学位論文要旨



No 122095
著者(漢字) 佐久間,怜
著者(英字)
著者(カナ) サクマ,レイ
標題(和) YH3の圧力誘起絶縁体金属転移 : 第一原理研究
標題(洋) Pressure-Induced Insulator-Metal Transition in YH3 : First-Principles Study
報告番号 122095
報告番号 甲22095
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4958号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 杉野,修
 東京大学 教授 西山,樟生
 東京大学 教授 柿崎,明人
 東京大学 教授 高田,康民
 東京大学 教授 青木,秀夫
内容要旨 要旨を表示する

1 研究の背景

1.1 希土類水素化物の性質

YHxやLaHxに代表される希土類水素化物は水素濃度を変化させることにより光学的性質の劇的な変化を伴う金属絶縁体転移を起こすことがHuibertsらにより発見された。これらの水素化物はx〓2では金属であり、可視光を反射するが、x=3近傍で可逆的に絶縁体へと転移し、光学ギャップが開き透明となる。この性質は全く新しい光学デバイスなどへの応用が期待でき、"switchable mirrors"として注目を集めている。

 これらの水素化物の中でYH3は理論実験とも多くの研究が行われているが、その絶縁機構についての理論的解釈にはいまだに論争がある。現在固体の一電子バンド計算に標準的に使われている局所密度近似(Local Density Approximation, LDA)のもとでの密度汎関数法(Density Functional Theory, DFT)による計算では、YH3はバンドオーバーラップにより金属となり、実験事実と反する。そのため絶縁機構の解釈をめぐってさまざまな説が出されているが、LDA は半導体のバンドギャップを過小評価することはよく知られた事実であり、バンドギャップの定量的な計算に使われる手法であるGW近似などによる計算ではギャップが開くことが示された。そのため、YH3は一般的な半導体と同様、バンド理論で記述できると考えられる。

1.2 YH3の高圧実験

 水素機構による高温超伝導体の発現を目指し、希土類金属水素化物の高圧実験が行われている。YH3は10GPa 近傍で六方格子からfcc格子へと構造相転移することがいくつかのグループにより報告され、また近年Ohmuraらの高圧赤外透過スペクトルの実験ではじめてYH3の金属化が報告された。彼らの実験では、まず約12GPa で六方格子からfcc格子への構造相転移が観測され、さらに圧力を加えていくと、23GPa近傍で赤外透過スペクトルが突然不連続にゼロとなり、サンプルが金属化したことが示唆される。この金属化の前後でYH3 中のイットリウム原子はfcc格子を保ったままであるため、この金属化の解釈として彼らは水素原子の変位による構造変化が原因であると推測しているが、高圧下での水素位置を実験的に観測するのは困難であるためまだ結論は出ていない。

2 研究の目的

 本研究では、Ohmuraらの実験で観測された圧力誘起絶縁体金属転移の理論的解釈を目標とし、高圧下YH3の第一原理電子状態計算を行った。具体的には、

・密度汎関数法を用いた高圧下YH3の水素位置の決定

・GW近似を用いたYH3のバンドギャップの圧力変化の計算を行い、さらに現在の計算手法の欠点を改善すべく、

・波動関数法に基づく新しい計算手法の開発と、YH3への応用を行った。

3 水素位置の決定

 YH3の高圧fcc相での水素位置を決定すべく、LDAおよび一般化勾配近似(Generalized Gradient Approximation, GGA)による計算を行った。fcc相で水素位置の最適化を行ったところ、水素は通常期待される安定位置である格子間サイト(八面体サイトと四面体サイト)にとどまり、体積を減少させてもそこからの変位は見られなかった。Ohmuraらは赤外透過が不連続に消失したことから、高圧下で水素位置の変位が起きたと予想したが、今回の結果はそのような水素変位を否定するものである。

4 バンドギャップの圧力変化

 高圧下での金属化を理論的に確かめるべく、GW近似を用いた準粒子スペクトルの計算を行った。通常のGW近似はグリーン関数の計算にLDAで得られたBloch軌道とエネルギーを用いるため、YH3のようにLDA計算では誤って金属と予言されるような系においてはその妥当性に疑問がもたれる。そこで本研究では、近年開発されたLDAによらないセルフコンシステントなGWスキームであるQuasiparticle self-consistent GW(QSGW)法を用いた計算を行った。その結果ギャップは体積とともに単調に減少し、約34Å3で金属化した。これは実験値30Å3とよい一致を示している。注目すべきこととして、金属転移近傍の体積では、QSGW法は金属相と絶縁体相の2つの解を与えることがわかった(図1)。しかしこの結果が物理的意味を持つかについてはさらなる調査が必要である。実験で観測された突然の金属転移の説明としては、(i)Γ点の直接遷移が禁制であるため、バンドギャップに対応するエネルギー付近での吸収が見えていない可能性(ii)QSGW法で2つの解があることから、「電子的一次転移」の可能性(iii)計算で考慮していない水素欠陥の効果などが考えられるが、現在一般に用いられている計算手法では限界があり、現在では原因が完全には特定できていない。試料依存性の問題や、透過スペクトル測定のみで金属化を確定できるかどうかも疑問であり、電気伝導測定などによる金属化の実験的検証が望まれる。

5 新しい計算手法の開発

 現在ある計算手法の問題点として、系統的な精度の改善が難しいということがあげられる。そこで新しいアプローチとして、波動関数ベースの手法として提案されているトランスコリレイティッド(TC)法の固体への拡張を行った。TC法の基本的アイディアは、多体ハミルトニアンHそのものでなく、それを相似変換した

H(TC)=F(-1)HF (1)

