学位論文要旨



No 122112
著者(漢字) 松原,信一
著者(英字)
著者(カナ) マツバラ,シンイチ
標題(和) 核磁気共鳴法を用いた量子スピン系における磁場誘起相転移の研究
標題(洋) NMR Studies of Magnetic Field-Induced Phase Transitions in Quantum Spin Systems
報告番号 122112
報告番号 甲22112
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4975号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金道,浩一
 東京大学 教授 福山,寛
 東京大学 教授 榊原,俊郎
 東京大学 教授 鹿野田,一司
 東京大学 助教授 廣田,和馬
内容要旨 要旨を表示する

 磁性イオンの電子スピンがもつ局在モーメントが、交換相互作用によって結びついている物質で、その化合物の磁気的性質に電子スピンの量子性が大きく反映されているものは、量子スピン系物質と呼ばれる。量子スピン系物質には基底状態が非磁性のシングレットで、磁気的な励起状態との間に励起エネルギーギャップ(スピンギャップ)を持つものが多数存在し、近年盛んに研究されている。本研究はスピンギャップを持つ事が知られている物質において、スピンギャップよりも大きな外部磁場をかける事によって発現する磁場誘起磁気相転移の性質を核磁気共鳴法を用いて明らかにする事が目的である。研究対象となる三つのスピンギャップを持つ物質はすべて二つの電子スピンが反強磁性的に結びついたダイマーを基本的な構成要素として含んでいる。反強磁性ダイマーが鎖状に並び一次元性が強い磁性体であるNTENP、ダイマーが互いに直交するように配列した二次元的な構造を持つ磁性体SrCu2(BO2)3、ダイマーが三次元的なネットワークを持つ有機磁性体F2PNNNOである。

 F2PNNNOはF2PNNNO分子に存在する二つの不対電子由来のS=1/2のスピンが強い強磁性相互作用で結びついており、分子全体でS=1のスピンを有する系である。このS=1のスピンは最近接の分子が持つスピンと反強磁性的に結びついており、S=1の反強磁性ダイマーを形成している。この種の有機磁性体は非常に等方的なスピンを持つ事が知られており、系の状態は理想的なハイゼンベルクのハミルトニアンで記述できると考えられている。この物質で期待される磁場誘起の磁気相転移は外部磁場と垂直な方向に交替磁化が向いた反強磁性の磁気秩序である。最近このタイプの磁場誘起磁気秩序がマグノンと呼ばれるボーズ粒子の性質を持つ磁気的な素励起のボーズアインシュタイン凝縮であるという研究がなされ、注目を集めている。本研究では実際にF2PNNNOにおいて磁場誘起の反強磁性秩序が発現する事を(19)F-NMRのスペクトルの分裂を観測する事で確かめ、さらにその反強磁性相のスペクトルの構造と結晶の対称性の議論からこの相の交替磁化が磁場と垂直な方向に向いている事を確認し、この相転移がマグノンのボーズ凝縮と見なせる事を示した。さらにこの相転移の絶対零度における臨界磁場(量子臨界点)をNMRの測定から見積もり、この磁場におけるスペクトルのシフトK及び核磁気緩和率1/T1の温度依存性を測定する事によって、ボーズ凝縮の量子臨界点における磁化及び動的帯磁率の臨界挙動を調べた。どちらの物理量もべき乗の温度依存性(K∝T2、1/T1∝T2)を示し、シフトに関しては極低温においてべきの指数が2から1へ変化するクロスオーバーが観測された(Fig.1)。これらの温度依存性に関して場の量子論を用いたスケーリングの理論からボーズ凝縮の量子臨界点におけるそれぞれのべきを見積もり実験結果との比較を行っている。

 SrCu2(BO2)3はS=1/2のスピンの反強磁性ダイマーが互いに直交する構造を持っているために磁場によって励起されたマグノンの局在性が非常に強いという特徴を持っている。この物質の磁化過程において飽和磁化の1/8、1/4、1/3に磁化プラトーと呼ばれる、磁化が磁場増加に伴って増加せず一定の値を持つ領域が観測されている。これは前述のマグノンの局在性によって、格子の並進対称性を破るマグノンの結晶化がプラトー相において起きている事が、1/8プラトー相における核磁気共鳴の測定により明らかになっている。本研究では1/8プラトー相よりも高い磁場領域においてスピンがどのような構造を持つかを調べるために(11)B-NMR測定を行った。この磁場領域では磁化が磁場に増加に伴い連続的に増加している事から、マグノンの結晶化は消失し均一なスピン分布が予想されるが、(11)B-NMRスペクトルの局所磁場の分布幅は1/8相プラトー相のスペクトルとほぼ同じである事から、この磁場領域でもマグノンの結晶は存在する事がわかった(Fig.2)。さらに本研究では様々なスピン分布を仮定し、(11)B原子の位置の局所磁場を計算することによって得られたスペクトルと実験結果を比較し、この磁場領域においてどのようなスピン構造が実現しているのかについて議論している。

