学位論文要旨



No 122075
著者(漢字) 安川,敬三
著者(英字)
著者(カナ) ヤスカワ,ケイゾウ
標題(和) 擬一次元ハロゲン架橋白金錯体における核波束のダイナミクスに関する研究
標題(洋) Dynamics of the nuclear wavepackets in quasi-one-dimensional halogen-bridged platinum complexes
報告番号 122075
報告番号 甲22075
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4938号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 助教授 島野,亮
 東京大学 助教授 黒田,意人
 東京大学 教授 岡本,博
内容要旨 要旨を表示する

 本研究で対象とした擬一次元ハロゲン架橋白金錯体は、典型的な一次元物質であり、電子格子相互作用が非常に強い物質であることが知られている。一次元金属が電子格子相互作用に対して不安定であり、格子歪み(パイエルス歪み)を起こす。その結果電荷密度波(CDW)状態になることはよく知られた事実であるが、この物質もその不安定性のために基底状態はCDW状態になっている。そこに光励起を行うと、自己束縛励起子やポーラロン、ソリトンなどの様々な準安定な励起状態(緩和励起状態と呼ぶ)が現れることが今までの研究で分かっている。光化学反応や光誘起相転移などの現象は、励起状態を介して起こるので、この物質は様々な現象を期待させる物質である。また、一次元であることから理論的研究に着手し易いという利点もある。我々は、上記のように多様な緩和励起状態が現れるハロゲン架橋白金錯体の緩和過程のダイナミクスに興味がある。我々が対象としている緩和過程は、光励起後にCTエキシトンから自己束縛励起子を経由し、基底状態に戻る過程である。最近のフェムト秒レーザーの発展に伴って、分子振動が見えるフェムト秒領域の観測が可能になった。また短パルス励起を用いれば同時に多くの振動準位を励起できるので、自己束縛励起子の断熱ポテンシャル上で古典的粒子の振舞いに近い(核)波束を生成することができる。我々は励起状態の緩和過程を知るために、時間分解発光分光測定によってこの励起状態の核波束運動から生じる発光を測定し、励起状態の緩和過程について知見を得ることを研究の目的とする。ハロゲン架橋白金錯体は、ハロゲンの種類を変えることにより電子格子相互作用の強さを変化させられ、系統的に電子格子相互作用の強さと緩和励起状態の関係を研究することができる。

 Chapter2においては、光と物質の相互作用についての一般論、励起状態からの緩和過程に対する次元依存性について連続体モデルを用いた議論、そしてハロゲン架橋白金錯体に関する基本物性や研究の背景を概観する。研究に用いたハロゲン架橋白金錯体の構造式は、[Pt(en)2][Pt(en)2X2](ClO4)4と表される。Xはハロゲンイオン、en(エチレンジアミン)は配位子、ClO4-はカウンターイオンを表す。白金イオンの回りを配位子が囲み、そしてこの配位子をカウンターイオンが補強し、隣り合う鎖間を結び三次元構造を安定化させている。白金イオンとハロゲンイオンは交互に並び一次元鎖構造をなしている。その基底状態を図1に示す。白金は2価と4価のものが交互に並んだ混合原子価状態を取っている。ハロゲンイオンは白金原子間の中間の位置より、4価の白金イオンの方に変位して安定化している。また、鎖間の距離は十分離れている(7Å以上)ので鎖間の電子的な重なりは無視できる。すなわち、格子系と電子系は共に1次元性が担保されているのである。格子系はハロゲンイオンが、そして電子系は白金イオンが担っていて現象の解釈が容易である。

 Chapter3においては、実験手法である周波数アップコンバージョン法による時間分解発光分光測定について記している。アップコンバージョン法はこの赤外の領域の発光に対して感度が良く、白金錯体の自己束縛励起子からの赤外領域の発光を見るのに適している。さらに高い時間分解能が得られるという利点がある。時間遅延をつけたゲート光で発光を時間的に切り出し、その発光とゲート光の和周波を可視の領域に変換し、その信号を計測する。

