学位論文要旨



No 122079
著者(漢字) 伊藤,弘毅
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヒロタケ
標題(和) GaAsおよびInGaAsP系単一量子細線の低温顕微発光分光
標題(洋) Microscopic photoluminescence spectroscopy of GaAs and InGaAsP single quantum wires at low temperature
報告番号 122079
報告番号 甲22079
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4942号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 島野,亮
 東京大学 助教授 酒井,広文
 東京大学 助教授 杉野,修
 東京大学 教授 柿崎,明人
 東京大学 助教授 黒田,寛人
内容要旨 要旨を表示する

 半導体量子細線は20年以上も前から1次元状態密度の発散に基づくレーザー性能の劇的な向上や1次元励起子(電子と正孔のCoulomb 相互作用による束縛状態)の結合エネルギーと振動子強度の極端な増大などの可能性が指摘されて興味が惹かれてきた。様々な作製法により多様な量子細線が実現されてきたものの、作製と試料評価上の困難がボトルネックとなり期待された性能向上や新奇物理の検証はまだ不十分である。本論文ではそれら1次元性の発現のための高品質な半導体量子細線の開発、即ち低温顕微発光分光を通じて量子細線系の電子状態を議論し、品質向上に資することを目的とする。特に品質と制御性に優れた2種類の量子細線を研究対象として選択し、発光測定を通じた評価・開発を行い、議論を展開するとともに今後のための指針を得た。曖昧さのない単一量子細線系を中心に測定を行った。

 本論文は4つの部から構成される。第I部には量子細線の歴史と研究の意義を記した。以下、その各々について要旨を述べる。

 第II部(第2、3章)には実験方法を記した。

 第2章においては低温実験を行うために不可欠な顕微クライオスタット装置について述べた。当該装置においては内部の汚染発生の問題が広く認識されており、研究に先立ち解決する必要があったが、残留気体解析により原因を特定し、改善策を示した。またS/N比良い測定のための改造について記した。

 第3章においては本論文で用いられた、発光(PL)及び発光励起(PLE)測定を行うための実験系についての技術的な事項についてまとめた。小型堅牢な顕微分光測定系を新たに開発することで、S/N比の良い効率的なPL評価とそのフィードバックによる高品質試料開発が可能となった。

 第III部(第4、5、6章)にはGaAs系T型量子細線について記した。

 第4章には作製法とこれまでの研究報告の詳細を記した。図1にT型量子細線(T-wire)の模式図を示した。これは分子線エピタキシ法によって2種類の量子井戸を交差させ交線部分に量子細線を形成させるもので、細線サイズは2つの量子井戸の厚みで特徴づけられる。柔軟なパラメータ制御と少ない構造揺らぎが特徴である。図2は過去報告された、14nm及び6nmの量子井戸から作られた14nm x 6nmと表される構造の5Kにおける偏光依存PLEスペクトル(光吸収スペクトルにほぼ対応)である。偏光依存性から、最も低エネルギー側の大きな吸収ピークの起源が量子細線中励起子の基底状態、10meV程度高エネルギー側の連続的な吸収の起源が連続状態(束縛を断ち切った状態)と同定され、結合エネルギーが13.5meVと見積もられた。さてCoulomb相互作用が強く効いた1 次元励起子は、結合エネルギーが大きく、吸収が基底状態で強い一方連続状態では弱く1次元状態密度の発散が見えない、という性質を持つ。14nm x 6nm構造では、結合エネルギーは量子井戸(〜12meV)と大差ないが、吸収の形状においてこの1次元性が観測されている。本研究ではさらに強い1次元性の実現を目指し、最も閉じ込めの強いAlAsバリアを持つ5nm x 5nm構造を設計した。

 第5章では実際の試料構造とPL測定を通じた開発過程について述べた。構造揺らぎの影響が1次元性の検証を妨げるため高品質試料の開発が必須であり、PL評価を通じて結晶成長条件と設計の最適化を行った。図3はPLスペクトルを示すが、本研究の試料、過去報告された同様な構造のT型量子細線及び量子井戸のものである。試料開発を通じ、量子井戸構造(図中Stem well)及び量子細線のPL半値全幅は1.0meVないし1.5meVと過去のものと比べて約1桁の先鋭化を達成した。これはこの構造の量子井戸単体としても過去に類を見ない細さであった。このT型量子細線について空間分解PL測定を行ったところ、mmオーダーに渡って1原子層揺らぎに対応するPLピークシフトすら見られない優れた一様性を観測した。また40meVもの大きさに至る閉じ込めエネルギーを系統的に観測できた。

