学位論文要旨



No 122060
著者(漢字) 齊藤,和也
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,カズヤ
標題(和) N-ヘテロ環状カルベンの硫黄およびボラン付加物と6,7族遷移金属カルボニル錯体との光反応
標題(洋)
報告番号 122060
報告番号 甲22060
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第737号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下井,守
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】 N-ヘテロ環状カルベンはホスフィンなどに代わる電子供与性の配位子として近年幅広く用いられている。その特徴は強い電子供与性,5員環の平面構造,および環上の置換基の多様性にある。一方,σ結合の電子が2電子供与体として金属に配位するσ錯体は,金属中心に対する不完全な酸化的付加と見なすこともできる,大変興味深い化学種である。当研究室では,ボラン−ルイス塩基付加物と遷移金属カルボニル錯体との光反応によって,B-H-M 3中心2電子結合を持つボランσ錯体[M(η1-BH3-L)] (M = Cr(CO)5, W(CO)5, CpMn(CO)2; L=Lewis base)の生成を報告してきた。このボランσ錯体では,金属からのπ逆供与はほとんど存在しないため,より電子供与性の強いルイス塩基をホウ素上に入れることにより錯体が安定化すると考えられる。本研究では,ルイス塩基として1,3,4,5-テトラメチルイミダゾリリデンが付加したボラン(1)を用いることにより,以前当研究室で合成されたσ錯体よりも安定化された錯体の合成を一つの目的とした。

 また,N-ヘテロ環状カルベンが硫黄原子と結合したイミダゾリンチオンは,生体分子との相互作用が注目されている。また,近年ではイミダゾリンチオンが構成分子となっている3脚および2脚の配位子,トリスメルカプトイミダゾリルボレートおよびビスメルカプトイミダゾリルボレートが,やわらかいアニオン性配位子として金属酵素活性部位モデルへの応用が注目されている。本研究では前述のカルベンボランと等電子的なイミダゾリンチオン(2)を用い,新規な遷移金属錯体を合成し,その構造を詳細に検討し,等電子的な関係にある1と2の錯体形成における類似点と相違点を明らかにすることを目的とした。

【実験と結果】 本研究では,N-ヘテロ環状カルベンの付加したボランとして,1,3,4,5-テトラメチルイミダゾリリデンボラン (BH3-(C3N2Me4) (1))を用い,また,N-ヘテロ環状カルベンの付加した硫黄として,1,3,4,5-テトラメチルイミダゾリン-2-チオン (S(C3N2Me4), (2))を用いた。

1. 1の存在下で,[Cr(CO)6], [W(CO)6], [CpMn(CO)3]のベンゼン-d6溶液中,光照射を行った結果,一酸化炭素の発生が観測され,ボランσ錯体[M(CO)5(η1-BH3-tmim)] (3a:M=Cr;3b:M=W), [CpMn(CO)2(η1-BH3-tmim)](4)の生成が確認された(式(1), (2))。これらの錯体は1H NMRにおいてただ一種類のBHシグナルを示す。これは他のボラン錯体と同様に,金属に配位した架橋水素とホウ素上の末端水素が高速で交換しているフラクショナルな挙動を示唆する。

2. 生成したボランσ錯体の安定性を調べるために,1とトリメチルアミンボランとの存在下で,[Cr(CO)6], [CpMn(CO)3]のベンゼン- d6溶液中,光照射を行った。生成する2種類のボランσ錯体の混合物は,ボランσ錯体の容易に配位子交換を起こす性質から,式(3)の平衡を反映している。NMRスペクトルのシグナル強度比から,平衡定数およびギブス自由エネルギーを求めた。その結果,式(3) は生成系の方が8.7〜10 kJ mol-1安定であり,本研究で用いたカルベンボラン1は,これまでに知られているうち,最も熱力学的に安定なボランσ錯体を与えることが明らかになった。

3. カルベンボラン1の特性をより詳しく理解するために,Gaussian 98による理論計算を行った。その結果,カルベンボラン1のBH3部位は,アミンボラン,ホスフィンボランに比べてより強く負電荷を帯びていることが分かった。このことは,カルベンボランのσ錯体が,他のルイス塩基ボラン付加物のσ錯体より安定である結果を支持するものである。

4. 6属遷移金属カルボニル錯体 [Mo(CO)6]および [W(CO)6]と2の混合物にジクロロメタン溶媒中光照射を行った。このとき一酸化炭素の発生が確認され,溶液の色に変化が見られた。反応溶液から溶媒を留去して析出した固体を再結晶し,単核チオン錯体 [M(CO)5{S(C3N2Me4)}] (5a:M=Mo;5b:M=W) を得た。また,[CpMn(CO)3] と2のヘキサン/THF混合溶媒からは複核チオン錯体 [{CpMn(CO)2}2{μ-S(C3N2Me4)}] (6)を得た。X線結晶構造解析によりその構造を決定し(図1, 2),5, 6の錯体では金属が負,ヘテロ環が正の電荷をもつ共鳴構造の寄与が大きく,硫黄原子はsp3混成に近いことが示唆された。この結果から,1のホウ素原子と2の硫黄原子がアイソローバルな関係にあり,その遷移金属錯体の構造も似通っている事が明らかになった。

