学位論文要旨



No 122091
著者(漢字) 小森,陽介
著者(英字)
著者(カナ) コモリ,ヨウスケ
標題(和) 量子ホール系における熱輸送現象の観測
標題(洋) Observation of the thermal transport in quantum Hall systems
報告番号 122091
報告番号 甲22091
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4954号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樽茶,清悟
 東京大学 助教授 黒田,寛人
 東京大学 助教授 久保田,実
 東京大学 教授 勝本,信吾
 東京大学 教授 福山,寛
内容要旨 要旨を表示する

 近年における半導体成長技術および微細加工技術の著しい発達によって、半導体界面二次元電子系を舞台とした量子現象の研究はますます盛んになっている。その成果の一つとして、低温強磁場の二次元電子系で観測される量子ホール効果が挙げられる。量子ホール効果は、二次元電子系が強磁場下で示す特殊な量子状態(ランダウ量子化)として理解されており、このときのホール抵抗は基礎物理定数のみで表される量子化された普遍的な値をとる。量子化ホール抵抗は微細構造定数の高精度決定に用いられるだけでなく、抵抗標準の定義としても採用されている。また、量子ホール効果の研究によって強磁場における電子の局在状態の理解が発展するなど、実験・理論の両面から固体物理学の飛躍的な発展に寄与した。

 量子ホール状態にある試料に大電流を流すと、量子ホール効果のブレークダウンが生じて電子温度が上昇した状態になる。量子ホール抵抗の高精度測定には大電流が必要なので、ブレークダウンを生じる機構の解明は重要である。大電流状態における電子温度の空間分布を測定することで、ブレークダウン状態の解明に寄与すると期待できる。ブレークダウン状態における電子温度の空間分布は、電流の流れる方向については報告されているが、電流と直交する方向については明らかになっていない。電流と直交する方向に電子温度差が生じる現象をEttingshausen効果という。本研究は量子ホール系におけるEttingshausen効果の観測を目的とする。Ettingshausen効果の観測によって、十分に解明されていない量子ホール状態における熱輸送現象について知見を与えることができる期待できる。本研究は、量子ホール状態におけるEttingshausen効果の観測を、局所電子温度計となるミニホールバーを用いた検出、および電子スピン流となる熱流に伴って生じる核スピン偏極の検出という2種類の方法を用いて行った。

 本研究では、Ettingshausen効果の観測を行う準備として、電子温度変化によって核スピン偏極を引き起こすことができることを示した。核スピンの制御は、量子計算への応用という観点からも重要である。量子ホール状態においてこれまでに報告されている核スピン偏極は、電子スピン共鳴を用いたもの、スピン分離したエッジチャネル間の散乱を用いたもの、スピン偏極状態の異なる分数量子ホール効果の共存状態を用いたものなどがあった。本研究で報告する電子温度変化による核スピン偏極は、核スピン偏極を引き起こす試料構造の単純性、液体ヘリウム温度の4.2Kという高温でも観測可能などの点で、これまでに報告された方法に比べて優れている。

1. ミニホールバーを用いたEttingshausen効果の観測

 本測定は、ミニホールバーの対角抵抗を電子温度計として用いた測定を行った。

 測定を行うチャネルに電流を流すことで、Ettingshausen効果によって電流と直交する方向に電子温度差が生じることが期待される。このチャネルの上下に、電子温度計としてミニホールバーを取り付けた。チャネルの熱電子をミニホールバーに引き込んで微分対角抵抗を測定することで、チャネルの両端に生じる電子温度差の有無を観測できる。

 Ettingshausen効果の観測を、電子の軌道運動に対応するランダウ準位充填率ν=2で行った。図1に測定結果を示す。上下のミニホールバーの微分対角抵抗に差が生じており、電流の流れるチャネル上下の電子温度差が観測されている。同様の結果は、電子のゼーマン分離に対応するν=1、およびν=2の近傍でも観測された。

