学位論文要旨



No 122094
著者(漢字) 酒井,志朗
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,シロウ
標題(和) Hund結合をもつ多軌道強相関電子系の理論的研究
標題(洋) Theoretical study of multi-orbital correlated electron systems with Hund's Coupling
報告番号 122094
報告番号 甲22094
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4957号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,岳生
 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 今田,正俊
 東京大学 助教授 常行,真司
 東京大学 助教授 溝川,貴司
内容要旨 要旨を表示する

 遷移金属及びその化合物は金属-絶縁体転移、強磁性、異方的超伝導など多彩な物理現象を示す。これらの現象は主に遷移金属のd電子が担っており、互いに相互作用しながら結晶中を遍歴する多電子系の問題として長い歴史をもち、物性物理学の中心的興味の一つとなってきた。この相関電子系についての従来の多くの研究では、電子は電荷とスピンの2つの自由度をもったFermi粒子として扱われてきた。しかし、最近、電荷・スピンに加え、d電子の軌道角運動量の自由度の重要性が多くの実験的・理論的研究から指摘されている。

 本学位論文では、軌道自由度を考慮したd電子系の模型として多軌道Hubbard模型を採用し、そこでの電子相関効果を非摂動的に取り入れる計算手法を開発した。そして、その方法を多軌道模型における金属強磁性の問題、及び3軌道系の典型例であるSr2RuO4の電子状態密度計算に応用し、軌道自由度の効果、特にHund結合の効果について明らかにした。

 多軌道Hubbard模型は、各原子における電子間相互作用として、同一軌道にいる2電子間Coulomb相互作用U、異なる軌道にいる2電子間Coulomb相互作用U0、Hund結合J、及びペアホッピング相互作用Jをもち(Fig.1)、次のようなHamiltonianで記述される:

ここで、cimσ(c†(imσ))は、格子点iの軌道mにいるスピンσを持った電子の消滅(生成)演算子、H0は、電子の飛び移りを表す一体の項、H(int)は相互作用項であり、電子密度(n)間相互作用で記述される部分(HU)と、そうではない部分(HJ)から成る。

 Hund結合Jは異なる軌道間のスピンを揃える方向に働くため、強磁性をはじめ多くの物性において興味深い働きを示す。しかし、Hund結合のスピンの横成分及びペアホッピング項からなるHJは、理論的取り扱いが難しく、1次元2軌道模型の厳密対角化などの限られた場合でしか調べられてこられず、Tcも求められてこなかった。

 近年、相関効果の空間揺らぎを無視する代わりに時間揺らぎを完全に取り入れることができる動的平均場理論(DMFT)[1]が提案され、Mott転移を記述することなどから、強相関電子系に有用な非摂動的手法として、様々な模型に応用がなされている。多軌道系もDMFTによって調べられ、Mott転移におけるHund結合の役割などについて多くの知見が得られている。しかし、それらの研究の多くでは、多軌道模型(1)の相互作用項のうち、HUは取り入れるもののHJは無視されている(すなわち、Hund結合がIsing型に置き換えられている)。これは、主にDMFTの1サイト問題を解く標準的な方法論であるHirsch-Fye量子Monte Carlo(QMC)法が、HJを扱い難いためである。そのため、HJも取り入れたスピン及び軌道に関して回転対称なHamiltonian(1)は、2軌道系の基底状態に対するDMFT+厳密対角化計算を除いて、ほとんど調べられてこなかった。本著者は以前、Hirsch-Fye QMC法にHJを取り入れる新しい方法を提案し[2]、その方法は、軌道自由度について反対称な超伝導の可能性[2]、軌道選択型Mott転移の存在[3,4]などについて一定の成果をあげたが、あまり低温を調べられない、3軌道以上に拡張できないなどの困難があった。

 そこで、本論文では、従来のTrotter分解に基づくHirsch-Fye QMC法と異なり、級数展開を出発点とする新しいQMC法を提案し、それを多軌道DMFTへ応用した。特に、HJの項について級数展開(結果として無限次まで取り入れる)を行い、HUについてはTrotter分解を行う(Fig.2)という工夫により、多軌道Hubbard 模型(1)をHirsch-Fye QMC法[2]に比べ格段に低温まで調べることを可能にし(Fig.3)、また、3軌道系への拡張を可能にした[5]。

