学位論文要旨



No 122057
著者(漢字) 奥,瑞希
著者(英字)
著者(カナ) オク,ミズキ
標題(和) 光電子分光法によるピラジンのリュードベリおよびカチオン状態の分子構造の研究
標題(洋) Molecular Structrue of Pyrazine in the Rydberg and Cationic States Studied by Photoelectron Spectroscopy
報告番号 122057
報告番号 甲22057
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第734号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 真船,文隆
 理化学研究所 主任研究員 鈴木,俊法
内容要旨 要旨を表示する

【序論】回転構造が観測できないような寿命の短い高励起状態や実験的に高いエネルギー分解能を達成する事が難しいイオン状態においては、フランク−コンドン(FC)解析によりその分子構造を決定する事ができる。ピラジン分子は窒素原子を含んだ複素環化合物で、HOMOが窒素原子由来のnon-bonding軌道、second-HOMOがπ軌道である。これらの軌道から電子が3s軌道に励起された高励起状態のRydberg状態には3s(n(-1))と3s(π(-1))状態があり、その寿命は比較的短く、数百フェムト秒と言われている。また、電子が抜けたカチオン状態にもD0(n(-1))とD1(π(-1))状態がある。Rydberg状態はそれが収斂するイオン状態に酷似した平衡構造を有すると考えられている。以前、フェムト秒レーザーを用いた3s Rydberg状態経由の(2+1)REMPI(2光子共鳴1光子イオン化)スペクトル[1]と、カチオン状態を検出したHe(I)光電子スペクトル[2]が観測されているが、どちらもエネルギー分解能に問題があるためRydberg状態とカチオン状態の平衡構造について議論する事はできない。本研究ではエネルギー分解能が良く、寿命の短い状態を検出する事に適している短パルスのピコ秒レーザーを用いて(2+1)REMPI光電子画像およびスペクトルを観測した。また、カチオン状態に関してはHe(I)高分解能光電子スペクトルの測定を行った。これらの実験結果に基づき、FC解析から3s(n(-1))とD0(n(-1))の平衡構造の違いを定量的に検討した。また、D0(n(-1))、D1(π(-1))状態間の振電相互作用についても精査した。

【実験】ピコ秒チタンサファイアレーザーシステムにより得たピコ秒波長可変紫外光(330-390nm)をレンズで集光する。レーザー波長を固定してピラジンの分子線に照射して2光子で3s Rydberg状態に共鳴させ、更に1光子でイオン化する(図1)。放出された光電子は速度収束型電極で加速され、マイクロチャネルプレート(MCP)に当たり、増幅される。増幅された電子はMCPの背面にある蛍光板を光らせる。それをCCDカメラで撮影して(2+1)REMPI光電子画像を得た。また、波長を掃引してMCPで増幅された電流値を測定すると、3s Rydberg状態に共鳴した時にだけ光電子が多く放出され、(2+1)REMPIスペクトルを得る事ができる。振動バンドの正確な強度を得るためにレーザーパワーをモニターして、可変型NDフィルターを使ってパワーが一定になるように調整した。画像観測とREMPIスペクトルの観測には新たに装置を設計製作した。また、He(I)共鳴線でピラジンを1光子イオン化し、D0(n(-1))とD1(π(-1))状態の高分解能光電子スペクトルを測定した(図1)。エネルギー分解能は5.5meVであった。

【結果と考察】3s(n(-1))のv'(6a)=0-3の振電バンドにレーザー波長をそれぞれ固定して(2+1)REMPI光電子画像観測した。図2(a)はv'(6a)=3経由の光電子画像を逆アーベル変換して得た断層像である。縦軸は励起波長のエネルギーに対応する。図2(b)はv'(6a)=0-3に共鳴した時の光電子画像の光電子エネルギー分布である。Rydberg状態がイオン化されたときの光電子の運動エネルギー(PKE)は以下の式に従う。

T(Rydberg)はRydberg状態の項値、IPはイオン化ポテンシャル、〓ωはイオン化波長である。光電子運動エネルギー分布に表れる振動構造の強度分布は、FC原理に基づき3s(n(-1))とD0(n(-1))の平衡構造の違いによって決まる。D0(n(-1))とそれに収斂する3s(n(-1))は構造が類似しており、3s(n(-1))経由の光電子画像では、Δv=0の近似則が良く成り立つと考えられてきた。しかし、図2に示した光電子画像の動径分布では、6a振動のΔv=0に対応する強いバンドの両脇に弱いバンドが現れた。Δv=0のバンドとの間隔はそれぞれ6aモードの振動数と実験誤差内で一致したため、弱いバンドはΔv=±1の遷移に対応すると帰属できた。従って、D0(n(-1))と3s(n(-1))に6a振動座標方向の構造変化がある事がわかった。

