学位論文要旨



No 122061
著者(漢字) 佐久間,寿人
著者(英字)
著者(カナ) サクマ,ヒサト
標題(和) THz分光・イメージングによる量子ホール系非平衡電子ダイナミクスの研究
標題(洋)
報告番号 122061
報告番号 甲22061
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第738号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小宮山,進
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 教授 山崎,泰規
 東京大学 助教授 前田,京剛
 東京大学 助教授 深津,晋
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 量子ホール効果における縦抵抗の消失は、ランダウ量子化と低次元系における局在の結果、全ての伝導電子がフェルミ準位EF以下の低エネルギー状態にあり、しかもEF近傍には伝導に寄与する状態がないため、散乱が抑制された結果である。これは逆に、非平衡電子つまりフェルミレベル以上の高次ランダウ準位に伝導電子が存在すると縦抵抗が生成し、同時に量子ホール効果も成立しなくなる事を意味している。このように非平衡電子は量子ホール効果の成立の有無に関わってくる極めて重要な要素である一方、実験的にはそれを直接検出する事は難しく、その分布やダイナミクスは未だ明らかではない点も多い。そこで本研究では非平衡電子が再結合時に発するサイクロトロン発光に着目し、その発光の検出が可能なテラヘルツ分光顕微鏡の開発を行った。それを用いてサイクロトロン発光の空間分布及び発光スペクトルの測定を行い、主に以下の現象に関して非平衡電子のダイナミクスを明らかにする研究を行った。

 1.トンネルによってホットスポットから注入された電子のエネルギー分布、及びそれらの電子が量子ホール効果の成立しうる低温に緩和する過程を明らかにする。

 2.量子ホール効果崩壊現象の空間分布を明らかにし、それに起因する非平衡電子のダイナミクスを明らかにする。特に、量子ホール効果崩壊現象は電極近傍の強い分極電場やホットスポットの存在が影響を与えるのか?また起因しないとしたなら、その場合どのような空間分布をとるのか?という点について明らかにする。

 各々の詳細は本要旨の3-1,3-2に記した。またこれ以外にも、バルクのみの伝導であるランダウ準位の占有数2以下の遷移状態とエッジ/バルクが共に電流を運ぶ占有数2以上の遷移状態とでその非平衡電子分布の電流依存性を比較し、エッジ・バルクそれぞれでの電子のダイナミクスの違いを明らかにする研究も行った。そして本論分の最後には今後の展望として分解能の飛躍的向上が実現可能な近接場顕微鏡開発について現在の進捗を記した。

2.実験方法

 これまでに開発してきたテラヘルツ分光顕微鏡の更なる改良を行い、fWオーダーの極めて微弱な発光をパッシブに分光する技術を開発した。本研究でテラヘルツ顕微鏡の検出器として使用したのは、我々の研究室で研究・開発されてきた量子ホール検出器と呼ばれる検出器である。これは高移動度量子ホール電子系のサイクロトロン共鳴を利用した高感度かつ狭い共鳴線幅を持つ検出器であり、磁場によって共鳴周波数を変化させる事が可能という特徴を持つ。だが、本研究に先行してKawanoらの研究において顕微鏡用の高感度テラヘルツ検出器として使用されていたにも関わらず、分光に使われた事は無い。それは(電子濃度が一定の試料において)感度が磁場依存で著しく変化する上、十分な感度を有するランダウ準位の占有率の範囲が極めて狭い、つまり磁場を走査して検出波長を変化させる事が出来る帯域が極めて狭いという問題があった為である。本研究ではそれぞれの問題を以下のように克服し、サイクロトロン発光の分光技術を実現した。

 ・バックゲートを導入する事で量子ホール検出器の電子濃度を変化させ、磁場を変化させる度に十分な感度を有するように占有率を調整し、広い波長帯域に渡ってフォトレスポンスを得られるようにした。

