学位論文要旨



No 122056
著者(漢字) 泊,次郎
著者(英字)
著者(カナ) トマリ,ジロウ
標題(和) 日本におけるプレートテクトニクスの受容
標題(洋)
報告番号 122056
報告番号 甲22056
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第733号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 岡本,拓司
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 村田,純一
 法政大学 教授 谷本,勉
内容要旨 要旨を表示する

 地震や火山、造山運動などの地質現象の原因を、地球の表面を覆う厚さ100km程度の十数枚のプレート(岩の板)の運動によって説明するプレートテクトニクス(Plate Tectonics:以下、PTと略)は、1960年代後半に出現し、欧米では70年代初めには多くの地質学者、地球物理学者に受け入れられ、地球科学の支配的パラダイムとなった。

 すなわちPTの登場によって、さまざまな理論や研究伝統が混在した20世紀初めから1960年代までの地球科学の状況に終止符が打たれ、統一した地球像が描けるようになったのである。それは、「動かない」という地球観から、生き生きと躍動する地球観への転換でもあった。別々の学問分野であった地質学と地球物理学は、同じパラダイムを軸にして、地球科学あるいは地球惑星科学と呼ばれる新しい学問分野に再編成されたのである。

 しかしながら日本では、様相が若干異なった。地球物理学分野ではPTは1970年代初めに受け入れられたが、地質学の分野では根強い抵抗があった。地質学の多くの研究者が、PTとそれにもとづいた日本列島論を受け入れるようになるのは、1980年代半ばを過ぎてからであり、欧米に比べると10年以上の遅れが見られた。これに伴って、地球科学諸分野の再編成にもやはり時間を要した。日本ではなぜこのような特異な事態が生じたのか、その理由を解明しようと試みたのが、この小論である。

 序章では、海外と日本での先行研究の概略を紹介するとともに、どのような点についての研究が不十分であるのかを明らかにした。すなわち、PTの誕生から成立までの歴史に関しては、多数の著作が発表されているが、国によってPTの受容の時期や形態にどのような差があり、それはどのような理由によるのか、という点については十分に明らかにはされていない。日本での受容に関して具体的に言及した著作も、海外には存在しない。

 日本におけるPTの受容に関して多くの地質研究者が、日本の地質学界では地球物理学界や欧米に比べて、10年以上受容が遅れたと指摘し、それに関連して戦後の民主主義運動の中から誕生した地学団体研究会(以下、地団研と略)や「地向斜造山論」の存在をあげている。しかしながら、地団研が批判的にPTに対処したのは何故であったのか、「地向斜造山論」とはどのように形成されたのかなど、日本でのPTの受容の歴史を本格的に論じた研究は存在しない。ここに本論の第一の存在意義が存在すると考えられる。

 第1章では、日本でのPTの受容の過程を論じる準備として、PTはどのような歴史を経て成立したのか、その源流となった大陸移動説や海洋底拡大説などについて説明すると同時に、PTとはどのような理論なのかを紹介した。PTでは、過去の地球の歴史についても、現在と同様のプレート運動が過去にあったとして説明を試みようとする。すなわち、PTはきわめて現在主義(Actualism)的な考え方を基礎にしていることを強調した。

 海洋底拡大説やPTに対する反対は海外でもあった。第2章では、それはどのような立場からのどのような反対だったのかを紹介し、海外では「地向斜」概念を基礎にしてPTに反対する人はいなかったことを明らかにした。また、PTの受容の時期は国によってかなりの違いが見られ、その国の地球科学の発展の歴史に強く依存していることを述べた。

 第3章いかが日本に関する叙述である。日本の地質学界ではPTの受容には強い抵抗があり、欧米に比べると10年は遅れたという指摘は、歴史的に見て正しいのか。第3章では、学会での発表、学会誌に掲載された論文、教科書の記述が、それぞれどう変わっていったか、PTを批判していた研究者や団体がその見解を変え、PT「支持」に転向した時期はいつなのかを調べた。その結果、日本でも地球物理学の分野では、PTは欧米と同じように1970年代前半には受容されたが、地質学の分野ではPTが受け入れられるようになったのは1986年ごろであることを、明らかにした。

 第4章では、日本の地球物理学分野ではなぜ、PTがすみやかに受け入れられたのかを考察した。地震学を中核として発展してきた日本の固体地球物理学の歴史を振り返ってみると、日本で近代的な地震学が誕生し、地震観測に有利な地理的条件があったという事情もあり、固体地球物理学分野では早くから世界を意識して研究が進められてきたことが分かる。グローバルな理論への関心は高く、戦後早い時期から国際化が進んだこともあって、1970年代初めにはPTを受け入れることにつながった、と考えられる。

 第5章では、日本が明治以降、西洋の近代科学技術を積極的に受け入れ、それを独自のものとして発展させていく中で、日本の地質学がどのような特徴をもつに至ったかについて述べた。日本の近代地質学は、明治政府の「殖産興業」「富国強兵」政策の影響もあって、地域の地質・地下資源を調査・記載することから出発した。日清戦争以降は、拡大一途をたどった海外領土の地質や地下資源を調査・記載することに追われる一方で、主たる関心は日本列島の地質の成り立ちの解明に向けられ、地域主義的・記載主義的・地史中心主義的な性格の強いものとして成長した。太平洋戦争開戦直前に発表された小林貞一の「佐川造山輪廻」説は、こうした戦前の地質学の集大成の1つであった。

