学位論文要旨



No 122059
著者(漢字) 加藤,かおる
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,カオル
標題(和) メチル基の内部回転運動を持つラジカルの分光学的研究
標題(洋) Spectroscopic studies of Free Radicals with Internal Rotation of a Methyl Group
報告番号 122059
報告番号 甲22059
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第736号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 染田,清彦
 東京大学 助教授 真船,文隆
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 フリーラジカルは、化学反応の過程で生成され、不対電子が存在する故、直ちに他の分子やラジカルと反応し、安定な分子やイオンになる。このように、フリーラジカルは反応性が非常に高く、短寿命であるため、実験室系で捉えることが非常に困難な分子種である。このような不安定な性質は、ラジカルの持つ不対電子が原因であり、従ってラジカルの不対電子に関する性質を解明することは、ラジカルそのものの性質を明らかにすることと結びつく。このようなラジカルに関して、それが中間体として様々な化学反応に関わるという性質上、現在では多方面においてその研究が行われている。大気化学においても例外ではなく、オゾンホールや地球温暖化現象、環境破壊など解決が必要不可欠な多くの課題に関しても、ラジカルの研究が重要視されている。

 大気化学の研究において重要なのは、大気中のメカニズムのモデリングとモニタリングである。

 分光学におけるマイクロ波領域での研究は、主に分子の回転遷移を観測するものであり、分子の構造を決定することだけに留まらず、その分解能の高さを活かして分子の不対電子に関する性質まで明らかにすることが可能である。従って、大気化学において重要視されているラジカルについてマイクロ波分光により分光学的にアプローチすることにより、大気中の化学反応過程のモデリングや微量気体のモニタリングを行う上で有用な情報が得られる。従って、このような大気化学に関わるラジカルの分光学的研究は分子科学のみならず、大気化学においても重要である。

 本研究では、メチル基の内部回転運動を持ったラジカルに対して、マイクロ波分光法による回転遷移の観測を行った。メチル基は、大気中で自然起源の微量気体の中でも存在量の高いメタンがOHラジカルと反応することによって生成される。生成されたメチル基は様々な大気化学の反応過程に関わっていく。その中でも大気中でメチル基から生成すると考えられているCH3OO、CH3SO及びCH3COラジカルの研究を行った。

【CH3OO ラジカルの分光学的研究】

 大気中において生成したアルキルラジカル(R・)の多くは、酸素分子と反応しRO2・(R=CH3、C2H5など)ラジカルを生成する。このようにして生成したRO2は、大気中においてオゾン層破壊などの様々な反応過程に寄与する重要なラジカルと考えられている。このようなRO2の中でも最も単純な構造を持つCH3OOは、メチル基の内部回転運動と水素原子の超微細分裂に伴う複雑なエネルギー構造や、内部回転運動への不対電子の影響など、分光学的にも興味深い分子である。本研究では、CH3OOの純回転スペクトルの観測に初めて成功した。

 観測にはパルス放電ノズルを用いたフーリエ変換型マイクロ波分光器を用いた。まず初めに、N=1-0のa-type遷移の観測を行った。CH3OOの生成は、ヨウ化メチルCH3IまたはアセトンCH3COCH3と酸素O2をアルゴンで希釈した混合試料の放電によって行った。この混合試料気体を背圧3気圧で真空チェンバー内に超音速ジェットとして噴出した。パルス放電電圧は1.3〜1.5kVが最適であった。また、更に、得られたスペクトルの微細、超微細構造の帰属を目的としてFTMW−MMW二重共鳴分光法を用いて、N=2-1のa-type遷移、また、N=1-0、2-1のb-type遷移など、我々の実験装置で測定可能な全ての遷移を観測した。本研究で観測したエネルギー準位と遷移を図1に示す。

 内部回転子を持つ分子に対するRAM系での内部回転と回転、スピン‐回転相互作用のHamiltonianは以下のようになる。

 これを用いて最小自乗解析を試みた。A状態とE状態の同時解析を行うと、E状態のK=1準位の実験結果を再現できなかった。そこで、スピン‐回転相互作用への内部回転の影響により、内部回転の角運動量が異なるA状態とE状態を同一のスピン‐回転相互作用定数では再現できないと考え、実効的なスピン‐回転相互作用項がA状態とE状態で異なるとして最小自乗解析を行った。この結果、全ての準位の実験結果を再現することができ、内部回転のポテンシャルバリアV3を327cm-1と決定した。これにより、多くの準位が近接している60HGz付近において、A状態の202と110とが極めて接近しており、それぞれのJ=3/2準位がスピン‐回転相互作用の非対角項で相互作用していことや、E状態のN=1,k=±1準位間のmixingが大きいことが明らかになった。またA状態とE状態のスピン‐回転相互作用定数を比較すると、内部回転軸と一致したz軸方向の成分、εaaでその差が最も大きく、内部回転が微細構造に影響を及ぼしていると考えて矛盾しない結果となった。このように、内部回転運動の微細構造への影響を実験的に確認することができた。

