学位論文要旨



No 122137
著者(漢字) 渡辺,路生
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ミチオ
標題(和) 風応力によって海洋中に励起される乱流混合に関するエネルギー論的考察
標題(洋) Energetics of wind-induced turbulent mixing in the ocean
報告番号 122137
報告番号 甲22137
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5000号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安田,一郎
 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 教授 川邉,正樹
 東京大学 教授 遠藤,昌宏
 東京大学 助教授 中村,尚
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 深層海洋大循環は,北大西洋の北部や南極海で冷却されて沈み込んだ海水が中・深層における乱流混合を通じて上層から浮力を得て徐々に湧昇することで形成されると考えられている.実際,数値モデルで再現される深層海洋大循環のパターンや強さは,中・深層における小規模スケールの乱流拡散過程に大きくコントロールされている.

 Munk and Wunsch (1998)によれば,平均的な密度成層を維持するためには1000m以深でオーダー10(-4)m2s(-1)の乱流拡散が必要となる.乱流拡散過程に必要なエネルギーは大気擾乱や,海底地形と潮汐との相互作用によって生じる内部潮汐から供給されると考えられるが,このオーダーの乱流拡散をまかなうためには全球で約2.1TW(1TW=10(12)W)のエネルギーフラックスが必要となる.このうち内部潮汐から供給されるエネルギーフラックスは,天体観測によるエネルギー散逸率の計算などから0.9TW程度と見積もられているが,大気擾乱から与えられるエネルギーの直接の見積もりは十分になされておらず,潮汐と大気擾乱とのどちらが乱流エネルギーの主要な供給源なのか未だに明らかにされていない.

 本研究では今まで未解明のまま残されていた「大気擾乱から海洋へ供給されるエネルギーフラックスを定量的に見積もる」とともに,「大気擾乱によって励起された内部波が形成する乱流ホットスポットの時空間分布」に関する考察を行う.

2.大気擾乱から海洋へ供給されるエネルギーフラックスの見積り

 1989年から1995年にわたる7年間の実際の風応力データを用いてスラブモデルを駆動することにより,大気擾乱から海洋表層の混合層内での慣性振動へ供給されるエネルギーフラックスの時空間分布を明らかにした.数値計算の結果得られた1989年から1995年までの7年間の各季節ごとの平均エネルギーフラックスの空間分布を図1に示す.各半球の冬季における中緯度低気圧の伝播に伴って,慣性振動エネルギーが励起されている様子が見てとれる.こうして得られた全海洋でのエネルギーフラックスの総和を求めると,年間平均で0.7TWとなった.この値は,潮汐によるエネルギーフラックスの約0.9TWとほぼ同程度である.

3.海洋深層の内部波空間におけるエネルギー散逸率の見積もり

 海洋内部領域ではエネルギースペクトルの場が平衡となっている.そのため,こうして大気擾乱から海洋内部領域に供給されたエネルギーは,何らかの形で散逸していなければならない.そこで"Eikonal Approach"(Henyey et al., 1986)とよばれるray-tracingの手法を用いることによって3次元空間内におけるエネルギー散逸率を見積もった.これは,背景場の内部波に伴う流れの中で各波数の内部波パケットがドップラーシフトされながら砕波していくまでをトレースするとともに,保存量である波動作用量から砕波の際の散逸エネルギーを計算するものである.

 まず,3次元空間内に仮定したGarrett-Munk(GM)の基本場におけるエネルギー散逸率を求めた.続いて,外力が与えられた時にどのようにしてエネルギー散逸率が増大するか調べるため,GMモデルの各スペクトル要素のエネルギーレベルをそれぞれ10%増加させて同様の実験を行った.図2はその結果を表す.鉛直長波長(100m以上)または高周波数(2f以上)の内部波のエネルギーを増加させてもエネルギー散逸率はほとんど変化しない.逆に鉛直波長10-100mかつ周波数f-2fの近慣性流のエネルギーレベルを増加させると,エネルギー散逸率は著しく増加することがわかる.この結果は,実際の海洋中で励起された内部波エネルギーが何らかの機構によってスモールスケールの近慣性流に輸送されることで,エネルギー散逸率の著しい増加がもたらされることを示している.大気擾乱によって鉛直高波数の近慣性流のエネルギーを強めるメカニズムとしては,従来Parametric Subharmonic Instability(PSI)が考えられてきた.この機構によれば,大気擾乱によって励起された鉛直低次モードの近慣性内部波が低緯度に伝播し,局所的な慣性周波数の2倍を越えた時スモールスケールの近慣性流にエネルギーが移ることになる.

