学位論文要旨



No 122054
著者(漢字) 池田,真志
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,マサシ
標題(和) 小売・外食産業における生産・流通システムに関する地理学的研究
標題(洋)
報告番号 122054
報告番号 甲22054
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第731号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒井,良雄
 東京大学 教授 谷内,達
 東京大学 助教授 永田,淳嗣
 東京大学 助教授 松原,宏
 早稲田大学 助教授 箸本,健二
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は,1990年代後半以降に起こった日本の流通産業における変化を「生産・流通システム」という概念で捉え,「リスク」を主要な鍵概念としながらその特徴を明らかにするものである.

 第1章では,本研究の背景と目的を述べた上で,既存研究のレビューを踏まえて本研究の手法を導き出した.1990年代後半以降の日本における流通産業の変化に象徴されるように,高度経済成長期以降に確立された大量生産・大量流通システム(以下,大量システム)は限界に達し,大量システムのパラダイムとは異なる論理で生産・流通システムが再編成されているのではないだろうかという問題意識から,1990年代後半以降に形成された新たな生産・流通システムの実態とそれが成立する仕組みを解明し,その特徴を明らかにすることを研究目的とする.さらに,地理学的な視点からこの変化が伴う空間性について議論し,新たな生産・流通システム理解する枠組みを提示する.本研究では,地理学における流通研究やフードシステム,商品連鎖アプローチの既存研究レビューを踏まえて,「生産・流通システム」という概念で現象をとらえる.具体的には,複数の個別企業レベルのシステムの分析から,そこに共通して内在する本質や論理を明らかにし,それを踏まえて,産業レベルでの生産・流通システムについて議論を行う.また,分析の鍵概念として需給の不一致によって発生して各主体が負うことになる「経済的な損失の可能性」を意味する「リスク」という概念を用いる.このリスクは,商品の「必要生産時間」と「消費可能期間」と「生産のコントロール可能性」の3つが複合的に作用することによって規定される.具体的な分析対象としては,1990年代後半以降の顕著な変化の中から,リスクの性質が異なる3つの現象,すなわちアパレル産業における製販統合,スーパーによる「顔が見える」野菜の調達,外食企業による契約栽培・農業参入を選定した.

 第2章では,大量システムのパラダイムについて整理し,チェーンストアの成長と,1990年代後半以降の流通産業における変化を既存資料や統計などから検討した.高度経済成長期以降,大量生産された商品と大衆消費者を結ぶ流通革新が求められ,その論理に乗ったスーパーマーケットが急成長を遂げた.スーパーはチェーン展開によって規模を拡大し,マスメリットを追及した結果,商品とオペレーションの標準化・規格化による効率重視のシステムが構築された.それが大量生産システムと結びついて登場したシステムを大量システムと呼ぶ.このような大量システムのパラダイムから,小売チェーン,専門店チェーン,外食チェーン等々のチェーンストアの成長が説明可能である.しかしながら,1990年代後半以降,小売産業と外食産業の市場規模は縮小を始め,チェーン間の競争が激化し,低価格路線や高付加価値路線などの多様化が顕著になってきた.さらに,大手流通業者の経営破綻や,食の安心・安全に関する諸問題の発生など,流通産業には様々な変化が生じてきた.こうした環境変化に対する打開策の一つが,小売・外食チェーンによる川上側への関与,すなわち生産・流通システムの再編成として表面化している.以下の章で,それらを具体的に検討していく.

 第3章では,1990年代後半以降に顕著になったアパレル産業における製販統合の進展を背景として,(1)アパレル産業において製販統合が進展した要因,(2)製販統合型のアパレル企業(SPA)が持つ生産・流通システムの特徴とその地理的な影響を明らかにすることを目的とした.アパレル産業における製販統合の誘因は当該産業に特有なマーケットリスクの回避に求められる.SPAの生産・流通システムの特徴として,可能な限り実需に対応しようとする生産の「延期」化が挙げられ,リードタイムを重視して産地を国際的に使い分ける柔軟な生産体制が構築されている.すなわち,従来の展示会受注型の体制では,実需への対応が難しく,生産・流通システム全体としてリスクが大きいため,それを回避するシステムを構築するために製販統合が進んだ.期中生産では短納期を求めて国内産地を優先する生産・流通システムは国内産地にも影響をもたらすだろう.

