学位論文要旨



No 122162
著者(漢字) 坂本,良太
著者(英字)
著者(カナ) サカモト,リョウタ
標題(和) 遷移金属錯体のπ共役連結による有機フォトクロミック分子の機能増幅
標題(洋) Multi-functionalization of Organic Photochromics by π-Conjugation with Transition Metal Complexes
報告番号 122162
報告番号 甲22162
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5025号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西原,寛
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 塩谷,光彦
 東京大学 教授 長谷川,哲也
 東京大学 助教授 田島,裕之
内容要旨 要旨を表示する

【緒言】近年多様な電子素子の小型化が進められているが、既存のトップダウン的な手法によるそれは近い将来限界の壁に対面すると叫ばれて久しく、これに変わる新たな方法論として、原子・分子の集積により素子を組み上げるボトムアップ法が提唱されている。ここで構成要素である分子自身に高い機能性を持たせることはボトムアップ法による高機能デバイス創製の戦略の一つであるが、本研究では分子スイッチ・メモリ素子としての応用が期待されているフォトクロミック分子の機能増幅を目指し、2 種の分子設計を行った。Cornell 大学に短期留学中に行った研究も合わせて報告する。

(1)アゾベンゼン共役ジチオラトビピリジン白金(II)錯体の光異性化メカニズムの解明

【序】ジチオラトビピリジン白金(II)は可視部(500~700 nm)に配位子間電荷移動吸収帯と白金ジチオレン環に由来するドナー性を有する錯体である。これまでに白金ジチオレン環、ビピリジン配位子の両方に共役アゾベンゼン部位を有する錯体4 が、365, 405, 578 nmの光に対し光三安定状態を発現することを見出しているが(図1)、ここではそれぞれ白金ジチオレン環、ビピリジン配位子側のみにそれを有する錯体1, 3 について、光異性化の量子収率の測定およびメカニズムに対する考察を行った。

【結果および考察】図2 に錯体1, 3 の電子スペクトルと各吸収帯のDFT 計算による帰属を示す。両者の差異は配位子内電荷移動(CT)遷移の有無にあり、これが光三安定状態の発現に寄与している。錯体1, 3 はアゾベンゼンπ-π*、配位子内CT(1 のみ)、配位子間CT 吸収帯を励起した場合のいずれもΦtrans→cis = 0.091 〜 0.48 という高い異性化量子収率を示した。Kasha 則に従った光反応過程を仮定すると、両錯体ともに最低一重項励起状態である配位子間CT 状態を必ず経由することになるが、この状態に対するアゾベンゼン部位の寄与は小さく(図2)、高効率の光異性化は考え難い。本系では白金(II)イオンの重原子効果に起因する項間交差・内部転換を経て最低三重項励起状態である3n-π*状態から異性化が進行しているものと推測される。

(2)ビス(フェロセニルエチニル)エテンにおける可視光を刺激とするフェロセン間電子カップリングのスイッチ

【序】フォトクロミック分子の分子デバイスとしての応用に向けて解決すべき問題点は多々存在するが、本研究では異性化挙動の非破壊検出に焦点を当てた。すなわち、フォトクロミック分子であるエチニルエテンにフェロセンをπ共役で結合した化合物(E)-1, (E)-2 を設計し(図3)、異性化に伴うエチニルエテンのπ系を介した混合原子価状態におけるフェロセン間電子カップリングの強度変化を電流−電位応答の変化として検出することを試みた。また、この分子構造は(1)に挙げた(配位子内)CT 吸収帯の発現とその励起による可視光異性化の可能性も有している。これまでにアゾベンゼンのみで報告されているこの種の相互作用が、エチニルエテンにおいても観測しうるのかという点についても着目した。

 なお、(E)-1 が有するカルボニル基が共役したエチニルエテン骨格の光物性自体の報告例がこれまでに存在しないため、(E)-1 のフェロセニル基をp-トリル基で置換した(E)-3 について、(E)-2 の置換化合物である(E)-4 とともに物性評価を行った。さらに(E)-1 のエチニル鎖を延長した(E)-7 について、オリゴイン鎖を介した長距離相互作用の発現の有無を調べた。