 太平洋戦争が終わると、科学者の世界でも民主主義を求める運動が広がり、地質学の分野では地団研が誕生した。地団研は、日本の地質学界の民主化運動を組織し、日本の地質学界を変革した。地団研はまた、「地質学は地球の発展の法則を探究する歴史科学である」との考え方と団体研究法を中心に独自の学風もつくりあげた。地団研の独自の学風について考察したのが第6章である。

 地団研の学風は「歴史主義」と呼ばれることが多かった。しかしながら、その具体的内容を調べてみると、地球の歴史にも社会の歴史と同じような発展法則が存在すると考える点に特徴があり、「歴史法則主義(Historicism)」の研究伝統と呼ぶべきものであることを主張した。それにもとづいて地向斜の「自己運動」によって山脈ができるという日本独自の「地向斜造山論」が生み出されたことをも明らかにした。

 第7章では、地団研が戦後長らく、日本地質学会の執行部を握り、科学研究費の配分、学会賞の選定、人事、学位の授与などを通じて、日本の地質学界に大きな影響を及ぼし、歴史法則主義的な考え方や「地向斜造山論」も、支配的な考え方になったことを主張した。地団研はまた、PTが日米科学協力協定に関係しているとして反対したことや、日本の地質学は地団研の大きな影響下で、地域主義的・地史中心主義的な性格が強化されたことについても述べた。

 第8章では、地質学分野でもPTにもとづいて日本列島の地質を解釈する研究が早い時期に発表されたが、それらは強い反対にあったことを述べた。反対理由の1つは、地向斜の「自己運動」によって造山現象を説明する「地向斜造山論」と、プレート運動という外力によって造山を説明するPTにもとづく地質学との概念的な対立にあった。現在主義に立脚したPTは歴史法則主義的な地質学と概念的に合い入れない、という問題も存在した。

 日本でPTが受容されたのは、日本列島の大部分がプレートの沈み込みにともなって形成された付加体であるという「日本列島=付加体」説が受け入れられた時期とほとんど同時であった。PTへの反対があったがゆえに、付加体の考え方を日本列島の地質に適用する研究は開始が遅れた。その研究に対しても強い批判があった。その結果、付加体の概念は日本で磨きあげられ、日本列島を舞台にした付加体の実証的研究は世界最高水準に達した、といわれる。第9章では、「日本列島=付加体」説がどのようにして形成され、どのように受容されたかを紹介した。

 終章では本稿の結論として、日本ではPTの受容に時間がかかった要因として、(1)日本の地質学が地域主義的・地史中心主義的(日本列島第一主義的)性格がきわめて強いものとして成長し、日本の地質学の課題は日本列島の地質発達史の解明にある、と多くの地質研究者が考えていたのに対し、PTは日本列島の地質はどうしてできたかという問題にただちに答えるものではなかった、(2)地団研が、PTは歴史法則主義や日本独自の「地向斜造山論」、それにもとづく日本列島論と対立したがゆえに、またイデオロギー的な理由でもPTを批判した。地団研は個人的にPTを受容するのを難しくする体制をも作り上げていた、(3)東京大学教授の木村敏雄を中心とした「佐川造山輪廻」説へのこだわり―の3つをあげた。終章では、PTを受容した後の日本の地質学界がどのように変わったのか、また、本稿で十分に明らかにできなかった問題についても触れた。

 本稿によって、日本の学術の分野でPTがどのように受容されたのかについての歴史を初めて描くことができた。それと同時に、日本の地質学の地域主義的・地史中心主義的な特徴が地質学分野でのPTの受容の遅れにつながったことや、地団研の学風が歴史法則主義と呼ぶべきものであり、それが日本独自の「地向斜造山論」を生み出し、PTの受容に当たってはそれらが大きな障害になったことなど、これまで言及されたことのなかった数々の問題点の所在を明らかにできた、と考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、序章、第1〜9章、終章からなる。このうち第1章・第2章ではプレートテクトニクスの誕生から受容にいたるまでの世界の動向が述べられ、第3章では日本の地質学におけるプレートテクトニクスの受容が世界の他の地域に比べて10年程度遅れたことがあきらかにされる。第4章・第5章では戦前にさかのぼって日本の地球物理学・地質学の流れが確認され、第6章から第9章においては、日本の地質学におけるプレートテクトニクス受容の遅れが、戦後の日本の地質学の学説面・制度面の特質から説明される。

 以下、各章の紹介と全体的な評価について述べる。

 序章ではプレートテクトニクスの国内外における受容についての先行研究の概要が述べられ、日本におけるプレートテクトニクスの受容の過程の全貌を描いた研究が存在しないこと、及びそれが本論文の主題であることが示される。