2. 電子温度変化を用いた核スピン偏極

 図2に核スピン偏極の原理の概念図を示す。電子の化学ポテンシャルが電子のゼーマン準位間に存在しているとき、電子スピンの偏極率は電子温度によって決まる。電子温度変化によって電子スピンが反転するため、超微細相互作用によって核スピンを偏極させることができる。電子温度の変化には、電子温度の電流密度依存性を用いた。図3に核スピン偏極の概念図を示す。試料幅の変化によって電流密度が変化するので、図のように電流を流すことで電子温度の変化による電子スピン反転を生じ、核スピンを偏極させることができる。この状態を長時間保ってから電流を切った後に、微小電流によって対角抵抗を測定すると、対角抵抗の指数関数的な時間変化を観測した。図4に実験結果を示す。対角抵抗が平衡状態における値から変化しており、この対角抵抗の変化量は時間と共に指数関数的に減衰する。核磁気共鳴によって、この対角抵抗の変化が核スピン偏極によって生じたことを確認した。対角抵抗の時間減衰は核スピンの縦緩和によって生じたものであり、その系統的測定から核スピンの縦緩和はフォノン機構が支配的であることを示唆する結果を得た。また、対角抵抗変化量の核スピンの偏極に用いる電流に対する依存性から、核スピン偏極の大きさが励起された電子の数の変化で決まることを示す結果を得た。

3. 核スピン偏極を用いたEttingshausen効果の観測

 Ettingshausen効果によって電流チャネルを横切る方向に熱流が流れる場合には、チャネル端において大きく電子温度が変化し、それにより核スピン偏極が起こることが期待される。このチャネル端の核スピン偏極を検出することによってEttingshausen効果を観測した。チャネル端の核スピン偏極に敏感な測定量として、エッジチャネルとバルク領域の間のトンネリングが挙げられる。ランダウ準位充填率を奇数の整数値から増やしていくと、ダウンスピンのランダウ準位に電子が入りだし、エッジチャネルに加えて試料のバルク部分も電気伝導に寄与するようになる。このような量子ホール状態間の遷移領域では、エッジ・バルク間トンネリング確率が後方散乱を支配する状態を作り出すことができる。チャネル端の核スピン偏極で生じる有効磁場によって電子のゼーマンエネルギーは変化するので、エッジチャネルとバルク領域の間のトンネリング確率も変化する。後方散乱によって対角抵抗が変化するので、チャネル端近傍の核スピン偏極を対角抵抗の変化として観測することができる。

 Ettingshausen効果で生じる核スピン偏極による対角抵抗変化量のランダウ準位充填率依存性を測定した。図5に実験結果を示す。ランダウ準位充填率によって核スピン偏極の極性が反転するが、熱流の極性はランダウ準位充填率に依存せず、化学ポテンシャルの高い側のチャネル端から低い側のチャネル端に流れることがわかった。核スピン偏極の極性が反転するのは、熱流を担うエネルギーの高い準位の電子スピンがランダウ準位充填率によって変化するためと考えている。

図1 ミニホールバーを用いたEttingshause効果の観測

図2 電子温度変化と核スピン偏極

図3 電流密度変化による電子温度変化

図4 電子温度変化によって生じる核スピン偏極の検出

図5 Ettingshausen効果によって生じた核スピン偏極のランダウ率位充填率依存性

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、第1章では本研究でとりあげる整数量子ホール効果のブレークダウンと、その要因とされる電子温度分布発生(Ettingshausen効果)が説明されている。Ettingshausen効果は「電子チャネルに直交する方向の電子温度差の発生」を指すが、実験の難しさから、その物理は未だ明らかではない。本研究では、この電子温度差の検出のために、ミニホールバーを利用する方法と核スピン偏極を利用する方法を独自に提案、実証している。とくに、電子温度の空間変化によって核スピン偏極が起こるという現象を見出し、それを電子温度差のプローブに利用する、という研究のシナリオが簡潔に説明されている。