【CH3SO ラジカルの分光学的研究】

 硫黄を含んだ化合物は、燃焼、海洋活動により大気中に生成され、酸性雨や大気化学反応に関わる重要な物質として考えられている。中でも、自然起源の含硫黄化合物として大気への放出量が最も大きい硫化ジメチル、(CH3)2Sは、その酸化反応によりCH3SOやエアロゾルを生成する。また、OHラジカルとの反応や光解離により生成したCH3SOのような含硫黄ラジカルは、大気中でどのような反応を起こすかといった点で興味を持たれ、NO2やOHラジカルとの反応など、様々な研究がなされている。このように、大気化学においても興味を持たれている含硫黄ラジカルのうちCH3SOは、内部回転運動を持つラジカルとして、メチル基- CH3の内部回転と水素原子の超微細分裂に伴う複雑なエネルギー構造や、内部回転への不対電子の影響など、分光学的にも興味深いラジカルの一種である。このようなラジカルの内部回転運動について系統的な議論を行うことを目的として、CH3OOの酸素原子の硫黄置換体である CH3SOラジカルについて、高分解能分光実験を行った。

 ラジカルの生成にはパルス放電ノズルを用い、酸素O2を10%含んだアルゴンの混合試料を背圧3〜6atmでジメチルジスルフィドCH3SSCH3の溶液上を通し、超音速ジェットとして真空チェンバー内に噴き出した。ab initio計算による予想を基に、N=1-0および2-1のa-type遷移を探した。N=1-0遷移について、予想された遷移周波数から400MHz高周波数側にCH3OOと類似のパターンを持つスペクトルとして得られた。溶液にジメチルスルフォキシドCH3SOCH3を用いて測定を行ったところ、溶液の蒸気圧が低いため、スペクトルは非常に弱かった。さらに、背圧が比較的高いほどスペクトルが強くなる傾向にあった。回転定数やスペクトルパターン、および生成条件から、得られたスペクトルをCH3SOと帰属した。さらに、N=1-0、および2-1遷移のFTMWスペクトルをモニターして、それぞれ二重共鳴実験を行うことで量子数の帰属を行った。図2に得られたFTMWスペクトルを示す。更に、詳細な微細、超微細構造定数の決定を目的として二重共鳴分光法によりN=1-0のb-type遷移を観測した。

 RAM系でのHamiltonianを用いて最小自乗解析を行った。観測したCH3SOのスペクトルをCH3OOと比較すると、図3に示したように、内部回転のA stateとE stateの分裂はCH3OOと同様に小さく、A stateとE stateのスペクトルがほぼ同じ周波数領域に現れた。決定したポテンシャルバリアも415cm-1と、CH3OOと同程度の値になった。また、スピン分裂はCH3OOよりもCH3SOの方がより小さいことがわかった。

【CH3CO ラジカルの分光学的研究】

 アセチルラジカル、CH3COは、大気中においてアセトアルデヒド、CH3CHOの酸化反応により生成される。生成したアセチルラジカルは更に光酸化され、光化学スモッグや大気汚染の原因となるNO2との反応を導く。このように、CH3COは様々な反応過程に寄与する重要なラジカルと考えられている。また、このようなメチル基を持つラジカルの内部回転運動について系統的な議論を行うことを目的として、フーリエ変換型マイクロ波分光器を用いた回転構造の観測を行った。CH3COの生成は、ジアセチルをアルゴンで希釈した混合試料の放電によって行った。この混合試料気体を背圧3気圧で真空チェンバー内に超音速ジェットとして噴出した。パルス放電電圧は1.5kVが最適であった。FTMW分光器及び二重共鳴分光器を用いて、N=1-0および2-1のa-type遷移を観測した。

 CH3OOおよびCH3SOと同様に RAM系でのHamiltonianを用いて最小自乗解析を行った。これらラジカルの得られたN=1-0遷移のスティックダイアグラムを図3に示す。観測したCH3SOのスペクトルをCH3OOおよびCH3SOと比較すると、内部回転のA stateとE stateの分裂は上記二つのラジカルとは異なり、A stateとE stateのスペクトルが250MHz程度分裂してあらわれた。決定したポテンシャルバリアも139cm-1と、CH3OOやCH3SOよりも小さな値になった。

図1.CH3OOラジカルのエネルギー準位構造

図2.CH3SOラジカルのFTMWスペクトル

図3.観測したN=1-0遷移のステック図

審査要旨 要旨を表示する

 オゾン層破壊、地球温暖化、大気環境汚染などは、現代の科学の解決すべき重要な課題であり、関連する研究が積み重ねられている。これらの問題に大気中に微量に存在するラジカル種が大きな役割を果たしていることが様々な研究で明らかになっている。しかしながら、大気反応中で重要性が指摘されているにもかかわらず、未だにその構造、電子状態などの分かっていないラジカル種も多い。本論文は、このように大気化学で重要ではあるが、未知のラジカル種をフーリエ変換マイクロ波分光法と、それにミリ波、マイクロ波光源を組み合わせて新たに開発した2重共鳴分光法とを用いて検出し、それらの構造、および分子内の運動ダイナミクスを明らかにしたものである。具体的に本論文で取りあげた系は、メチル基を持つラジカル種CH3CO、CH3OO、CH3SOである。これらの分子種は、いずれも大気化学で重要であるのみならず、メチル基の内部回転を持つラジカルとして、分光学的興味も大きなものである。ラジカルであることによる不対電子の存在と、メチル基の内部回転との相互作用の解明は、このようなラジカル種の研究が未だに全く報告されていないことから、極めて価値の高いものである。