 Chapter4においては実験結果とそれに対する解析、考察を記している。本研究では、熱揺らぎのない状況における核波束運動を知るために主に低温における実験を行った。最初にPt-Brの790nm励起による4Kでの超高速時間分解発光測定の結果を報告する。まず自己束縛励起子の寿命(長時間スケールの実験)の温度変化の実験を行い、熱活性化モデルを仮定し、無輻射過程でのポテンシャル障壁の高さを99±10meVと見積もった。また、低温での寿命は13psであり、室温での寿命5.9psより伸びている事が分かった。次に短時間領域の発光の時間発展の様子を測定した(図2)点線は実験結果を示す。振動構造は室温より多く現れ、また振動は室温では見られなかった複雑な波形を示した。フーリエ変換の結果から、STEの対称伸縮モード(3.4THz)に加えて低周波モードがあることを見いだした。実験結果を解析するために、共鳴二次散乱の理論を用いた。その解析結果を図2の実線で示す。今回スペクトル関数として2つのモードを仮定して適用したが、時間原点近くのピークを除くとこの複雑な実験結果を再現できた。このファーストピークの同定にはまだ至ってはいないが、波束運動から生じる発光からの寄与ではないと考えられる。理論の直感的意味づけは以下の通りである。解析に用いた2つのモードをそれぞれに分離して配位座標空間上において各モードに対応する軸をとり、その軸に沿って各々の振動数に対応する2つの放物線のポテンシャルカーブを持つ放物面上で励起状態の核波束が運動していると考える。その核波束の重心の運動を正射影すると古典的なリサージュ的図形を描く(図3)。各楕円は(実線は基底状態、点線は励起状態)等エネルギー線を表す。また点線の直線は等発光エネルギー線を表す。波束がリサージュ運動を行いながらこの直線に近づく時、その等発光エネルギー線に対応する強い発光が生じる。そして、遠ざかるときは、発光は弱くなる。この様な波束の運動と等発光エネルギー線の関係を考えると、図2の複雑な時間発展の様子を理解できる。次に、低温においてPt-Brの約400nm励起による実験を行った。振動周期に比べて装置の時間分解能は良いのに、振動構造のビジビリティーが低いという結果が出た。これはCTピークの上の方を励起するとCTエキシトンからSTEに緩和する過程において、色々な緩和パスがありSTEのポテンシャル面上で出来る個々の波束のスタートのタイミングが個々にずれて、全体として形成される核波束が初めからコヒーレントな状態でなく、波束自体が広がってしまっているためであると考えられる。

 次に低温でPt-Cl(395nm励起)の実験を行った。発光の時間発展の様子はPt-Br(790nm励起)の実験ほど顕著ではないが、Pt-Clでも振動成分が2モードあることを見出し、同じ理論で説明できた。この時間発展の様子の違いは、核波束が描くリサージュの模様から理解できる。すなわち、低周波成分に一致する方向に核波束が運動して折り返すまでに高周波成分(STEのモード)が何回も揺れることが必要であることがわかった。Pt-Clの場合、高周波成分のダンピングが低周波成分の周期より速いので、Pt-Brほど顕著で複雑な振動構造が現れなかったのである。

 最後にPt-Iに関する実験(室温と低温)を行った。Pt-IのSTEの発光の振動構造が陽に観測され、発光によってSTEの振動数を2.8THzと決定することが出来た。これは、過渡吸収・過渡反射測定による実験値とは異なった結果である。励起状態を観測する発光測定による結果であるので、励起状態の核波束の振動であるといえる。これによって、系統的に白金錯体のSTE の対称伸縮モードの周波数を発光測定により決定できたことになる。そして、対称伸縮モードの励起状態(STE)と基底状態の振動数を比べると、電子格子相互作用が弱いほど振動数の変化が少ないということが示された。これは、よりハロゲンによるパイエルス歪が大きいほど振動数の減少が大きいことを示している。

図1:ハロゲン架橋白金錯体の鎖構造

図2:4KにおけるPt-Brの自己束縛励起子からの発光(0.95eV)の時間発展。点線は実験結果、実線は共鳴二次散乱の理論による解析結果を示す。

図3:核波束の重心のリサージュ運動と配位座標空間におけるポテンシャルの概念図。

審査要旨 要旨を表示する

 擬一次元ハロゲン架橋白金錯体(Pt-X, X=Br, Cl, I)は、電子格子相互作用が非常に強い、典型的な一次元物質であることが知られている。一般に一次元金属は、電子格子相互作用に対して不安定であり、格子歪み(パイエルス歪み)を起こす結果、その基底状態は、電荷密度波(CDW)状態となっている。このような物質を光励起すると、自己束縛励起子(STE)、ポーラロン、ソリトンなどの準安定な励起状態が生成され、その緩和現象が発現する。一次元であるため理論的考察を加えるのにも有利なPt-Xは、準安定励起状態からの緩和過程のダイナミクスを研究するための格好のモデル物質である。