 ・磁場・電子濃度依存で変化する感度の校正を行う方法を開発し、それによって得られたフォトレスポンスを発光強度に校正する事が可能になった。

 なお、全ての実験は4.2Kで行われた。

3.実験結果及び議論

3-1ホットスポットにおける非平衡電子分布について

 二次元系への電子の注入/抽出は高次ランダウ準位への電子のトンネルが鍵となる。本研究ではホットスポットにおける局所的高電場によってホットスポットで注入・抽出される電子のエネルギー分布を明らかにした。

 図1(a)に示したのは、ランダウ準位占有率ν=2.5のホールバー試料にI=50μAの電流を流したときのサイクロトロン発光イメージングの結果である。ソース・ドレインホットスポット、及び片方の試料端(低ポテンシャル側エッジ)からの発光が確認できる。その各々の発光のスペクトルを、I=50,300μAそれぞれで測定した結果が図1(b)である。エッジにおける発光スペクトルはローレンチアンでフィットでき、またその形状に電流依存が無いのに対し、ホットスポットは非対称に低周波数側に裾を引いており、電流が大きくなるにつれて裾が大きくなりピークもシフトするという結果を得た。エッジにおける発光は最低ランダウ準位間のみの発光であるのに対し、ホットスポットの裾及びピークのシフトは高次のランダウ準位間遷移に起因するものと考えられる。GaAsの伝導バンドの非放物線性により、発光に寄与するランダウ準位の次数が上がるほどその間隔が狭くなり、発光が低周波数側へシフトすることが知られている。そこで電子が単一の温度で示されるフェルミ分布に従って存在していると仮定した上で、ホットスポットのスペクトルのフィッティングを行った。その結果50μAではTe=25Kで比較的良くフィットするの対し、300μAでは電子温度によらず実験結果と大きな乖離がみられた。この結果は顕微鏡の分解能(50μm)内で電子温度が変化していることを意味している。そこで、ここでは単純に分解能内に30Kと300Kの領域が面積比99:1で存在していると仮定したところ、比較的良いフィッティング曲線が得られた。これは、注入直後において高温である電子が急速に冷やされている過程を示した結果であるといえる。

3-2量子ホール効果崩壊現象の空間分布

 我々のこれまでの研究で明らかになった量子ホール効果崩壊現象の空間分布について、その空間パターンの生成メカニズムを明らかにすることを目的とした研究を行った。まず第一段階として、これまでに知られていた我々の観測した結果の一般性を論ずるため、i)複数の試料で量子ホール効果崩壊現象の空間分布を測定するii)コルビノ型試料を使用する事でホットスポットやその近傍の強電場の影響が排除された量子ホール効果崩壊現象の空間分布を測定する、の2つの実験を行った。その結果、両者共にこれまでの測定で得られた結果と同様に図2に示したような縞状の繰り返し構造を持った非平衡電子分布を確認した。更に、縞の傾きが占有率によって反転するという特徴も測定した全てのウェハー及びコルビノ型試料で再現された。これらの結果は、この縞構造生成が特殊な例ではない事を示しており、またそのメカニズムを考える上で電極の影響を無視して無限に長い試料の中央部を仮定して考えればよい事を示している。また、図3に示した縞の傾きの占有率依存性の測定を行い、傾きの反転は整数占有率を境に不連続に反転するという結果を得た。

 これらの結果から、縞の反転のメカニズム及び繰り返し構造の生成に関しての考察を行った。傾きの反転について、占有率2以上では非平衡電子・2以下では非平衡なホールが熱を運ぶキャリアになると推察され、それらのホール電場に沿ったドリフトの方向の違いが傾きの反転につながると考えた。定量的には、ほぼ占有されたランダウ準位の電子によって運ばれる無散逸電流と、非平衡キャリアによる散逸を伴った電流の2層の電流が素子内を流れているというモデルを立て、測定された縞の傾き及び縦抵抗から数値計算を行った結果、励起キャリア数は電子温度で15K〜20Kに対応するという結果を得た。これは量子ホール効果崩壊現象における典型的な電子温度に対応し、このモデルを支持するものである。縞の繰り返し構造の生成については未だ明確な回答は無いが、空間分布を考慮した熱的安定性の式に更なる改良を加える事で繰り返し構造のメカニズムを明らかにすることが可能と考えている。

