学位論文要旨



No 122068
著者(漢字) 原川,真由子
著者(英字)
著者(カナ) ハラカワ,マユコ
標題(和) 結晶相シス-トランス光異性化反応のX線解析による追跡
標題(洋)
報告番号 122068
報告番号 甲22068
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第745号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小川,桂一郎
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 錦織,紳一
 東京大学 助教授 村田,滋
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 オレフィンのcis-trans光異性化反応は,化学的にも生化学的にも極めて重要な反応の一つである.その反応は,溶液中では非常に起こりやすいのに対して,結晶中では起こりにくいとされている.その主な原因は光異性化反応は分子構造の大きな変化を伴い,そのような過程は,原子・分子が密に詰まっている結晶中では阻害されると考えられているからである.

 Cis-trans光異性化反応に伴う分子構造の変化の大きさは,その機構によって異なる.その反応機構としては,次の3つが知られている.第1は,異性化する二重結合のまわりに分子の半分が180度回転するもので,One Bond Flip (OBF)と呼ばれている(式(1)).Cis-trans光異性化反応は,通常,このOBFによって進行するものと考えられている.第2は,Bicycle Pedal (BP)とよばれるもので(式 (2)),ロドプシンのレチナールの光異性化の機構として提案された.BPは,単結合で隔てられた2つの二重結合が同時に逆向きに回転して,結果として分子が自転車のペダルを漕ぐような運動を行うものである.このBPでは2つの二重結合が同時に異性化することになるので,1つの二重結合だけが異性化する場合には適用できず,一般にはあまり重要視されていない.第3は,Hula Twist (HT)とよばれ(式(3)),これもロドプシンのレチナールの異性化の機構として提案されたものである.このHTでは,二重結合の異性化と同時に,隣の単結合も回転し,結果として分子の両側が横に滑るような動きとなり,反応に伴う分子構造の変化は比較的小さい.従って,HTは分子の動きが制限された場合に優先して起こると考えられている.タンパク質中だけでなく,低温ガラス溶液中でもHTによって光異性化反応が進行することを示した例が報告されている.

 結晶中での光異性化反応はこれまでの研究例が非常に少ないために,その反応機構についてはほとんど明らかにされていない.結晶中はタンパク質中あるいは低温ガラス溶液中と同様に分子の動きが制限されているので,HTによって異性化反応が進行すると推定している研究報告例はあるものの,実験的な証拠はない.そこで本研究では,いくつかのオレフィン類について,その固相光異性化反応の機構を明らかにするために,結晶相で光異性化反応を行い,その反応に伴う分子構造の変化をX線解析によって追跡した.その結果に基づいて結晶中での光異性化反応の機構を推定し,さらに,それぞれの化合物が結晶中で反応が進行するかどうかを決定する要因について考察した.

【結果と考察】

 本研究では,オレフィン類として2-(9-アントリルメチレン)-1-インダノン(1),1,2-ジベンゾイルエチレン(2)およびそれらの誘導体を合成し,その光反応性を調べた.ここでは,代表例として,cis-1とtrans-2についての結果を述べる.

(Z)-2-(9-アントリルメチレン)-1-インダノン(cis-1)

 Cis-1は,固体状態で光異性化反応が進行することが報告されている.そこで,cis-1の単結晶に室温で光照射を行った.X線結晶構造解析は光照射前後に室温で行い,一連の実験には同一の結晶を用いた.光照射後の差電子密度図には,インダノンのメチレン炭素原子の近くに一つだけ新しいピークが出現した.このピークの強度は光照射時間が長くなるにつれて増大した.これは,光照射によって生じたtrans体の酸素原子に帰属できた(図1).光反応生成物であるtrans体の割合は,光照射4,8時間後でそれぞれ8.1(3),17.3(3)%と決定できた.さらに光照射を続け,照射28時間後には,ほぼ100%trans体へ異性化したことがわかった.

 Cis-1の光異性化反応は,OBFによって進行する場合と,HTによって進行する場合とで,生成するtrans-1のcis-1に対する相対的な配置が異なる.観測されたtrans-1の分子構造はエチレン結合のまわりでインダノン環部分がOBFによって180度回転したものと一致する.従って,この結晶中での光異性化反応はHTではなく,OBFによって進行したものと解釈できる.