 NTENPはS=1のスピンの反強磁性ダイマーが一次元的に配列した構造を持っている。本研究では(15)N-NMR測定を行う事によって、スピンギャップを超えない磁場領域において不均一な交替磁化が磁場によって誘起されている事を発見した。Fig.3はH=7T、T=1.6Kにおける(15)N-NMRスペクトルの磁場方位依存性である。スペクトルは磁場がa軸からずれるとシフトの原点を中心に幅が広がり、端に鋭いピークを持つ連続的なスペクトルに変化をする。この事から磁場とは垂直方向に大きさまたは方向が不均一な交替磁化が存在する事がわかる。またスペクトルの幅は磁場の大きさによっており、磁場がゼロになるとこの幅はなくなる事からこの交替磁化は磁場で誘起されている事が分かる。この現象はNTENPが持つ構造のランダムネスによるDzyaloshinsky-Moriya相互作用(DM相互作用)のDベクトルのランダムネスが原因であると考えられる。この物質のスピンの状態を記述するハミルトニアンには通常のハイゼンベルク型の交換相互作用に加えてDM相互作用の寄与が許されるが、そのDベクトルの方向が、スピン間の反転対称性を破る原因となっているNO2分子の配置のランダムネスによって、ランダムな方向に向いている可能性が考えられる。DM相互作用を持つ反強磁性ダイマーでは外部磁場によってDベクトルと外部磁場の方向に応じた交替磁化が誘起される事が知られているが、本研究ではDベクトルがランダムな方向に向いた孤立ダイマーの問題を考え、その結果とスペクトルの磁場方位依存性の結果との比較を行った。またこのようにDM相互作用を持つスピンギャップ系物質ではF2PNNNOで観測されたような磁場誘起磁気秩序が抑制されるのが普通であるが、NTENPでは比熱やその他の実験手法により磁場誘起の磁気相転移が存在する事が確認されている。本研究においてもスペクトルの変化や1/T1の臨界的な温度依存性などから磁場誘起相転移を観測した。さらに1/T1の臨界的な挙動は大きな磁場方位依存性がある事を発見した。

Fig.1:F2PNNNOの量子臨界点におけるシフトの温度依存性。実線と点線は温度のべき乗の関数によるフィッティングの結果を表している。300mK以下ではそのべき数が1、300mK以上では2となっている。

Fig.3:NTENPの(15)N-NMRスペクトルのH=7T、T=1.6Kにおける磁場の方位依存性。

Fig.2:SrCu2(BO2)3の(11)B原子の位置における局所磁場の分布。上段は1/8プラトー相、中段及び下段はそれよりも上の磁場領域における局所磁場である。スペクトルの形状に変化が見られるが、マグノンの結晶が存在する場合に徳用的である広い局所磁場の分布幅にはほとんど変化がない。

審査要旨 要旨を表示する

 松原信一氏提出の本論文では、三種類の量子スピン系物質の磁場誘起相転移現象を核磁気共鳴法(NMR)によって解明することを試みている。三種類すべての物質は基底状態と励起状態の間にスピンギャップを有し、どのギャップも反強磁性ダイマーを起源とする。

 本論文は16章からなる。第1章は序論である。第2章から第14章まではスピンギャップを持つ三種類の物質についての研究成果について述べられている。その内、第2章から第5章までがスピン1の反強磁性ダイマー物質として考えられているF2PNNNOの研究について書かれている。第5章から第10章までは二次元直交ダイマー系物質のSrCu2(BO2)3についての研究がまとめられ、第11章から第14章はスピン1の反強磁性ボンド交替鎖NTENPに関する研究に割かれている。第15章は全体の結論がまとめられ、第16章が謝辞となっている。

