学位論文要旨



No 122066
著者(漢字) 寺本,央
著者(英字)
著者(カナ) テラモト,ヒロシ
標題(和) 構造転移反応における相空間の不変構造
標題(洋) Invariant manifolds in phase space for structural isomerization reactions
報告番号 122066
報告番号 甲22066
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第743号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 教授 遠藤,泰樹
 東京大学 教授 松井,哲男
 東京大学 教授 永田,敬
 東京大学 助教授 染田,清彦
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、分子が配座を変える構造転移反応などの分子に特徴的な運動を、分子の運動を支配している相空間における不変構造に着目することによって、解明することを目標とした。そのような不変構造の中には、系の全エネルギーなどに代表されるような運動の恒量に付随するものと、付随する運動の恒量をもたずに相空間中に偏在している中心多様体、安定・不安定多様体のような構造がある。

 本論文の第2章では、前者の範疇に属する不変構造が分子の運動に及ぼす効果を議論した。そのような不変構造の中で本論文では角運動量に焦点を当てた。分子が真空中に存在するときには、その分子のハミルトニアンの空間回転操作に対する不変性からよく知られているように全角運動量が保存するのであるが、その全角運動量がゼロの場合には、分子の相空間の次元を6N-12次元まで簡約することができる。その簡約の操作に付随して、分子の配座を記述する内部空間にはゼロでない曲率を持つような計量が誘導され、空間回転操作に関するハミルトニアンの対称性の運動論的効果はその曲率を通して理解することができる。その曲率が分子の運動に及ぼす影響を考察して、先行研究で見出されていたLennard-Jones 3体系においてポテンシャルの形状からは不安定である3体が一直線にならんだ直線構造の近傍に長時間トラップされる現象がその曲率によって説明できること、および、分子の反応確率にその曲率が及ぼす影響をRRKMの近似の範囲内で示した。最後に、この曲率の分子の運動に及ぼす影響が分子の自由度に対してどのようにスケールするのかを調べるために、曲率ゼロの場合の相空間体積が曲率から受ける補正の第一次項を、分子の自由度に関してプロットした。モデルとしては、Lennard-Jones粒子を棒で結んだポリマーモデルを用いた。その解析の結果、この補正項の絶対値は分子の自由度とともに線形に増大することが分かった(図1)。

 この結果は大自由度系においても以上のような空間回転操作に関する対称性の効果が有意に残りうるということを示唆している。

 本論文の第3章では、第2章で扱った古典力学的な空間回転操作に関するハミルトニアンの対称性が半古典理論によるエネルギー量子化に及ぼす影響について議論した。そのために、まずその対称性を考慮した半古典理論を構築し、対称性を考慮していない半古典理論と、おのおのを用いて同じ条件下で計算された相関関数をフーリエ変換することで得られた二つのエネルギースペクトルを比較した。その結果、対称性を考慮しない半古典理論から計算されるエネルギースペクトルには量子力学的に計算されたものと比較して幾つかの誤った位置にピークが出てしまい、また、スペクトル全体としてもノイズがのってしまうということを数値的に示した(図2)。

 この結果は、半古典計算において上記の対称性を考慮することの重要性を明確にするものである。また、図1は振動基底状態近傍におけるエネルギースペクトルであるが、振動励起状態のエネルギー固有値も本研究室で開発されたAFC3を用いることにより計算することが可能であるということを示した。

 最後の第4章では、後者の範疇に属する相空間上の不変構造の抽出法を提案した。我々の相空間上に偏在する不変構造を抽出するための戦略はまず各点の周りで局所的に不変量をそれぞれの点の周りの安定性に基づいて構築し、次に各点の周りで局所的に構築された不変量間のつながりを解析することによって、大域的な不変構造を浮かび上がらせようというものである。その方法論をもちいると分子の異なる配座のモード間の相関を調べることができる。そのことを用いて、分子が構造転移を起こす際に越えなければならないポテンシャル曲面上のサドルを横切るような運動に対応するモードが、平衡構造の回りのどのモードと相関するかをLennard-Jones6体系の構造転移反応に関して解明した。また、その特定された平衡構造のまわりのモードにある一定以上のエネルギーを供給することにより、他のモードに同じエネルギーを供給した場合と比較して、著しく構造転移反応を促進できることを数値的に示した。

図1 相空間体積の曲率による第1次補正項の係数の絶対値をポリマーの粒子数に関してプロットした図。粒子数が増えポリマーが伸びていくと補正項の係数の絶対値も線形に増大することが分かる。

図2 半古典自己相関関数のフーリエ変換によって得られたエネルギースペクトル

赤線が回転対称性を考慮したもので黒の点線がその対称性を考慮しなかった場合のもの

両者は同じ条件下で比較されているが、対称性を考慮することで劇的に振る舞いが改善されることが分かる。

審査要旨 要旨を表示する

 クラスター科学は、ナノ科学やナノテクノロジーに表象される現代分子科学の中にあって、中心的な役割を果たす重要な分野である。それはミクロ(決定論的世界)とマクロ(統計力学的世界)の接合点における物質の新しい様相と性質を追求する場であり、世界的にも実験および理論にわたって精力的な研究が進んでいる。本学位論文で、寺本氏は、原子クラスターを例にとりながら、次の主要な3課題に取り組み、独創的かつ重要な成果をあげた。(1)構造転移反応を記述するための非ユークッド空間から派生する力学的制約とその効果、相空間体積への影響等、を物理的および数学的に正しく評価することに成功した。(2)クラスターの回転運動と内部振動運動とを数学的に適切に分離すると、歪んだ非ユークッド空間が残る。この分子内部空間における半古典力学的量子化を初めて成功させ、回転運動の適切な分離の重要性を決定的に明らかにした。(3)強いカオス動力学である構造転移においては、エネルギーと運動量・角運動量除けば、大域的な内部変数における不変量が存在しないが、独創的なアイデアで、局所的な不変量を求め、それを逐次接続しながら、近似的な大域的不変量が存在する場合があることを、構成的に示した。