 第6章ではその5nm x 5nm構造のPLEスペクトル測定結果について述べた。図4は異なるサイズのT型量子細線の5KにおけるPLEスペクトルを比較したものである。上が14nm x 6nmのもの(図2)、下が5nm x 5nmのもので、励起光の偏光の向きは等しい。5nm x 5nmのものについて、これまでは構造揺らぎに埋もれて観測が不可能であった励起子基底状態の吸収と連続状態の吸収を分離して観測することができたが、これは前章で述べた高品質試料開発によって初めて達成できたものである。図からわかるように、高エネルギー側の連続状態吸収に対する低エネルギー側の基底状態吸収は5nm x 5nm構造の方が大きく、吸収の観点で1次元性が増強したことがわかった。だが結合エネルギーは14nm x 6nm構造から殆ど増加していないことがわかった。また一連の測定を通じ、AlAsバリアは閉じ込めが強い一方で試料の歩留りを悪化させ、また系に局在状態の影響を与えることを発見した。特に後者は励起子の1次元性の議論にも影響を与えており、今後閉じ込めの強い量子細線作製のためにAlAs の材料科学的な理解と制御が不可欠であることがわかった。

 第IV部(第7、8、9、10章)にはInGaAsP系ドライエッチングと埋め込み再成長法による量子細線について記した。

 第7章に開発指針と試料の作製方法を記した。図5 に量子細線試料の断面模式図を示した。これは有機金属気相成長法による量子薄膜構造を制御性の高いドライエッチング術によって切り出すことで作製され、細線幅は電子線リソグラフィ工程でほぼ自由に決められる。制御性に富むが、エッチング界面の揺らぎや損傷が性能上のボトルネックとなっており、これに阻まれ1次元性の検証が不十分であった。克服のためには曖昧さの無い単一量子細線系のPL測定とそのフィードバックが不可欠と考え、これを目指した。

 第8章では多重量子細線のPLスペクトル測定結果について述べた。単一量子細線のPL測定報告はまだ無いが、これは実験的な困難によるものである。そこで本研究ではまず発光量の大きい多重量子細線の測定を通じ、材料系や測定系への理解に努めた。幅47nmから24nmまでの量子細線の測定を行い、横方向量子閉じ込めや光閉じ込め層(OCL)の発光を観測した。PL評価を通じ、単一細線作製にあたっては薄膜構造からの再設計が必要であることがわかった。

 第9章ではメタルマスクとしてCrを用いた単一量子細線のPLスペクトル測定結果について述べた。試料はPlumwongrotらが開発に成功したメタルリフトオフプロセスによって作製された。幅12nm程度の単一細線の存在があらかじめ走査型電子顕微鏡(SEM)により確かめられていたが、筆者らはこれのPL測定に初めて成功した。細線幅に応じた横方向量子化エネルギーシフトを観測できたが、空間的な一様性には進歩の余地を残していることがわかった。

 第10章ではTiマスクを用いて作製された単一量子細線のPLスペクトル測定結果について述べた。Crマスク細線から得られた知見を適用し作製方法が改善された。20本の単一細線が作製され、その幅WがSEMにより評価されたが、39nmから6nmの細きに至るまでの幅が系統的に作製できたことがわかった。これらのPL空間分解測定を行ったところ、空間的な一様性に劇的な向上が見られた。図6は異なる細線幅WのPLスペクトルを規格化して並べたものである。一番上が最も幅が細く、下方ほど太くなり、一番下に量子薄膜構造のスペクトルを示した。系統的なエネルギーシフトが複数のピークに対して観測されたが、うち量子薄膜に収束する様子を見せる図中P2のピークの起源を量子細線内の基底サブバンド同士の再結合と同定した。これはPlumwongrotらによる数値計算と良く一致した。このシフト量が横方向量子化エネルギーであるが、その大きさは6nm細線について90meV以上に達した。図7に量子細線のPL半値全幅とエッチング界面の揺らぎの関係について示した。これは、PL幅の要因の分解と各々の定量評価のために行った。(a)にPL半値全幅の実測値(図中黒丸)と解析結果(白ヌキ図形)を量子細線幅についてプロットし、(b)にはP2のピーク位置をプロットした。(b)からわかるようにP2のエネルギーは細線幅Wに依存するため、これの微分にWの揺らぎ量を掛けることで不均一拡がりが与えられる。これに基づきPL半値全幅を見積ったのが(a)の白ヌキ図形である。ここでの対応からPL幅における不均一拡がりの寄与を見積もることができたが、それは2nm以下程度のW揺らぎに対応するものであった。不均一拡がりの存在は昔から問題視されてきたが、本研究ではそれに加えて同程度の拡がりがTiマスクを通じて導入されていることも明らかになった。図8は量子細線のPL強度のW依存性を示す。PL強度は概ねWの自乗に従って減少しているが、これにはWに比例した励起断面積の寄与があるため、それを考慮してPL量子効率が概ねW に比例することがわかった。この振舞を以下のように理解した:エッチング界面には損傷などで非発光センタが生じるが、その界面におけるキャリアの存在確率はWが細くなるほど高くなるため、PL量子効率も悪化する。