 第1・2章では、大陸移動説・海洋底拡大説などからプレートテクトニクスに至るまでの歴史が述べられ、海外で見られたプレートテクトニクスへの反論と受容の過程が明らかにされる。海外には、後の章で詳述されるような、日本において顕著であった地向斜を論拠とするプレートテクトニクスへの反対は存在しなかった。

 第3章では、日本におけるプレートテクトニクスの受容がいつ生じたかを確定する作業が行われる。具体的には、学会講演の内容、学会誌掲載の論文、大学の教科書の内容、高校の学習指導要領の内容の4点について調査が行われ、日本におけるプレートテクトニクスの受容は、地球物理学においては1970年代前半、地質学においては1986年頃であったことが明らかにされた。地球物理学における受容の時期は欧米とほぼ同じであるが、地質学における受容は、地球物理学より10年以上遅れていることが確認された。

 第4・5章では、プレートテクトニクス受容の前史ともいうべき、日本の地球物理学・地質学の戦前期における展開の特徴が検討される。地震学を中心に早くから国際競争力をもった地球物理学においては、世界を意識した研究が行われきたのに対し、地質学の関心は国内・領土内を関心の対象とする傾向が強く、地質や地下資源についての調査、日本列島の成り立ちなどを主たる対象とする、地域主義的・記載主義的・地史中心主義的な研究が行われていたことが指摘される。

 第6・7章では、戦後の日本の地質学全般に影響力を及ぼした、地学団体研究会(地団研)の活動と学風が明らかにされる。地団研は、戦後の日本の各分野で生じた民主化運動を、地質学界において担うことを目指して作られた研究組織であったが、民主化運動が沈静化をみせた50年代以降も、カリスマ性をもつ指導者の井尻正二の思想に強く影響されながら結束を保ったまま存続し、科研費の配分、全国の大学の地質学関係の人事、学位などを通じて地質学界の中枢を支配し続けた。学問的傾向は井尻個人の思想に依存するところが大きかったが、特に著しい特徴としては、現象間の因果関係を問うよりも、生成・変化・発展・消滅の過程を追う歴史科学的な手法を強調したことと、時間に即した発展の過程に法則性を見出そうとする歴史法則主義をとったことが挙げられる。また、地向斜を基礎的な原理とする造山論(地向斜造山論)を発展させるなど、国外の地質学研究にはない展開も見せた。

 第8章では、プレートテクトニクスが世界の地球物理学・地質学において主流になる中で、日本の地質学においては、地向斜造山論を根拠として、日本列島の形成に対してプレートテクトニクスを適用することに反対する勢力が大きく、これがプレートテクトニクスの日本における受容を妨げたことが明らかにされる。プレートテクトニクスは、自然科学の他の成果と同様、現在も過去も同じ物理化学の法則が成立するとする現在主義に基づく理論であるが、地団研の歴史法則主義においては、極端な場合には過去においては物理・化学の法則も現在とは異なっていたと想定する場合もある。プレートテクトニクスへの強い反対が生じた背景には、こうした科学法則観の対立もあった。

 第9章では、地団研の強い反対にあいながらも、日本列島の大部分がプレートの沈み込みに伴って出来たとする「日本列島=付加体」説に従う研究が蓄積され、強い反対があったがゆえにむしろ付加体の研究は洗練され、遂にプレートテクトニクスの日本における受容をもたらしたことが指摘される。

 日本でのプレートテクトニクスの受容が欧米に比べて10年程度遅れた理由として泊氏が指摘するのは、1.戦前期以来日本の地質学が地域主義的・地史中心主義的色彩の強い学問であり続けたこと、2.プレートテクトニクスは、地向斜造山論や歴史法則主義など、地団研を中心とする日本の地質学の中心的な傾向に反する学説であったこと、3.地団研ともプレートテクトニクスとも等距離を保った東京大学を中心とするグループは、「佐川造山輪廻」説に固執した、という3点である。

 本研究が資料として用いたのは、学術誌や学会通信等に掲載された論文や記事であるが、直接の引用はないものの、泊氏は20名程度におよぶ関係者(地団研系の人々も含む)からの聞き取りも実施している。聞き取り結果が資料として引用されなかったのは、結果的に聞き取りで得られた情報のほとんど全てが、文書資料によっても得られたためである。本論文の叙述の手堅さは、このような綿密な文献の調査によるところが大きい。

 また、本論文のうち、最も力の注がれている6章から8章については、ほかに類似の研究はなく、戦後の日本の地質学の、世界的にみて極めて特異な展開に関する貴重かつ詳細な情報を与えるという点で、科学史研究全体に対する貴重な貢献を成したと認めることができる。

結び

 現在主義と歴史法則主義の対立が強調されすぎている可能性がある、プレートテクトニクスの受容史が叙述の中心となったためにその他の学説の誕生・発展についての記述がやや薄い、地団研批判がやや強すぎるように思われる、地質学の研究が実際どのようになされているかについて具体的な記述が乏しい等々の欠点はあるものの、明治期以来の地球物理学・地質学の歴史の中にプレートテクトニクスへの批判とその受容の過程を位置づけ、学説と制度の両面から詳細な分析を行った功績は大きい。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク