学位論文要旨



No 122052
著者(漢字) 鈴木,啓介
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ケイスケ
標題(和) 細胞モデルにおける自己運動とオートポイエーシスの研究
標題(洋) Self-movement and Autopoiesis in a Cell Model
報告番号 122052
報告番号 甲22052
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第729号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 池上,高志
 東京大学 教授 磯崎,行雄
 東京大学 教授 嶋田,正和
 東京大学 助教授 植田,一博
 東京大学 助教授 開,一夫
内容要旨 要旨を表示する

1. 導入

 生物は自ら行動を決定しているように見える。この生命の持つ自律性を生気論に陥らずに理解するために、Varela(1974)はオートポイエーシス理論の中で、細胞のように自らの境界を再生成し続ける再帰的なプロセスにこそ自律的行動の源がある、という議論を展開した。

 一方で、近年ロボットやシミュレーションを用いることで、知覚と運動の結びつきについての研究が盛んに行われている。そこでは、人間や動物の知覚プロセスはセンサーの受動的な外部情報の取り込みではなく、主体の運動とセンサー入力のカップリングとして捉える必要性が論じられている。自律的な運動はこのようなカップリングの上に生じると議論されている。細胞のような単細胞生物においても、運動や知覚は、化学物質や温度を感知してその方向へ動く振舞いである走化性に見られるように、重要な機能である。

 生命の基本的な性質としての境界を自己生成する機能と、知覚運動系の持つセンサーモーター系はどのように関係するのだろうか。通常のロボティクスではセンサーやモーターは始めから仮定されており、その間の接続のみが問題になる。しかし、原初的な生物ではセンサーやモーターを含む知覚運動系そのものが、膜の維持としての代謝プロセスや膜そのものと区別されていなかったと考えられる。

 ここでは知覚と運動の原初的な生成を見るために、知覚、運動と代謝系を同時に扱えるような細胞モデルを構築しする。運動の生成と、そこから生まれる知覚現象を見ていくことで、膜の自己生成を通したセンサーモーター系の起源について議論する。

2. モデル

本論文ではVarelaによるオートポイエーシスのモデルである、SCLモデルを元にして行った。SCL(Substrate-Catalyst-Link)モデルは、二次元格子空間上を拡散する、3種類の仮想的な粒子、基質分子(S)、触媒分子(C)、膜分子(L)から構成される。これらの粒子間に以下の3つの化学反応が適用される。

2S+C→L+C (1)

L+L→L-L (2)

L→2S (3)

(1)式は2つの基質分子から触媒分子によって1つの膜分子が生成される反応を示す。一方、(2)式は生成された膜分子が隣合う膜分子と結合することで空間上に固定されることを示している。(3)式により、膜分子はある一定の確率で再び基質分子に分解される。空間上に一様に分布した基質分子と、単一の触媒分子が存在するとき、触媒分子によって近傍に生成される膜分子がお互いに連結していき、触媒分子を囲む形で膜構造を作り上げる。膜分子の分解により、膜上に穴が開くときがあるが、膜内部の触媒分子から生成される膜分子によって修復され、膜の生成プロセスが維持される。この過程で維持される膜に囲まれたシステムを「細胞」と呼ぶことにする。本論文ではこのモデルを基本として幾つかの改変を加えることで、運動と自己生成の関係を見ていく。

3. 自己修復と運動

最初のモデルでは、このような自己維持的プロセスとともに、運動生成を行うモデルの構築を目指した。ここでは新たに触媒分子によって生成される分子として、「機能膜分子(Lf)」という膜分子を導入した。機能膜分子が近傍にある触媒分子が片側に押される規則と、機能膜分子のある部分だけを基質分子が透過可能にすることで、細胞全体の運動を可能にするオートポイエーシスモデルを構築した。運動は機能膜分子によって触媒分子が片側に移動することで、膜の崩壊、修復過程とともに細胞全体が移動することで生じる。

 このモデルでは膜の修復過程により運動が生じ、生じた運度によって再び膜が不安定化し、再び運動へと繋がっていく様子が観察される。また、基質分子の膜の透過性の違いによって、基質分子の流入が少なく、膜を維持できない状態や、逆に機能膜分子が多く存在する事で膜が完全に固定化されて動かない状態などが環境の基質分子の濃度に依存して存在する事が分かった。

4. 膜の形と運動

 次に、膜の形とダイナミクスが生み出す運動と細胞運動の関係を見ていくために、新たな運動生成メカニズムを備えたモデルを構築した。このモデルでは膜の修復プロセスは膜を壊さずに行われる規則を用いたのと、元のモデルでは固定されていた膜分子を膜を壊さない範囲で動くようにした。このモデルでは、細胞の運動パターンは膜分子の膜への挿入イベントと、膜上で起こる崩壊イベントの確率という2つパラメータに大きく依存している。