(1)

(2)

(3)

図1 5a,5bのORTEP図

図2 6のORTEP図

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなる。第1章は緒言であり,N-ヘテロ環状カルベン,ボラン−ルイス塩基付加物についてこれまでの研究をまとめ,本研究の位置づけを示している。第2章では1,3,4,5-テトラメチルイミダゾリリデンボラン(1)と6,7族遷移金属錯体との反応を報告し,分光学的性質からその構造を推定した。またDFT計算による最適化構造を明らかにした。第3章はNMRを用いてこれまでに合成されているボラン−ルイス塩基付加物錯体と配位結合の強さの比較を行った。第4章では1,3,4,5−テトラメチルイミダゾリン−2−チオン(2)と6族金属カルボニル錯体との光反応によりチオン錯体の合成を行い,構造の解明を行った。第5章ではシクロペンタジエニルトリカルボニルマンガンと2の光反応により,2のマンガン錯体を合成し,その構造をX線解析により明らかにした。第6章で本論文の成果をまとめ,研究成果の錯体化学における位置づけを示した。

 ビラジカルであるカルベンは一般に極めて不安定で,反応中間体としてのみ存在する。近年N-ヘテロ環状カルベンが安定なカルベンとして単離され,その電子供与性から,ホスフィンなどに変わる配位子として注目されるようになってきた。その特徴は強い電子供与性と五員環の平面構造,および環状の置換基の多様性にある。

 齊藤氏はN-ヘテロ環状カルベンのボラン付加物1を合成し,このボラン付加物の配位子としての可能性を調べた。クロム,タングステン,マンガン,レニウムのカルボニル錯体の光照射により,1がM-H-B結合を通して金属に単座配位することをNMRによりしめした。また,これらの錯体はNMRのタイムスケールで末端水素と配位水素との間で配位サイトを交換していることを示し,他のボラン−ルイス塩基錯体との類似性を明らかにした。さらにDFT計算により,Mn錯体の最適化構造を明らかにし,その配位様式がこれまで知られているボラン錯体と似ていることを示した(第2章)。

 続いて,トリメチルアミンボラン錯体と1のクロムカルボニル錯体との間での配位子交換の平衡定数を求めることにより,配位結合の安定性の比較を行った。その結果,1の錯体がこれまで知られているボラン錯体のなかで最も安定なものであることが示され,ボラン付加物のなかでは1が最も電子供与性が高いことが示唆された。このことは,カルベンボランのボラン部位の電子密度をGaussian98による理論計算によっても裏付けられた。この結果はN-ヘテロ環状カルベンの電子供与性の強さを反映している(第3章)。

 齊藤氏はOやSがBH3と等電子フラグメントであることに着目し,化合物2がボラン錯体と類似の挙動をするという予想をたて,2の金属錯体の合成を行った。その結果,モリブデン,タングステンの金属カルボニルとの紫外光化学反応により,ボラン錯体に対応する金属錯体を得,その構造をX 線結晶構造により明らかにした。その結果はヘテロ環上に正電荷が非局在化した共鳴構造の寄与が大きいことを示唆するものであった。また,他のチオケトン錯体と配位の配向が異なり,カルベンチオンの硫黄がsp3混成で記述でき,ボランカルベン付加物中のボラン部位とカルベンチオンの硫黄との間でアイソローバルな対応が良くつくことが示された。これは齊藤氏の着眼点が正しいものであったことを示している。一般にモリブデンとタングステンの同族化合物では同型になるものが多いが,この錯体では異なる結晶系で結晶が成長していることも着目に値する(第4章)。

 マンガンのシクロペンタジエニルカルボニル錯体と2との反応では二つのマンガン核をチオンが架橋配位した錯体が得られ,その構造が結晶解析により明らかにされた。その配位様式もこれまでのマンガン硫黄錯体のものとは異なる新しいものであり,硫黄上に孤立電子対を一つもつピラミッド型の構造として記述できるものであった。この結果もチオンの硫黄がsp3混成で記述できるものであることを示している(第5章)。

 第4章,第5章の結果は第2章,第3章の結果と合わせて,化合物2がC=S二重結合をもつチオケトンとして記述するより,C-S単結合をもつ化合物として記述できるものであり,ボランカルベン付加物と等電子化合物として記述できることを示している。

 これらの結果は,N-ヘテロ環状カルベン配位子の新しい可能性を明確に示している。齊藤氏の研究結果は単に金属錯体化学への寄与に留まらず,カルベンの化学,ボラン配位化学への大きな寄与をもたらすものと認められる。

 したがって,本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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