学位論文要旨



No 122070
著者(漢字) 俵,寿成
著者(英字)
著者(カナ) タワラ,トシナリ
標題(和) HERAでの深非弾性回折散乱における2ジェット事象の測定
標題(洋) Measurement of Dijet Production in Diffractive Deep Inelastic Scattering at HERA
報告番号 122070
報告番号 甲22070
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4933号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永江,知文
 東京大学 教授 蓑輪,眞
 東京大学 助教授 川本,辰男
 東京大学 助教授 浜垣,秀樹
 東京大学 教授 福島,正己
内容要旨 要旨を表示する

 HERAのような(陽)電子・陽子衝突の場合、つまり、ハドロンと反応する片方がレプトンである場合において、陽子ビーム方向と検出器内で見つかったハドロン粒子との間にギャップがある事象が観測された。これらの事象は、全体の深非弾性散乱事象の内、約10%程度であった。これは、一般の深非弾性散乱とは異なり、深非弾性回折散乱と呼ぶ。

 ハドロン・ハドロン衝突においても回折散乱事象は観測されている。ハドロン・ハドロン衝突の全断面積が、重心系エネルギーの関数として、高エネルギーでは緩やかに大きくなっていることは、レッジェ理論においてカラーを持たない仮想粒子ポメロンを導入することで説明された。つまり、ハドロン・ハドロン衝突では、ポメロンは実粒子として、ハドロン内のパートンと反応して回折散乱を起こすと考えることができる。

 この考えをもとに、HERAの深非弾性回折散乱は、(陽)電子から放出される仮想光子をプローブとしてポメロンのパートン分布を探る事象と考えられるので、HERAは、ハドロン・ハドロンの衝突実験よりも、非常に有利にポメロンの構造を探ることができる。

 パートンとレプトンの深非弾性散乱の断面積は、パートン密度関数と、パートンとレプトンとの間の散乱断面積との積で表すことができる。このことが深非弾性回折散乱でも適用できることが示されているため、一般の弾性散乱と同様に、パートン・レプトン回折散乱の断面積は、ポメロンがパートンから放出される確率と、レプトン・ポメロンの散乱断面積との積で記述できる。回折散乱の構造関数(FD2)のグルーオン密度分布は、HERAでのFD2のデータへのDGLAP QCDフィットを用いて求められたが、その不定性はまだ非常に大きい。

 これまで、強い相互作用は、量子色力学(QCD)の理論で記述され、高エネルギーの領域では、結合定数が小さくなるため、QCDに摂動論を適用できる。この摂動論的QCDの理論は、これまで様々な実験により検証されてきた。

 近年、HERAにおける、H1、ZEUSグループによって、様々な回折散乱のパートン密度関数が求められている。これは、測定された散乱断面積をポメロンの放出確率で割ることにより、(陽)電子とポメロンとの散乱断面積、つまりポメロンの構造関数を決定できる。通常の深非弾性散乱と同じようにして、これから得られたポメロンの構造関数に対して、DGLAP QCDフィットを適用すると、ポメロンのパートン密度関数が求められる。この結果から、ポメロンは主にグルーオンからできていることがわかっている。これらの回折散乱のパートン密度関数を用いて、摂動論的QCDにおける2次の項(NLO QDD)の計算値を求めることができるようになった。

 NLO QCD計算に使用した回折散乱のパートン密度関数はH1 2002フィット,ZEUS-LPSフィット,GLPフィットの3種類である。H1 2002フィットは、H1検出器で取得されたデータを元に求められた回折散乱のパートン密度関数である。ZEUS-LPSフィットは、ZEUS検出器のLeading Proton Spectrometerで取得した回折散乱事象にFD2のチャームの寄与を加えて得られたものである。また、GLPフィットは、ZEUS検出器を使用してMxの高い部分を除いて回折事象を選択して得られたFD2を用いたものである。これら3種類の回折散乱のパートン密度関数を図1に示した。ここで、注目すべきは、グルーオン密度分布(左図)がクォーク密度分布(右図)よりも非常に大きく、分布の形がパートン密度関数によりかなり異なっていることである。特に、ポメロンに関するハードな部分過程からのパートンの運動量比であるzが高いところで、差異が大きくなっている。