 反応後の結晶中に共存している両異性体の構造は,メチレン水素原子と酸素原子以外の全ての原子が完全に重なり合っている.つまり,cis-1の結晶格子中に生じたtrans-1は,もとの結晶格子にきちんと収まる.このことが,この反応がOBFで容易に進行する原因の1つとなっているといえる.

(E)-1,2-ジベンゾイルエチレン(trans-2)

 Trans-2も固体状態で光異性化反応が進行することがいくつかの論文で報告されている.しかしながら,その反応機構はまだ明らかとなっていない.また,この反応は結晶の転位あるいは結晶相再構成などを伴うために,単結晶を保っては進行しないと報告されている.実際に,trans-2の単結晶に長時間光照射を行った後では,結晶が劣化してしまい,結晶解析を行うことはできなかった.そこで,反応が十分に進行していない初期の段階で結晶解析を行い,結晶中に発生した極く少量の生成物の構造を推定した.このとき,光反応は室温で行ったが,より精度の高いデータを得るために測定は90 Kで行い,その少量の生成物の検出を試みた.光照射後の結晶の90 Kでの差電子密度図に,反応生成物に由来する有意なピークが観測できた(図2).これらのピークは,2つの異なる配向のcis-2の酸素原子と炭素原子に割り当てることができた.

 Trans-2の光異性化反応においても,OBFとHTでは生成するcis-2の配座が異なる.ここで観測されたcis-2の配座は,HTでは説明できないものである.

 これに対して,OBFならば,観測された配座をうまく説明することができる.しかし,過去の報告では,trans-2の結晶構造のエネルギー計算の結果からOBFの可能性は否定されている.すなわち,分子のまわりの空間が小さすぎて,たとえまわりの分子が協同的に動いたとしても,分子の半分が二重結合のまわりに回転することはできないとされている.

 この異性化がOBFによるものではないとすると,BPによるものと考えられる.すなわち,中央の二重結合(C8'-C8)と一つ隔てた単結合(C7-C1)が同時に逆向きに回転すれば,自転車のペダルを漕ぐような動きでcis体へと異性化することが可能である.C8-C8'とC7'-C1'が回転すれば,観測されたもう一つの配向のcis体が生成する.しかし,生成する分子の構造は,いずれもOBFから生成するものと同一である.したがって,観測した分子構造からだけでは,OBFとBPのいずれによって進行したのかを区別することはできない.しかし,BPではベンゼン環が回転しなくて済むので,結晶中ではOBFより起こりやすいと考えられる.

【まとめ】

 本研究では,単結晶中でオレフィンのcis-trans光異性化反応を行い,いくつかの化合物において,その経過をX線結晶構造解析によって追跡することに成功した.その結果,単結晶中のcis-trans光異性化反応は,OBFあるいはBPで進行していることがわかり,HTによって進行していることを示す証拠は得られなかった.いずれの化合物においても,結晶中での異性化反応は,分子の形状変化が常に小さくなるように反応していることがわかった.

図1 Cis-1の結晶構造(室温).光照射8時間後.Trans体の原子は白抜きで表示.

図2Trans-2の差電子密度図(90K).光照射8時間後.点線が生成したcis体.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文はタイトルに明示されている通り,結晶中におけるオレフィンのシス・トランス光異性化反応を,X線結晶解析を用いて追跡することにより,その光反応の機構を明らかにしようとしたものである.全体は6章からなり,第1章は導入説明,第2-5章は研究対象とした化合物別にそれぞれの研究成果を述べ,第6章が結論となっている.

 第1章では,固相におけるオレフィンのシス・トランス光異性化反応は,一般に進行しにくく,その機構もほとんどわかっていないが,この反応を結晶相で進行させることができれば,X線結晶解析で追跡することによって,反応機構が決定しうることを述べている.シス・トランス異性化反応は,一般に,気相や溶液中など分子の動きに制約がない環境では二重結合が180°回転する機構(One Bond Flip)で進行するのに対して,固相やタンパク質中など分子の動きが制約されている媒体中では,分子の形状変化がなるべく小さくなるように進行するとされており,そのような機構として,Bicycle PedalとHula Twistの2つが提案されている.光異性化反応による生成する分子の立体配座は,その反応機構によって異なることが多いので,X線結晶解析によって反応前後の立体構造とその相対的な位置関係を知ることができれば,反応機構を決定しうる.この点に着目した本研究の進め方には高い独創性が認められる.

