学位論文要旨



No 122099
著者(漢字) 高橋,陽太郎
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,ヨウタロウ
標題(和) 一次元ハロゲン架橋遷移金属錯体における格子緩和状態の超高速ダイナミクス
標題(洋) Ultrafast dynamics of lattice relaxed states in one-dimensional halogen-bridged transition metal complexes
報告番号 122099
報告番号 甲22099
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4962号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 秋山,英文
 東京大学 助教授 松下,信之
 東京大学 教授 青木,秀夫
 東京大学 助教授 黒田,寛人
 東京大学 教授 五神,真
内容要旨 要旨を表示する

 一次元ハロゲン架橋遷移金属錯体はポーラロン、ソリトン、自己束縛励起子など多数の励起状態が共存することから、ここ20年ほど注目を集めている物質系である。この系の特徴は、電子相関、電子格子相互作用、トランスファーなどの物性パラメーターを制御できるため、モット絶縁体からパイエルス絶縁体という対照的な系の間で200種類以上の物質を用意することが可能であるということである。さらに最近では、一次元の鎖を二つ結合させた梯子型白金錯体の合成も報告されるなど、次元性の制御も可能な段階に達している。

 このように物性パラメーターの競合関係を大きく変化させた様々な物質群が得られるが、これまでは電子相関に比べて電子格子相互作用が強い白金錯体が研究の中心であった。現在、研究対象となる物質はモット絶縁体を含めた広い領域に拡大しつつある。しかし、基底状態に関する研究は進んでいるものの励起状態を対象とした研究は少なく、多彩な励起状態が存在するこの系において、励起状態や準安定状態についての研究は重要であると考えられる。さらに、光誘起相転移が期待される物質もあるが、現在実験的な検証が行なわれ始めた段階である。また梯子構造を有する物質は、1次元系から2次元系への橋渡しとなる興味深い系であるが、励起状態についてはほとんど調べられていない。本研究はこの物質群の中で、各種の物性パラメーターが異なるいくつかの典型的な物質を選び、それぞれの物質での励起状態や準安定状態、そのダイナミクスを解明するのを目的としている。

 この物質系に現れる励起状態は、格子変形と強く結合した状態が多く、その生成過程や緩和ダイナミクスを観測するためには、超高速分光は非常に有効な手段であると考えられる。発光を用いることで、そのエネルギーから格子緩和を直接観測することができる。これを時間分解することによりエネルギー緩和のダイナミクスが実時間で観測できる。このような理由からup-conversion法を用いた時間分解発光分光を主要な手法とした研究を行なった。本研究では特に低エネルギー側の物性に着目しているため、既存の装置の測定限界である0.6eVを拡張し、0.23eV(5.4μm)までの領域でフェムト秒時間分解発光分光が可能な装置を構築した。

第4章では、ニッケル錯体におけるCT励起子の緩和過程を解明することを目的に研究を行なった。基底状態においては電子格子相互作用の効果が現われない電荷移動型のモット絶縁体であるニッケル錯体では、従来、定常発光スペクトルから電子格子相互作用の効果が抑制され自己束縛励起子が存在しないと考えられていた。しかし、本研究では0.2eVという大きなストークスシフトを伴う発光成分をピコ秒領域で観測した。図1にそのスペクトルを示す。これは自己束縛励起子からの発光であると考えられ、その寿命は1.5psと非常に短いものであった。この結果は、強い電子相関によって隠れていた電子格子相互作用の効果が励起状態においては、非常に重要な役割を果たしていることを示したものである。

第5章ではモット絶縁体相との相境界付近に位置するパイエルス絶縁体であるパラジウム錯体の励起状態を解明すべく研究を行なった。この物質は励起状態として自己束縛励起子ではなくモット絶縁体ドメインが生成されるという理論的な緩和モデルが提案されていることから注目を集めている。しかし他のパラジウム錯体や白金錯体と同様に自己束縛励起子が存在することも十分に考えられる。この問題に決着をつけるため、発光により直接的に自己束縛励起子の有無を判断することを目的とし研究を行なった。発光は図2のように、大きなエネルギー緩和を示すが、発光寿命は期待される格子振動よりも速い減衰を示している。これにより、CT励起子は格子緩和を伴いエネルギー緩和するものの、自己束縛励起子としては安定に存在しないことが示された。図2のように発光波形の立ち上がりは低エネルギー側に行くにしたがって単調に遅れている。これをモット絶縁体ドメインに緩和するポテンシャル曲面上の波束の運動と考えることで解釈した。