 回折散乱でのボゾン・グルーオン・フュージョン(BGF)過程は、ポメロンから放出されたグルーオンと電子からのボゾンである仮想光子が反応していると見なされる。そのため、BGF過程が支配的である深非弾性回折散乱における2ジェット事象を調べることは、回折散乱におけるグルーオン密度に深い関係があると言える。特に、ポメロンのパートンに対する縦方向運動量比z(obsIP)を測定することは非常に意味がある。

 この解析は、深非弾性回折散乱における2ジェット事象の断面積を様々な運動学的変数の関数として測定し、特に、z(obsIP)分布を測定した。用いたデータは、1999年から2000年の間に、HERAで、陽子を920GeV、(陽)電子を27.5GeVに加速して衝突させ、衝突点にあるZEUS検出器を用いて取得した。このときの重心系エネルギーは、√s=318GeVであり、データ量は、陽子・電子衝突と陽子・陽電子衝突を合わせて積算ルミノシティーで65.2pb(-1)である。まず、深非弾性散乱の事象を選択するために、散乱された(陽)電子が検出器内にあることを要求した。仮想光子の4元運動量の2乗(Q2)、Bjorkenスケーリング変数(x)などの運動学的変数を再構成した。次に、回折散乱事象を選択するために、終状態のハドロン粒子とビームパイプを通り抜ける陽子との間に充分にラピディティーのギャップがあることを要求した。こうして選択した深非弾性回折散乱の事象に対して仮想光子(γ*)と陽子(p)との重心系でジェットを探索し、内包的kTアルゴリズムを用いてジェットを再構成した。2ジェットを選択するときに、最も高い横方向エネルギーを持つジェットの横方向エネルギー(E*(T,jet1))と次に高い横方向エネルギーを持つジェットの横方向エネルギー((E*(T,jet2)))のしきい値をそれぞれE*(T,jet1)>5GeV、E*(T,jet2)>4GeVとし、かつ、それらのジェットが実験室系での擬ラピディテー(η(lab)(jets))として-2.0<η(lab)(jets)<2.0の範囲にある事象を選択した。以上の選択方法により、深非弾性回折散乱の2ジェット事象として、3711事象を観測した。これらの事象に対して、5<Q2<100GeV2、100<W<250GeV、x(IP)<0.03、N*(jets)〓2、E*(T,jet1)>5GeV、E*(T,jet2)>4GeV、-3.5<η*(jets)<0の運動学的範囲で様々な運動学的変数の関数として断面積を測定し、特に、z(obsIP)の関数としての断面積を測定した。ここで、N*(jets)はγ*-p系でのジェットの個数である。η*jetsは、γ*-p系での擬ラピディティーで、ジェットの横方向エネルギーの系と合わせた。また、x(IP)は、ポメロンの、入射陽子に対する縦方向運動量の比を意味している。

 測定した断面積をもとにFD2で得られたパートン密度関数と比較するために、DISENTと呼ばれるNLO QCDプログラムを使用した。このプログラムはもともと回折散乱ではない深非弾性散乱のNLOを計算するプログラムであるため、このままでは深非弾性回折散乱には使用できない。そのため、この解析では改造を行い使用した。NLO計算の出力値はパートンレベルであり、測定で求めた断面積はパートンがハドロン化した後であるため、モンテカルロイベントジェネレーターRAPGAPを用いて、NLO計算値のパートレベルをハドロンレベルに補正して、データと比較した。

 図2は、図1にある3種類の回折散乱のパートン密度関数をそれぞれ用いて、3種類のNLO QCD計算値を求め、データと比較したものである。データ点は左右の図で同じものをプロットしている。上の2つの図は、z(obsIP)の関数として深非弾性回折散乱における2ジェット事象の断面積を表し、下の2つの図は、この断面積をZEUS-LPSフィットを用いたNLOの計算値で割ったものである。図中のバンドは、スケールの不定性を示し、繰り込みスケール(μR)をE*(T,jet1)/2から2E*(T,jet1)の範囲で変化させて求めた。スケールの不定性は3種類のパートン密度関数によらず典型的に20-30%であった。左図から、ZEUS-LPSを用いたNLO計算値は、スケールの不定性の範囲ないで、ぼぼデータを再現しているのがわかる。一方、右図は、ZEUS-LPSフィットに加え、H1 2002フィットを使用したNLO計算も、データをほぼ再現できている。一方、GLPフィットを使用した場合、データの1/2近く低い。特に、z(obsIP)分布の形は、NLO QCD計算値と測定した断面積との間で大きく異なっている。測定した深非弾性回折散乱における2ジェット事象の断面積のデータをFD2データへのDGLAP QCDフィットに含めることで、回折散乱のパートン密度関数の中の、グルーオンの密度分布関数の不定性を減らすことができると期待される。グルーオンの寄与が小さいGLPフィットを使用したNLOとデータとの比較により、この解析で測定した深非弾性回折散乱の2ジェット事象によって、高いzの領域で、ポメロンの中に非常に多くのグルーオンが存在していることが示された。

図1:回折散乱のパートン密度関数の分布

図2:深非弾性回折散乱による2ジェット事象のz(obsIP)の関数による断面積とNLO計算値との比較

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、陽電子と陽子との高エネルギーでの回折散乱事象の反応機構を実験的に解明しようとするものであり、8章からなる。

 第1章のイントロダクションに述べられているように、高エネルギーのハドロン・ハドロン衝突反応においては、古くから超前方で回折散乱事象が観測され、その説明のために色電荷を持たない仮想粒子ポメロンが導入された。この模型は、ハドロン・ハドロン衝突の全断面積の高エネルギー領域での緩やかな増大傾向をうまく説明するものであった。しかし、その後、量子色力学が確立され、高エネルギーでのハードなハドロン・ハドロン衝突反応が、ハドロン内部のパートンどうしの衝突反応として理解されるなかで、ソフトな反応を記述するために導入された仮想粒子ポメロンの実体については未解明のままであった。ところが近年になって、(陽)電子・陽子衝突型加速器HERAにおいて、それまで主に研究されていた陽電子と陽子中のパートンとのハードな散乱事象である深非弾性散乱のなかに、約10%程度の割合で深非弾性回折散乱と呼ばれる新しい事象が観測されるようになった。これは、あたかも昔導入された仮想粒子ポメロンと陽電子との散乱として解釈できるような事象であり、ポメロンの現代的描像を探る実験的研究が行われるようになった。本論文の研究では、ポメロンにおいて主要な役割を果たしているパートンと考えられているグルーオン成分に敏感な測定量として、これまで測定されていなかった、散乱の終状態にジェットが2個観測される事象の断面積を測定した。第1章から第2章においては、これらの深非弾性回折散乱観測の経緯とこれまでの実験的研究の流れ、そして、本研究の動機と目的、独自性について詳述されている。

 本研究の実験は、ドイツにある27.5GeVのエネルギーを持つ陽電子と920GeVのエネルギーを持つ陽子との衝突型加速器HERAのZEUS検出器を用いて行われたものであり、その実験装置の詳細が第3章にまとめられている。特に、本研究のデータ解析に重要な役割を果たす、中心飛跡検出器系、ウラニウム・カロリーメーター、前方カロリーメーターなどについて詳細が説明されている。また、第4章では、検出器系の検出効率などを調べたり、バックグラウンド事象の混入率などを調べるために、データ解析に使用した各種反応事象のシミュレーションコードについてまとめられている。

 第5章と6章が、データ解析を詳述している部分である。まず、第5章では、深非弾性回折事象を、どのようにして観測データのなかから選別していったかを詳しく説明してある。特に、バックグラウンドとなる非回折散乱事象や陽子の分解散乱事象などの混入率を、各々2.3%、16%にまで抑制することに成功した。引き続いて、2ジェット事象の選別方法について述べられている。第6章においては、選別された深非弾性回折散乱における2ジェット事象について、その生成断面積の導出とその補正効果、また、系統誤差の評価について詳しく述べられている。結果として得られた断面積は、反応を記述する様々な力学変数の関数として表現されている。

 第7章において、得られた断面積と、論文提出者が行った高次の量子色力学計算との比較が行われている。これは、これまでに知られている3タイプの回折事象のパートン密度関数に基づく計算であり、この比較から、ポメロンの高運動量成分においてグルーオンが大きな役割を果たしていることが示された。第8章に結論がまとめられている。本論文の実験結果は、回折事象のパートン密度関数に関する新たな知見を与えるものとなっており、深非弾性回折散乱の反応機構におけるグルーオンの重要性を指摘することとなった。

 なお、本論文は、ドイツ・ハンブルグにあるDESY研究所のHERAと呼ばれる電子・陽子衝突型加速器を用いた実験の一つであるZEUSグループにおける共同研究に基づくものであるが、論文提出者が主体となって本論文のデータ解析及び物理解析を行ったものである。特に、高次の量子色力学計算との比較において論文提出者の果たした役割は顕著であり、論文全体として論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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