 得られた知見を基に、今後の高品質量子細線のための試料設計や作製方法ついて提案を行った。各章で考察及びまとめを行ったが、第11章に改めてそれらをまとめた。

図1 T型量子細線構造の模式図

図2 14nm x 6nm T型量子細線の偏光依存発光励起スペクトル

図3 5nm x 5nm T型量子細線の発光幅の尖鋭化

図4 14nm x 6nm及び5nm x 5nm T型量子細線の発光励起スペクトルの比較

図5 ドライエッチングと埋め込み再成長法による量子細線の断面模式図

図6 様々な幅を持つTiマスク単一量子細線の4Kにおける発光スペクトル

図7 量子細線の発光半値全幅とエッチング界面の揺らぎの関係

図8 量子細線の発光強度

審査要旨 要旨を表示する

 半導体量子細線は、1次元状態密度の先鋭化に伴うレーザー発振閾値の低減や、励起子束縛エネルギーの増大など、1次元系特有の光学応答が期待される物質である。しかし、量子細線は体積が小さく界面の不均一性の影響を強く受けるため、1次元系の特徴を発現する高品質試料の作製は一般に困難であった。近年、極めて高品質の量子細線が作製され漸く期待された1次元系の特異な応答が観測されるに至ったが、研究はごく一部の量子細線構造に限定されている。異なる構造の量子細線の作製がボトルネックとなっており、励起子束縛エネルギーの増大についても系統的な評価は欠如している。高品質の量子細線の実現には、光学的手法による試料評価と試料作製とを密接に連携して進めることが必須である。本研究では、低温顕微発光分光法を試料作製技術の向上へ還元できるレベルにまで高め、高品質の量子細線構造の実現とその1次元電子構造の解明に挑んでいる。

 全11章からなる本論文は、大別して作製法の異なる二つの量子細線系、すなわちGaAs系T型量子細線とInGaAsP系ドライエッチング量子細線についての研究からなる。第1章では半導体量子細線に関する研究の歴史に始まり、それぞれの量子細線系に関する研究背景の概説、上述した本研究の目的が記されている。続いて、実験手法として顕微クライオスタットの改善について第2章に、小型堅牢な低温顕微分光系の開発が第3章に記されている。同測定系により、単一量子細線からの極微弱な発光を高感度に検出し、かつ効率よく膨大な数のスペクトル計測を行うことが可能となり、試料作製への密接な相互連携が可能となった。

 第4章から第6章では、GaAs系T型量子細線について述べられている。まず第4章で、へき開再成長法によるT型量子細線の作製法が記され、過去の高品質14 nm×6 nm幅の量子細線の研究の総括がなされた。量子細線の励起子束縛エネルギーが量子井戸のそれと大きく違わなかったことから、本研究では1次元性を顕在化するためにより細い5 nm×5 nm量子細線を作製することを主眼としている。第5章にその作製に至る過程が記述されている。第一成長基板へのヒーリング層の導入効果や成長条件の違いについての系統的な顕微分光測定を通じて、高品質な量子細線の作製に到達した。量子井戸層の空間分解発光測定から、10 mmというマクロなサイズで数原子層(〜1 nm)の勾配しかもたない極めて平坦な界面を実現したことが示された。第6章でこの高品質5 nm×5 nmの量子細線の発光励起スペクトルが測定されている。不均一拡がりを大幅に除去し、5 nm×5 nmの量子細線で初めて励起子吸収と連続帯吸収を分離して観測することに成功した。14 nm×6 nmの場合と比較して、閉じ込めエネルギーの増大が確認されたが、励起子束縛エネルギーはほぼ変わらないという結果が得られた。5 nm×5 nm量子細線は励起子束縛エネルギーの増大が過去の実験から報告されており、数値計算による予測と隔たりがあったが、本研究では数値計算を支持する結果となった。

 第7章から第10章は、InGaAsP系ドライエッチング量子細線の研究について述べている。ドライエッチング法は構造制御性に優れるという利点を持つ反面、エッチング界面の揺らぎや損傷のため、1次元性の検証も不十分であった。ここでも、本研究による精緻な顕微測定による試料評価を試料作製へと還元する手法が威力を発揮した。第7章ではドライエッチング量子細線研究の背景、作製工程の詳細が述べられている。第8章では、まず多重量子細線の発光スペクトルが測定され、第一成長基板の改善の必要性が指摘された。第9章では多重量子細線の測定で得られた知見から、Crをマスクとする単一量子細線が作製された。細線幅の制御性が悪いこと、構造不均一性が大きいことを見出し、さらにその要因が厚いCrのマスク構造にあることを示した。この結果、研究は第10章に示されるTiマスクによる細線作製へと展開する。比較的薄いTiマスクを用いることで、エッチングの制御性を向上し、ドライエッチング単一量子細線で初めて、1次元電子状態に起因する発光線を見出した。数値計算との比較から量子細線の基底サブバンドからの発光が同定された。

 以上、本研究では、精密な顕微測定と試料作製への密接な相互連携に立脚して、従来にない高品質の半導体量子細線試料を実現している。その結果、特異な光物性を発現する1次元電子系の物理学を定量的に議論することを可能にしており、基礎物理学への貢献が認められる。

 尚、本論文の主要部分は指導教員らとの共同研究として学術雑誌に公表予定であるが、論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。したがって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

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