 第2章では,結晶中において光異性化がHula Twistで進行するとされているアントリルメチレンインダノン類について,結晶相シス・トランス光異性化反応を進行させ,その過程をX線結晶解析によって追跡した結果が述べられている.解析を行うことができた多くの化合物において,異性化反応はHula Twistではなく,One Bond Flipで進行していることが明らかになった.この結果は,一般に固相中では進行しにくいとされているシス・トランス光異性化反応を単結晶中で起こさせ,その反応機構をX線結晶解析によって決定した貴重な例として高く評価される.

 第3章では,アントリルメチレンインダノン類のうち,粉末では光異性化反応が進行したが,結晶中では反応の進行が認められなかった化合物,二量化反応が進行したと推定できる化合物,および光反応が進行しなかった化合物についての結果が述べられている.一連のアントリルメチレンインダノン類ではいずれも,溶液中では化合物によらず光異性化反応が進行し,その光定常状態はシス体に偏っていることも見出されている.これより,固相中での光反応性は,溶液中とは異なり,化合物によって著しく異なることが示された.

 第4章では,アントリルメチレンインダノン類の固相光反応性が化合物によって著しく異なる原因を,結晶構造をもとに考察している.異性化反応によって向きが大きく変わるインダノン環のまわりの隙間を評価したが,それによっては反応性の違いは説明できなかった.つづいて,分子が反応することによって結晶中の周囲の分子と接触するかどうかを調べたが,反応分子だけが異性化反応の動きだけをすると仮定した反応モデルでは,固相での光反応の化合物による違いは説明できないことがわかった.通常,結晶相反応の反応性の考察には,本章と同様に,観測された結晶構造をもとに,周囲の分子は固定して,反応分子だけを動かす反応モデルが用いられており,それによってさまざまな反応の反応性が説明されてきた.本章の結果は,これまで広く用いられてきた反応モデルが単純すぎて適用できない場合があることを示した点で,重要な意味をもつ.

 第5章では,ジベンゾイルエチレン類の結晶中の光異性化反応について,結晶中で光異性化反応を進行させ,その過程をX線結晶解析によって追跡した結果が述べられている.この化合物は,固相中で光異性化反応が進行し,その固相反応は,分子のまわりの空間が小さすぎるので,One Bond Flipはあり得ず,Hula Twistで進行しているのではないか推測されているものである.いくつかの化合物について検討したところ,母体化合物のトランス体については,光異性化反応がある程度の段階まで単結晶を保ったまま進行することを見出し,X線結晶解析によって反応生成物の観測に成功している.観測された生成物の構造から,異性化反応は,Hula Twistではなく,One Bond FlipかBicycle Pedalのいずれかによって進行していることが示された.いずれも同一の生成物を与えるため,どちらの機構によって進行したかは区別できていないが,有機化合物の結晶中で容易に起こることが知られているBicycle Pedalの可能性が示されたことは注目に値する.この結果とともに特筆に値するのは,この光異性化反応が,単結晶が保たれたまま進行する過程と,単結晶が保たれずに進行する二つの過程から成っていることが明らかにされたことである.第一の過程では,生成したシス体はトランス体の結晶格子中に存在しているのに対して,第二の過程では,光反応によって生成したシス体が相分離して,シス体として安定な結晶構造に変化している.第二の過程は,粉末X線回折と拡散反射スペクトルによる追跡によって見出されている.その方法は,固相反応解析の規範的な例となろう.

 以上のように,本論文は,単結晶中におけるシス・トランス光異性化反応の機構を反応にともなう分子構造の変化を観測することによって詳細に解明し,その結果にもとづいて固相光反応の反応性を理解するための指針を与えたものとして,高く評価できる.

 なお,本論文中の第2-6章の一部は,原田潤氏および小川桂一郎氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって研究を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.

 よって,本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる.

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