 論文は全体で7章からなり、第1章は一般的な導入に当てられている。ここでは大気反応における、当該ラジカルのスペクトル観測の重要性が指摘され、それらの純回転スペクトルを観測することの意義が述べられている。さらに、メチル基の内部回転を持つラジカル種としての分光学的重要性が論じられている。第2章は実験装置の説明に当てられている。純回転スペクトルの観測に用いたフーリエ変換マイクロ波分光法と、本論文の研究と並行して開発された、2重共鳴分光法の詳細が説明されている。また、研究対象としたラジカル種の生成・検出の鍵となった、パルス放電ノズルと試料系の説明がなされている。第3章では、このようなラジカル種の純回転スペクトルの解析に必要な理論的な取り扱いがまとめられている。内部回転を持つ分子のスペクトルの解析法が概観された後、本論文で用いた解析法、不対電子が存在する場合の回転・内部回転のハミルトニアンが説明され、エネルギー準位の計算法が示されている。第4章から第6章までが個別のラジカル種の実験、解析と、そこから得られた結果に基づく議論に当てられている。第7章では、本研究で観測・解析した3つのラジカル種相互、さらに類似分子との比較を行い、これらのラジカル種の特異性を論じている。以下、個別のラジカルについて説明する。

 第4章は、CH3OOラジカルの純回転スペクトルの検出と、その結果の議論に当てられている。このラジカルは、本論文の研究の中で最も詳しく研究されたもので、フーリエ変換マイクロ波分光法で観測可能なすべての純回転遷移と、それらの純回転遷移をモニターとして観測可能な2重共鳴遷移をほとんど観測し、詳細なエネルギー準位構造を明らかにした。本論文で取りあげているラジカルはすべて、内部回転による分裂の他に不対電子による微細相互作用分裂、3つの等価な水素核による超微細分裂が存在するため極めて複雑なスペクトル示すが、2重共鳴分光法の適用により個々のスペクトル線の明確な帰属を与えることができた。また、スペクトル中にはエネルギー準位の偶然縮退による大きな摂動や、内部回転と分子の非対称性との微妙なバランスに起因する禁制遷移なども観測された。これらの詳細な解析の結果、数多くの分子定数を精密に決定した。

 第5章は、CH3OOの二つの酸素のうちの一つが等原子価原子である硫黄に置き換わったCH3SOラジカルの純回転スペクトルの検出と、その結果の議論に当てられている。CH3OOおよびCH3SOは、それぞれHOOおよびHSOラジカルの水素がメチル基に置換したラジカルと考えられる。後者の二つのラジカルが大気化学、燃焼反応などでともに重要視されていることから、それらの構造、反応性などがこの二つを対比して論じられている。そのことに対応して、それらのメチル置換ラジカルがペアとして観測されたことの意義は大きい。このラジカル種に関しては、観測された遷移の本数がCH3OOに比べまだ少なく、純回転スペクトルの観測から決定可能なすべての分子定数を決定するまでには至っていないが、CH3OOとの比較を行いうるだけのデータを得ている。

 第6章は、CH3COラジカルの純回転スペクトルの検出と、その結果の議論に当てられている。このラジカルはメチル基を持つラジカルとして最初に純回転スペクトルが観測されていたもので、本論文の一連の研究の端緒となったものである。本論文の研究では、ミリ波領域の遷移を2重共鳴分光法により新たに観測した。

 第7章は、これらのラジカルの比較を通じてメチル基を持つラジカル種の特異性を明らかにしている。特に、類似なラジカルであるCH3OOやCH3SOとそれに対して基底状態の電子状態の異なるCH3COとの比較は興味深い。また、メチル基が水素に置換したHOO、HSO、HCOとの比較は、これらメチル基を持つラジカルの特徴を理解する上で意義がある。

 このように、本研究は、これまでほとんど研究例のないメチル基の内部回転を持つ一連のラジカル種を取り上げ、その詳細を明らかにしたもので、その学術的な価値は極めて高いと評価できる。なお、これらの研究結果のうちは、第6章のうち一部は1報の論文(印刷中)として公表されている。第4章から6章まで内容は、遠藤泰樹、住吉吉英、廣田榮治との共同研究(第6章の内容に関してはその他に大島康裕、溝口麻雄との共同研究)であるが、特に4、5章の内容は論文提出者が主体となり実験、解析、考察を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

 よって本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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