学位論文要旨



No 122174
著者(漢字) 渡邉,大助
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,ダイスケ
標題(和) 振動バンド形解析を用いた溶液中における化学反応ダイナミクスの研究
標題(洋) Chemical Reaction Dynamics in Solutions as Studied by Vibrational Band Shape Analysis
報告番号 122174
報告番号 甲22174
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5037号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 大越,慎一
 東京大学 教授 高塚,和夫
 東京大学 助教授 加藤,毅
内容要旨 要旨を表示する

【序】溶液中における化学反応のダイナミクスを解明することは、物理化学の主要な課題の一つである。短パルスを用いた時間分解分光法は化学反応ダイナミクス研究の強力な手法であるが、その手法の原理上、対象とする反応の開始を制御して、個々の分子の反応を同期して開始させる必要がある。この制約のため、特に超高速ダイナミクスに関しては、適用対象は光誘起の反応に限られる。しかし、フラスコ中の有機化学反応や生化学反応を含む興味深い化学反応の多くは個々の分子が自発的に反応する熱反応であり、このような時間分解できない反応の超高速ダイナミクスを研究することは極めて困難である。筆者は、振動バンド形解析という手法を用いることで、熱反応の超高速ダイナミクスを、振動数領域から研究することを試みた。

【理論(第3章)】初めにバンド形解析の原理を概説する。溶液中における分子のある振動モードに注目すると、その瞬時振動数ω(t)は図1に示すように揺動している。この揺動の原因は、溶液構造の変化、溶媒分子の衝突、化学反応など種々考えられるが、これらが研究対象となるダイナミクスである。観測されるバンド形は、Wiener-Khinchinの定理により、

で与えられる。ただし、α(t)は振幅であり、〈 〉はアンサンブル平均を表す。このように、振動バンド形には、瞬時振動数の揺動を通して分子のダイナミクスが反映されている。振動数の揺動を適切にモデル化することで理論的バンド形の具体的な表式を導き、それを用いて実測バンド形を解析することでダイナミクスに関する情報が得られることになる。最も単純な二値交換モデルの場合、それぞれの振動数間遷移速度をW1、W2として、理論的バンド形は次のように与えられる[1]。

ただし、Γ1とΓ2は、それぞれの状態において二値交換以外の要因で起こる緩和を現象論的に表したものである。これは、振動数の揺動を、二値交換と白色ノイズとの重ね合わせでモデル化したことに相当する(図2)。実際の化学反応を二値交換でモデル化し、式(2)を用いてダイナミクスを研究した例として、水溶液中における硫酸塩のイオン会合反応、tert-ブタノールの脱水反応、N,N-ジメチルアセトアミドのプロトン化反応についての結果を示す。

【硫酸塩のイオン会合反応(第4章)】硫酸塩を初めとする種々の無機塩は、水溶液中においてイオン対を形成する。特に硫酸マグネシウムに関する研究例は多く、その会合は極めて動的であることが示唆されている[2]。図3は、水溶液中における硫酸マグネシウムの硫酸イオンα1モードのラマンバンド形の濃度変化である。硫酸マグネシウムの会合反応を図4のようにモデル化し、図3のバンド形を理論的に解析することで、この反応ダイナミクスを検証した。まず、濃度0の極限では会合は起こらないとして、そこでのピーク位置とバンド幅とからω1とΓを決定した。次に、低濃度において成り立つ非対称交換極限の近似を用いると、ローレンツ関数によるフィットで得られるピーク位置とバンド幅をω1+ΔΩおよびΓ+ΔΓとして、ピークシフトΔΩとバンド幅の増加ΔΓとの間にΔΓ=τΔΩの関係があることが示される[3]。ここで、τは(ω2-ω1)/W2で定義されるパラメータであり、W2を定数とする現在のモデルではΔΓとΔΩの間に比例関係が期待されることになる。実験から得られた,ΔΓとΔΩのプロットを図5に示す。理論から予測される通りの比例関係が得られ、このことは図4のモデル化が妥当であることを強く示唆している。図5のプロットから得られるτの値を用いて残るパラメータを最適化し、実測の結果を再現することに成功した。解析の結果を図6に示す。ただし、ここではT1=(2πcW1)(-1)、T1=(2πcW1)(-1)で定義される反応特性時間を用いている。この結果からは、水溶液中における硫酸マグネシウムに関して、およそ10psに一度の頻度で会合し、生成したイオン対は約250fsの寿命で解離しているという、極めて動的な分子の描像が得られる。

