学位論文要旨



No 122181
著者(漢字) 谷口,幸子
著者(英字)
著者(カナ) タニグチ,サチコ
標題(和) Src型キナーゼによるNMDA受容体機能の調節
標題(洋) The regulation of NMDA receptor by Src-family kinases
報告番号 122181
報告番号 甲22181
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5044号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 助教授 武川,睦寛
内容要旨 要旨を表示する

 N-methyl-D-aspartate(NMDA)型グルタミン酸受容体は膜電位変化とアゴニストの結合の両方に依存した開口により、Na+イオン、K+イオンと共にCa2+イオンを透過し、長い持続時間を示す興奮性後シナプス電位を生じる。このような特性をもつNMDA受容体は、記憶・学習の分子基盤と考えられているシナプス可塑性、神経細胞の発達、及び興奮性の神経毒性などに重要な役割を果たすことが知られている。NMDA受容体はチャネル活性に不可欠なNR1サブユニット、および4種類のNR2調節サブユニット(NR2A〜NR2D)により構成されている。NMDA受容体の機能の制御は、細胞外からのアゴニスト結合だけでなく、外部からの刺激に応じて引き起こされる修飾により動的に制御されていると考えられており、その一つにSrc 型キナーゼによるチロシンリン酸化がある。Src型キナーゼの一員であるSrcおよびFynによるNR2Aのリン酸化は、NMDA受容体チャネルの活性を増強することが示唆されているが、その神経系の構築や高次機能における役割は不明であった。本研究では、NR2AのSrc型キナーゼによるチロシンリン酸化の生理的意義を個体レベルで検証し、またその裏づけとなる分子機構を明らかにすることを目的として解析を行った。

 Src型キナーゼによるNR2Aのリン酸化標的残基についてはこれまで未同定であったため、まずSrcおよびFynの標的チロシン残基の同定を試みた。NR2AはC末端の細胞内領域に25個のチロシン残基を含んでいる。当研究室では、in vitroキナーゼアッセイを用いた解析により、Src型キナーゼの標的候補として7 個のチロシン残基(Tyr-943、Tyr-1105、Tyr-1118、Tyr-1187、Tyr-1246、Tyr-1267、Tyr-1325)を同定していた。これらのin vitroで同定した7個のチロシン残基のうち、実際の細胞内におけるSrc型キナーゼの標的残基を同定することを目的として、それぞれのYF変異体およびSrcを用いた培養細胞の再構成系により検討した。NR2Aの全チロシンリン酸化量を比較した結果、細胞内において、SrcはNR2AのTyr-1246、Tyr-1267、およびTyr-1325を主にリン酸化し、その中でもTyr-1325が最も主要なSrc型キナーゼの標的残基であることが明らかとなった。次に、最も主要なリン酸化残基であったTyr-1325について、抗リン酸化Tyr-1325抗体を作製した。作製した抗リン酸化Tyr-1325抗体を用いて、マウス脳におけるNR2AのTyr-1325のリン酸化を検討した結果、マウス前脳において神経発達に依存してTyr-1325のリン酸化が見られることが明らかとなった。また、Src欠損マウスおよびFyn欠損マウスの脳においてTyr-1325のリン酸化量が顕著に減少していたことから、SrcおよびFynが脳内においてNR2AのTyr-1325のリン酸化に深く寄与していることが明らかとなった。

 次に、同定した3つの標的チロシン残基がNMDA受容体チャネル活性のSrcによる増強に関与している可能性を電気生理学的な解析により検討した。NR1/NR2Aチャネルを発現させた培養細胞を用いたホールセルパッチクランプ法により、1つの細胞に発現する全チャネル電流をSrc非存在下およびSrc存在下において測定した結果、NR1/NR2A-WT、NR1/NR2A-Y1246F、およびNR1/NR2A-Y1267Fにより構成したチャネルにはSrcによる増強がみられたが、NR1/NR2A-Y1325Fにより構成したチャネルにはSrcによる増強がみられなかった(図1)。このことから、SrcがNR2AのTyr-1325のリン酸化を介してNMDA受容体のチャネル活性を調節していることが示唆された。

 シナプス可塑性の例である海馬CA1領域におけるシナプス伝達の長期増強(LTP)は学習・記憶の基盤になる現象であると考えられており、その誘導にはNMDA受容体からのCa2+流入が必須である。Tyr-1325のリン酸化とLTPとの関連性を検討した結果、刺激前に比べLTP誘導30分後にTyr-1325のリン酸化が有意に亢進することが明らかになった。このことから、LTPの発現にTyr-1325のリン酸化が関与していることが示唆された。

 以上の結果から、Tyr-1325のリン酸化が海馬におけるシナプス可塑性、またそれに関連すると考えられるマウス個体の記憶形成・学習に関与している可能性が考えられた。