 細胞を基質分子の濃度勾配のある環境におくと、崩壊イベント(removal)の確率が高い場合には、濃度の高い方向へ移動するが、崩壊イベントの確率が小さい場合にはそのような運動は見られず、ランダムに運動することが分かった。一方、パラメータの違いによって膜の形状にも違いが見られ、崩壊イベントの確率が高い範囲では、膜の形状は比較的角のない丸い形になり、一方で低い範囲では、腕状の構造ができやすく曲率の低い形状を持つ特徴がある。幾つかの統計的な計測から、濃度勾配を上るのは局所的な基質分子の差が膜分子の生成速度に偏りを生み出し、結果として勾配の高い方向に触媒分子が移動できる空間ができることが原因であると分かった。一方、勾配を上る運動が崩壊イベントの低い場合に起きにくいのは、ギザギザの構造の膜の場合、膜のローカルな摂動が大きくなってしまうことで勾配を上るプロセスが阻害されていることが分かった。このシミュレーションでは膜の形状とそのダイナミクスが、基質分子の濃度勾配への反応という意味でのセンサーとしての役割を担うことが示せた。

5. まとめ

 自己修復と運動の関係をモデル化した最初のモデルでは自己複製と運動という2つの特性を相補的に働くための幾つかの必要条件を示せた。また、膜の修復機能と運動生成のどちらのも関わる機能膜分子を通して、緩い形でセンサーモーターカップリングが生じていると見なすこともできる。このような分子の拡散過程を通したSMカップリングは実際に原初的な生物でも存在した可能性がある。

 一方、膜の形と走化性の関係を示した2つ目のモデルでは、さらに基質分子の濃度勾配への運動による反応性の違いから、膜の形による創発的なセンサーの可能性を示した。こちらのモデルでも運動生成に関わる膜が、そのままセンサーとしての役割を果たすことで、特にセンサーとしてデバイスを持たずとも、運動生成とその機構そのもののカップリングの結果からセンサーモーターカップリングの起源が議論できると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は原始細胞の自発運動の進化を理論的に考えるためのフレームワークを提案することを目的とし、具体的には2次元オートマトンによる数理モデルの提案とそのシミュレーションおよび理論的解析を行なったものである。

本論文は4章からなる。第1章では、原始細胞を理論的に考察する上での基本概念である、オートポイエシス理論や、構造的カップリングなどを説明し、その上で本論文がテーマとする、原始細胞の自律的運動について簡単に解説し、2章以後のモデルの基盤を示している。

第2章では、F.Varelaらによって提唱された数理モデルの拡張を試みる。この数理モデルはわずか3種類の抽象的な化学物質とその間の反応により、触媒物質を囲い込む膜の構造が生成し、その膜を維持することで触媒反応が保たれ、それが逆に膜を維持するというフィードバックループの存在を示す。本論文では膜を構成する分子の種類を増やし、膜の透過性を議論できるモデルに改変し、より重要なこととして膜が運動するような構造を作り出すことができた。このモデルでは膜の自律的崩壊と修復を使って膜が運動を始めること、その運動が単なる熱的な揺らぎから脱却すること、代謝のある環境の中であたかもセンサーを持つような運動を開始することを議論した。このモデルは、オートポイエシスに自律運動の要素を加え、原始細胞のモデルに近づけた点で評価できる。

第3章では、第2章のモデルをさらに発展させて膜のブラウン運動を扱い、膜の形と運動/センサーの関係を論じている。自発運動を開始する原始細胞では、センサーとモーターは不可分な関係にあるが、代謝物質に勾配のある環境に置くことで、その勾配を感知し勾配を登る運動(chemotaxis)が出現することがシミュレーションにより示された。特に、膜の形を変化させることでchemotaxisが制御されることを示したのは評価できる。

第4章は、こうした抽象的な原始細胞モデルをもとに、センサーや運動の起源がどのように考えることができるかを論じている。

このように、論文提出者は本論文において、原始細胞のオートマトン的モデルを用いて、細胞の自発運動を論じ、センサーと運動の進化を膜の形から考察している。こうした考察は、実際に始まっている原始細胞構成の実験にも、いくつかの示唆を与えるものと期待される。また今まで理論的に扱うのが困難であった、膜の形を考慮したダイナミクスを扱えたことは、新しいモデルの方向を拓くものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク