学位論文要旨



No 122180
著者(漢字) 田尻,怜子
著者(英字)
著者(カナ) タジリ,レイコ
標題(和) ショウジョウバエ成虫肢の分節化に関わる遺伝子の網羅的探索と機能解析
標題(洋) Screening and functional analysis of genes involved in segmentation of the Drosophila leg
報告番号 122180
報告番号 甲22180
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5043号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 黒田,真也
 東京大学 助教授 能瀬,聡直
 東京大学 助教授 小嶋,徹也
内容要旨 要旨を表示する

発生の初期過程ではモルフォゲンの活性勾配に従った転写因子群の領域特異的発現により組織が区画化される。モルフォゲンによる標的遺伝子の発現制御機構は様々な系で解明されているが、それらの標的遺伝子にコードされる転写因子が組織を正確に区画化する機構は完全には理解されていない。さらにそれらの転写因子の下流でどのような遺伝子が各区画の最終的な形態や性質を制御するのかはほとんど調べられていない。これらの過程に関与する遺伝子は区画特異的に発現すると考えられることから、本研究ではショウジョウバエ肢形成過程をモデル系としてそのような遺伝子の網羅的同定を目的としたマイクロアレイ解析を行った。この解析の結果を実験的かつ系統的に検証することで、実際に区画特異的に発現する多数の遺伝子を同定した。次にその中の一遺伝子について詳細な機能解析を行い、これが既知の因子とは異なる機構によって正確な区画化に必須の役割を果たすことを見出した。この発見は、解析が比較的進んでいるとされる区画化の過程についても解明すべき点がまだ多く残されていることを示唆している。

ショウジョウバエ成虫肢で分節特異的に発現する遺伝子の網羅的探索

 ショウジョウバエ成虫肢の前駆器官である肢原基は図1に示すような転写因子群の領域特異的発現により遠近軸方向の複数の区画に分割され、各区画は成虫肢の分節構造と明確に対応する。

特に先端の付節領域(Ta1-5とPt)についてはホメオボックス遺伝子aristaless (al), clawless (cll), BarH1/2 (Bar), apterous (ap)などにコードされる転写因子群による区画化の機構が詳しく解析されてきた。本研究ではこの領域に注目して区画特異的に発現する遺伝子を探索した。まず、分節間の境界が明視できる蛹初期の肢原基から、

 Distal (Di):Pt, Ta5,4、 Central(Ce):Ta3,2、 Proximal(Pr):Ta1。

の3つの部分を切り出し、各部分から抽出したRNAを用いて蛍光標識プローブを作製して、ESTクローン約1万個(全遺伝子数の約7割)を載せたマイクロアレイを用いて相互に発現プロファイルを比較した。

 この解析からこれらの部分の間で発現量に差のある確率が高いと判定された1000強の遺伝子のうち、9割近くはDiで特異的に発現量が異なる(Diのみで強く発現する、もしくはDiのみで発現が弱い)と予想された。それらの遺伝子のDi-Ce間およびDi-Pr間の発現量の比は様々な値を示した。これらの値について恣意的に閾値を設定するのではなく、各遺伝子の実際の発現パターンとどのように相関しているのかを実験的に検証することにした。

 様々な発現量比の遺伝子についてin situハイブリダイゼーション(ISH)を行ったところ、上述の発現量比の平均値が大きいほど実際に予想通りの発現パターンを示す率が高かった(図2)。

この正の相関から、マイクロアレイ解析における発現量比は実際の発現パターンを反映していると考えられる。また、この相関に基づき、実際にDiで特異的に発現量が異なる遺伝子の総数は約400と見積もられた。同様の検証から、CeおよびPrで特異的に発現量の異なる遺伝子はほとんど無いことも示唆された。

 成虫肢において類似した基本構造を持つTa1-5とは異なりPtには爪などの特異的な構造が見られることから、Diで特異的に発現する遺伝子の数の多さはPtの発現プロファイルの特異性に由来する可能性が考えられた。これを裏付けるように、ISHでDiのみでの強い発現が確認された遺伝子の大部分が確かにPtで特異的に発現していた。一方、Ta5或いはTa4で特異的に発現する遺伝子の数はPtよりは少ないが、Ta1-3のいずれかで特異的に発現する遺伝子数の見積もりと比べて顕著に多かった。即ち、Ta5,4は形態上はTa1-3と似ているが、特異的な発現プロファイルを持つ可能性が高い。Tarsal segmentsの数は昆虫の進化の過程で順次増えてきたとされており、現存の昆虫でも種によってその数は1〜5の間で異なる。ショウジョウバエのTa4,5の発現プロファイルの特異性から、Ta1-3が元は一つの分節に由来しTa4,5は各々それとは独立に獲得されたという可能性が推測される。