 次に、Tyr-1325をリン酸化されない型のフェニルアラニンへ置換したNR2A-Y1325F(YF)ノックインマウスの作製・解析により、Tyr-1325のリン酸化の脳高次機能における役割の解明を目指した。NR2A-YFマウスは光学顕微鏡レベルにおいて脳構造やNR2Aの局在は正常であった。また、一般的な抗リン酸化チロシン抗体を用いて検討した結果、野生型マウスに比べてNR2A-YFマウスではNR2Aの全チロシンリン酸化量が半減しており、マウス脳においてNR2AのTyr-1325が主要にリン酸化されていることが明らかとなった。

 NR2A-YFマウスにおける行動について、一連の課題を用いたバッテリーテストにより検討した。その結果、マウスの回避不可能なストレスに対する回避意欲の程度を判断する尾懸垂試験および強制水泳試験において、野生型マウスに比べてNR2A-YFマウスに無動時間の短縮がみられた。両課題における無動時間は抗うつ薬により短縮するため、抗うつ薬作用の行動薬理学的指標とされている。すなわち、NR2A-YFマウスはストレスに対する回避意欲の向上(抗うつ様行動)を示していた(図2A)。また、意欲・行動などに関わる脳領域である線条体において、NR2A-YFマウスではドーパミンD1受容体機能の増幅因子であるDARPP-32のThr-34のリン酸化が亢進していることを見出した(図2B)。これらの結果から、NR2A-YFマウスでは、NMDA受容体機能の低下により、DARPP-32のリン酸化が亢進し、ドーパミン機能亢進に起因する抗うつ様行動を示す可能性が示唆された(図2C)。このことは、NR2Aのリン酸化によるNMDA受容体の機能調節がドーパミン神経機能を制御することを示すものであり、興味深い。

 次に、マウスの空間学習能力を調べる最も代表的な課題であるモリス水迷路試験を行った。足場が水面下に固定され、不透明な水が入っている円形プールの中に放されたマウスは、初めは足場を見つけるまで適当に泳いでいるが、この訓練を重ねるとマウスは空間配置を記憶して足場にすぐたどり着くようになる。1日に4回のトレーニングを6日間行った結果、野生型マウスに比べてNR2A-YFマウスでは足場にたどり着くまでの時間や距離の短縮が早く見られた(図3A)。また、2、4、6日目のトレーニングの後に足場を取り除いたプールにマウスを1分間泳がせ、プローブテストを行った結果、NR2A-YFマウスは野生型マウスに比べ、2日目および4日目において足場のあった1/4 区画を泳ぐ割合が有意に上昇していた(図3B)。これらの結果から、NR2A-YFマウスはトレーニング回数が少ない状況で学習が成立しており、野生型マウスに比べて空間学習能力が向上していることが示唆された。この原因として、NR2A-YFマウスではストレスに対する意欲向上が見られることが影響している可能性が考えられた。もう一つの原因として、NR2A-YFマウスの海馬においてNMDA受容体の局在に関与するNR2Bのチロシンリン酸化が亢進していることも見出しており(図3C)、シナプスに存在するNMDA受容体数の増加によるNMDA受容体機能の亢進の可能性も考えられた。また、線条体においてはNR2Bのチロシンリン酸化に変化が見られなかったことから、NMDA受容体の機能の制御が脳領域によって異なり、特に海馬におけるNMDA受容体の機能制御はより厳密に行われていることが示唆された。

 NR2AのTyr-1325のリン酸化についてはまだ不明な点が多く残っているが、本研究において作製したNMDA受容体の1サブユニットの、さらに1残基の変異であるNR2A-YF変異が、マウスの行動に大きく影響を与えていることが明らかとなったことは、脳高次機能におけるNR2AのTyr-1325のリン酸化が生理的に重要であることを提示している。今後、Tyr-1325のリン酸化に注目して更なる解析を行うことで、学習・記憶のメカニズムの理解、および精神疾患の治療への応用につながると期待される。

図1. SrcはTyr-1325のリン酸化を介してNR1/NR2A受容体のチャネル活性を増強する。

A) ホールセルパッチクランプ法の模式図。

B) HEK293細胞に再構成したNR1/NR2A受容体のチャネル電流。

灰色は測定開始から3分後の電流、黒は測定開始から20分後の電流。

灰色の横棒はagonist投与時間(500ms)、縦棒は100pA。

C) 各NR1/NR2A電流の測定開始から3分間の電流の平均を1とした時の電流の推移。

図2. NR2A-Y1325Fマウスは抗うつ様行動を示す。

A) 強制水泳試験における無勤時間。

B) 線条体におけるDARPP-32のThr-34のリン酸化。

C) 線条体神経におけるモデル図。

図3. NR2A-Y1325Fマウスはモリス水迷路試験における空間学習の向上を示す。

A) トレーニングセッションにおける足場に到達するまでの距離。

B) トレーニング2日目、4日目、および6日目のプローブテストにおける成績。

C) 海馬におけるNR2Bのチロシンリン酸化。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は2章から成る。第1章では、NMDA受容体サブユニットNR2AのSrc型チロシンキナーゼ標的残基の同定とその機能解析を行っている。第2章では、マウス個体を用い、NR2Aチロシンリン酸化の脳高次機能における役割を解析している。