【結果および考察】

(i)合成および同定 図4 に化合物(E)-1, (E)-2 の合成経路を示す。この際(Z)-1 が副生成物として得られた。他の化合物にも同様の合成法を用いた。(E)-1, (Z)-1 については単結晶X 線構造解析にて、残る化合物に関しては(E)-1、(Z)-1 とのIR スペクトルの比較により絶対配座を決定した。

(ii)電子スペクトル フェロセン部位を持たない(E)-3 がエチニルエテン骨格特有のπ-π*吸収帯のみを示した一方、(E)-1,(E)-2 は可視部に特徴的な吸収帯も示し、これはDFT 計算によってフェロセンdx2-y2 軌道とエチニルエテンπ軌道が混成した軌道(HOMO)からエチニルエテンπ*軌道(LUMO)へのCT 遷移であると帰属された(図5)。また、化合物(E)-1 と(E)-2を比較すると強い深色効果が(E)-1 で観測され、中心二重結合上の共役カルボニル基が光物性に与える影響が大きいこと示唆している。エチニル鎖を延長した(E)-7 もCT 吸収帯を有しており、加えてπ-π*およびCT 吸収帯の吸収強度と極大波長の増大も観測された。

(iii) (E)-1, (E)-2, (E)-7 の光異性化挙動 (E)-1 に546 nm, 578 nmの可視光照射によるCT 吸収帯の励起を行ったところ、紫外可視スペクトル上で1 か所の等吸収点とともにπ-π*、CT 吸収帯の段階的な減少を示し(図6(a))、1H-NMR スペクトル上ではZ 体の生成とそれに伴うE 体の減少が観測された(図6(b))。光定常状態におけるZ 体比は1H-NMR スペクトルの積分比から89%、また量子収率(トルエン中、546 nm)は紫外可視スペクトルの経時変化からΦE→Z = 1.6 × 10(-5), ΦZ→E = 0.42 × 10(-5) と算出された。また、紫外光によるπ-π*吸収帯の励起も異性化を引き起こすことも確認された。(E)-1 と同様、(E)-7 もCT, π-π*吸収帯の励起によってE→Z 光異性化を示した。トルエン中、578 nm の光照射によって79%がZ 体へと変換され、量子収率にはΦE→Z = 1.3 × 10(-4), ΦE→Z = 0.72 × 10(-4) と算出された。これは(E)-1 と比べ10 倍程度大きな値である。一方、(E)-2 はCT, π-π*吸収帯の励起による光異性化挙動を全く示さなかった。

(iv) (E)-3, (E)-4 の光物性 (E)-3 はπ-π*吸収帯の励起により効率良く光異性化を示した(トルエン中、436 nm:定常状態におけるZ 体比: 94%, ΦE→Z= 0.017, ΦZ→E = 0.018)が、(E)-4 は顕著な光分解も伴うことが分かった。

また、(E)-4 が1π-π*励起状態からの強い蛍光(ΦF = 0.2)を示した一方、(E)-3 ではわずかな蛍光(ΦF 〜0.0005)が観測されただけであった。以上の結果は(E)-3 が有する新規エチニルエテン骨格が(E)-4 の従来のそれと比べE-Z 光異性化により適した分子構造であることを示唆している。

(v) (E)-1, (E)-7 の光異性化メカニズム Fe(II)イオンの重原子効果によって1CT励起状態から3π-π*状態への項間交差・内部転換を経て異性化が進行し、低い異性化量子収率はフェロセンの3LF 状態による3π-π*状態の効率的な消光に起因していると考えられる。この異性化機構は(E)-2 が光異性化を示さなかったこと、および(E)-7 で量子収率が改善されたことも説明することができる。