研究の背景と目的

 分子は、その振動回転状態や化学反応の途上において、便宜的に使われる用語としての「振動」と「回転」がカップルし、力学的に複雑な様相を持つ。しかしながら、通常の分子であれば、このカップリングの効果は小さく、いわゆる振動と回転は良い近似で分離される。しかし、クラスターの構造転移反応や大振幅振動を行う分子種にあっては、分子の形の変遷と回転運動が強く結合し、反応自体に強い制限を与える。タンパクの折れたたみ運動なども、この範疇にはいるものと考えられている。この様な力学的効果(運動形態への直接的効果)および統計力学的効果(相空間体積の評価)を、定性的かつ定量的に明確にすることは、クラスター科学における基礎的概念の構築の上で、極めて重要なことである。また、先行研究も少なく、非ユークリッド幾何学を扱うため数学的な難しさも伴う。寺本氏は、美しい数学的方法論を駆使して、この研究に重要な足跡を残した。

 また、古典論を乗り越え、この振動・回転の強結合に関して、歪んだ空間における量子効果を評価する必要がある。氏は、歪んだ空間における半古典理論を構築し、それに基づいてエネルギー量子化を実行した。その結果、分子内部空間(形の空間)を正しく取り出さないで量子化を行うと、多くの見かけ上の虚のスペクトル線が現れたり、強い雑音が混じることを示した。クラスターの大振幅運動に関連した振動スペクトルの計算は、この分野のもっとも困難かつ重要な研究課題であるが、今後のこの分野の研究に重要な指針を与えるものである。

 クラスター動力学の重要な側面の一つは、その強い非線形性、特に強カオス性である。それゆえ、カオスと集団運動(構造転移反応)の関わりは、一般数理物理学の問題としても極めて重要である。カオス動力学にあっては、定義に従って、相空間においてはエネルギー以外の大域的不変量が存在しない。寺本氏は、そのような状況下にあっても、局所的な不変量を抽出し、それを軌道に沿って接続することで、近似的な大域的不変量を求めようとする試みを実証的に展開した。この研究は、反応論としても重要である。そのような近似的大域的不変量が見出されれば、反応の制御のための重要な手がかりが得られるに違いないからである。実際、寺本氏は、その可能性を数値計算を使って明らかにした。

論文の内容と意義

 本論文は序章等を除き、本質的な3章(第2章から第4章まで)から構成されている。本審査要旨の序で述べた、三部の構成は、それぞれ、第2章、第3章、第4章に分けて記載されている。

 第2章は、"Dynamical and statistical effects of the intrinsic curvature of internal space of molecules"と表題され、分子が一様な回転対称性を持つ空間(たとえば単純な真空中)に置かれたときの、相空間が持つべき不変構造の力学的および統計力学的効果を明らかにしている。このとき、分子は全角運動量を保存するのであるが、その全角運動量がゼロの場合には、分子の相空間の次元を6N-12次元まで簡約することができる。その簡約の操作に付随して、分子の配座を記述する内部空間にはゼロでない曲率を持つような計量が導入され、空間回転操作に関するハミルトニアンの対称性の運動論的効果はその曲率を通して把握することができる。その一例として、遷移状態(ポテンシャル局面の鞍点)近傍にある分子が、その領域に長く留まりうる場合があることを、その曲率によって説明できることを明らかにしている。さらに、この曲率が相空間体積にどのように反映され、それを通して統計反応理論がどのように補正を受けるべきであるかを、数理的および定量的に明らかにしている。この補正項の絶対値は分子の自由度とともに線形に増大することが指摘され、この結果は大自由度系においても以上のような空間回転操作に関する対称性の効果が有意に残りうるということが示唆されている。

 第3章 "A semiclassical theory for nonseparable ro-vibrational motions in curved space and its application to energy quantization of nonrigid molecules"では、古典力学的な空間回転操作に関するハミルトニアンの対称性がエネルギー量子化に及ぼす影響について半古典力学を使って定式化されている。まず、計量を持つ歪んだ空間における半古典力学とエネルギー量子化を定式化し、アルゴン3体系クラスターに応用した。その結果、回転対称性を考慮しない半古典理論から計算されるエネルギースペクトルには、幾つかの誤った位置にピークが現れたり、強い背景雑音が出たりして、正しくないスペクトルが算出されてしまうことを明らかにした。分子の振動と分子がそれによって向きを変える事を適切に表現する必要があることを示した上で、応用上も非常に重要な結果である。

 最後の第4章 "Local integrals and their globally connected invariant structure in phase space giving rise to a promoting mode of chemical reaction"では、カオス力学においても適用可能な、相空間上の近似的不変構造の抽出法を提案している。近似的不変構造が存在する場合には、それにともなう反応モードを明らかにすることができる。例えば、分子が構造転移を起こす際に越えなければならないポテンシャル曲面上のサドルを乗り越える運動に対応する「振動モード」が、反応以前の平衡構造の回りのどのモードと相関するかをクラスターの構造転移反応を実例として明らかにしている。これは、化学反応論におけるpromoting modeの同定方法の全く新しい提案になっている。

 以上のように、寺本氏の学位論文は、内容の水準が高く、独創的である。かつ、個々の分子の個性を超えた普遍的な性質を抽出していることに成功しており、得られた成果の一般性が非常に高い。

 本論文は,高塚和夫教授との共同研究であるが,論文の提出者が主体となって理論の提案と解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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