 まず本論文の最初の物質であるF2PNNNOは有機磁性体であり、不対電子に由来する1/2スピンが磁性の起源である。まず分子内の二個の不対電子が強磁性的に強く結合してS=1を合成し、このS=1が反強磁性的に結合してダイマーを形成している。本物質の特徴はここで形成されたダイマーが三次元的なネットワークを持つ点である。本研究では(19)F-NMRのスペクトルを観測することにより磁場によってギャップが消失し、磁化が出現すると同時に反強磁性秩序状態が発現することを明らかにしている。さらに、反強磁性秩序相において交替磁化が磁場と垂直な方向に向いていることを確認し、この相転移がマグノンのBEC(ボーズ凝縮)と見なせることを明らかにしている。また、スペクトルのシフトKおよび核磁気緩和率1/T1の温度依存性を測定して、BECの量子臨界点における臨界指数の変化を調べている。その結果、0.3K以上の温度領域ではシフトおよび核磁気緩和率ともにべきが2であったが、0.3K以下の低温でシフトが1へと変化するクロスオーバーが観測されている。核磁気緩和率の振る舞いは三次元のBECで期待されるものであるが、シフトのべきはその値および変化ともに理論的な予想とは異なるものであり、またクロスオーバーの原因についても今後解決されるべき問題である。以上のように本研究は、磁場誘起相転移現象におけるBECを明らかにするばかりでなく、量子臨界点における臨界指数のクロスオーバーという問題を提議しており本研究分野の進展に貢献する研究であると考えられる。

 次に、二次元直交ダイマー系物質のSrCu2(BO2)3についての研究であるが、この物質ではCuイオンが持つS=1/2が反強磁性的に結合してダイマーを形成している。このダイマーが互いに直交する結晶構造のためフラストレーションが生じ、強磁場下でいくつかの磁化プラトーが実現している。現在観測されている磁化プラトーは飽和磁化の1/8、1/4、1/3であり、1/8のプラトー領域においてはマグノンの結晶化が起きていることが分かっている。本研究では、1/8プラトーより高磁場側の非プラトー領域でこのマグノンの結晶化がどのようになるかを明らかにするために(11)B-NMRを行っている。その結果、高磁場側においても1/8プラトーとほぼ同じスペクトル幅が観測され、マグノン結晶が消失しない事が明らかとなった。この発見は磁化プラトーの起源の解明に役立ち、重要な成果であると考えられる。筆者はいくつかのモデルケースを考えて非プラトー領域のスペクトルの再現を試みているがこれには成功していない。また、強磁場下のスペクトルの温度変化から新たな相境界を発見している。これは、非プラトー領域が変化に富んだ物性を持つ事を示す結果であり、今後の展開が望まれる成果である。

 最後に述べられているのはS=1の一次元反強磁性ボンド交替鎖物質NTENPについての研究である。S=1の一次元反強磁性鎖はスピン間の交換相互作用の大きさに交替がある場合、その交替比の大きさによって基底状態がハルデン相からダイマー相へと変化する。NTENPは交替比が小さいためダイマー物質であり、これまでに比熱測定などにより磁場誘起磁気秩序が観測されている。本研究では(15)N-NMR測定を行い、スピンギャップが残る低磁場領域において不均一な交替磁化が誘起されていることを発見している。筆者は、構造のランダムネスによるDM相互作用に交替磁化発生の原因を求めて議論を行いある程度の説明に成功している。しかしながら、DM相互作用の存在は磁場誘起磁気秩序を抑制する働きがあるため、この発見はむしろ新たな問題提議としての意義が重要である。

 以上のように、本研究は強磁場下のNMRを行い、三次元の反強磁性ダイマー物質F2PNNNOの磁場誘起反強磁性秩序状態を明らかにするとともに臨界指数のクロスオーバー現象を発見し、また二次元直交ダイマー物質SrCu2(BO2)3のプラトー領域を越えた磁場領域でのマグノンの結晶化が消失していない事を明らかにし、一次元反強磁性ダイマー物質NTENPではスピンギャップが残る磁場領域で交替磁化が存在することを示すことに成功した。これらの業績は、量子スピン物質の研究の進展に大きく貢献したと考えられる。本論文の成果について議論した結果、審査員全員一致で本研究が博士(理学)の学位論文として合格であると判断した。なお本研究は、指導教官である滝川仁氏の他、樹神克明、細越裕子、井上克也、上田寛、陰山洋、Maldane Horvatic、Claude Berthier、萩原政幸の諸氏との共同研究の部分があるが、論文の主要な成果について論文提出者が主たる寄与をなしたものであることが認められた。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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