 ISHで実際に分節特異的な発現が確認された遺伝子群の機能は様々に異なるが、その中で転写因子を含む核酸結合タンパク質をコードするものの割合はマイクロアレイ上の全遺伝子と比べて有意に少なく、逆にシグナル伝達関連遺伝子やクチクラ構成タンパク質をコードする遺伝子の割合が大きかった。即ち、他の遺伝子の発現制御を介さず直接的に最終的な形態を制御する可能性の大きい遺伝子が高い率で含まれると考えられる。

 以上のように、マイクロアレイ解析と大規模なin situハイブリダイゼーションの組み合わせにより、区画特異的発現を示す遺伝子を多数同定できた。この網羅的な解析の成果としてTa5,4が特異的な発現プロファイルを持つことも見出した。これらの結果は、成虫肢形成の最終過程の遺伝子レベルでの解析の基礎になるとともに、昆虫の進化発生学にも重要な示唆を与えるものと考えられる。

成虫肢の先端の2分節の形成におけるtrachealess(trh)遺伝子の役割

 器官形成過程の初めにはモルフォゲンの活性勾配に従った転写因子の領域特異的発現により組織が区画化される。それらの転写因子が続いて各領域で特異的な細胞の運命や形質を司ることから、正常な器官形成にはそれらの転写因子の発現領域の正確な決定が重要であると考えられる。しかし、一般的に単一のモルフォゲンの勾配だけでそれを実現するのは難しく、領域の正確な決定にはそれらの転写因子どうしの発現制御が重要である。特に、隣接する2つの領域が各々を規定する転写因子の間の相互抑制によって正確に分割される例が多く知られている。

 上述の肢の区画化を担う転写因子をコードする遺伝子のうちal, cllはPtで、Barは隣のTa5-3で特異的に発現し、各分節の性質を決定する。これらの発現領域は3齢幼虫初期にEGF受容体シグナルの遠近軸方向の勾配により大まかに決められた後、中期までに重複が無くなり明確に分割されるが、これにはal, cllとBarの間の相互抑制が必要であることが知られている。また、3齢幼虫中期以降BarはTa5において自身の発現を正に制御するが、それによりTa5とTa4の間に生じるBarの発現強度の差違がそれらの2領域の分別に重要である。

 本研究の前半で、bHLH-PAS型転写因子をコードするtrhがPtとTa5で特異的に発現することを見出した(図2)。転写因子の相互抑制により分割される2領域にまたがって発現する転写因子は珍しく、trhがこの2領域の区画化に未知の機構で関与する可能性に興味を持って詳しい解析を行った。

 3齢幼虫初期のPt内のtrh変異クローンでは、al, cllが正常に発現しているにも関わらずBarが完全には抑制されず、本来の発現領域(Ta5-3)より弱いレベルでクローン全体で発現していた。同時期のal或いはcllの変異体のPtではTa5-3と同程度の強さでBarが発現することをふまえると、trh無しでもal, cllはある程度Barを抑制するのだが完全な抑制にはtrhの働きが必要である、と考えられる。3齢幼虫後期のtrh変異クローンでは一部の細胞でBarが強く発現しal, cllの発現が見られなかったが、残りの細胞では逆にBarの発現が見られずal, cllが正常に発現していた。後期のこのようなBarとal, cllの相補的な発現は、初期に弱く発現したBarと正常に発現したal,cllが互いの発現を抑制し合った結果だと推測された。従って、両者の相互抑制そのものにはtrhは必要ないと考えられる。一方、Ta5のtrh変異クローンではBarの発現が低下していたが、これはBarの自己誘導を媒介するTa5エンハンサーの活性の低下によることが示唆された。trh単独の異所発現ではこのエンハンサーは活性化されないが、Barとtrhを共発現させるとBarのみを発現させた場合よりも著しく強い活性化が見られた。以上より、trhは単独ではBarの発現に影響を与えないが、Ptではal,cllによるBarの抑制を促進し、逆にTa5ではBarの自己誘導を促進する(図3)。