【tert-ブタノールの脱水反応(第5章)】tert-ブタノールは最も単純な第三級アルコールであり、酸性溶液中では水酸基が解離し、カルボカチオンを生成することが知られている。この反応はSN1反応の第一段階であり、反応中間体としてのカルボカチオンの生成・消滅のダイナミクスを知ることは重要である。図7に、硫酸酸性水溶液中におけるtert-ブタノールの、ブチル基C-C対称伸縮振動モードのラマンバンド形の等方成分の硫酸濃度依存性を示す。このような変化は上述の脱水反応に起因するものと考えられる。そこで、この反応を図8のように二値交換でモデル化し、その反応ダイナミクスを検証した。まず、硫酸塩の場合と同様に、中性水溶液中ではカルボカチオンは生成していないものと考えられるので、ω1とΓは容易に決定できる。さらに、酸濃度の希薄な溶液に関して、硫酸塩の場合よりも一般化した非対称交換極限の近似を用いると、ピークシフトΔΩとバンド幅の増加ΔΓとを用いて反応速度W1、W2の近似値を次のように得ることができる。

これらの近似値を用いて残る自由度ω2を決定し、さらに理論式を用いてW1の最適化を行った。理論式によるフィッティング結果を図9に示す。広い濃度領域で実測バンド形の変化を良く再現している。解析の結果得られた反応ダイナミクスを図10に示す。[H2SO4]=1Mの溶液中では、カルボカチオンは約6.5psに一度の頻度で生成し、350fsの寿命で消滅していることが分かる。

【N,N-ジメチルアセトアミドのプロトン化反応(第6章)】酸性溶液中におけるアミドのカルボニル酸素へのプロトン化反応は、様々な酸触媒反応の第一段階として興味が持たれる。図11は、塩酸酸性水溶液中におけるN,N-ジメチルアセトアミド(DMA)のラマンバンド等方成分の塩酸濃度依存性である。他のバンドから良く分離されていて解析が容易であり、特徴的な変化を示しているバンドとして、図中にある対象骨格伸縮振動バンドと反対象骨格伸縮振動バンドを解析の対象とした。反応のモデルは図12に示す通りである。ただし、ω、α、Γはそれぞれのバンドについて別々に決めるが、反応速度W1、W2は共通の値を用いることとする。

中性溶液中ではプロトン化は起こらないので、それぞれのバンドについてω1、α1、Γ1は容易に決められる。しかし、この場合には非対称交換極限近似を適用することができないために、残る自由度は理論式から直接に決定した。フィッティング結果を図13に示す。二つのバンド形変化を、共通の速度パラメータで良く再現することに成功している。

解析の結果得られた反応ダイナミクスを図14に示す。[HC1]=1.0M程度の溶液中では、約10psに一度プロトン化が起こり、6psの寿命で解離するという超高速反応ダイナミクスが分かる。図11のスペクトル変化を、ダイナミクスを考慮せずに単純な二成分の重ね合わせで解析した結果を、反対称バンドについて示したのが図15である。明らかにバンド形変化を再現できていない。このことから、このスペクトル変化を説明するためには、反応ダイナミクスを考慮した本研究の取り扱いが必須であることが分かる。

【まとめ】振動バンド形解析という手法を用いて、溶液中における熱反応の超高速ダイナミクスを明らかにした。他の手法では、今回扱ったような極めて基礎的な反応でさえも、その超高速の分子ダイナミクスに関する定量的な知見を得ることは極めて困難である。この結果により、溶液中における反応ダイナミクスを研究する上で、振動バンド形解析という手法が非常に有用であることが示された。

【参考文献】[1] S. Bratos, G. Tarjus, and P. Viot, J. Chem. Phys., 85, 803 (1986).[2] Y. Saito and H. Hamaguchi, Chem. Phys. Lett., 339, 351 (2001).[3] H. Hamaguchi, Mol. Phys., 89, 463 (1996).