4.大気擾乱によって励起される鉛直高波数の近慣性流

 そこで,現実の海洋においてどの緯度・深さで鉛直高波数の近慣性流が強まっているか鉛直2次元モデルを用いて見積もった.モデル領域は深さ4096mで北緯5度から55度までとした.初期状態としてGMモデルを与え,風応力の大きい東経160度における1991年12月1日からの風応力を海表面に与えた.

 まず,大気擾乱によって混合層に供給されるエネルギーフラックスを北緯10度から50度で積分すると3.89×105Wm(-1)となった.このうち3.63×105Wm(-1)が混合層内で散逸し,残りの0.26×105Wm(-1)が海洋内部領域に供給される.一方,北緯30度における低緯度側へのエネルギーフラックスの平均値を見積もると0.03×105Wm(-1)となった.すなわち海洋内部領域に供給されたエネルギーのうち低緯度方向に伝播するのは,10%程度にすぎないということになる.

 100日目においてGregg(1989)のパラメタリゼーション

(ただしSは25mスケールの鉛直シア.S(GM)はGMモデルにおける25mスケールの鉛直シア)を用いて見積もった海洋内部領域でのエネルギー散逸率εの分布は,図3となる.領域全体でエネルギー散逸率を積分すると0.22×105Wm(-1)となる.深さ1000mより浅い深さでのエネルギー散逸率は,これの90%に達する.すなわち,大気擾乱から海洋内部領域に供給された内部波エネルギーの大部分は,高緯度の浅い深さで散逸する.中・低緯度域においては,高緯度側から伝播してきた鉛直低次モードの内部波がPSIに伴うカスケードダウンを起こすことで鉛直高波数の近慣性流エネルギーが強まると推察されてきた.しかしながら,本研究の数値実験からはそのようなエネルギーカスケードのシナリオの存在を支持する結果は得られなかった.

 図4は高緯度域で強まる鉛直高波数の近慣性流の様子を示している.大気擾乱によって駆動された混合層内の慣性振動が下方に伝播し,深さ数百メートルで鉛直高波数の近慣性流が強まっている.

5.まとめ

 本研究の結果によれば,大気擾乱から海洋内部領域に約0.7TWのエネルギーが供給される.そして大気擾乱によるエネルギーのおよそ90%が,その主要なエネルギー供給域である30度から50度の1000m以浅で散逸する.すなわち,大気擾乱による乱流ホットスポットの水平分布は,図1のようになり,深度1000mまでの上層において約0.6TWのエネルギーが散逸してしまうと推察される.この結果によれば,深層海洋大循環を維持するのに必要な深海乱流に寄与する大気擾乱起源のエネルギーは0.1TWにも満たないことになる.

図1:風応力から混合層の慣性振動へ供給される単位面積あたりのエネルギーの全球の分布図.各季節ごとに1989年から1995年の7年間の平均をとったもの.混合層の厚さはLevitus and Boyer(1994)のデータを用い海洋表層から温位が0.5℃下がる深さで定義した.

図2:Garrett-Munkのモデル内の各スペクトル要素のエネルギーレベルをそれぞれ10%増加させたときのエネルギー散逸率の変化.

図3:100日目においてGregg(1989)のパラメタリゼーションを用いて見積もった各緯度・深さでのエネルギー散逸率の分布.cは混合層の厚さ.

図4:北緯45度における70日目から100日目での流速の絶対値.

