学位論文要旨



No 122106
著者(漢字) 中山,優
著者(英字)
著者(カナ) ナカヤマ,ユウ
標題(和) ブラックホールから弦への相転移とローリングD-brane
標題(洋) Black Hole-String Transition and Rolling D-brane
報告番号 122106
報告番号 甲22106
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4969号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 筒井,泉
 東京大学 助教授 久野,純治
 東京大学 教授 相原,博昭
 東京大学 教授 米谷,民明
 東京大学 講師 和田,純夫
内容要旨 要旨を表示する

超弦理論は、無矛盾かつ予言能力を持つ量子重力理論を内在した、素粒子理論と重力理論の統一理論として最有力な候補である。その枠組みにおいて、量子的なブラックホールの性質の解明は量子重力的な超弦理論の予言を確かめる格好の場である。本博士論文では、2次元ブラックホール中を運動し吸着される D-brane (ローリング D-brane)を弦理論の枠組みで厳密に構成し、その性質を調べることでブラックホールの量子的な構造を調べた。

具体的には、量子重力的なブラックホールの構造をD-brane をプローブとして解明するために、以下の3点に注目して超弦理論からの予言を議論した。

・ 電荷(質量)に応答したブラックホールから弦への相転移

・ 物理振幅(物理量)の解析性と非解析性の問題

・ ユニタリティと開弦-閉弦間のデュアリティの両立性

第一の点について、電荷が大きくかつ超対称性を保つブラックホールに対しては、超弦理論はこれまで非常に大きな成功を収めてきた。例えば、ブラックホールのマクロなエントロピーはブラックホールを構成する微視的な状態の数え上げで再現できることが知られている。一方で、超対称性が無く電荷が小さいシュヴァルツシルト・ブラックホールに代表される系は超弦理論からの定量的な予言は難しい。しかし、定性的には、そのような小さな電荷(質量)を持つブラックホールはその極限で量子的な「弦」の描像に相転移することが予言されている。本論文では、弦理論の量子力学的補正(高階微分の補正)に対して厳密に解くことができる2次元ブラックホールを用いて、実際に相転移現象を確認した。

第二の点について、物理振幅の解析性は超対称性を持つ理論において必要不可欠なものであるが、一方でブラックホールから弦への相転移に代表される相転移現象を理解するためには、物理量の非解析性が重要である。本論文では、2次元ブラックホール中を運動するD-brane の振幅とそこから放射される閉弦のスペクトラムに着目し、どの段階で物理量の非解析性が現れ相転移を示すかを議論した。具体的な問題としては、後述するタキオン-ラディオン対応の普遍性や曲がった時空上での Wick 回転の問題などが、振幅の解析性と深く関わっている。

最後に第三の点について、ユニタリティと開弦-閉弦間のデュアリティは超弦理論の根源的な性質である。しかし、超弦理論の摂動的定式化において、時間発展する系を考えるとその両者の両立性は明白でない。とりわけ、ユークリッド化された世界面の理論を出発点にとると世界面とターゲットスペースの Wick 回転の問題と絡んで非自明な問題である。本論文では、ユークリッド型の計量を持つ世界面の理論とローレンツ型の計量を持つ世界面の理論の違いを詳細に議論し、その間の Wick 回転の問題をローリング D-brane の状態に対して検討し、ユニタリティと開弦-閉弦間のデュアリティの両立性の回復を示した。

以上の観点から、本博士論文では2次元ブラックホール中を運動するD-brane を解析し、超弦理論の量子重力的な根源的性質の一つであるブラックホールから弦への相転移を議論した。2次元ブラックホール自体は、超弦理論における厳密なブラックホール解(SL(2;R)/U(1)k coset CFT)として文字通り2次元時空でのトイモデルである以上に、弦理論を特異性のある空間(例えばコニフォールド、NS5-brane等)にコンパクト化したときに有効的に現れることが知られている。そのため、2次元ブラックホールの物理は、時空の特異点近傍の振る舞いを記述する超弦理論の一つの普遍的なクラスをなしている。

また、2次元ブラックホール中を運動するD-brane の古典的な力学は、平らな時空上での不安定なD-brane を記述するタキオン凝縮の物理と等価であることが知られている(タキオン-ラディオン対応)。この対応は古典的なもので、これまで超弦理論的な補正がこの対応に与える影響は明らかではなかった。本論文では、両者のD-brane の境界状態を構築、比較をすることで、タキオン-ラディオン対応が崩壊するD-brane という普遍的な描像として理解できることを示した。