図1:瞬時振動数の変動の模式図

図2:二値交換モデルの振動数揺動

図3:硫酸マグネシウムのバンド形

図4:反応のモデル化

図5:ΔΩ-ΔΓプロット

図6:理論式によるフィッティング結果

図7:tert-ブタノールのバンド形

図8:反応のモデル化

図9:理論式によるフィッティング結果

図10:tert-ブタノールの脱水反応ダイナミクス

図11:DMAのバンド形

(左)対称伸縮振動 (右)反対称伸縮振動

図12:反応のモデル化

図13:フィッティング結果 (左)対称伸縮領域 (右)反対称伸縮領域

図14:DMAのプロトン化反応ダイナミクス

図15:ダイナミクス考慮の有無によるフィッティング結果の差

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、溶液中における熱反応の超高速ダイナミクスを定量的に研究することを目的として、振動バンド形解析の手法を開発し、いくつかの基礎的な化学反応に応用した結果について記述されており、8章から構成される。

 第1章では導入として、従来の手法では基底状態で自発的に進行する熱反応の超高速ダイナミクスを研究することは極めて困難であり、この目的のために振動バンド形解析が有用であることが述べられている。第2章は実験装置についてであり、バンド形解析の対象となるラマンスペクトルを精密に測定するための技術が述べられている。第3章はバンド形解析の理論の章であり、振動数の揺動を様々にモデル化し、対応するバンド形理論式を系統的に導出している。実用上重要である二成分交換モデルに重点が置かれ、実際の応用に当たって解析を容易にするための非対称交換極限近似と呼ばれる近似法の開発を行っている。第4章では、バンド形解析の第一の応用例として、水溶液中における硫酸塩のイオン会合反応を扱っている。硫酸イオン全対称伸縮振動のバンド形を二成分交換の理論式に基づいて解析することで、ピコ秒のタイムスケールで会合・解離を繰り返すという非常に動的な分子の描像が得られた。第5章では、tert-ブタノールの酸触媒脱水反応に応用され、反応中間体として興味深いカルボカチオンの生成・消滅の超高速ダイナミクスを定量的に明らかにしている。第6章では、N,N-ジメチルアセトアミドのプロトン化反応を扱っており、対称骨格伸縮と反対称骨格伸縮の二つの異なるバンド形の変化を、共通の反応速度パラメータを用いて同時に再現することに成功している。反応ダイナミクスを考慮しない静的なスペクトル解析では実験結果を説明できないことが明らかにされており、一見単純な化学平衡であっても、分子を動的に捉える観点が必須であることが示されている。第7章では、化学反応を動的分子論の立場から説明する動的分極モデルとの関連について議論し、第4章から第6章までの解析結果を、溶液中における分子構造の瞬間的な揺らぎという視点から再考している。第8章は、以上の研究成果のまとめである。

 本研究により、振動バンド形解析の実用性が高められ、実際の化学反応への応用を通じて本手法の有効性が示された。今回取り扱われた三種の化学反応は、それぞれ非常に基礎的な液相熱反応であり、本研究で得られた知見の学術的価値は高い。従来困難であった熱反応の超高速ダイナミクス研究のための指針を呈示し、同時に溶液中の分子構造を動的なものとして捉えることの重要性を明らかにした本論文の業績は高く評価される。

 本論文第4章はThe Journal of Chemical Physicsのfull paperとして公表済み(濱口宏夫との共著)であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行なっており、その寄与が十分であるので、学位論文の一部とすることに何ら問題はないと判断する。

 以上の理由から、論文提出者渡邉大助に博士(理学)の学位を授与することが適当であると認める。

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