 図3に3s Rydberg状態付近の(2+1)REMPIスペクトルと、He(I)光電子スペクトルを示す。スペクトルには、どちらも6a、8a振動のプログレッションが現れており、3s(n(-1))、D0(n(-1))とS0では大きな構造変化があることを示す。一方、3s(π(-1)) 、D1(π(-1))では、スペクトルに振動バンドがほとんど現れていない事から、S0とほとんど構造変化がない事が分かる。得られたスペクトルの振動解析を行い、オリジンバンドT(3s(n(-1)))及びIP(D0(n(-1)))、振動数を決定した。表1に実験で得られた振動数と、密度汎関数法(B3LYP/cc-pVTZ)で得た最適構造に対する振動計算結果を示す。また、3s(n(-1))、D0(n(-1))の領域において(2+1)REMPIとHe(I)光電子スペクトルの6a振動量子数に対する強度を比較すると、相対強度分布が異なっていることが分かる。つまり、ここでもD0(n(-1))と3s(n(-1))の6a振動座標方向に構造変化がある事が反映されている。

 FC因子は始状態と終状態の振動波動関数の重なり積分であり、基準振動数の比と平衡構造の差ΔQで表される。B3LYP/cc-pVTZの計算結果からS0とD0(n(-1))の基準振動座標の違いは無視できるほど小さいことが分かった。そこで、S0、3s(n(-1))、D0(n(-1))の状態の基準振動座標を等しいとして、FC解析を行った。それぞれの実験結果で得た振動プログレッションの相対強度比に対して、ΔQをパラメータとしてFCフィットし、S0と3s(n(-1))、D0(n(-1))ポテンシャルの6a振動座標方向の平衡構造の変位ΔQ(S0-3s)、ΔQ(S0-D0)を得た。これらの値から得られる3s(n(-1))とD0(n(-1))の平衡構造の変位ΔQ(3s-D0)は、光電子画像から得た値と実験誤差内で一致した。これらを図4にまとめた。S0から3s(n(-1))とD0(n(-1))は大きく構造が変化していることがわかる。これはn軌道がスルーボンド相互作用によりCNとCCボンドのσ軌道から大きな寄与を受けているためである。それに比べるとわずかではあるが3s(n(-1))とD0(n(-1))の平衡構造の違いを観測する事ができた。さらに、B3LYP/cc-pVTZによって得たS0の平衡構造を元に3s(n(-1))とD0(n(-1))の平衡構造を算出した。これらの構造の値は表2にまとめた。

 図3のHe(I)高分解能光電子スペクトルの81000-84000cm-1の領域では、D1(π(-1))に帰属される4つのブロードな振動バンドと共に、細かい振動構造が初めて観測された。この細かい構造は、D1(π(-1)B1g)との振電相互作用によって現われたD0(n(-1)Ag)のb1g対称性高振動励起状態である。ブロードなバンド形状は、D1(π(-1))とD0(n(-1))の高振動励起状態が強く振電相互作用しているためと考えられ、その幅からD1(π(-1))の寿命は12fsと見積もられた。D1(π(-1))の細かい構造の線幅は、D0(n(-1))のオリジンバンドの線幅より太く、D0(n(-1))の高振動励起状態間での分子内振動エネルギー再分配の時定数が65fsと求まった。

図1. 実験スキーム

図2. (a)3s((n-1),v'(6a)=3)状態に共鳴させて観測した光電子画像(b)光電子運動エネルギー分布(v'(6a)=0-3の振動状態に共鳴)

表1.実験及びDFT計算から得た3s(n(-1))とD0(n(-1))の振動数(cm(-1))

図3.(a)超音速ジェット冷却されたピラジンのHe(I)光電子スペクトル(b)ピコ秒(2+1)REMPIスペクトル

図4.ピラジン分子のポテンシャルエネルギー

表2.ピラジン分子のイオン状態と3s状態の平衡構造

1. J. K. Song, M. Tsubouchi, and T. Suzuki, J. Chem. Phys., 115, 8810 (2001).

2. C. Fridh, L. Asbrink, B. Jonsson, and E. Lindholm, Int. J. Mass. Spec. Ion Phys., 8, 101 (1972).

審査要旨 要旨を表示する

 6員環構造を持つ一連の芳香族分子は、化学の広い分野で基本的な重要性を持つ。そのため、その幾何学的構造や電子状態などが様々な物理化学的手法で研究されている。電子基底状態や寿命の長い電子励起状態の構造は、比較的容易に決定できるが、本質的に回転構造が分離できないような短寿命の高励起状態やイオン状態の構造決定は困難である。このような状態に対して振動構造を明確に分離した質の良いスペクトルを観測することができればフランクコンドン解析により構造を決定することができる。本論文では、基本的な芳香族分子の一つであるピラジンを取りあげ、エネルギー分解能の高い光電子分光法を駆使することにより、Rydberg状態と、カチオン状態の構造をフランクコンドン解析により決定した。

 論文は全体で7章からなる。第1章は一般的な導入に当てられている。ここではピラジンの電子状態が説明されるとともに、この分子に関する過去の研究経過、本研究の意義がまとめられている。第2章は実験装置の説明に当てられている。本研究で用いた共鳴多光子イオン化法、光電子画像観測法に対する概説に続き、実際に使用した装置の説明が与えられている。ピラジンのRydberg状態の構造決定に必要なスペクトルの観測に用いた共鳴多光子イオン化分光装置と、光電子画像観測装置、カチオン状態の構造決定に必要なスペクトルの観測に用いた高分解能光電子分光装置について詳しい説明がなされている。特にS/N比の良くない信号を積算し、精密な解析に耐えうるだけのデータを得るための工夫について触れられている。

 第3章は、実験結果の解析に利用した分子軌道計算についてまとめられている。フランクコンドン解析には、分子の振動モードに関する詳細なデータが必要である。そのため、実験データでは不足する部分を分子軌道計算で補っている。また、その妥当性を既存の実験データとの比較で確認している。

 第4章は、ピコ秒レーザーを用いた(2+1)光子共鳴イオン化スペクトルと、光電子画像観測の結果が説明されている。ともに、Rydberg状態の情報を含むスペクトルが得られる実験手法である。なかでも画像観測からは、Rydberg状態とカチオン状態の構造が異なることを示すデータを得ている。また、共鳴イオン化スペクトルからは、Rydeberg状態の構造に関するデータが得られる。観測したスペクトルと、個々のピークの帰属について詳しく説明されている。

 第5章は、高分解能の光電子スペクトルの観測について説明されている。本研究では、ジェット冷却されたピラジンの高分解能光電子スペクトルを取ることができ、個々の振動バンドが明確に分離されて観測された。その結果、フランクコンドン解析により、カチオン状態の構造を精度良く決定することができるだけの詳細なデータを得ることができている。

 第6は、観測されたスペクトルをもとに実行したフランクコンドン解析について記述されている。まず、フランクコンドン解析の前提となる、多原子分子の基準振動解析について概観した後、多原子分子のフランクコンドン因子の一般式を与えている。これに基づき、第3章で説明された分子軌道計算の結果を援用することにより、Rydberg状態とカチオン状態の構造を、電子基底状態の構造を基準に決定した。特に、6aモードと8aモードの振動が活性であることからRydberg状態とカチオン状態では、ともに基底状態に比べ、CN結合長が短くなり、CC結合長が伸びていることを定量的に明らかにしている。また、Rydberg状態とカチオン状態でわずかに構造が異なることを明確に示した。

 第7章は、本研究で明らかになった結果がまとめられている。また、励起状態のダイナミクスに関する興味深い問題の存在が示唆されている。

 このように、本研究はピラジン分子を様々な光電子分光法で観測し、励起状態とイオン状態の構造の詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。特に、これまで明確な実験データが存在しないことから、極めて簡単な分子を除いて、分子のカチオン状態とRydberg状態の構造はほぼ等しいものとして議論が行われてきていた。基本的な芳香族分子の一つであるピラジンに対して、これらの状態間で構造が異なることを明らかにした意義は大きい。なお、これらの研究結果は、理化学研究所主任研究員鈴木俊法氏との共同研究であるが、いずれも提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

 よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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