学位論文要旨



No 122154
著者(漢字) 寺本,高啓
著者(英字)
著者(カナ) テラモト,タカヒロ
標題(和) CS2とCO2分子のC1s光電離完全実験
標題(洋) Perfect C1s photoionization experiments of CS2 and CO2 molecules
報告番号 122154
報告番号 甲22154
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5017号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 柳下,明
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 摂動論が成り立つ領域において光電離過程は電気双極子近似で記述される。従来の光電離の実験は光電離断面積測定と光電子の角度分布測定、解離イオンの角度分布測定に限られていた。しかしこのような実験では光電離ダイナミクスを記述する電気双極子遷移行列要素の振幅および位相差(ダイナミカル・パラメータ)を決定することができない。そこで本研究ではダイナミカル・パラメータを実験データだけからユニークに決定する完全実験の方法論を確立し、内殻光電離ダイナミクスを第一原理から解明するとともに、いろいろな理論モデルの可否をダイナミカル・パラメータのレベルで評価することを目的とした。本研究では多重同時計測運動量画像分光法により得られるランダム配向分子からの光電子角度分布、ランダム配向分子からの解離イオン角度分布、任意配置での分子座標系での光電子の角度分布(MFPAD)の全ての実験結果を用いた完全実験の新しい方法論を開発し、CO2およびCS2のC1s光電離に適用することにより電気双極子遷移行列要素の振幅の絶対値および位相差を決定した。

 またこれまでのMFPAD測定は光電離により生成した解離イオンから分子の配向を決定してきた。強レーザー中において直線分子はレーザーの偏光方向に配列することが知られている。これを用い、あらかじめ配向させておいた分子集団からの光電子角度分布測定の試みとして、強レーザーと放射光を空間的時間的に重ね合わせ、強レーザーによる分子配向の測定を行った。

【実験装置】

 実験は高エネルギー加速器研究機構放射光科学研究施設PFの直線偏光アンジュレータービームラインBL-2Cにておこなった。多粒子同時計測運動量画像実験装置の概略図を図1に示す。放射光により生成した光イオン・光電子は平行電場により反対方向に加速され、ドリフト領域を通過し二次元位置敏感型検出器により検出される。検出された荷電粒子は検出器面内の位置(x,y)および光電離イベントから検出器に到達するまでの時間(t)の3次元の情報を持っており、これらの情報から光電離での荷電粒子の運動量を再構築することができる。

 本研究では装置の改良としてガス濃度の高強度化を行った。従来の装置ではガスノズルから衝突領域までの距離は138.2mmであった。しかし58.3mmに短縮しスキマー径を2倍にすることにより、ガス濃度を従来の約16倍にした。また衝突領域とガスノズルの距離の短縮化に伴う平行電場の乱れを除去するため、6枚であった補償電極を10枚に増やし検出器上で光電子の真円度公差が0.2mm以内に収まるように電子軌道シミュレーションを行い設計した。

【CO2分子のC1s光電離の完全実験】

 図2に励起エネルギー322.6eV(光電子の運動エネルギー25eV)におけるランダム配向CO2分子からの光電子角度分布および解離イオン角度分布、偏光ベクトルと分子軸が平行の場合のMFPAD(平行配置MFPAD)、偏光ベクトルと分子軸が垂直の場合のMFPAD(垂直配置MFPAD)を示す。

ダイナミカルパラメーターの導出

 直線偏光軟X線による偏光面内での分子座標系での光電子角度分布は以下のように記述される。Βは分子軸と光の進行方向のなす角度で、θは分子軸からの光電子の放出角である。

 ここでLegendre関数PLの係数A0(L0),A2(L0)およびLegendre陪関数P1Lの係数A2(L1)は電気双極子遷移行列要素√(4π/3)<Rεlλ|rY(1λ)(r)|i>=d(lλ)exp(iδ(lλ))であらわされる。ここでd(lλ)とδ(lλ)は軌道角運動量lを持ち、分子軸への射影成分がλの部分波の遷移行列要素と位相である。

 CO2分子はD(∞h)群に属しているため、光電子の波動関数を1中心展開したときの部分波の軌道角運動量は奇数に限定される。また低エネルギー領域(<50eV)の光電離過程であるので部分波l=5を最大として解析を行った。次に完全実験の手続きを説明する。

図2の(a),(b),(c),(d)の実験結果から決定されたダイナミカル・パラメータの16組の解のうちの3組の解を(1)式に代入して再現した45度配置MFPADをその実験結果とともにを図3(a),(b),(c)に示す。図3(a)以外は実験結果を再現できないことがわかる。このようにしてユニークに決定したCO2分子のC1s光電離の電気遷移行列要素の振幅の比と位相差を表1に示す。位相はクーロン位相を差し引いたものを示す。

C1s光電離ダイナミクス

 図4に各部分波の遷移行列要素と位相差の励起エネルギー依存性を示す。CO2の312eV付近をピークにもつ形状共鳴はC1s→εlσの部分波の遷移行列要素の増大が確認でき、各部分波の相対強度はd(fσ)、d(hσ)がそれぞれd(pσ)の半分程度の大きさとなりd(pσ)が支配的であることが示された。また位相差は共鳴の前後でC1s→εlσの全ての部分波が約πラジアンの変化を示す。以上のことからCO2のC1s光電離の形状共鳴はd(pσ)が最も支配的に増大し共鳴様の振る舞い示すのに加え、d(fσ)、d(hσ)も協奏的に共鳴することがわかった。

 またTDDFT計算と実験結果を比較すると、励起エネルギーに対しC1s→εlπの各部分波はほぼよい一致を示す。一方C1s→εlσではTDDFT計算では実験結果に比べ形状共鳴のピーク位置が3eVほど高く、共鳴の半値幅が半分程度である。またd(pσ)、d(fσ)、d(hσ)の大きさが実験値の約2倍である。またd(pσ)に対する各部分波の相対強度は実験ではd(fσ),d(hσ)は半分程度であるのに対し、TDDFT計算ではd(fσ)は0.8,d(hσ)は1.4となっている。これらの不一致はTDDFT計算で分子の振動励起を考慮しない点と内殻正孔生成にともなうエネルギー緩和の効果を考慮していない点によるものと考えられる。

【CS2分子のC1s光電離の完全実験】

 CS2分子のC1s光電離についてもCO2分子と同様の実験および解析を行った。CS2分子のC1sイオン化閾値293.25eVに対し、放出されるC1s光電子の運動エネルギーが3,10,15,19,22,30eVとなる点で測定を行った。完全実験の解析からCS2分子のC1s光電離では全ての部分波の位相差がなだらかな変化を示し、断面積の増大も見られなかった。つまりCO2分子に見られた共鳴増大がないことが示された。

【強レーザー中CS2分子の配列の観測】

 CS2分子の分子線に直交する方向から、Nd:YAGレーザー(1064nm、1J/pulse、8ns、30Hz、直線偏光)をf=760mmのレンズでスポットサイズφ〜0.1mmに集光し、衝突領域で0.5TW/cm2程度の強レーザー場を生成した。レーザーと対向する方向からアンジュレーターの基本波313eVの0次光のパルス放射光を導入した。放射光(パルス幅〜100ps、繰り返し周波数1.6MHz)は衝突領域でスポットサイズが〜0.1mm縦×〜0.1mm横になるように調節した。解離イオンペア(S+,CS+)の角度分布から配向度を求めるとレーザーを入射した場合、<<cos2θ>>=0.34となり、若干レーザーの偏光方向にCS2分子が配向することを観測した。今回の実験条件(レーザー強度、分子の回転定数、分極率、回転温度)から配向度を数値計算により見積もると<<cos2θ>>=0.4となり、実験結果と一致しない。数値計算より低い配向度である原因としては、レーザーと放射光との空間的な重ね合わせが完全でない可能性が考えられる。

図1.実験装置概略図

図2.CO2のC1s光電離の(a)C1s光電子角度分布,(b)O+解離イオン角度分布,(c)平行配置MFPAD,(d)垂直配置MFPAD

黒点は実験値。赤線はフィッティングカーブ。青線はTDDFT計算結果。偏光ベクトルは図中の矢印。

図3.45度配置MFPADの実験結果と(1)式に代入して再現したMFPAD

黒点は実験値。青線は実験値に対しフィットしたもの。赤線は異なる解の組(a),(b),(c)を代入して再現したMFPAD。

表1.完全実験により求めた電気遷移行列要素(単位:atomic unit)と位相差(単位:radian)(hν=322.6eV)

図4.C1s光電離における遷移行列要素と位相差

C1s→εlσの(a)遷移行列要素と(b)位相差。C1s→εlπの(c)遷移行列要素と(d)位相差。

丸印が実験値。実線はTDDFTによる計算結果。d(lσ)は計算結果を2で割った。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は6章からなり、寺本高啓の博士課程における内殻光電離の研究の成果をまとめたものである。

 第1章は序論であり、分子の内殻光電離ダイナミクスの研究の歴史および本研究の位置付けが述べられている。従来の実験室系での光電離の実験は、光電離部分断面積測定、ランダム配向分子からの光電子の角度分布測定、解離イオンの角度分布測定に限られており、これらの測定では分子の光電離過程を電気双極子近似で記述する遷移行列要素と位相差(ダイナミカルパラメータ)を個々に決定することができない。近年の実験技術の進歩により分子座標系における光電子の角度分布測定(MFPAD)が行われるようになり、円偏光および直線偏光によるMFPADからダイナミカルパラメータを実験により決定する試み(完全実験)が行われるようになった。しかしこの手法では偏光状態を変え、同じ励起エネルギーで測定を行う必要があるため時間がかってしまうという欠点があった。本研究では直線偏光による実験データのみ(光電子の角度分布、解離イオンの角度分布、MFPAD)を用いた新しい完全実験のアプローチを開発した。そしてこのアプローチをCO2およびCS2分子のC1s光電離に適用し、C1s光電離ダイナミクスを第一原理から理解することを目的としている。

 第2章では分子の内殻光電離の記述式が述べられている。ランダム配向分子からの光電子角度分布と解離イオンの角度分布はLegendreの2次式で表され、それぞれの非対称パラメータβe、β(ion)はダイナミカルパラメーターを用いて記述される。直線偏光軟X線で偏光面内のMFPADはLegendreの多項式とLegendreの陪関数で表され、それぞれの係数はダイナミカルパラメーターを用いて記述される。

 第3章では本論文で用いた光電子・光イオン多重同時計測運動量画像法(COVIS)の測定原理と本研究で行った装置の改良点について述べてある。軟X線による内殻光電離過程で生成した荷電粒子(光電子、光イオン)は遅延時間型位置敏感検出器で検出される。荷電粒子の検出器面内での位置(X,Y)の情報と光電離イベントから検出器に到達するまでの時間(Z)の情報から、荷電粒子の運動量を求める。この手法がCO-VISと呼ばれている。本研究での装置の改良点はソースチャンバーと衝突領域の距離の短縮化であり、衝突領域のガス濃度を従来の約10倍に増強することに成功した。また平行電場の乱れを防ぐため補償電極を従来の6枚から10枚に変更した。この結果、平行電場の乱れの影響は光電子の真円度公差で0.2mm以内に抑えることに成功した。

 第4章はCO2のC1s光電離の完全実験について述べてある。本研究の主題である完全実験の新しいアプローチを励起エネルギー316.6eVのときのCO2のC1s光電離の実験データを用いて説明した。新しいアプローチではランダム配向分子からの光電子の角度分布、ランダム配向分子からの解離イオンの角度分布、MFPADのデータを用いることによりダイナミカルパラメータの決定に成功した。また他の励起エネルギーでも同様の解析を行うことにより、ダイナミカルパラメータの励起エネルギー依存性を決定することに成功した。この結果、CO2のC1s光電離過程に特徴的な形状共鳴はpσ部分波が支配的に形成し、共鳴しているということが明らかとなった。またfσ部分波、hσ部分波も協奏的に共鳴していることが明らかとなった。一方σ→π遷移の部分波は全て励起エネルギーに対しほぼ一定であり、共鳴しないことが明らかとなった。これらの実験結果をRelaxed Core Hartree-Fock計算およびTime Dependent Density Functional Theory計算と比較すると、理論計算はともに実験結果を過大評価しており、実験結果を再現するためには核振動と電子緩和を考慮する必要があるということが明らかとなった。

 第5章ではCS2分子のC1s光電離の完全実験について述べてある。ここでは第4章で導入した完全実験の手法をCS2のC1s光電離に適用した。その結果、CS2のC1s光電離の形状共鳴ではf部分波が支配的であり、他の部分波は共鳴を起こさないことが明らかとなった。CS2のC1s光電離の部分断面積測定では形状共鳴はわずかな吸収増大しか見られないが、それはf部分波が共鳴増大するが他の部分波の部分断面積の総和により埋もれていることが本研究により明らかとなった。

 以上のように、本論文で開発した新しい完全実験のアプローチから、ダイナミカルパラメータを決定することが可能となり、分子の内殻光電離過程を第一原理から解明することを可能にした。

 よって、本論文が博士(理学)を授与するのにふさわしい研究であることを審査員は全員一致で認めた。

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