学位論文要旨



No 122165
著者(漢字) 内藤,康彰
著者(英字)
著者(カナ) ナイトウ,ヤスアキ
標題(和) 時空間分解ラマン分光法による単一出芽酵母生細胞の物理化学的研究
標題(洋) Physicochemical study on single living budding yeast cells by in vivo time- and space-resolved Raman spectroscopy
報告番号 122165
報告番号 甲22165
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5028号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 大越,慎一
内容要旨 要旨を表示する

【序】

生細胞の生命活動を分子レベルで解明する事は、科学の最も重要な課題の一つである。この目的を達成するためには、in vivo条件下での探索的研究が不可欠である。従来の細胞破壊を伴う生化学の手法では、時間、空間情報が平均化されるため、このような研究は不可能である。近年、in vivo細胞観察の主流として用いられている蛍光顕微鏡観察は、標的分子の標識を要求するために、標識可能な既知の分子種からの情報しか得られず、探索的研究には適さない。本研究で用いた時空間分解ラマン分光法は、以下の点から生細胞のin vivo研究に適している。1)非破壊、非侵襲手法であり、真のin vivo分子情報を得る事ができる。2)染色を要求しない。そのため、未知の分子種の情報を直接得る事ができ、探索的研究が可能である。3)分光して得たラマンスペクトルを解析する事により、分子種の詳細な構造情報を得る事ができ、構造変化を実時間で追跡する事が出来る。一方、ラマン散乱は蛍光に比べて強度が弱いために、その検出が困難であるという欠点があるが、近年の技術革新により顕微鏡下で単一生細胞のラマンスペクトルを観測することが可能になった。筆者は、共焦点顕微鏡を用いた時空間分解ラマン分光法により、単一出芽酵母生細胞のラマンスペクトルを解析する物理化学の観点からの生細胞研究を行った。

【実験】

共焦点顕微ラマン分光装置を用い、生きた出芽酵母細胞内の微小領域にレーザーを集光し、細胞内の様々な場所でのラマンスペクトルを時間と空間を分解して測定した。試料は、野生の出芽酵母細胞「MT8-1」(京都大学大学院農学研究科応用生命科学専攻、植田充美先生提供)を、培地はYPD培地を用いた。酵母細胞を水もしくは培地に懸濁させた状態で、カバーガラスとスライドガラスに挟みワセリンで封じるか、ガラスボトムディッシュに入れた状態で測定した。細胞の固定剤に、ポリ-L-リジン、または、con Aを用いた。モデル化合物として用いたポリリン酸塩(Na塩,K塩,Li塩,Arg塩,Mg塩,Ca塩)は農業・食品産業総合技術研究機構畜産草地研究所、大友量博士に提供していただいた。図1に本研究で用いた時空間分解ラマン分光装置を示す。図1(上)は632.8nm励起顕微ラマン分光装置、図1(下)は785nm励起顕微ラマン分光装置である。632.8nm励起顕微ラマン分光装置は、東京インスツルメンツ社市販の装置を基本にし、筆者が中心となって光学系を組みかえ、改良した。785nm励起顕微ラマン分光装置は、本研究室で開発されたものである。生細胞とポリリン酸塩水溶液を除くモデル化合物の測定には励起光にHe-Neレーザーの632.8nmの発振線を、ポリリン酸塩水溶液の測定には励起光にTi-Sapphireレーザーの785nmの発振線を用いた。励起光に632.8nmの発振線を用いた時に、面内で250nmの空間分解能を、また、100μmのピンホールを用いた時に面外に2μmの空間分解能を持つ。試料部でのレーザーパワーは約4mWである。785nmの発振線を用いた時の試料部のレーザーパワーは約30mWである。

【ダンシングボディと細胞自然死】

出芽酵母液胞内には、ダンシングボディと呼ばれる粒子が時折出現することが知られている。出現後ダンシングボディは、液胞内を活発に運動する。その存在は、生化学研究者に広く知られていたが、分離が不可能であるため、研究はほとんどされていなかった。染色による研究からポリリン酸を含む可能性が示唆されていたが、詳細な組成や、出現、消失機構については未知であった。筆者は、ダンシングボディがレーザーにトラップされる事、ダンシングボディの主成分がポリリン酸塩固体である事、ダンシングボディ出現に伴う避けられない細胞死が起こる事を初めて明らかにした。図2に、出芽酵母細胞死過程を示す。出芽酵母の光学顕微鏡観察を行っていると、液胞内にダンシングボディが出現し、後に液胞が消失し細胞が死んでいく様子が観測される。細胞へのレーザー照射の有無、細胞を水または液体培地に懸濁する、細胞位置固定の有無に関わらず、観測した642個全ての細胞でこの細胞死過程が起きた。