本論文の主要な結果は以下のようにまとめられる。

まず、2次元ブラックホール中を運動するD-brane を弦理論の高階の微分展開の意味で厳密に記述する境界状態を構築した。ユークリッド化された2次元ブラックホール中の対応するD-brane の境界状態は既に知られており、本論文中ではそれを Wick 回転することでローレンツ型の計量を持った2次元ブラックホール中を運動するD-brane の境界状態を構築した。その際に、素朴なWick 回転を運動量空間で行うと、正しく規格化可能な境界状態が得られないことがわかり、我々は常に積分が収束するような複素運動量空間での積分経路の選び方と解析接続を提唱し、物理的に満足がいく境界状態を得た。

こうして得られた境界状態を用いて、ローリングD-brane の最も重要な物理的な性質の一つである閉弦の放射率を計算することができる。すなわち、D-brane が2次元ブラックホールに落ち込むとき、その加速によりD-brane はエネルギーを放射する。その放射率は境界状態から1ループシリンダー振幅の虚部を計算すればよい(光学定理)。この解析において重要な役割を果たすパラメタはSL(2;R)/U(1) coset モデルのレベルk である。レベルk が大きい極限で超重力的な近似がよくなり弦理論的な補正が無くなる。

いま、kが1より大きい場合を考えると、2次元ブラックホールに落ち込んでいくD-brane からの閉弦の放射率はレベルkに依らず普遍的であることが分かる。詳しく述べると、放射される閉弦の質量を固定したときに、その放射率は (k依存する) Hagedorn 温度で exponential に抑制されているのであるが、閉弦の状態密度もまた Hagedorn 温度で exponential に増加するために両者が相殺し、普遍的な冪的な振る舞いを示すのである。この冪的な振る舞いはタキオン凝縮の際の放射率と完全に一致し、また電場やディラトンといったバックグラウンドの変更にも依存しない。その意味で、タキオン-ラディオン対応は(k>1である限り)普遍的であり、超弦理論の補正を受けないことが分かった。

しかし、k=1を境にして閉弦の放射率は劇的な変更を受けることが分かる。レベルkに対する解析的な表式がk=1で崩れるため、閉弦の放射率は Hagedorn 温度を示さなくなり、全放射率における k 依存性の相殺がもはや行われなくなる。この段階で、タキオン-ラディオン対応は崩れ、閉弦の放射率をオーダーパラメータとして2次元ブラックホールは相転移を示す。これがブラックホールから弦への相転移であり、本論文では、2次元ブラックホールに落ち込んでいくD-brane からの閉弦の放射率という観測量を用いて、相転移が実際に起こることを確認した初めての例になっている。物理的には、ブラックホールの幾何学的な性質がk<1では失われ、D-brane が古典的な軌跡を運動する粒子とみなせなくなることに対応している。

最後に、これまでの計算においては1ループ振幅を閉弦の立場から議論してきたが、これにモジュラー変換を施して、開弦の立場から議論を展開することもできる。この操作を通して、ユニタリティと開弦-閉弦間のデュアリティの両立性を我々のローリングD-brane の系に対して確認した。これが非自明であるのは、タキオン凝縮の問題では世界面をユークリッド的な計量に取るかローレンツ的な計量に取るかに最終結果は依らないのに対して、ローリングD-brane の問題では違いが現れるところにある。これは、ローリングD-brane での開弦での計算では Wick 回転を施す際に複素エネルギー空間で無限個のpole の寄与を受けるためである。この寄与は、初めからユークリッド化された場合には恣意的に思えるが、ユニタリティと開弦-閉弦間のデュアリティの両立性の為には必須であることが分かる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は9章及び2つのAppendixからなる。まず第1章で緒言と研究の背景と動機が述べられた後、第2章において2次元ブラックホールの時空的な観点からのレビューが与えられる。ここで超弦理論における厳密なブラックホール解(SL(2;R)/U(1)k)としての定式化が与えられると同時に、その一般的な熱力学的性質が議論されている。第3章では、可解な共型場理論からの観点による2次元ブラックホールの、Euclid,Lorentz型の計量の両者の場合の記述が与えられ、前者の場合のスペクトルについても述べられる。さらにここでは、N=2Liouville理論との双対性も議論されている。第4章では、「ブラックホール-弦の相転移」という概念が導入され、他の可解な場合についての相転移現象についても言及される。第5章では、平らな時空上での不安定なD-braneを記述するタキオン凝縮という描像が導入され、「タキオン-ラディオン対応」の性質がレビューされる。第6章においては、Euclid型計量の2次元ブラックホール時空でのD-braneの量子的性質が詳しく調べられ、対応するmini-superspaceの境界状態の波動関数が構築されている。第7章では、前章で得たEuclid型の場合の表式にWick回転を施すことによって、Lorentz型計量の2次元ブラックホール時空でのD-braneの状態を構築し、その量子的性質を議論している。さらに第8章では、2次元ブラックホール中を運動し吸着されるD-brane(ローリングD-brane)の、重要な物理的な性質の一つである閉弦の放射率を求めている。最後の第9章は、本論文の結論と関連する様々な議論とに充てられ、Appendixでは記法並びに種々の公式の説明がなされている。