 第4章では,食の安心・安全をめぐる諸問題と,それに伴う「顔が見える」野菜の流通の拡大を背景として,スーパーによる「顔が見える」野菜の調達によって形成された生産・流通システムの特徴とそれが成立する仕組みを解明することを目的とした.大手スーパー各社による「顔が見える」野菜の導入は2000年以降に顕著であり,その背景は,JAS法の改正と,食の安心・安全をめぐる諸問題,さらには生産者の氏素性が分からないという大量システムの問題点に求められる.「顔が見える」流通を実現するために形成された生産・流通システムは,流通の「個別化」という概念でとらえられる.「個別化」した流通では,生産・流通システム全体としてリスクが増大するが,それをスーパーも含めた各段階で分散しており,リスク中央集中型である卸売市場流通をベースとした大量システムとは一線を画する新たなシステムである.さらに,生産―流通―消費の関係は,各主体が関係を深め,密接で相互協力的,信頼に基づいた継続的な関係が構築されている.「個別化」した流通は,大量システムに支えられていることに加えて,消費市場の構造を考慮に入れると,両システムは並存するものといえる.

 第5章では,1990年代後半以降に進展した外食チェーン企業による契約栽培の導入と農業参入の動きを背景に,(1)外食産業において契約栽培・農業参入が進んだ要因,(2)外食チェーン企業によって形成された生産・流通システムが成立する要因と特徴を解明することを目的とした.前者については,外食市場の飽和,競争環境の変化,有機野菜ブーム,価値観の変化,それに伴う品質の追求が挙げられるが,それらに加えて,外食チェーンは品質や価格の不安定性,コールドチェーンの不確立,リードタイムの長さなどの大量システムにおける問題点を克服するために契約栽培や農業参入に乗り出した.この生産・流通システムでは,外食チェーンの業態特性から,規格や数量の遵守に対して厳しい調達システムが形成されており,産地と外食チェーンとの間で数量のミスマッチと規格のミスマッチが生じている.数量のミスマッチに関しては,外食チェーンが他の取引先からの仕入れや調理加工の工夫によってリスクを調整している.他方,規格のミスマッチは,産地側が規格ごとに異なる業態に出荷先を持つことで調整している.事例とした外食チェーンは,規格のミスマッチが生じる品目では契約栽培で調達するが,加工によって規格のミスマッチを回避できる品目は自社農場で生産している.さらに,従来の中間流通が担っていた機能とリスクを産地と外食チェーンで二極分担していることが明らかとなった.こうした生産・流通システムは,卸売市場や加工業者からの調達システムとは一線を画するといえる.また,外食チェーンによる契約栽培と農業参入は,産地に対して,生産品目の変化や農業産出額の増加などの影響を与えると同時に,様々なリスクを抱えさせることになる.

 第6章では,本研究で得られた知見を踏まえて,1990年代後半以降に起こった生産・流通システムの再編成とその空間性について議論し,今後の展望を示した.本研究で取り上げた3つ事例における変化は,小売・外食企業をとりまく環境の変化と大量システムの限界に端を発していることが明らかとなった.その限界を乗り越えるために,小売・外食企業は流通のみならず生産にまで影響を与え,生産・流通システム再編成していた.これらの新たなシステムが成立する要因として,各事例で検討したようなリスク分散の方法が重要である.1990年代後半以降の生産・流通システムの再編成は,大量システムの下では効率化のために犠牲にされてきた要素,つまり非効率性を受容することによって得られる価値を実現しようとした動きであり,大量システムでは得られない価値を目指した動きであった.したがって,どの要素をどの程度求めるかによってこの再編成のあり方は異なるため,新たなシステムは大量システムのようなひとつのパラダイムでは理解し得ないものとなっている.

 また,生産・流通システムの再編成は,(1)「流通機能の空間性」,(2)「リスク分散の空間性」,(3)「地域間結合の空間性」の3点で空間的な再編成を伴うことが明らかとなった.