審査要旨 要旨を表示する

 深層海洋大循環は、北大西洋の北部や南極海で冷却されて沈み込んだ海水が、中・深層における乱流混合を通じて上層から浮力を得て徐々に湧昇することで形成されると考えられている。したがって、中・深層における乱流拡散係数の時空間分布の解明は、深層海洋大循環のパターンや強さを明らかにする上で必要不可欠な課題である。乱流拡散過程に必要なエネルギーは大気擾乱や、海底地形と潮汐との相互作用によって生じる内部潮汐から供給されると考えられているが、大気擾乱から与えられるエネルギーの直接の見積もりは十分になされてこなかった。本論文は、大気擾乱から海洋へ供給されるエネルギーフラックスを定量的に見積もるとともに、大気擾乱によって励起された内部波が形成する乱流ホットスポットの時空間分布に関する考察を行うことで、大気擾乱が深層海洋大循環に果たす役割を明らかにしようとするものである。

 本論文は、5つの章から成立している。

 まず、第1章は導入部であり、海洋の中・深層における乱流拡散過程の重要性、さらに、本論文の構成と目的が述べられている。

 第2章では、実際の風応力データを使用してスラブモデルを駆動し、大気擾乱から海洋表層混合層内の慣性振動へ供給されるエネルギーフラックスの時空間分布を見積もることで、主に、冬季の中緯度低気圧の伝播に伴う大きなエネルギー供給があることを明らかにした。実際に、エネルギーフラックスの年間平均値を見積もると全球で約700億ワットとなり、内部潮汐によるエネルギー供給と同程度であることが示された。なお、付録Aでは、中高緯度域における風応力データの時間分解能の粗さに起因したエネルギーフラックスの過小評価の補正方法の妥当性を、全球大気大循環モデルの風出力データを用いることによって確認した。

 こうして大気擾乱から海洋表層混合層内に供給されたエネルギーは海洋内部領域の平衡内部波場へ入射していく。第3章では、この海洋内部領域における3次元の平衡内部波場に入射した内部波エネルギーがどのように散逸していくのかをEikonal Approachという計算手法を導入することによって調べた。その結果、平衡内部波場内の鉛直低波数域、または、高周波数域のエネルギーレベルをいくら増加させてもエネルギー散逸率はほとんど変化しないが、平衡内部波場内の鉛直高波数の近慣性域のエネルギーレベルを増加させるとそれに応じてエネルギー散逸率が著しく増加することが明らかになった。この結果は、実際の海洋内部領域に入射した内部波エネルギーが何らかの機構によって鉛直高波数の近慣性域にカスケードダウンすることで乱流ホットスポットが形成されていることを示している。

 第4章では、北太平洋の子午面方向に鉛直2次元モデルを仮定し、伝播する中緯度低気圧によって形成される乱流ホットスポットの時空間分布を明らかにした。従来、高緯度域で励起された大気擾乱起源の内部波エネルギーは、鉛直高波数の近慣性域へのカスケードダウンが可能となる低緯度域まで伝播することで乱流ホットスポットを形成するものと推察されてきた。そこで、実際に、大気擾乱から海洋内部領域へのエネルギーフラックスと低緯度方向へのエネルギーフラックスを定量的に見積もってみると、海洋内部領域に供給されたエネルギーのうち低緯度方向に伝播するのは、せいぜい10%程度に過ぎないことが示された。さらに、海洋内部領域でのエネルギー散逸率の空間分布を調べてみると、供給された内部波エネルギーの大部分は大気擾乱からの主要なエネルギー供給域である高緯度域の1000m以浅で散逸していることが明らかになった。大気擾乱は深海における乱流拡散過程の主要なエネルギー源の一つと考えられてきたが、以上の結果は、深海乱流に寄与する大気擾乱エネルギーが実際には従来推察されていたよりもはるかに少ないことを示している。

 以上、本論文は大気擾乱から海洋内部領域へのエネルギーフラックスの定量的な見積もりに初めて成功するとともに、大気擾乱起源の乱流ホットスポットの緯度・深度分布に関して新たな知見をもたらしたものである。この結果は、従来ともすればチューニングパラメータとして扱われてきた乱流拡散係数を真の物理パラメータとして位置付けるとともに、その時空間分布の解明を通じて海洋大循環モデルの高度化への道を切り拓いた研究として高く評価できる。

 なお、本論文の第2、第3、第4の各章は日比谷紀之教授、付録Aは日比谷紀之教授、榎本剛博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったもので、その寄与が十分であると判断できる。

 したがって、審査員一同は博士(理学)の学位を授与できると認める。

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