【液胞の空間分解ラマンスペクトル】

図3(上)に、液胞の空間分解ラマンスペクトルとモデル化合物のラマンスペクトルを示す。モデル化合物として、ポリリン酸ナトリウム、NaH2PO4,Na2HPO4,Na3PO4,Na4P2O7,Na5P3O(10)(全て水溶液)を選んだ。液胞とモデル化合物のラマンスペクトルの比較から、液胞の1150cm(-1)バンドはポリリン酸のPO2(-)対称伸縮振動、690cm(-1)バンドはポリリン酸のP-O-P対称伸縮振動に帰属される。また、1080,880,520cm(-1)バンドはそれぞれH2PO4(-)のP-(OH)2対称伸縮振動、PO2対称伸縮振動、変角振動に帰属され、990,540cm(-1)バンドはHPO4(2-)のPO3対称伸縮振動、PO3変角振動に帰属される。二リン酸、三リン酸のバンドは検出されていない。図3(下)に鎖長の異なるポリリン酸ナトリウム水溶液と液胞のラマンスペクトルの比較を示す。用いたポリリン酸ナトリウム水溶液は、3種類。鎖長範囲700以上、200から230と29から45である。液胞のPO2(-)振動バンドはモデル化合物のラマンバンドを全て包括しているため、液胞内には鎖長範囲が数10から1000程度のポリリン酸ナトリウム水溶液が含まれている事が明らかになった。

【ダンシングボディの空間分解ラマンスペクトル】

図4(上)に、ダンシングボディの空間分解ラマンスペクトルとモデル化合物のラマンスペクトルを示す。モデル化合物には、ポリリン酸ナトリウム結晶と水溶液(鎖長範囲は700以上)、NaH2PO4,Na2HPO4,Na3PO4,Na4P2O7,Na5P3O(10)(全て水溶液)を用いた。モデル化合物との比較からダンシングボディの主成分は、ポリリン酸塩固体である事がわかった。オルトリン酸、二リン酸、三リン酸は検出されなかった。ダンシングボディの主な強い1160と700バンドは、PO2-対称伸縮振動とP-O-P対称伸縮振動に帰属される。図4(下)にPO2-振動バンドの詳細な比較を示す。ダンシングボディは、ポリリン酸ナトリウム水溶液より固体とよく似ている事がわかる。この結果から、ダンシングボディは結晶に近いポリリン酸塩が主成分である事がわかった。生細胞の中にこのような1mmもの大きさの結晶様固体が存在する事は極めて驚くべき事である。

【時間分解ラマンイメージングによる出芽酵母細胞死過程の追跡】

図5に出芽酵母細胞の光学顕微鏡写真と時間分解ラマンイメージングを示す。図5(a)は時間分解ラマンイメージ、図5(b)はそれに対応する光学顕微鏡写真である。光学顕微鏡写真から5時間50分から6時間の間に出芽酵母液胞内にダンシングボディが出現し、8時間41分から9時間31分の間に液胞が消失し、19時間37分には細胞内構造が失われ無秩序になっている事がわかる。このような無秩序な構造では細胞は生きている事ができない。この過程を、1602cm(-1)、1445cm(-1)、1160cm(-1)、1002cm(-1)におけるラマンイメージング測定により分子レベルで追跡した。1602cm(-1)のバンドはミトコンドリア代謝活性を鋭敏に反映している"生命のラマン分光指標"([1])、1445cm(-1)のバンドは主にリン脂質、1160cm(-1)のバンドはポリリン酸、そして1002cm(-1)のバンドはタンパク質に帰属される。"生命のラマン分光指標"のイメージから、0分、5時間50分後には、ミトコンドリアは正常で活発に代謝を行っていることがわかる。また、リン脂質とタンパク質は液胞外に局在していることがわかる。6時間後、ダンシングボディが出現し、ミトコンドリアの代謝活性は著しく低下していることがわかる。しかしながら、ミトコンドリアの分布に相当する1445cm(-1)のラマンイメージに目立った変化は無い。ポリリン酸(1160cm(-1))の信号は液胞内で広く分布しているように見えるが、これはダンシングボディがレーザートラップされたためである。8時間41分後にはダンシングボディが運動を停止し、一カ所に局在している。この段階ではミトコンドリアの代謝活性は完全に停止しており、細胞死とみなすことができるが、ミトコンドリアとタンパク質の分布に依然変化は無い。9時間31分後には液胞が消失し、ダンシングボディの残留物が中央に局在している。19時間37分後には、細胞内のリン脂質、ポリリン酸、タンパク質は非局在し乱雑に分布しており、細胞内構造は完全に失われている。このような乱雑な構造では細胞は生命活動を行うことができないと考えられる。生化学的な細胞死の判断は、このさらに後の細胞壁が崩れた段階での染色によって行われる。しかし、時空間分解ラマンイメージングを用いる事により、ずっと早い段階で細胞死を判定することができる。このように、時間分解ラマンイメージングにより細胞死過程が可視化できる事が明らかになった。

