学位論文要旨



No 122064
著者(漢字) 武田,光裕
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,ミツヒロ
標題(和) N-ニトロソアニリン誘導体の光化学反応 : 極低温マトリックス中および溶液中における機構的研究
標題(洋) Photochemistry of N-Nitrosoaniline Derivatives : Mechanistic Studies in Low-Temperature Matrices and in Solutions
報告番号 122064
報告番号 甲22064
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第741号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 村田,滋
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 尾中,篤
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 瀬川,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 一酸化窒素(NO)は,窒素原子と酸素原子が一つずつ結合してできた単純な分子であり,安定な常磁性気体である。1980年にFurchgottらは,生体内において血管の平滑筋を弛緩させる物質(EDRF)が血管の内皮細胞から放出されていることを発見し,1987年にMoncadaらがそのEDRFの正体はNOであると突き止めた。以来,NOの生体内に関する研究は精力的に行われ,血圧調整のみならず,情報伝達,免疫作用などといった重要な役割を果たしていることが明らかにされた。光照射によりNOを発生する化合物,すなわち光NO発生剤については,NOの生理作用の研究への利用や,NOが関与する病気の治療への医学的応用の可能性から,活発な研究が行われている。

 本論文では,NO発生剤の光分解過程を検討するための手法として,極低温マトリックス単離法を用いた。1950年代の初めにNormanとPorterおよびPimentelらによって開発された極低温マトリックス単離法は,1970年代にChapmanによって有機化学の分野に導入された。この手法は,常温では不安定な化学種を極低温かつ不活性な媒体中に閉じこめることにより長寿命化を図るものであり,分光学的にその構造や反応性を直接観測することが可能になるため,光化学反応の反応機構を明らかにするための研究手段として極めて有用である。

 筆者は,本論文において,新規N-ニトロソアニリン誘導体の極低温マトリックス中,および溶液中における光分解過程を明らかにし,光NO発生剤としての有用性について検討を行った。

新規NO発生剤の設計と合成(第二章)

 既知の光NO発生剤であるN,N'-ジメチル-N,N'-ジニトロソ-4-フェニレンジアミン(BNN3)は,良好なNO発生剤として知られているが,最初の光分解がN-ニトロソアミノ基から起こるため,固いマトリックスケージ内において発生したNOとアミニルラジカルの再結合反応を抑制することはできない。そこで筆者は,不可逆的に光分解し,かつその分解がN-ニトロソアミノ基の分解を誘発する置換基として,それぞれジアゾ基,アジド基をp-位に導入したN-ニトロソアニリン誘導体1および2を設計した。そして,1は4-(N,N-ジメチルアミノ)ベンズアルデヒドを出発物質として4段階で,また,2はN-メチル-4-フェニレンジアミン二塩酸塩を出発物質として1段階でそれぞれ合成に成功した。

極低温マトリックス中における1, 2の光分解過程(第二章)

 1を10 K,Arマトリックス中に単離し,光照射(310±50nm)を行った。反応はIRスペクトルを用いて追跡し,観測されたIRスペクトルと密度汎関数法(DFT法,B3LYP/6-31G(d))による計算スペクトルとの比較により,化合物の同定を行った。光照射前,1は2063, 1519, 1077, 929cm-1等に吸収を持つ,N-ニトロソアミノ基のN-N結合に関してE体で単離されていたが,光照射に伴って,1277, 971cm-1等に新たな吸収が現れた。この吸収は,N-ニトロソアミノ基に関してZ体に帰属される吸収であることから,光照射により,N-ニトロソアミノ基のEZ異性化が起こることがわかった。光照射を継続すると,1のE体およびZ体の減少とともに,1872cm-1にNOの発生が確認され,1の2つの光反応性置換基が分解したキノイドラジカル3に帰属される吸収が,1586, 835, 634 cm-1等に観測された(Figure 1)。