 この強力な方法を用いて、まず金属強磁性における軌道自由度の役割について調べた。Hund 結合が重要となる例として、2軌道1/4フィリング(サイトあたりの電子数n=1)の場合の、軌道秩序を伴った絶縁体の強磁性がよく知られているが、我々は、特に遷移金属・遷移金属酸化物等で現れる金属強磁性に注目した。これらの物質の金属強磁性については、主に、結晶の格子構造が重要であるという単一軌道Hubbard模型に基づく指摘と、Hund 結合が重要であるという1次元2軌道系の厳密対角化計算に基づく指摘がなされてきたが、そのどちらか、または両方が本質であるのか否か、は未解決の問題であった。

 まず我々は、従来のIsing型のHund 結合(HJを無視)の場合と、SU(2)対称な場合で帯磁率の比較を行い、Ising型の取り扱いが帯磁率を過大評価していることを示した[Fig.4(a)]。その上で、SU(2)対称なHund 結合を用いて、単純立方格子とfcc格子についてHund結合を入れた場合と入れない場合に対して、Curie温度を比較した。その結果は、格子構造とHund結合の両方が遷移金属系の金属強磁性に本質的に効いていることを示す。Fig.4(b)は、fcc格子(有効バンド幅Weff=4)において、U=4とし、

(i)単一軌道の場合(多軌道でU'=J=0)の場合、(ii)多軌道でU'=U=4,J=0の場合、(iii)多軌道でU'=3,J=0.5の場合の帯磁率(の逆数)を比較した結果である。この結果は、軌道間の相互作用U';JがCurie 温度の決定に本質的に重要な役割を果たしていることを示す。これは、低電子密度で良いT行列近似を用いた金森理論を用いてJの役割は小さいと結論された、従来の認識とは異なる新しい結果である。

 次に、我々は、上記の(Hirsch-Fye+級数展開)QMC 法が、現実的な3軌道に適用できることを示すために、t2g電子の3軌道系であり、スピントリプレット超伝導など興味深い性質を示すSr2RuO4について、LDA+DMFT計算を行った。その結果、Hund結合を従来のIsing型で扱った場合と、スピンSU(2)対称性を我々の方法で取り入れた場合とで、一電子状態密度は大きく異なり、特に中間結合領域[(U;J)=(2.4eV,0.4eV)]において、Fig.5のように定性的にも異なる結果を得た。この違いは、SU(2)では近藤共鳴状態が実現しているのに対し、Isingではそうなっていないためであると考えられる。

 近年、LDA+DMFT法などによって、多軌道DMFTは様々な物質の第一原理計算に応用され、光電子分光等の実験結果と比較がなされている。その多くの研究では強相関効果を取り入れるためにHirsch-Fye QMC法を用いているが、そのとき、Hund結合はIsing型で扱われている。我々の結果は、Hund結合のスピン回転対称性を取り入れることが、LDA+DMFT法によるスペクトル計算にとっても極めて重要であることを示しており、将来の第一原理計算や物質設計における一つの方法を示唆すると思われる。

[1] A. Georges, G. Kotliar, W. Krauth, and M.J. Rozenberg, Rev. Mod. Phys. 68, 13(1996).[2] S. Sakai, R. Arita, and H. Aoki, Phys. Rev. B 70, 172504 (2004).[3] R. Arita and K. Held, Phys. Rev. B 72, 201102(R) (2005).[4] A. Koga, N. Kawakami, T. M. Rice, and M. Sigrist, Phys. Rev. B 72, 045128 (2005).[5] S. Sakai, R. Arita, K. Held, and H. Aoki, Phys. Rev. B 74, 155102 (2006).

Figure1:多軌道系のCoulomb相互作用。

Figure2:(Hirsch-Fye+級数展開)QMC法.

Figure3: 計算可能領域(斜線):Hirsch-Fye QMC法を2軌道に拡張した場合[2]と(Hirsch-Fye+級数展開)QMC法の比較。

Figure4: 帯磁率の逆数の温度変化:(a)Hund結合をIsing型で扱った場合とSU(2)対称な場合の比較。(b)fcc格子においてSU(2)対称な軌道間相互作用を順次入れていった場合の変化。

Figure5: Sr2RuO4のLDA+DMFT計算による状態密度:Hund結合をIsing型で扱った場合(右)とSU(2)対称な場合(左)の比較。(U;J)=(2.4eV,0.4eV).

審査要旨 要旨を表示する

 遷移金属酸化物では幅の狭いd電子軌道由来のバンドが極めて重要な役割を果たすことがよく知られている。d電子間のクーロン相互作用の影響により、これらの物質群では多彩な現象が生じる。このとき電子間のクーロン相互作用だけでなくd電子の軌道自由度も物性に大きく影響していると一般に考えられているが、d電子の軌道自由度まで取り込んだ理論計算は困難であり現在も残された重要な問題となっている。修士(理学)酒井志朗提出の学位請求論文では、この問題に動的平均場近似の手法を用いた数値計算によるアプローチが試みられた。この近似計算の範囲で、新しい数値計算手法開発が行われ、現実の物質群に対応する数値計算が行われた結果、以下で述べるいくつかの重要な知見が得られた。

 本論文は英文で7章からなる。まず第1章では強相関電子系の諸現象が紹介された後、軌道自由度が重要となるその典型物質としてルテニウム酸化物が取り上げられ、実験結果が詳しく述べられた。引き続く第2章では軌道電子間に働く有効ハミルトニアンの導出が行われた。電子スピンのSU(2)対称性を正しく再現するためには、フント結合項のうちイジング項と呼ばれる対角項と、スピンフリップやペアホッピングを表す非対角項の両方を取り入れる必要があることが強調された。第3章では強相関電子系を取り扱う理論手法として、動的平均場理論の解説が行われた。

 第4章では、多軌道ハバード模型に対する動的平均場計算の有力な手法として、新しいモンテカルロ法が導入された。まず模型のフント項の部分について形式的に級数展開を行い、ハミルトニアンの項同士の非可換性を取り除いた上で、フント結合項と電子間相互作用項にストラトノビッチ-ハバード変換を施して2つの補助場が導入された。級数部分は級数展開モンテカルロ法、補助場に対しては補助場モンテカルロ法を用いることで、効率のよいモンテカルロサンプリングが得られることが明らかにされた。この新しい方法では、通常のモンテカルロ法では到達できない低温領域の計算が可能となる点が注目される。

 第5章では前章で導入したモンテカルロ手法を用いて、二軌道ハバード模型の動的平均場による解析が行われた。本論文では(1)格子構造および(2)フント結合の強さの視点からこの模型を調べることで、強磁性状態が実現されるために必要とされる条件が議論された。(1)の格子構造については、特に低電子密度領域での近似計算によって、フェルミ面近くの状態密度の増大が強磁性の安定化に寄与する、という主張が行われてきた。一方、(2)のフント結合由来の強磁性についても、主に動的平均場近似による研究が行われ、広いパラメータ領域で強磁性が安定化することがすでに議論されている。本論文では、フィリングが0.75から1.5の比較的高電子密度領域で、上記の二つの条件のいずれかが欠けても強磁性状態が安定化されないことを初めて見いだした。同時に強磁性状態はフント結合の対角項と非対角項の間の微妙なエネルギーバランスの上に成り立っていることを初めて明らかにした。これらの知見は、Niなどの現実の強磁性物質を理解する上で大変有用であり、興味深い。またバンド計算と併用した今後の理論展開も期待させる。

 第6章ではSr2RuO4に対する密度汎関数法(LDA法)によるバンド計算に動的平均場近似を取り込む研究が行われた。まずLDA計算からt(2g)軌道起源の3つのバンド構造を抜き出して、二次元の有効模型を構成した。本論文では相互作用をパラメータとし、電子間クーロン相互作用とフント結合の強さを変えていきながら動的平均場近似の計算を行った結果、LDA計算のみを行った場合と大きく異なる状態密度が得られた。この計算結果は、少なくとも定性的には実験結果をよく説明する。またSU(2)対称性を保つ模型では、すべての軌道で近藤共鳴ピークが発達しやすいことも明らかにされた。この計算はSU(2)対称性を保持したまま軌道自由度をLDA+動的平均場で行った初めての計算例となっており、貴重な結果と判断される。

 以上、各章の紹介と共に本論文で得られた物理学上の知見を解説した。本論文は多軌道ハバードモデルを中心として数値計算の改良と物質群を想定した応用計算とが有機的に連携した仕事となっており、基礎物理学への十分な貢献が認められる。従って審査員全員が学位論文として十分なレベルにあり、博士(理学)の学位を授与できると判断した。なお、本論文の大部分はPhysical Review B誌とPhysica B誌などに青木秀夫氏・有田亮太郎氏・Kersten Held氏らとの共著としてすでに出版が行われている。これらの論文では、第一著者である論文提出者が主体となって計算および結果の解釈を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断される。またこの件に関して、青木氏、有田氏、Held氏の同意承諾書が提出されている。

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