 第2章は試料作製と測定の章で、GaAs/AlGaAsヘテロ構造を用いたホールバー型の試料作成と4He低温装置による抵抗測定の方法が説明されている。

 第3-5章は、本論文の中核をなす章で、それぞれ、ミニホールバーによる温度差の観測、電子温度差による核スピン偏極の発生、核スピン偏極を利用したEttingshausen効果の観測が述べられている。第3章では、主電子チャネルの上下に取り付けた小さいホールバー(ミニホールバー)の微分対角抵抗とブレークダウン電流(主電子チャネル)の関係が述べられている。実験では、上下いずれか一方のミニホールバーでのみ抵抗の上昇が観測され、これによって、化学ポテンシャルが高い方の主電子チャネル端で電子温度が高いことが確認されている。また、ミニホールバーと主チャネルの距離に依存して電子温度の変わる様子が観測され、その結果から、熱電子の緩和長の上限が見積もられている。以上は、主電子チャネル両端における電子温度差の存在を明瞭に確認した実験である。

 第4章では、「電子の化学ポテンシャルがゼーマンエネルギー準位の間にあるとき、電子温度を局所的に変えると、フリップフロップ相互作用を介して、電子スピン偏極の平衡状態への移行と核スピン偏極が起こる」という独自のアイデアに基づく実験が紹介されている。チャネル幅の変化した試料について、定電流をオフにした直後の対角抵抗が指数関数的に減衰する様子を観測し、それが幅変化部分における電子温度の上昇(または低下)に伴う核スピン偏極に起因することが推論されている。その妥当性は核磁気共鳴法によって確認されている。さらに、抵抗変化分の解析から核スピン偏極率が25%程度であること、対角抵抗の減衰時定数の温度変化から核スピン緩和にはフォノン機構が支配的であることが指摘されている。以上の結果により、核スピン偏極をプローブとして電子温度の変化を敏感に検出できることが確認されている。

 第5章は本論文で最も重要な章で、電子チャネルを横切る方向に熱流が流れることを検出した結果の詳細が述べられている。実験では、一方のチャネル端で熱流が流れ易くした試料を用いて対角抵抗を測定し、「熱流によって発生する電子温度の変化は主チャネルの端で起こる。」という予測に沿って、同端での核スピン偏極の増大(電子温度の上昇に対応)が観測されている。第4章の結果から構築したシナリオに沿った優れた実験である。さらに、ランダウ準位充填率と核スピン偏極の測定結果から、熱流は充填率に依らず化学ポテンシャルの高い側から低い側のチャネル端に向かって流れること、一方、電子スピン流は充填率によって変化し、占有最上位のスピンが化学ポテンシャルの低い側に向かって流れることが結論されている。熱流とスピン流の向きを識別した初めての実験である。これらの結果は、電子温度や拡散係数、核スピン偏極率といった定量性には欠けるものの、定性的には明瞭な実験で裏付けられており、信頼性が高い。Ettingshausen効果の物理解明のための重要な資料となるであろう。

 第6章では研究結果が簡潔にまとめられている。

 以上、各章を紹介しながら本論文の物理学への貢献点を解説した。本研究は、試料構造や測定法に独自のアイデアを盛り込むことによって、量子ホール効果状態のブレークダウンに関係する電子温度の局所的な変化、及び、熱流とスピン流の発生を解明しようとするもので、独自性が高く、得られた結果も当該分野に対して学術的に優れた寄与をしている。これをまとめた本論文は、学位論文として十分な水準にあることが審査員全員によって認められ、博士論文として合格であると判定された。なお、本論文の内容は、Phys.Rev.Bに掲載されているほか、Appl.Phys.Lett.に掲載が予定されている。これらの業績は第一著者である論文提出者が主体となって実験、結果の解釈を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断される。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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