 さらにマトリックスを40Kに昇温したところ,NOおよび3の減少に伴い,1414, 1338, 1059, 983cm-1等に新たな吸収が現れた。続いて,得られたマトリックスの温度を10 Kに下げ,光照射を行うと,1338, 983cm-1の吸収(化学種A)が消失し,1414, 1059cm-1の吸収(化学種B)の強度が増加した。DFTによる計算スペクトルと観測されたスペクトルとの比較から,A, Bはそれぞれ3とNOが結合して生成したニトロソキノイドイミン4のZ体,E体に帰属された。すなわち,マトリックスを昇温すると,マトリックスケージ内でNOが拡散し,3と結合して,C-ニトロソ基に関してEZ両方の異性体4が生成し,更なる光照射によりZ体はE体に異性化することが明らかになった。

 2についても1と同様の検討を行い,1とほぼ同様の結果を得た。すなわち,2は光照射によりN-ニトロソアミノ基のEZ異性化を起こしつつ分解して,NOとキノイドイミニルラジカル7が生成した。さらにマトリックスを40 Kに昇温したところ,NOと7が結合してニトロソキノイドジイミン8のE体を与えた。

 以上,極低温マトリックス中における1および2の光分解過程をScheme 1に示す。

1, 2の光照射に伴うIRスペクトル変化の速度論的な解釈(第二章)

 1および2の光分解機構を検討するために,光分解の初期段階について詳しい解析を試みた。1および2の光分解機構において,EZ異性化は,N-N結合の開裂と再結合を経由して進行すると仮定すると,N-N結合の開裂によって生成するビラジカル(BR)が反応中間体として存在する。これを考慮したE体の光分解機構をScheme 2(左)に示す。この機構に対して,E体,Z体の励起状態(E)*,(Z)*およびビラジカル中間体BRに定常状態近似を適用すると,Scheme 2(右)のような複合1次反応モデルと等価になる。

 Figure 2に,(E)-2, (Z)-2, およびNOの吸収強度の時間変化から算出した,照射時間によるそれぞれの存在比の変化を示す。それぞれの変化は,仮定したモデルにより比較的良好に再現することができ,反応速度としてそれぞれ,k1=3.1×10-3min-1,k2=8.5×10-3min-1,k3=k4=6.0×10-4min-1を得た。1については,ややフィッティングは悪く,EZ異性体でNO発生効率に差があることを示唆する結果を得たが,基本的には2と同一の機構で光分解が進行しているものと考えられる。この結果,光照射によりN-N結合の開裂が起これば,ビラジカル(BR)を経て異性化が起こり,一方,p-位の光反応性置換基の分解を引き起こせば,NOが放出されることが明らかになった。この結果は,筆者が設計したとおり,p-位の光反応性置換基の分解が,NOの発生を誘発していることを示している。

1および2の溶液中における光分解反応生成物の解析(第三章)

 1および2の室温溶液中の光分解過程に関する知見を得るために,溶液中における光分解反応生成物を調べた。1のMeOH溶液,2のiPrOH溶液にそれぞれ高圧水銀灯の366 nm光を照射し,生成物の解析を行ったところ,1からは12, 13を,2からは14, 15を得た(Scheme 3)。このように,1および2のいずれからも,N-ニトロソアニリンのp-位に導入した光反応性置換基であるジアゾ基,アジド基のみが分解して生成した化合物が得られた。このことから,1および2は極低温マトリックス中とは異なり,p-位の光反応性置換基の光分解が必ずしもN-ニトロソアミノ基の分解を誘発せず,その置換基のみの分解過程も進行することが判明した。これはおそらく光反応の進行とともに蓄積する反応生成物によってジアゾ基またはアジド基が分解を受けたことによるものと思われる。

1および2の溶液中における光分解効率(第三章)