を出発点として計算を行うというものである。ここでFはJastrow関数と呼ばれ、2体の関数の積で書かれるものである。TC法のメリットは、相似変換したハミルトニアンHTCの中にはすでに相関効果が取り込まれていること、また相似変換によりHTCの中に表れる項は高々3体にしか依存しないということである。TC法はJastrow関数の最適化や他の波動関数手法との組合わせにより原理的に精度の改善が行える手法である。本研究では、平面波基底を用いてTC法の周期系のコードを実装し、典型的な半導体およびYH3のバンド計算を行った。相似変換により有効ハミルトニアンHTCにクーロン相互作用の遮蔽効果をとりこませることができるために、計算されたバンドギャップは相関を考慮していないHartree-Fock法の場合と比べて劇的に改善される。TC法ではYH3は絶縁体と予言され(図2)、これはYH3の絶縁機構が通常の半導体と同様、バンド理論で説明可能であることを支持している。

6 まとめ

 第一原理計算にもとづき、実験で観測されたYH3の金属化の解釈を試みた。Ohmuraらの推論と異なり、高圧下での水素位置の変位が金属化の直接の原因ではないことが示唆され、また不連続な透過スペクトル変化の原因としていくつかの可能性を提案した。

 YH3は通常使われる計算手法であるLDAが破綻するため、理論計算が困難な系である。今後、これらの物質なども扱うことのできるより信頼性の高い手法の開発が求められる。

図1:QSGW法で求められたfcc-YH3のバンドギャップの体積依存性。

図2:TC法およびHF法によるfcc-YH3のバンド構造。

審査要旨 要旨を表示する

 凝縮系電子状態の数値計算法を確立することは、計算物性物理学や物質科学などにおける極めて重要な問題であり、半世紀以上も研究が進められてきた。現在数値計算手法として最もスタンダードなものとして、密度汎関数理論(Density Functional Theory: DFT)が主に用いられているが、その計算精度はsp物質のような電子相関が比較的弱い系に対しては良好であるものの、電子相関が強い物質に関してはしばしば破たんする。DFTの限界を超えて定量的な計算を行うことが、現在の電子状態計算の分野における大きな課題になっている。これまでモンテカルロ法や多体摂動論に基づく方法(GW法など)が開発され精度の向上が図られているが、全エネルギーや原子間力に関してはまだまだ不十分な段階である。

 申請者の佐久間怜氏は、この問題に対してトランスコリレイテット法(Transcorrelated: TC)と呼ばれる研究室独自の方法を用いて取組んだ。この方法は、孤立系に対しては有効であることが共同研究者の梅沢らによって示されてきたが、凝縮系に対する有効性は分かっていない。佐久間氏は今回、凝縮系への拡張というかなり大変な作業を成し遂げた。バンド分散に関しては、ケイ素や炭素といったsp物質に対してはDFTに比べてかなりの改善を示すことが明らかとなり、電子相関がより強いYH3に対してもGW法並の精度の向上がみられることが分かった。ただ、全エネルギーや原子間力に関する実証計算までにはこぎつけられなかったため、GW法と比べての相対的優位性は示すことができなかった。しかし、TCはGW法と異なり本質的な困難があるとは考えにくいため、TC法は将来の電子状態計算の一つの標準的手法となる可能性があるといえる。この新しい手法の開発とその可能性実証を行った点が非常に評価できる。

 提案者は、DFT、GW及びTC法を用いてYH3の示す圧力誘起構造相転移の問題にも取り組んだ。この物質は圧力をかけることにより23GPa付近で絶縁体相(fcc)がfcc構造を保ったまま金属相に相転移し、吸収係数が突然ゼロになることが実験的に知られている。その原因については水素原子の変位などいくつかの可能性があり、そのメカニズム解明が問題になっている。

 この系の電子状態の変化を中心に研究を進めた。DFTでは20GPa付近で水素原子が連続的に変位を示すことができるが、DFTは電子状態が常に金属的になるため連続的な転移と結論付けることはできない。GW計算では、まず絶縁体的な電子状態から金属的な電子状態への変化を示すことが示された。全エネルギーの変化を示せればそれが直接的なデータとなるが、上記のようにGW計算はそれができない。しかし相転移点付近と思われるところにGW計算が二種類の自己無撞着解を持つことがわかり、それが間接的なデータとなると論じた。また吸収係数を計算するとそれぞれの自己無撞着解に対してその値がかなり異なることが分かった。この結果から水素原子変異が伴う相転移であると予想されるが、水素欠損が絡んでいる可能性なども否定できないと論じている。

 さらにTC法による計算をこの系に適用した。上述の通りGWによるバンドがかなりの精度で再現できることが見いだされた。かなり異なるアプローチから同様な結果が得られたことは自明ではないことであり、恐らくはTCおよびGWのレベルで既に正しいバンド分散が得られていることを示唆しているものと思われる。全エネルギーや原子間力の計算は将来の課題として残された。

 以上の内容が全6章から成る本論文にまとめられ、第1章ではYH3の物性とそれを定量的な計算でアプローチすることの意義について、第2章ではLDA,GW,TCについて計算手法の詳細を、第3章ではLDAを用いた最適化構造とバンド分散を、第4章ではGWを用いた電子状態計算を、第5章ではTC法を用いた計算結果を記し、それらが第6章で要約されている。

 以上、本研究では、第一原理的な立場に立脚した新たな電子状態計算手法の開発と電子相関のある系への適用を行い、その計算手法が従来の計算手法(LDA)を超え、しかも最近開発が進んでいる計算手法(GW)と比べても遜色のない有望な方法であることを示している。この計算手法は将来の物性研究に対して十分大きな貢献がなされるものと認められる。

 尚、本論文の主要部分は指導教員らとの共同研究として学術雑誌に公表予定であるが、論文提出者が主体となって行ったものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。したがって、審査委員全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認める。

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