4.まとめ

 我々の開発したテラヘルツ分光顕微鏡により、初めて量子ホール系の発光スペクトル測定を実現させた。その結果、量子ホール状態にある試料であってもホットスポットでは電子温度が局所的には300Kという極めて高い温度であり、それが急速に緩和されていくという過程を明らかにした。また、量子ホール効果崩壊現象の研究では、非平衡電子が占有率依存の傾きを持った縞状の繰り返し構造を持ったパターンを形成するという、従来の抵抗測定では明らかにすることは不可能な結果を得る事ができた。この縞の傾きは整数占有率を境に反転する事を実験によって明らかにし、それらの結果から導かれる縞の傾きの反転のメカニズムを提示した。

図1サイクロトロン発光イメージングの結果(I=50μA)及び各々の発光のスペクトル。地場は紙面裏→表の方向。

図2 量子ホール効果崩壊現象の空間分布。左はホールバーの場合、右はコルビノの場合で、それぞれの形状で占有率がプラトー内で2以上/2以下の場合、及び磁場の向きを反転させた結果を示している。

図3 傾きの占有率依存症(赤い丸)、及び縦抵抗(黒い実線)。地場の向きは紙裏→表面の方向である。試料長さ方向に対してどれだけ傾いているかを角度の定義とし、具体例を左上のイメージング(占有率2以下)上に赤線で示した。

審査要旨 要旨を表示する

 半導体中の2次元電子系が示す基本的伝導現象として知られる量子ホール効果は、強磁場下の電子系がホール抵抗の量子化を伴いつつ損失なし(縦抵抗の消失)に流れることを特徴とする。従来、この量子ホール効果に関する大多数の研究は抵抗測定を通して行われてきたが、試料内部領域で発生する縦抵抗の分布を測定することができない点で基本的制約があった。本論文は、縦抵抗発生の原因となる非平衡電子の分布を直接計測するために、非平衡電子が発する極微弱なサイクロトロン発光の計測を行うことによって量子ホール効果の研究を行っている。そのために、高感度のTHz顕微鏡を独自に開発し、それを用いてGaAs/AlGaAs単一ヘテロ構造中2次元電子系の量子ホール効果について、非平衡電子の空間分布とエネルギー分布を明らかにしている。顕微鏡の開拓として、光学系の改善により感度増大(10倍以上)と空間分解能の向上(2倍程度)を実現し、また、磁場による検出器感度の校正を行うことで今まで不可能だった波長分解測定を可能にしている。量子ホール効果の研究に応用して得られた成果は以下の3つからなる。第1に、量子ホール素子が外界と電子のやり取りを行う接合点(ホットスポット:電子が注入されるソース側の点と、電子が素子から出てゆくドレイン側の点)におけるサイクロトロン発光の分光測定を初めて行い、損失を伴う電極と損失なしの2次元電子系との接合部における電子のダイナミクスを明確にした。第2に、従来から知られていた量子ホール効果の電流増大による崩壊現象において、非平衡電子が特徴的空間パターンを伴って生成されることを初めて見出し、崩壊現象のダイナミクスについてより深い理解を可能にした。第3に、量子ホール効果状態から外れた磁場領域(遷移領域)における非平衡電子分布の生成が弱磁場側と強磁場側で全く異なることを見出し、それが端状態の有無によることを明らかにした。これらの結果を纏め、本論文は独自に開発したユニークな測定手段を応用することにより、量子ホール効果の電子系に対して他の研究手法では得られない数多くの新たな知見を与えたと認められる。