 1および2の光分解反応効率とNO発生効率を,既知のN-メチル-N-ニトロソアニリン誘導体BNN3および4-ニトロ-N-メチル-N-ニトロソアニリン11と比較した。光分解反応効率は,同一の光照射条件下で反応基質の減少を測定する方法により,またNO発生効率はTPPCoの存在下UV-Visスペクトルによる方法とPTIOの存在下ESRスペクトルによる方法を用いた。それぞれの方法により得られた相対的な光分解反応効率とNO発生効率をTable 1に示す。検討の結果,φrel(dec)は,分解の過程で発生した不安定化学種が反応基質と反応してしまったため,また,φrel(PTIO)は,PTIOを電子供与体とする電子移動がN-ニトロソアニリン誘導体の分解過程に関与したため,光分解反応性およびNO発生効率を正しく反映した値ではないと推定した。一方,φrel(TPPCo)は,UV-Visスペクトルが等吸収点を通る初期段階を検討の対象としており,光照射による1, 2の分解に伴うNOの発生効率が正しく反映されていると思われる。よって,NO発生効率をφrel(TPPCo)を用いて評価すると,分子内に2個のN-ニトロソアミノ基を有するBNN3は,NO発生の量子収量が1.97と報告されているので,1および2はBNN3と比較して約半分のNO発生効率を示したことから,1および2のNO発生の量子収量はほぼ1と見ることができる。これらのことから,筆者が設計したとおり,1および2は,p-位に導入した光分解性置換基の効果により,NOとアミニルラジカルの再結合が抑制された結果,室温溶液中においても,少なくとも反応の初期段階においては,効率のよい光NO発生剤として働くことが判明した。

まとめ

 本研究で新たに合成したp-位に光反応性置換基を持つN-ニトロソアニリン誘導体1および2は,分子設計通り,良好な光NO発生剤であることがわかった。そして,これらの光分解過程を極低温マトリックス単離法を用いて調べた結果,初めて光NO発生剤からのNOの発生を直接観測し,副生ラジカルの詳細な構造を決定することに成功した。NOの発生効率という点では,1および2は,2分子のNOを放出するBNN3には及ばないものの,BNN3とは異なり,極低温や固いマトリックスケージ内などにおいても機能することのできる,有用な光NO発生剤であることがわかった。

Figure 1:(a)1の光照射前後の差IRスペクトル(Arマトリックス,10K; 上向きの吸収は一部切れている);(b),(c)それぞれ(E)-3,(Z)-3のDFT計算によるIRスペクトル(scaled by 0.9614)

Scheme 1:Arマトリックス中のおける1および2の光分解過程

Figure 2:10K,Arマトリックス中。(E)-2の光照射における反応物及び生成物の存在比の照射時間による変化(図の実線はモデルに基づいて解析した回帰曲線を示す)

Scheme 2: E体の光分解機構 (1; X = CH, 2; X = N)

Scheme 3:1および2の溶液中の光分解反応(括弧内は単離収率)

Table 1:各種N-ニトロソアニリン誘導体の相対的な光分解効率

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり、第1章では本論文における研究の背景の説明、第2章ではこの研究で新規に合成されたN-ニトロソアニリン誘導体の分子設計と合成方法、およびこれらの化合物の光分解過程を極低温マトリックス単離法を用いて検討した結果とその考察が述べられている。さらに、第3章では新規N-ニトロソアニリン誘導体の光反応性を室温溶液中において調べた結果が述べられており、第4章では本論文で得られた結果が要約され、N-ニトロソアニリン誘導体の光化学における本研究の重要性と新規N-ニトロソアニリン誘導体の光化学的な一酸化窒素発生剤としての有用性が述べられている。

 一酸化窒素(NO)は極めて簡単な化合物ながら、生体内において血圧調整、情報伝達、免疫作用など、重要な生理的反応に関与することが知られている。NOの生理作用を調べるためには人工的に合成されたNO発生剤を用いるが、特に光を照射することによってNOを発生する光NO発生剤は、NOの発生を時間的かつ空間的に制御できることから興味がもたれている。すでに様々な光NO発生剤が開発されており、現在においても、生理学的、あるいは医学的な応用を目指して活発な研究が進められている。しかし、光NO発生剤に関する研究の多くは、生理的な条件でいかに高効率的にNOを発生させるかを目的としたものであり、それらの光分解機構を詳細に検討した研究は全くないといってよい。本論文に述べられている研究は、N-ニトロソアニリンを基本骨格とする光NO発生剤について、効率良くNOを発生させる新規化合物を設計し、その合成を行い、さらにその光分解機構を詳細に調べたものである。本論文の研究では、反応機構を調べるための主要な方法として、極低温マトリックス単離法を用いている。この手法は、光分解によって生成する不安定化学種を、極低温かつ不活性媒体中に発生させることにより長寿命化し、種々の分光学的手法によって直接的に観測するものである。第1章では、NOとその発生剤に関してこれまでに知られている内容が要約されるとともに、光化学反応機構の研究における極低温マトリックス単離法の有用性がいくつかの研究例とともに述べられている。