(vi) (E)-1, (Z)-1 におけるフェロセン間電子カップリング サイクリックボルタンメトリーおよびボルタモグラムのシミュレーションを行い、2 つのフェロセン部位の式量電位差ΔE0'は(E)-1, (Z)-1 でそれぞれ70 mV, 48 mV と算出された(図7)。Fe イオン間の距離はZ 体のほうがはるかに小さい(結晶構造では(E)-1: 11.73 Å, (Z)-1: 6.17 Å)にもかかわらずE 体がより大きなΔE0'を示したことは、電子カップリングの発現に関しthrough-space 的な静電反発に比べエチニルエテンπ共役鎖を介したthrough-bond 相互作用の寄与が支配的であることを支持している。なお、Z 体におけるフェロセンおよび共役エステル基同士の相対的配座の歪みが結晶構造、電子スペクトルから示唆されており、これが電子カップリング強度の低下の主因であると考えられる。

 以上の結果をまとめると、化合物1 はフェロセン間の電子カップリングの可視光スイッチを実現した初めての系(図8)である。

(3) テルピリジン架橋配位子-Co(II)高分子錯体のHOPG 表面への自己集積化

【序】電極表面上への機能性分子の自己集積化はボトムアップ法における分子の配列・集積の手間を大きく削減する可能性から基礎応用の両面より注目されている技法である。ここではCo(II)イオンとの高い親和性を示すテルピリジンからなる架橋配位子1-3(図9(a))を用いた高分子錯体のHOPG表面への自己集積とそのSTMによる観測を行った。

【結果および考察】高分子錯体の自己集積は図9(b)に示したdouble-layered immersion 法を用いて行った。架橋配位子1 を用いた場合には規則配列構造がSTM 像として観測され(図9(c))、その長さ情報から高分子錯体由来のものであることが示唆された。配位子2 では、ピッチの異なる二種類の規則配列構造が観測され(図9(d), (e))、(d)は(e)の単層が30°の角度を成して重なった複層によるmoire パターンであると同定された。

 一方配位子3 を用いた場合には規則配列は観測されなかったが、図9(b)に示した合成系の有機−水層界面に高分子錯体由来と思われる膜が生成していたことから、条件次第では観測し得るものと考えられる。

【結論】遷移金属錯体のπ共役によって、有機フォトクロミック分子の機能性を増幅することに成功した。同時にその発現メカニズムについても解明した。また、高分子錯体から成る自己集合膜をHOPG 上に作成し、STM で観測することに成功した。

図1 アゾ共役ジチオラトビピリジン白金(II)錯体1,3,4と4が示す光三安定状態.

図2 錯体1,3の電子スペクトルと各吸収帯のDFT計算による帰属.

図3 エチニルエテン化合物(E)-1〜(E)-4, (E)-7.

図4 (E)-1, (Z)-1, (E)-2の合成スキーム

図5 CH2Cl2中における(E)-1〜(E)-3,(E)-7, およびフェロセンの電子スペクトルと(E)-1のCT吸収帯の主要な遷移.

図6 可視光(546 nm, 578 nm)照射に伴う(a) CH2Cl2中における(E)-1の紫外可視スペクトル変化

(b) CD2Cl2中における(E)-1の1H-NMRスペクトル変化と(Z)-1の1H-NMRスペクトル.

図7 (a) (E)-1, (Z)-1のサイクリックボルタモグラム(1.2mM, CH2Cl2 - 0.1M nBu4NBF4, 100 mVs(-1), 3mmφ GC) (b) (E)-1のボルタモグラムに対するシミュレーション.

図8 (E)-1における可視光によるフェロセン間の電子カップリングのスイッチ.

図9 (a) テルピリジン架橋配位子1-3. (b) Doublelayered immersion法. (c) Ligand 1とCo(II)イオンから成る高分子錯体の規則配列構造(単層)のSTM像.

(d), (e) Ligand 2 とCo(II)イオンから成る高分子錯体の規則配列構造(複層、単層)のSTM像.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章と付録からなり、第1章は研究の背景と目的、第2章はアゾベンゼン共役ジチオラトビピリジン白金(II)錯体の光異性化メカニズムの解明、第3章はビス(フェロセニルエチニル)エテンにおける可視光を刺激とするフェロセン間電子カップリングの変換、第4章はテルピリジン架橋配位子-Co(II)高分子錯体のHOPG表面への自己集積化、第5章は研究成果のまとめと展望について述べられている。以下に各章の概要を記す。

