未曾有な少子高齢化を迎える人類社会では、これらの加齢に伴う適応応答の減退を解消する適切な方法を明らかにすることが必須である。

 生体は環境の変化へホメオスタシスを維持する方向に適切に応答する能力を有している。しかし、加齢に伴い生体応答機能は低下する。運動量の低下、慢性・炎症性疾患の出現、性ホルモンの変化、酸化ストレスの影響、ストレス応答の低下などは、高齢者の適応応答能力の低下を示すものである。ストレス応答には多くの分子、シグナル伝達系が関与することが明らかにされている。その中でもタンパク質のホメオスタシスを維持するために必須な熱ショックタンパク質(heat shock proteins; HSPs)やストレスのシグナル伝達系であるMitogen-activated protein kinases (MAPKs)が重要な役割を担っている。本博士論文は、大きな適応能力をもつ骨格筋におけるHSPs及びストレスシグナル伝達系に焦点をあて、第1部で、高齢者の骨格筋の細胞内の生化学的特性を明らかにし、第2部で整形外科治療法としても用いられ、かつ高齢者にも利用可能な温熱効果について検討がなされ、HSPsの発現が高まるだけでは不十分であること、2℃の温度上昇という温熱負荷が適切でかつ有効な適応効果Hormesis効果(後述)をもたらすものであることを明らかにした点で高く評価される。

 やや詳細に説明を続ける。哺乳類のHSPsの中で、低分子量熱ショックタンパク質(small HSPs;sHSPs)は骨格筋に構成的に発現している。ヒト高齢者の安静時状態におけるヒト外側広筋の可溶性分画及び沈殿分画のsHSPsのリン酸化状態、上流のリン酸化カスケード:p38 MAPK、MAPK-activated protein kinase-2、extracellular-signal regulated kinase-1/2を測定した結果、sHSPsのリン酸化状態は高齢群の可溶性、不溶性の両方で、それぞれの上流のリン酸化酵素のリン酸化も増加、かつ不溶性分画のポリユビキチン化タンパク質の集積から、加齢による生体内のメカニズムの変化がMAPKsの活性化や sHSPsのリン酸化や集積に影響していることを示した。これはラットなどの動物を用いた不活動モデルで惹起される現象ときわめて類似していた。Hormesis効果(ギリシャ語のhormeはto exciteを意味する。微量のストレスであれば生体に有益な効果をもたらすという生物の普遍的な適応応答効果を現す)をもたらす温度特性〔熱ショックストレス〕を、上記分子マーカー及び骨格筋の適応能の背景となるサテライトセル(幹細胞)からの分化特性(筋管形成及び筋管特性)に焦点をあて検討し、2℃というわずかな温度上昇が、上記Hormesis効果をもたらすことを明らかにした。通常筋細胞の実験に用いられているマウス筋芽細胞C2C12株だけではなく、体温が高い鶏初代筋芽細胞及びヒト骨格筋細胞にも共通にこのHormesis効果が観られたことは、この効果が恒温動物に普遍的な適応であることを示唆する。山口鉄生さんは、整形外科医であり、現場における治療方法の確立に意欲をもっている。通常ストレス実験では、このような温度依存特性を詳細に検討した研究は少ない。加齢にともない増加する運動器(骨,軟骨,筋,靭帯)の炎症は、人間の運動や活動自体に悪影響を与え、生活の質(QOL)の低下をもたらす。今回検討した温熱負荷方法は、高齢者でも安全に利用可能である。温熱療法の効果は、一般的に加温に伴う組織の血流の改善によってもたらされると考えられているが、本研究は一歩進めて血流の影響に依存しない熱作用が直接細胞に有効に働きかけうることを明らかにした。2℃の温度上昇により筋管の幅の拡張が観察された。古くから骨格筋サルコメアのZ線(細胞の接着班と相同)の幅は、遅筋線維で広く、速筋線維で狭いことが明らかにされているが、その機能については未知な部分が多い。しかしZ線は、細胞の接着斑と相同である。今回熱ショック後のZ線の幅の計測を行っていないが、観察された筋管径の増加は、一例ではあるものの2℃の温度の上昇によるDNAアレイにより観察された遅筋線維の細胞特性の促進〔Bcl-2、MYH7(骨格筋遅筋型ミオシン)、MYH1(骨格筋速筋型ミオシン)の減少〕と同方向性の変化であった。また同様に遅筋線維で多く発現しているmyogeninの発現量も増加し、免疫染色の結果、核に移行している割合が高かった。この研究で行われた二つの結果を総合すると、温熱負荷も含めてHormesis効果を引き出す生活を構築・実践していくことが適応能の高い骨格筋の加齢を予防するという観点から今後きわめて重要となってくるであろう。

 以上のように、本研究は座業高齢者の骨格筋の基底状態の特性を明らかにし、さらに2℃という温度上昇がサテライトセルを豊富にもつ骨格筋の分化を適応性の高い遅筋化へ方向付けるHormesis効果-良いストレス効果を引き出すことを明らかにした。この結果は、今後さらに重要性を増していくと考えられる高齢化社会におけるQOLの維持に適切な科学的な研究の方向性を示唆するものとなった。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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