 第2章には、極低温マトリックス単離法を用いて、10 K、アルゴン媒体中における光NO発生剤の分解機構を検討した結果が述べられている。この手法を用いてN-ニトロソアニリン誘導体の光分解過程を調べるにあたり、従来知られている化合物では、この反応条件下において発生する不安定化学種間の再結合反応の進行により、光分解過程が観測できないことが判明した。そこで、本論文では、光により不可逆的に分解する置換基をN-ニトロソアニリンのp-位に導入することによって、その分解がN-ニトロソアミノ基の分解を誘発してNOを発生させるような新しいN-ニトロソアニリン誘導体を分子設計した。そして、光反応性置換基としてジアゾ基、およびアジド基をもつ2種類の新規N-ニトロソアニリン誘導体の合成に成功した。これらの化合物を、極低温の不活性媒体中に単離して光照射し、反応を赤外吸収スペクトルによって追跡すると、まず、N-ニトロソアミノ基の異性化が進行するが、光照射を継続することにより、反応物の分解に伴って確かにNOの発生が観測された。また、測定された赤外吸収スペクトルと密度汎関数法を用いた分子軌道計算に基づく計算スペクトルとの比較から、同時に生成する不安定化学種の構造を決定することができ、マトリックスを40 Kに昇温すると、NOとその不安定化学種が再結合する過程が観測された。さらに、新規光NO発生剤の光分解の初期過程について、極低温における電子スピン共鳴スペクトルの測定を含む詳細な検討を行い、これらの化合物では分子設計どおり、光反応性置換基の光分解がNOの発生を誘発していることを証明した。この章に述べられている結果の一部は、光NO発生剤の光分解を直接観測した最初の例として、すでに学術雑誌に速報として発表されており、特に、NO発生の直接観測を可能にした独創的な分子設計が高い評価を受けた。このことからも、本論文の研究結果が、学術的な新規性、重要性をもつことが理解できる。

 第3章では、前章で合成された新規N-ニトロソアニリン誘導体が、室温溶液中においても光NO発生剤として機能するかどうかを調べた。NOの検出剤として知られているTPPCo、あるいはPTIOを含むベンゼン溶液中で新規N-ニトロソアニリン誘導体に光照射し、紫外可視吸収、あるいは電子スピン共鳴スペクトルの変化を測定したところ、室温溶液中においても確かにNOが発生していることが確認された。さらに、新規N-ニトロソアニリン誘導体のNO発生効率を評価したところ、これらはすでに市販されている光NO発生剤に劣らない光分解効率を示すことが判明した。室温溶液中における光反応生成物の単離と構造決定もなされており、NO発生効率の検討に複数のNO検出剤を用いた点とともに、新規N-ニトロソアニリン誘導体の光分解過程について、多面的に慎重に検討した研究であると評価された。

 第4章に総括されているように、本論文に示された結果は、古くから研究されているN-ニトロソアニリンの光化学反応に新しいページを付け加えるものであり、また、高効率的にNOを発生させる光NO発生剤の分子設計に新しい知見を与えるものである。さらに、有機反応機構の研究の観点からは、不安定化学種の構造決定における極低温マトリックス単離法の有用性を顕著に示した研究といえる。この意味で、本論文に述べられた研究は、特定分野の学術的興味にとどまらず、様々な研究分野へ広く波及する研究であると評価された。

結び

 なお、既に学術雑誌に発表されている論文が、本論文の提出者と指導教員の2名の連名であることにも示されているように、本論文中に記載された合成および測定実験、分子軌道計算、結果の解析は、全て論文提出者が行ったものである。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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