 第1章では研究の背景について述べている。近年多様な電子素子の小型化が進められているが、既存のトップダウン的な手法は近い将来限界に達すると叫ばれて久しく、これに変わる新方法論として、原子・分子の集積により素子を組み上げるボトムアップ法が提唱されている。ここで構成要素である分子自身に高い機能性を持たせることはボトムアップ法による高機能デバイス創製の戦略の一つである。そこで本研究では、分子スイッチ・メモリ素子としての応用が期待されているフォトクロミック分子の機能増幅を目指した分子の合成と物性の研究ならびに錯体分子の界面集積構造のSTM観察を行った。

 第2章では、ジチオラトビピリジン白金(II)錯体の両方の配位子上にアゾベンゼン部位を結合した錯体が、二つのアゾベンゼン部位が(trans, trans)、(cis, trans)、(trans, cis)の3つの状態を365, 405, 578 nmの光照射によって変換できる―光三安定状態を発現する―ことを見出し、その機構解明を行った研究について述べている。具体的には、白金ジチオレン環、ビピリジン配位子側のみにアゾベンゼン部位を有する錯体について、光異性化の量子収率の測定およびメカニズムに対するDFT計算を用いる理論的考察を行い、その結果を踏まえて、2つのアゾベンゼン部位を持つ錯体の異性化を考察した。その結果、白金(II)イオンの重原子効果に起因する項間交差・内部転換を経て最低三重項励起状態である3n-π*状態から異性化が進行しているものと推測されることを示した。

 第3章においては、異性化挙動の非破壊検出に焦点を当て、フォトクロミック分子であるエチニルエテンにフェロセンをπ共役で結合した数種類の化合物を設計し、異性化に伴うエチニルエテンのπ系を介した混合原子価状態におけるフェロセン間電子カップリングの強度変化を電流-電位応答の変化として検出した結果を述べている。この分子構造では(配位子内)CT吸収帯の発現とその励起による可視光異性化の可能性も有しているため、金属-フォトクロミック部位間相互作用が、エチニルエテンにおいても観測しうるのかという点についても着目して研究を展開した。さらに、フェロセニル基をフェニル基に置換したエチニルエテン誘導体についても合成して物性を比較した。単結晶X線構造解析、電子スペクトル解析、電子構造のDFT計算、光物性測定から、光反応過程の機構、熱力学を考察し、また電気化学測定およびその結果のシミュレーションによりフェロセン部位間の分子内電子相互作用を見積もり、その結果、フェロセン間の電子カップリングの可視光照射により変換できる初めての系を実現した。電子カップリングの発現に関し、through-space的な静電反発に比べエチニルエテンπ共役鎖を介したthrough-bond相互作用の寄与が支配的であること、Z体におけるフェロセンおよび共役エステル基同士の相対的配座の歪みが電子カップリング強度の低下の主因であることを示した。

 第4章においては、ビステルピリジン架橋配位子-Co(II)高分子錯体のHOPG表面への自己集積化を走査トンネル顕微鏡(STM)により観察した結果について述べている。p-フェニレン架橋ビステルピリジン配位子を用いた場合には規則配列構造がSTM像として観測され、その長さ情報から高分子錯体由来のものであるが、架橋ビステルピリジン配位子では、ピッチの異なる二種類の規則配列構造が観測され、単層および単層が30°の角度を成して重なった複層によるmoireパターンであることを示した。

 第5章では、以上の結果を総括し、今後の研究展望を述べている。またAppendixとして、構造解析結果を記している。

 以上、本論文では、遷移金属錯体のπ共役によって、有機フォトクロミック分子の機能性を増幅することに成功したと同時に、その発現メカニズムについても解明したこと、また高分子錯体から成る自己集合膜をHOPG上に作製し、STMで観測することに成功したことを記述している。本博士論文において解明された新規なフォトクロミック分子の特異な性質は、機能分子化学の分野を大きく進展させると期待される。なお、本論文第2章は村田昌樹、久米晶子、三瓶秀和、杉本 学、西原 寛との共同研究、3章は村田昌樹、西原 寛、4章はH. D. Abruna、西原 寛との共同研究であり、一部は既に学術雑誌として出版されたものであるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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