 第1章では、SrcによるNR2Aのリン酸化標的残基について同定を試み、細胞内における3つの標的残基を同定している。また、その中で最も主要なSrc型キナーゼの標的残基であるTyr-1325が、マウス脳においてSrcおよびFyn依存的にリン酸化されていることを示している。さらに、同定した3つの標的チロシン残基がNMDA受容体チャネル活性のSrcによる増強に関与している可能性を電気生理学的に検討している。その結果、NR2A-Y1325F変異体ではSrcによるNR1/NR2Aチャネル電流の増強が誘導されないことから、SrcがNR2AのTyr-1325のリン酸化を介してNMDA受容体のチャネル活性を調節すると結論付けている。また、学習・記憶の基盤になる現象であると考えられているシナプス可塑性にTyr-1325のリン酸化が関連していることを示している。本章における解析結果から、Tyr-1325のリン酸化に着目することにより、これまでに解析が困難であったNR2Aのチロシンリン酸化によるNMDA受容体チャネルの構造変化の検討や、マウス個体における重要性の検討などが可能となった。NR2AのTyr-1325がNMDA受容体のチャネル活性の調節に重要であることを見出した本研究の知見は、今後のNMDA受容体機能調節の解明に大きく寄与するものである。

 第2章では、Tyr-1325をリン酸化されない型のフェニルアラニンへ置換したNR2A-Y1325F(YF)ノックインマウスの作製・解析により、Tyr-1325のリン酸化の脳高次機能における役割を個体レベルで検証している。NR2A-YFマウスにおける行動について、一連の課題を用いたバッテリーテストにより検討した。その結果、NR2A-YFマウスは尾懸垂試験および強制水泳試験における無動時間が短縮しており、ストレスに対する回避意欲の向上(抗うつ様行動)を示すことを明らかにした。それを補強する結果として、意欲・行動に関与する脳領域、線条体におけるDARPP-32のリン酸化がNR2A-YFマウスで顕著に亢進していることを見出しており、このことはNR2A-YFマウスの抗うつ様行動がドーパミン機能亢進を介したものであることを示している。本研究の結果は、NMDA受容体のチロシンリン酸化がドーパミン機能を制御することを示す新しい知見である。また、NR2A-YFマウスはモリス水迷路試験における空間学習能力が向上していることを示した。この結果は、第1章において示したTyr-1325のリン酸化とシナプス可塑性の関連性から考えると、矛盾した結果であった。この矛盾について、本研究では以下のような2つの可能性を検討している。一つは、モリス水迷路試験の成績がストレス感受性により影響を受けることから、NR2A-YFマウスのストレス感受性の低下が原因となる可能性、もう一つは、NMDA受容体のシナプスにおける局在変化によるNMDA受容体機能亢進の可能性である。後者の可能性は、NR2A-YFマウスの海馬においてNR2Bのチロシンリン酸化の亢進やNMDA受容体と後シナプスに限局するPSD-95との結合が増強していることから支持される。また、NR2A-YFマウスの線条体におけるNR2Bのチロシンリン酸化には変化が見られないことから、NR2AとNR2Bのチロシンリン酸化の関係は脳領域により異なっていることも提示している。本研究結果は、海馬におけるNMDA受容体機能が、その他の脳領域と比較して、より厳密に調節されていることを示唆するものである。

 本研究は、これまでその重要性が細胞レベルで示唆されてきたSrc型キナーゼによるNMDA受容体チャネルの調節に注目し、個体レベルで検討しようとした意欲的な研究である。分子生物学的解析のみならず、電気生理や行動解析を取り入れた注目に値する成果である。海馬におけるNR2AとNR2Bのチロシンリン酸化との関係については本研究で明らかにされておらず、この点の解明は今後の課題である。しかしながら、NR2Aのチロシンリン酸化がマウスの行動に重要であることを初めて明らかにした本研究の知見は、今後の意欲や記憶のメカニズムの解明に当たって多くの示唆を与える。したがって、本研究の学問的意義は高く評価できる。

 よって、論文提出者は博士(理学)の学位を授与できると認める。

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