図1 時空間分解ラマン分光装置図

(上)632.8nm励起 (下)785nm励起

図2 出芽酵母細胞死過程の模式図

図3 液胞の空間分解ラマンスペクトル

図4 ダンシングボディの空間分解ラマンスペクトル

図5 出芽酵母細胞の光学顕微鏡写真と時間分解ラマンイメージング

[1] Yu-San Huang, Takeshi Karashima, Masayuki Yamamoto and Hiro-o Hamaguchi, Biochemistry 44, 10009(2005)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ラマン分光による単一出芽酵母生細胞(Saccharomyces cerevisiae)の物理化学的研究を主題として、9章から構成されている。

 第1章では導入として、出芽酵母細胞と本研究で用いた時空間分解ラマン分光法について述べられている。出芽酵母細胞の項では、本研究で焦点を当てた液胞と"ダンシングボディ"について詳細に記述されている。時空間分解ラマン分光法の項では、他の生細胞研究手法と比較し、本手法の生細胞研究に対する優位性が述べられている。第2章では、出芽酵母細胞の培養条件、モデル化合物、共焦点顕微ラマン分光装置と測定条件について述べられている。単一出芽酵母生細胞の時空間分解ラマンスペクトルと時間分解ラマンイメージは、He-Neレーザーを用いた632.8nm励起共焦点顕微ラマン分光装置により測定された。空間分解能は、面内で約250nm、奥行き方向で約2μmである。時間分解能は100秒である。第3章では、単一出芽酵母生細胞の各オルガネラ(核、ミトコンドリア、液胞)とダンシングボディの空間分解ラマンスペクトルの測定および解析結果が記されている。本章で、ダンシングボディがポリリン酸塩結晶から形成されている事が示されている。ダンシングボディ形成過程の時空間分解ラマンスペクトルが第4章で議論されている。驚くべき事に、ダンシングボディは数分という早い時間で形成される事が明らかとなった。第5章では、ダンシングボディ形成に続いて起こる出芽酵母細胞自然死の発見について述べられている。レーザー照射の有無、培地の有無、位置固定剤の有無に関わらず観測した642個全ての細胞で、この細胞死が起こった事が示された。第6章では、時間分解ラマンイメージングによりこの細胞死過程を分子レベルで追跡した結果が述べられており、ダンシングボディ出現と同時期にミトコンドリアの代謝活性が失われる事が示されている。生化学的手法では、ミトコンドリアの活性が失われたずっと後の、細胞壁崩壊時に細胞内を染色する事によって細胞死判定を行っている。しかし、時空間分解ラマン分光法では、ミトコンドリア代謝活性消失時という極めて早い段階において分子レベルで細胞死を判定できる事が示された。第7章では、液胞内に出現する他の動く顆粒"ダンシングボディ2"と"オートファジックボディ"について述べられている。オートファジックボディは、飢餓条件下において液胞内に出現する粒子である。オートファジックボディには最初は活性の高いミトコンドリアが含まれており、その後に活性が失われていく事が明らかされている。第9章には、全体のまとめが記述されている。

 本研究において提出者は、従来の破壊を伴う生化学の手法や蛍光顕微法では困難であった分子レベルでの生細胞の探索的研究、及び生細胞内生体分子の構造変化追跡の研究を、時空間分解ラマン分光法によって行った。特に、ダンシングボディ出現に伴う細胞自然死を発見し、その細胞死過程を時間分解ラマンイメージング追跡する事によって、従来の手法では不可能だった早期の細胞死判定を分子レベルで行う事ができた。その結果提出者は、時空間分解ラマン分光の手法が、生細胞の研究に対して非常に有用かつ強力である事を明確に示した。これらの業績は、物理化学と生化学にまたがった学際的研究分野を開拓しようという強い意欲と、丁寧に行われた実験に基づいており、高く評価される。

 本論文第1章の一部、第2章の一部、第3章の一部、第5章の主要部分、第6章の主要部分は、Journal of Raman Spectroscopyに公表済み(東江昭夫、濱口宏夫との共著)である。この諭文では、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者内藤康彰に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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