 本論文は8章およびAppendix「THz顕微鏡光学系の改善」からなる。第1章は序論で、量子ホール効果の基本と非平衡電子のもつ物理的意味を説明し、また本論文の目的を記述している。第2章は試料や電気的測定系を含めた一般的測定方法を解説し、 第3章はTHz顕微鏡の開発について、主にAppendixでは触れない波長分光の方法について詳述している。第4章はホットスポット(量子ホール素子と外界の間で電子のやり取りが行われる接合点)からのサイクロトロン発光の空間分解測定および波長分解測定の結果を示している。ソース側およびドレイン側双方のホットスポットともに、発光スペクトルが長波長側に大きな裾を持つことを見出している。解釈として(i) GaAsの伝導帯が非放物線性(有効質量がエネルギー増大に伴い増大)をもつために上位のランダウ準位ほどエネルギー間隔が狭まる(10meVから8meV)こと、(ii)ホットスポットにおいて高エネルギー状態にトンネル注入された電子が狭まった上位のランダウ準位間(n=4まで)を遷移してサイクロトロン発光を生じているために長波長側の発光の裾を生じていることを提案している。またその際、ソースドレイン電圧差により電子は数百meV程度のきわめてエネルギーの高い状態にトンネル注入されるため、電子はまずカスケード的に光学フォノン放出を繰り返して光学フォノンエネルギー(37meV)以下のエネルギー状態にすばやく緩和し、そのエネルギー領域でサイクロトロン発光に寄与することを論じている。また、単一の電子温度を仮定して実験結果を説明することはできず、観察範囲(荒っぽく、空間分解能=50μmの直径領域)内のトンネル注入の起こる微小な領域のみで102Kオーダーの非常な高温となっている一方、領域全体の平均は30K程度と予測できること、また、それがトンネル注入後の電子のダイナミクスを考慮して自然に解釈できることを論じている。第5章は量子ホール崩壊現象の観測結果を論じている。測定した全ての結晶において、ホール素子に沿って流れる電流を横断する方向に非平衡電子が縞状のパターンをなして生成すること、さらに縞の方向が試料の長手(電流)方向に垂直はなく、30゜から50゜傾いており、その傾きの極性が、ランダウ準位占有指数が整数よりわずかに大きいか小さいかで(正確な整数値を境に)反転することを見出している。さらに、この縞状の非平衡電子の領域が縦抵抗の発生と同時に生ずることを確かめている。また、ホール素子と異なり電流注入端子を持たないコルビノ型素子でもの同様な縞状構造を見出し、この構造がオーミック電極等の外部因子によるものではないことも確かめている。これらの結果をもとに、崩壊状態では、非平衡電子とそれ以外の冷たい電子がそれぞれ異なる方向に走る電流を生じ、非平衡電子(ランダウ準位占有指数が整数より小さい場合は非平衡正孔)が走る方向に発光の縞が生成するという、いわば2流体モデルによる解釈を提案し、それが実験結果を矛盾無く説明することを示している。第6章は量子ホール効果遷移領域におけるサイクロトロン発光を論じている。まず、占有数2の弱磁場側遷移領域でサイクロトロン発光が試料側端にのみ現れ、一方、強磁場側の遷移領域では発光が試料の内部領域に生ずることを見出し、それらを端状態の有無(弱磁場側遷移領域で存在、強磁場側遷移領域で不在)で説明している。第7章はTHz顕微鏡の更なる開拓として、近接場を用いて幾何光学による回折限界を超えた分解能を実現する試みが記述されている。第8章はまとめと結論を述べている。Appendixでは顕微鏡開拓における感度と分解能の改善について説明を付加している。

結び

 なお、本論文の第3章から6章は、生嶋氏・平川氏・小宮山との共同研究だが、論文の提出者が主体となって測定法の開発に当たりかつ実験を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク