学位論文要旨



No 122160
著者(漢字) 河合,康俊
著者(英字)
著者(カナ) カワイ,ヤストシ
標題(和) 蛍光プローブを用いた生細胞内におけるERK情報伝達系の解析
標題(洋) Genetically Encoded Fluorescent Indicators to Visualize Protein Phosphorylation by Extracellular Signal-Regulated Kinase (ERK) in Single Living Cells
報告番号 122160
報告番号 甲22160
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5023号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 教授 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

【序】

 細胞内シグナル伝達の過程において,タンパク質はさまざまな修飾を受けて機能や活性を調節することによって生体機能に重要な役割を果たしている.その中心的役割を担うタンパク質修飾としてリン酸化が良く知られている.これまでに数多くのタンパク質リン酸化酵素(プロテインキナーゼ)が同定されており,ヒトゲノム配列の解析の結果,500種類程度のキナーゼが存在すると推測されている.これらの中でも古くから盛んに研究が行われているキナーゼの一つがextracellular signal-regulated kinase(ERK)である.ERKはさまざまな増殖因子や発がんプロモーターなどの細胞外刺激で活性化するセリン/スレオニンキナーゼとして1980年代後半に見いだされた.細胞外刺激によって活性化されたERKは転写因子などをリン酸化することで最終的に核へシグナルを伝え,増殖,分化などのさまざまな生体機能の制御に関与しており,細胞内シグナル伝達におけるERKの役割は非常に大きい.

 これまでに,蛍光標識したERKを用いることによって,細胞外刺激時におけるERK分子の細胞内局在の変化については数多くの研究がなされている.その一方で,このときのERKの「活性」がどうなっているかを知るための分析手法は確立されていないため,ERKによる細胞内シグナル伝達のメカニズムについては未だ不明な点も多い.そこで本研究では,生細胞内においてERKがいつ,どこで,どのように活性化して基質タンパク質をリン酸化するかを検出するための新規蛍光プローブの開発を行い,細胞外刺激の下で起こるERKを介した細胞内シグナル伝達のメカニズムについての新たな知見の獲得を目指した.

【プローブの設計】

 シアン色蛍光タンパク質(CFP)・黄色蛍光タンパク質(YFP)間の蛍光共鳴エネルギー移動(FRET)効率の変化を利用してERKの活性を検出する蛍光プローブ"Erkus"を設計した[図1].Erkusは,N末端から順にCFP,リン酸化認識ドメイン,フレキシブルリンカー,基質ドメイン,YFP,ERK結合ドメイン(Dドメイン)を連結したキメラタンパク質である.活性を持ったERKによって基質ドメインがリン酸化されると,リン酸化認識ドメインと相互作用することにより分子構造が変化してCFP-YFP間のFRET効率に変化が生じる.基質ドメインにはERKの標的タンパク質EGFRのERKリン酸化部位であるT669ペプチド,リン酸化認識ドメインにはリン酸化スレオニン残基を含んだペプチドに対して結合能を持つRad53 タンパク質のFHA2ドメインをそれぞれ用いた.RSK1タンパク質に由来するDドメインはERKに対して選択的に結合する性質を持っており,プローブの基質ドメインがERKによって選択的かつ効率的にリン酸化されるようにERKをプローブに繋ぎ止める役割をする.これらの分子設計に基づき,ErkusをコードするcDNAを遺伝子工学的に作製した[図2].

【プローブのキャラクタリゼーション】

 ヒト乳ガン由来のMCF-7細胞にcDNAを遺伝子導入してErkusを発現させ,ウエスタンブロッティングを行った結果を図3に示す.抗GFP抗体によってErkusの発現を示す78kDaのバンドが検出された.また,100ng/mLの上皮増殖因子(EGF)で15分間刺激した細胞からは抗リン酸化ERK基質(PXpTP)抗体のバンドが検出され,EGF刺激によってErkusの基質ドメインがリン酸化されることが確認できた.

 次に,蛍光顕微鏡によってMCF-7細胞内におけるErkusのFRET応答を観察した.Erkusは細胞質および核を含む細胞全体に一様に分布しており,100ng/mL EGFで刺激すると蛍光強度比(CFP/YFP)の増加,すなわちFRET効率の減少が観察されて,15分後にはプローブのFRET応答はプラトーに達した[図4].基質ドメインのリン酸化部位のスレオニン残基をアラニン残基に置換したプローブ変異体"Erkus-T669A"[図2]ではこのようなFRET効率の変化は観察されなかったため,FRET効率の変化は基質ドメインのスレオニン残基のリン酸化に起因するものであることがわかった.

 続いて,Erkusのキナーゼ選択性を薬理学的に検証するために,各種キナーゼ阻害剤(10μM U0126[ERKシグナル経路の阻害剤],10μM SB203580[p38MAPK阻害剤],2μM JNK inhibitor I[JNK阻害剤])でそれぞれ30分間前処理したMCF-7細胞に100ng/mL EGF刺激を行ったところ,U0126で前処理した場合にのみFRET応答が見られなくなった[図5].この結果から,Erkusのリン酸化はERKによって引き起こされるものであり,ERK以外のMAPキナーゼファミリーであるp38 MAPK やJNKによるものではないことが確認された.

 Erkusの分子設計においてC末端に組み込んだERK結合ドメイン(Dドメイン)がErkusのFRET応答に対してどのように寄与しているかを評価するために,Dドメインを持たないプローブ変異体"Erkus-delD"を作製した[図2].100ng/mL EGF刺激に対してErkus-delDはFRET応答を示すものの,Dドメインを持つErkusに比べて,応答の速さはおよそ60%,応答のピーク値はおよそ50%しかなかった[図6].この結果から,Erkusに組み込まれたDドメインはERKと効率的に結合することによってErkusの分析感度の向上に寄与していることが示された.

【核および細胞質におけるERKシグナル】

 ERKの基質となるタンパク質は,細胞質,細胞膜,核,ミトコンドリアなど,細胞内の至る所に分布している.その中でも特に,核内に存在する転写因子のERKによるリン酸化は増殖,分化といった重要な細胞機能と深い関連があるために,核内におけるERKの挙動を調べる研究はこれまでに数多く行われている.蛍光標識したERKを用いた研究の結果から,細胞外刺激依存的にERKが核内に移行することが明らかにされつつある.しかし,このときにERKがいつ,どこで活性化されて基質をリン酸化するのかは依然としてよく分かっていない.

 そこで,核および細胞質におけるERKの活性化と基質のリン酸化を可視化するために,ErkusのC末端に核内移行シグナル(NLS)を連結した核内ERK活性検出プローブ"Erkus-nuc",およびErkusのC末端に核外移行シグナル(NES)を連結した細胞質ERK活性検出プローブ"Erkus-cyto"をそれぞれ作製した[図2].これらのプローブをMCF-7細胞に発現させると,Erkus-nucは核内のみに,Erkus-cytoは細胞質のみに局在した[図7].これらの細胞を100ng/mL EGFで刺激したところ,Erkus-nucとErkus-cytoの間ではFRET応答に顕著な違いが見られた[図8].細胞質プローブErkus-cytoはEGF刺激後すみやかにFRET応答を示すが,この応答は一過的であり,刺激20分後にはピーク値のおよそ50%,40分後には20%以下にまでFRET応答が減少した.一方,核内プローブErkus-nucのFRET応答はErkus-cytoに比べて持続的で,EGF刺激15分後にFRET応答が最大に達し,60分経過してもピーク値のおよそ50%が応答したまま残っていた.

 このようにEGF刺激時の細胞質におけるERKの活性化が一過的である理由として,細胞質にはERKを不活性化する何らかの因子が存在していることが示唆されるが,その有力な候補としてMAPKホスファターゼ(MKP)が挙げられる.MKPとは,ERKの活性化に必要となる活性ドメイン内TEY配列の二つのリン酸化残基,ホスホスレオニンとホスホチロシンを脱リン酸化してERKを不活性化する酵素である.そこで,MKPなどのホスファターゼによるチロシン脱リン酸化の阻害剤20mMオルトバナジン酸ナトリウムで60分間前処理した細胞に100ng/mL EGFを加えたところ,細胞質プローブErkus-cytoは先程と比べてFRET応答が持続的になった[図9].一方,核内プローブErkus-nucのFRET応答には何ら変化が見られなかった[図10].この結果から,EGF刺激によって活性化されたERKを脱リン酸化して不活性化するチロシンホスファターゼが細胞質にのみ存在していることが明らかとなった.

【まとめ】

 本研究ではタンパク質リン酸化酵素ERKの活性を検出するための蛍光プローブ分子Erkusを開発し,これを用いて,EGF刺激時における核と細胞質でのERK活性の持続性の違いとその背後にあるメカニズムについて新たな知見を得ることに成功した.この結果は,破壊分析によるキナーゼアッセイ,あるいは蛍光標識によるERKの分子動態解析ではなし得なかった,生細胞内における活性化ERKによるリン酸化シグナル伝達の時間的・空間的な解析に蛍光プローブが有用であることを示すものである.

図1.ERK活性検出プローブ"Erkus"の分子デザイン

図2.ErkusおよびErkus変異体をコードするcDNAの設計

図3.ウエスタンブロッティングによるプローブのリン酸化の検出

図4.ErkusおよびErkus-T669AのFRET応答

図5.キナーゼ阻害剤で前処理した細胞内でのErkusのFRET応答

図6.ErkusおよびErkus-delDのFRET応答

図7.Erkus-nucおよびErkus-cytoの細胞内局在

図8.Erkus-nucおよびErkus-cytoのFRET応答

図9.オルトバナジン酸ナトリウムで前処理した細胞内でのErkus-cytoのFRET応答

図10.オルトバナジン酸ナトリウムで前処理した細胞内でのErkus-nucのFRET応答

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は以下の3章より成る.

 第1章は序論であり,本研究の背景,動機と目的が述べられている.タンパク質リン酸化酵素(キナーゼ)によるタンパク質のリン酸化は細胞内シグナル伝達の過程において中心的な役割を担っている.近年,生細胞内でのキナーゼ活性を非破壊的に分析する蛍光プローブが開発され,この手法によっていくつかのキナーゼについて細胞内動態に関する新たな知見が得られている.一方,細胞の増殖・分化などの重要な生体機能の制御に関与しているキナーゼextracellular signal-regulated kinase (ERK)については,古くから盛んに研究が行われているにもかかわらず,細胞内のどこで,いつ活性化しているかを知るための分析手法が確立しておらず,細胞内動態に関する十分な知見が得られていない.本研究では,生細胞内においてERKがどこで,いつ活性化して基質タンパク質をリン酸化するかを検出するための新規蛍光プローブの開発を行い,それを用いて,細胞外刺激の下で起こるERKを介した細胞内シグナル伝達のメカニズムについての新たな知見を獲得することを目的とする旨が述べられている.

 第2章は,ERK活性を検出する蛍光プローブの開発について述べている.蛍光プローブは,2色の蛍光タンパク質(CFP, YFP),基質ドメインであるEGFRタンパク質のERKリン酸化部位T669ペプチド,リン酸化認識ドメインであるRad53タンパク質のFHA2ドメイン,ERK結合ドメインであるRSK1タンパク質のDドメインから構成されるキメラタンパク質である.活性を持ったERKによって基質ドメインがリン酸化されると,リン酸化認識ドメインと相互作用することにより分子構造が変化してCFP-YFP間の蛍光共鳴エネルギー移動(FRET)効率に変化が生じ,その結果CFPとYFPの蛍光強度比が変化してERKの活性を検出することが可能となる.ERK結合ドメインはERKに対して選択的に結合する性質を持っており,プローブの基質ドメインがERKによって選択的かつ効率的にリン酸化されるようにERKをプローブに繋ぎ止める役割をする.これらの分子設計に基づき,蛍光プローブをコードするcDNAを遺伝子工学的に作製している.蛍光プローブを発現させた細胞を上皮増殖因子(EGF)で刺激することによって蛍光プローブの基質ドメインがリン酸化されることをウエスタンブロッティング法によって示している.蛍光顕微鏡を用いて細胞内における蛍光プローブの蛍光強度比(CFP/YFP)の測定を行い,EGF刺激によって蛍光強度比の増加,すなわちFRET効率の減少が観察され,刺激後15分で応答がプラトーに達することを示している.また,蛍光プローブの基質ドメインのリン酸化部位をスレオニン残基からアラニン残基に置換したプローブ変異体では蛍光強度比の変化が観察されなかったという結果から,蛍光プローブの応答が基質ドメインのリン酸化に起因するものであることを示している.キナーゼ阻害剤を用いた薬理学的手法によって3種類のキナーゼERK, p38 MAPK, JNKに対する蛍光プローブの選択性の評価を行い,蛍光プローブのリン酸化がERKによって選択的に引き起こされており,p38 MAPKやJNKによるものではないことを示している.ERK結合ドメインを欠損したプローブ変異体はERK結合ドメインを有するプローブと比較してEGF刺激に対する蛍光強度比の変化量が約50%であったという結果から,蛍光プローブに組み込んだERK結合ドメインが蛍光プローブの分析感度の向上に寄与していることを示している.核内移行シグナルおよび核外移行シグナルを連結した蛍光プローブを作製して核および細胞質におけるERK活性の可視化検出を行い,その結果,細胞質ではプローブの応答が一過的であり,核ではプローブの応答が持続的であるという顕著な違いがあることを示している.このような違いが見られる原因を明らかにするために,「細胞質にはERKを不活性化する何らかの因子が存在し,その因子はERKの活性ドメイン内にあるホスホスレオニンとホスホチロシンを脱リン酸化してERKを不活性化する働きを持つホスファターゼである」という仮説を立て,ホスファターゼによるチロシン脱リン酸化の阻害剤であるオルトバナジン酸ナトリウムで細胞を前処理した後にEGF刺激を行い,蛍光プローブの応答を観察している.細胞質ではチロシン脱リン酸化を阻害することによってプローブの応答が持続的になり,核ではプローブの応答に変化が見られなかったという結果から,EGF刺激によって活性化されたERKは,細胞質ではホスファターゼによる脱リン酸化を受けて不活性化されることを示している.

 第3章は総合的結論である.

 以上のように,本研究では,タンパク質リン酸化酵素ERKの活性を検出するための蛍光プローブを開発した.さらに,この蛍光プローブを用いて,EGF刺激時において核と細胞質との間でERK活性の持続時間に顕著な差が見られることを発見し,細胞質におけるERKの活性化が一過的である原因は細胞質に存在するホスファターゼがERKを不活性化するためであることを明らかにした.これらの研究は理学の発展に大きく寄与する成果であり,博士(理学)取得を目的とする研究として充分であると審査員一同が認めた.なお,本論文は各章の研究が複数の研究者との共同研究であるが,論文提出者が主体となって行ったものであり,論文提出者の寄与は充分であると判断する。

 従って,博士(理学)の学位を授与できると認める.

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