 論文提出者は、スペクトル幅の広いフェムト秒パルスで生成された核波束の緩和過程のダイナミクスを、時間分解発光分光測定によって調べることを主目的としている。本研究では、特に熱揺らぎのない環境下での核波束の運動を調べるために、試料を低温(〜4K)に保った測定に重きを置いている。また、Pt-Xは、ハロゲンの種類を変えることによって電子格子相互作用の強さを変化させることができるので、電子格子相互作用と緩和過程のダイナミクスの関係を系統的に調べている。

 本論文は全5章からなる。第1章は序論であり、研究の背景と本論文の構成をまとめている。

 第2章では、光と物質の相互作用の一般論から説き起こし、励起状態からの緩和過程の次元依存性に関する連続体モデルを用いた議論、さらにPt-Xに関する基礎物性や研究の経緯を概説した後、上記の研究目的について述べている。

 第3章では本研究で用いた周波数アップコンバージョン法による時間分解発光分光についてまとめている。Pt-XのSTEからの発光は赤外領域であるが、和周波光を発生させることにより、感度の高い検出器を利用できる可視光領域の信号に変換できる。発光とゲート光の間の遅延時間を変えながら測定することにより、発光の時間発展を高い分解能で測定できる。

 第4章は本研究の中核であり、実験結果とその解析および考察についてまとめている。4-1節では、まず4KにおけるPt-Brの790nm励起による超高速時間分解発光測定の結果について報告している。STEの寿命の温度変化を長時間スケールで測定し、熱活性化モデルを仮定して、無輻射過程のポテンシャル障壁を99±10 meVと見積もっている。また、低温での寿命が13 psであり、室温での寿命5.9 psより長いことを見出した。さらに、短時間領域で発光の時間発展を測定し、低温での振動構造は概して室温よりも多く、かつ複雑な時間発展を示すことを観測した。発光の時間発展をフーリエ変換した結果、3.4 THz付近のSTEの対称伸縮モードに加えて、0.7 THz付近に低周波モードが存在することを初めて見出した。結果の解析には共鳴二次散乱理論を採用した。スペクトル関数として2つのモードを仮定することにより、発光の複雑な時間発展をほぼ再現することに成功した。核波束のダイナミクスは、配位座標空間での運動を2次元面に射影してできるリサージュ図形で説明し、発光の複雑な時間発展との対応付けにも成功した。

 4-2節では、低温でのPt-Clの395 nm励起での実験について述べている。発光の時間発展は、790 nm励起のPt-Brの結果ほど複雑ではないものの、Pt-Clでも振動成分が2モードあることを見出し、同様の理論で実験結果を再現することに成功した。また、時間発展の様子が違うことは、核波束が異なるリサージュ図形を描くことにより説明できるとしている。

 4-3節では、低温と室温におけるPt-Iの測定結果について述べている。発光の時間発展に振動構造が観測され、STEの振動数を2.8 THzと決定できた。この値は、過渡吸収や過渡反射測定から評価した値と異なるが、励起状態からの発光測定に基づく結果であるので、励起状態の核波束の振動数としてより妥当な値であると主張している。

 第5章で本研究のまとめを述べると共に、今後の課題を展望している。Pt-XのSTEの対称伸縮モードの周波数を、ハロゲンの種類を変えることによる系統的な発光測定によって決定した。対称伸縮モードの励起状態(STE)と基底状態の振動数を比べると、電子格子相互作用が弱いほど振動数の違いが小さい、すなわち、ハロゲンによるパイエルス歪みが大きいほど励起状態の振動数の減少が大きいことを示した。

 本研究で得られた一連の成果は、光物性物理学の新しい知見として高く評価できる。

 なお、本論文の主要部分は指導教員らとの共同研究であるが、実験の遂行とデータの解析のいずれにおいても論文提出者が主体となって行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。

 したがって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

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