 本論文の寄与は、いくつかの項目にわけて考えることができる。まず1つは、2次元ブラックホール中を運動するD-braneを弦理論の高階の微分展開の意味において厳密に記述する境界状態を構築したことが挙げられる。そしてその際に、正しく規格化可能な境界状態を得るためには、従来の素朴な方法ではなく、積分の収束性を考慮した解析接続を行うことが必要であることを見出したことは、貴重な指摘である。次に、得られた境界状態に基づき、閉弦の放射率を計算することに成功している。この解析において、SL(2;R)/U(1)coset模型のレベルkが重要なパラメーター因子となり、kの大きな極限では超重力的な近似が良く、弦理論的な補正の必要が無い。k>1の場合には閉弦の放射率はレベルkに依存せず、冪的な振る舞いをすることを明らかにしていることは、本論文の重要な結果である。これは、質量を固定した閉弦の放射率は(k依存する)Hagedorn温度によって指数関数的に抑制されるが、同時に閉弦の状態密度もまたHagedorn温度によって指数関数的に増加するため、両者が相殺し冪的な振る舞いを示すためである。この冪的な振る舞いはタキオン凝縮の際の放射率と一致し、また電場やディラトンなどの背景にも依存しない。このような意味において、k>1ではタキオン-ラディオン対応は普遍的(universal)なものであり、超弦理論の補正を受けないことが示される。

 一方、閉弦の放射率はk=1を境にして劇的に変化する。これは、kに対する解析的な表式がk=1において成立しなくなるためであり、このため閉弦の放射率はHagedorn温度を示さず全放射率におけるk依存性の相殺か起きない。すなわち、この段階でタキオン-ラディオン対応が崩れ、閉弦の放射率をオーダーパラメーターとして2次元ブラックホールが相転移を起こすと考えることができる。この「ブラックホール-弦の相転移」現象を、2次元ブラックホールに落ち込んでいくD-braneからの閉弦の放射率という観測量を評価することによって初めて厳密に確認したことが、本論文の最も重要な寄与であると評価される。この相転移現象は、ブラックホールの幾何学的な性質が、k<1において失われ、D-braneが古典的な軌跡を運動する粒子とみなせなくなる現象であると、物理的に解釈される。

 さらに加えて、従来の1ループ振幅を閉弦の立場から議論するのではなく、モデュラー変換を援用して開弦の立場から議論を展開する方法を用い、ユニタリティと開弦-閉弦間の双対性が両立することを、実際に上記のローリングD-braveの系に対して検証している。タキオン凝縮の場合と異なって、ローリングD-braneの場合には計量の差違によって結果が異なることが知られているが、本論文の注意深い観察により、Wick回転を施す際の無限個のpoleの寄与を正しく考慮することによって、初めてユニタリティと開弦-閉弦間の双対性が両立することを証明していることも、評価できる結果である。

 以上述べたように、本論文の寄与は「ブラックホール-弦の相転移」現象の検証に寄与し、かつ多岐に渡るものであり、学位論文として十分な内容を含んでいると判断できる。

 なお、本論文の内容は、菅原祐二氏及びSoo-Jong Rey氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって基本的なアイデアを提出し計算を遂行、さらに分析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると認める。

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