 確かに,新たな生産・流通システムが登場しつつあるが,これは大量システムのパラダイムを否定するものではなく,その限界を補完する新たなシステムの登場としてみるべきである.新たなシステムは,大量システムの中で効率化を重視することによって失われてきた要素を獲得するために,チェーンストアが形成する生産・流通システムとしてとらえることが可能であり,これを「脱」大量システムと呼べるのではないだろうか.この「脱」大量システムは,量的には大量システムを凌駕するものではないが,新たなパラダイムとして日本の生産・流通システムを質的に大きく変えていくものであるといえよう.したがって,今後も登場し続けであろう「脱」大量システムの実態とその空間性を解明し,それを社会や経済の理解につなげることが地理学者の課題である.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,生産と流通を包括的に捉えようとする「生産・流通システム」の概念に立脚しつつ, 1990年代後半以降に起こった日本の流通・外食産業における変化を解明しようとしたものである.

 第二次大戦後,先進各国では,大量生産・大量流通システム(大量システム)のパラダイムに基づいた流通産業が発展し、社会生活に大きな変化がもたらされた.日本でも,高度経済成長期以降,流通革新の名の下に,全国的なスーパーチェーン企業が台頭し,流通チャネルの主役を占めるようになった。さらに,流通産業における変化は近接領域である外食産業にも波及し,大規模外食チェーンの誕生を見た.しかし,そうした大量システムは,1990年代半ば頃から大きな転換期を迎え,流通のみならず生産のあり方を含めたパラダイムシフトが生じつつある.

 このような動きは,始まってから日が浅い現象であるために,断片的な報道から知り得るのみで,これまで学術的な研究はほとんどなされてこなかった.本研究では,日本の流通・外食産業におけるいくつかの先端的事例を取り上げ,アンケートと聞き取りを中心とするフィールド調査に基づいて,生産・流通の現場で起こっている新しい事態を把握し,さらに「リスク」を主要な鍵概念とした分析によって,その成立要因を解明しようとしたものである.

 本研究は6章から構成されている.第1章では,本研究の問題意識と目的を明らかにし,既存研究のレビューを踏まえて,研究の方法を導き出している.第2章では,大量システムのパラダイムに関する概念を整理し,チェーンストアの成長と1990年代後半以降の流通産業における変化を既存資料や統計などから概観した.第3章から第5章は,生産・流通システムの再編成に関する実証分析である.まず,第3章では,アパレル産業において製販統合型アパレル企業(SPA)が台頭した要因と,SPAの生産・流通システムが持つ地理的な特徴を分析した.その結果,SPAはマーケットリスクを回避するために生産時期を販売時期に極力近づける「延期化」を行い,生産時期によって産地をグローバルかつ柔軟に使い分ける生産・流通システムを形成しているいるという興味深い事実が明らかとなった.第4章では,大手スーパー企業によって形成されたいわゆる「顔が見える」野菜の流通について,その特徴と成立要因をリスク分散という新しい観点から分析した.その結果,「顔が見える」流通は,流通の「個別化」によって実現され,生産・流通システム全体としてリスクが増大するが,それをスーパーも含めた各流通段階で分散させるアプローチが取られていることが明らかとなった.第5章では,外食チェーンによる契約栽培・農業参入と産地への影響を分析した.外食チェーンは大量システムにおける問題点を克服するために契約栽培や農業参入に乗り出しているが,大量システムでは中間流通が分担していたリスクや機能を産地と外食チェーンで分担しているというこれまでにない知見を得た.第6章では,事例研究で得られた知見を総括し,生産・流通システムが卸売市場流通を介した「不特定多数結合・効率型モデル」から,特定の産地・生産者と小売・外食企業が結びつく「特定少数結合・高付加価値型モデル」に再編成されつつあること,さらに,その再編成が,(1)「流通機能の空間性」,(2)「リスク分散の空間性」,(3)「地域間結合の空間性」の3点で空間的な再編成を伴うことを指摘した.

 以上のように,本研究は,今日の生産・流通システムにおけるパラダイムシフトをいち早く捉え,綿密なフィールドワークに基づいて実態を明らかにした上で,その成立要因をリスクの分担という新しい視角から解明した点で独創的であり,流通地理学をはじめとした多くの関連分野における大きな学術的貢献が認められる.よって,本審査委員会は,本論文の提出者である池田真志は博士(学術)の学位を授与される資格があるものと認める.

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