第6章では白金錯体における自己束縛励起子がソリトンペアに分離する様子を断熱ポテンシャル曲面上の波束の運動として直接観測することを目的として研究を行なった。ソリトンは自己束縛励起子よりも更に低エネルギーの励起状態であることから、前章と同じく中赤外領域での時間分解発光分光を行なった。この結果、図3に見られるように、波束振動の最初のひと揺れ目で自己束縛励起子の波束から、もう一つの波束成分が分離する様子を0.3eV付近の低エネルギー領域で明瞭に観測した。この波束の分離現象は2周期目以降は観測されなかった。これは波束が大振幅で振動することにより、一部が大きな余剰エネルギーでポテンシャル障壁を越え別の状態へ流れたものと考えられる。本研究で用いた試料である臭素架橋白金錯体では光励起により荷電ソリトンが生成されることが知られている。この0.3eV付近で観測された、分裂した発光は荷電ソリトンペア方向に伝播する波束に起因するものであると考えられる。

第7章では近年合成に成功した梯子型白金錯体の励起状態を解明すべく研究を行なった。これは、2本の一次元鎖が相関を持った、一次元と二次元の中間的な系であると考えられる。梯子内の一次元鎖間でのCDW鎖同士がIn-Phase(同相)になっているものと、Out-of-Phase(逆相)になっているもの双方について実験を行なった。この結果Out-of-Phase型の白金錯体では大きなストークスシフトを伴う発光とその時間波形から、従来の一次元鎖のものに近い自己束縛励起子を示すことが明らかになった(図4)。また、自己束縛励起子は冷却が非常に高速であることがわかった。これは一次元鎖間での相関があることにより、鎖間でフォノンを媒介としたエネルギー移譲が起こるためであると考えられる。一方、In-Phaseの試料では、一次元のハロゲン架橋錯体とは大きく異なる発光波形が観測された(図4)。この波形の特長は、二つのピークをもつスペクトル形状であり、これを二つの自己束縛励起子が存在するモデルで解釈を行なった。この研究は新物質である梯子型錯体に対して行なわれた初めての励起状態に関する研究である。これらの結果から、梯子型錯体の電荷秩序や鎖間相互作用が与える影響についての大枠が解明されたと考えられる。

 以上の研究により、ニッケル錯体とパラジウム錯体ではこれまでの研究から予測されたものとは異なる励起状態が存在することを見出した。また白金錯体では理論的に考察されていた複数の緩和経路への分離について、実験的な見地から直接的に明らかにすることができた。また、新規の物質である梯子型白金錯体においては、一次元系には存在しない電荷秩序や鎖間相互作用が、励起状態と緩和過程に大きく影響していることを明らかにした。この研究によって梯子型錯体の励起状態が初めて明らかになった。これらの結果により、この系では各種の物性パラメーターのバランスによって、励起状態や準安定状態、緩和ダイナミクスは大きく異なり、予想を超える多彩な励起状態を示すことが明らかになった。

図1.ニッケル錯体([NiBr(chxn)2]Br2)におけるピコ秒領域の発光スペクトル(Integration)と定常発光スペクトル(CW)