 Pt,Ta5領域はal, cll, Barの間の単純な発現制御によって決定されると考えられてきたが、両方の領域で発現するtrhがal, cll或いはBar自身と協調してBarの発現をこのように各領域で逆向きに制御することがその正確な区画化に必須である。このような様式で区画化に関与する因子はこれまで知られておらず、本研究は区画化の過程について新たに重要な機構を提示したと言える。

図1. 肢原基で領域特異的に発現する転写因子群と、それらにより規定される区画と成虫肢の分節の対応。Pt,先付節(pretarsus); Ta,付節(tarsal segments); Rn, Rotund; Dll, Distal-less; Dac, Dachshund; Hth, Homothorax

図2.(左)Di-Ce間およびDi-Pr間の発現量のlog比の平均値と、予想通りの発現パターンを示した遺伝子の率の関係。(右)予想通りの分節特異的発現がISHで確かめられた遺伝子の例。

図3. trhの機能。PtではBarの完全な抑制に必要であり、一方Ta5ではBarの自己誘導を促進する。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる。第1章はイントロダクションであり、器官形成における区画化の意義とその過程に関する先行研究の成果が概説され、更に、区画化の機構とその下流の過程における未解明の問題が提起されている。第2章は実験方法の説明である。第3-5章は結果、考察、結論であり、補遺および引用文献はそれらの後に示されている。

 ショウジョウバエ肢原基は成虫肢の分節に対応する区画に分割される。特に先端の付節領域(第1〜5付節(Ta1-5)と先付節(Pt))についてはホメオボックス遺伝子aristaless (al),clawless (cll),BarH1/2(Bar),apterous (ap)などにコードされる転写因子群による区画化の機構が詳しく解析されている。結果の前半では、付節領域で分節特異的に発現する遺伝子を網羅的に同定するためのマイクロアレイ解析と、大規模なin situハイブリダイゼーションによるその検証の結果を述べている。このマイクロアレイ解析により分節特異的に発現する遺伝子の候補として約1000が選定され、更に大規模なin situハイブリダイゼーション(ISH)により約100遺伝子の分節特異的発現が確かめられた。ISHの結果と照合することで、マイクロアレイ解析の結果の妥当性が確認された。ISHの結果を考慮することで、分節特異的に発現する遺伝子の総数は数百と見積もられ、さらにその圧倒的多数が最先端の3つの分節Pt,Ta5,Ta4のいずれかで特異的に発現するあるいはしないものであることが示唆された。

 肢の最先端3分節特異的遺伝子の中の一つとしてbHLH-PAS型転写因子をコードするtrachealess(trh)遺伝子を見いだした。trhの機能解析の結果が、結果の後半で述べられている。trhはPtとTa5に対応する領域で発現する。これらの領域の正確な区画化にはPtを決定するホメオボックス遺伝子群aristaless (al),clawless (cll)とTa5を決定するBarH1/2(Bar)ホメオボックス遺伝子対の間の相互抑制及びTa5におけるBarの自己誘導が重要であることが知られていたが、trhはPtではal,cllと協調することでBarの完全な抑制に必須の役割を果たし、逆にTa5ではBarの自己誘導を促進した。このように、既知の因子とは異なりal,cll或いはBarを補助する形でBarの発現をPtでは負に、逆にTa5では正に制御するtrhの機能が、これらの領域の正確な決定に不可欠であることが示されてた。

 組織が区画化された後に各区画で特異的に働く遺伝子の実像は今までほとんど知られていなかった。しかし、本研究では、区画特異的に発現する遺伝子の網羅的探索により多数の候補が同定された。また、これまで付節(Ta)は全て均等な繰り返し構造として形成されると考えられていたが、本研究ではTa4,5が発現プロファイル上著しい特異性を有することが見出された。これらの新たな発見は、成虫肢形成の最終過程の遺伝子レベルでの解析の基礎になるとともに、昆虫の進化発生学にも重要な示唆を与えるものと期待される。また、Pt,Ta5領域は従来al,cll,Barの間の単純な発現制御によって決定されると考えられてきた。しかし、本研究により両方の領域で発現するtrhがal,cll或いはBar自身と協調してBarの発現を各領域で逆向きに制御することがその正確な区画化に必須であることが示された。このような様式で区画化に関与する因子はこれまで知られておらず、本研究は区画化の過程について新たに重要な機構を提示したと言える。

 なお、本論文は辻拓也・上田龍・西郷薫・小嶋徹也との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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