図2.パラジウム錯体([PdBr(chxn)2]Br2)における発光の時間波形

図3.白金錯体([Pt(en)2Br](ClO4)2)、における発光の時間分解スペクトル:右は全体像、左は低エネルギー側を拡大

図4.梯子型白金錯体における発光の時間波形の2次元プロット:上側はIn-Phase型臭素架橋錯体、下側はOut-of-Phase型ヨウ素架橋錯体の発光波形

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「一次元ハロゲン架橋遷移金属錯体における格子緩和状態の超高速ダイナミクス(Ultrafast dynamics of lattice relaxed states in one-dimensional halogen-bridged transition metal complexes)」を、8章からなる和文でまとめたものである。アップコンバージョン法を用いたフェムト秒時間分解発光分光を用いて、一連の一次元ハロゲン架橋金属錯体(ニッケル錯体、パラジウム錯体、白金錯体、梯子型白金錯体)の電子励起格子緩和の様子を調べる研究を行い、その結果と解析を述べている。第1章では、序論として、研究の動機と本論文の構成が述べられている。第2章では、研究の背景として、一次元ハロゲン架橋金属錯体やその励起状態の特徴、ポーラロン、ソリトン、自己束縛励起子の励起状態の基礎事項、ニッケル錯体、パラジウム錯体、白金錯体、梯子型白金錯体の過去の研究の概要、そして本研究の具体的なねらいが述べられている。第3章では、アップコンバージョン法を用いたフェムト秒時間分解発光分光測定の実験の方法が述べられており、第4―7章で、ニッケル錯体、パラジウム錯体、白金錯体、梯子型白金錯体に対して行った実験の結果と考察がそれぞれ述べられている。第8章では、まとめが述べられている。

 本研究で用いたアップコンバージョン法によるフェムト秒時間分解発光分光測定実験は、0.6-1.3eVのスペクトル領域しかカバー出来なかったこれまでの測定系を本研究のために提出者が0.23-1.3eVへ拡張する開発を行ったものであり、高く評価できる。

 実験結果においても、次のような新たな知見が得られている。まず、定常発光スペクトルから電子格子相互作用の効果が抑制され自己束縛励起子が存在しないと考えられていたニッケル錯体において、0.2eVという大きなストークスシフトを伴う自己束縛励起子による発光成分をピコ秒領域で観測し、その寿命が1.5psと短いものであることを発見した。そして、強い電子相関によって隠れていた電子格子相互作用の効果が励起状態において非常に重要な役割を果たしていることを示した。次に、基底状態がモット絶縁体相ととの相境界付近に位置するパイエルス絶縁体であり、励起状態として自己束縛励起子ではなくモット絶縁体ドメインが生成されるという理論的な緩和モデルが提案されているパラジウム錯体において、励起状態における自己束縛励起子の有無を直接発光により調べ、大きなエネルギー緩和を示しつつ期待される格子振動よりも速い減衰を示す発光の振る舞いから、CT励起子が格子緩和を伴いエネルギー緩和するものの自己束縛励起子としては安定に存在しないことを示した。白金錯体では、格子緩和の断熱ポテンシャル曲面上の波束の運動において、波束振動の最初のひと揺れ目で自己束縛励起子の波束からソリトンペアの波東成分が分離する様子を0.3eV付近の低エネルギー領域で明瞭に観測した。一方、2周期目以降は観測されなかったことから、波束が大振幅で振動したときのみ一部が大きな余剰エネルギーでポテンシャル障壁を越え別の状態へ流れたものと考えられた。梯子型白金錯体において梯子内の一次元鎖間での電荷密度波が鎖間でIn-Phase(同相)になっているものとOut-of-Phase(逆相)になっているもの双方について実験を行い、Out-of-Phase型の白金錯体では大きなストークスシフトを伴う発光とその時間波形から従来の一次元鎖のものに近い自己束縛励起子が生成されてその自己束縛励起子は冷却が非常に高速であること、一方、In-Phase型では、一次元鎖ハロゲン架橋錯体と大きく異なる二つの自己束縛励起子が存在するモデルで解釈される二つのピークをもつスペクトル形状を示すことが、それぞれ解った。これらは新物質である梯子型錯体に対して行なわれた初めての励起状態に関する研究であり、梯子型錯体の電荷秩序や鎖間相互作用が与える影響についての大枠が解明されたと見なせる。これらの多くの新たな実験結果により、一次元ハロゲン架橋遷移金属錯体では各種の物性パラメーターのバランスによって励起状態や準安定状態、緩和ダイナミクスが大きく異なり、予想を超える多彩な励起状態が実現されることが示された。以上の本論文の内容は、博士論文として高い評価に値すると判断される。

 なお、本論文の中核をなす研究内容は指導教官らとの共著論文として学術誌に印刷公表ないしは公表予定であるが、測定装置の開発、実験の遂行、結果の解析など大部分は論文提出者が主体となって行ったものと判断される。

 よって、論文審査委員会は全員一致で博士(理学)の学位を授与できると認めた。

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