学位論文要旨



No 122191
著者(漢字) 溝井,順哉
著者(英字)
著者(カナ) ミゾイ,ジュンヤ
標題(和) シロイヌナズナのCDP-エタノールアミン合成酵素に関する分子遺伝学的研究
標題(洋) Molecular genetic studies of CTP:phosphorylethanolamine cytidylyltransferase in Arabidopsis thaliana
報告番号 122191
報告番号 甲22191
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5054号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 米田,好文
 東京大学 教授 福田,裕穂
 東京大学 教授 中野,明彦
 東京大学 助教授 和田,元
 埼玉大学 教授 西田,生郎
内容要旨 要旨を表示する

序論

 細胞は内と外を細胞膜で区切られ,またその内部も複雑にオルガネラ膜で区画化されている.これらの生体膜は,細胞の様々な生命活動の場を提供するほか,小胞輸送などの膜のダイナミズムや膜脂質由来のシグナル分子のソースとして重要である.

 生体膜はリン脂質などの両親媒性の脂質分子(極性脂質)によって作られる脂質二重膜を基本構造としている.極性脂質は主なリン脂質に限っても5種類以上存在し,結合する脂肪酸の多様性とあわせると実に多様な分子種を含んでいる.生体膜には,なぜこのように多様な分子種が含まれるのかは,古くからの疑問であるが,その生理学的意義を明らかにした研究は少ない.

 ホスファチジルエタノールアミン(PE)は,生理的条件下で脂質二重膜構造をとりにくい性質を持つことから,非二重膜脂質と呼ばれる.その含量は,生体膜の機能を左右する要因の一つであることが酵母や動物細胞の系で明らかにされている.一方,植物は多細胞体ながら可塑性を持ち,必須成分の欠乏に対して対処できるので,PE合成の欠損が多細胞体の生育に与える影響を調べる系として適当であると考えられる.植物では,PEは色素体以外の生体膜に含まれ,その合成には3つの経路が知られている(図1).このうち,CDP-エタノールアミン経路は主要合成経路であり,CTP:ホスホリルエタノールアミンシチジリルトランスフェラーゼ(PECT)が鍵酵素であると考えられている(図1).そこで植物細胞におけるPEとその合成系の生理的な役割の解明を目指し,シロイヌナズナのPECTをコードする唯一の遺伝子であるPECT1に注目して分子遺伝学的解析を行った.

結果

 TILLING法によりPECT1遺伝子座の複数の点突然変異アリルを取得した.得られたアリルのうち,pect1-4はホモ接合体のロゼット葉でPECT活性が野生型の26%に低下した(図2).また,pect1-6は,異常なスプライシングを起こすアリルで,ホモ接合体は単離できなかった.ヘテロ接合体のロゼット葉ではPECT1 タンパク質の蓄積量が野生型の約半分に減少し,PECT 活性は野生型の53%であった(図2).異常なスプライシング産物によってコードされるポリペプチドは活性部位の一部を持たないため,pect1-6はヌルアリルであることが示唆された.

 pect1-6アリルはヘテロ接合体の果実中に25%の割合で死亡種子を生ずることから,胚発生における劣性致死変異遺伝子であることがわかった.種子の致死性はトランス遺伝子として導入した野生型PECT1遺伝子(transPECT1)により相補されたのでpect1-6は死亡種子の原因遺伝子である.登熟中の種子を透明化し,pect1-6ホモ接合体の胚発生を微分干渉顕微鏡により観察したところ,典型的なpect1-6胚は,野生型の胚に比べて生育が遅く,8細胞期を越えた胚は見つからなかった(図3).また,pect1-6胚を取り巻く胚乳では核の数が少なく巨大化していた.さらに時間が経過すると異常胚は細胞質を失い,崩壊していた.以上の結果から,CDP-エタノールアミン経路がシロイヌナズナの初期の胚発生に必須であることを明らかにした.

 pect1-6ホモ接合体はPECT活性を完全に欠損しているため生育ができないのに対し,pect1-4ホモ接合体(PECT活性=26%)は,野生型に比べてやや小さめだが,多くは正常に生育した.PECT活性はPECT1遺伝子座の遺伝子量に比例するので(図2),交配によりロゼット葉のPECT活性が19%まで低下したpect1-4/pect1-6植物を作出した.この植物は,ロゼット葉が小さく,花茎伸長が抑制されるなど,顕著な矮性を示した(図4A).組織切片の観察により,ロゼット葉では,細胞数の減少,細胞サイズの縮小,細胞間隙の減少が,花茎では,主に細胞数の減少が矮性化の原因であることが分かった.また,ロゼット葉や花茎で維管束の発達が不十分であることも観察された.根の先端では,分裂組織のサイズが野生型と比べて縮小していたことから,pect1-4/pect1-6植物では細胞分裂の速度が遅くなっている可能性が考えられた.

 pect1-4/pect1-6植物は,自家受粉による種子数が野生型の果実あたり49個に対して2個まで低下した.果実内を観察した結果,胎座の数が野生型の約半分に減少していた上,未受精の胚珠が多く見られた.未受精の胚珠ができる原因は,雄蕊の発達不良による花粉量の減少や花糸の短さ(図4C)に加え,受粉能力のない胚珠(図4E)が出現することであることを明らかにした.さらに正常に受精した胚珠でも,そのうち約半分は致死性を示したが,これは遺伝子型解析の結果,pect1-6ホモ接合体の胚に加えてpect1-4/pect1-6胚の一部が致死であるためと分かった.以上の結果から,pect1-4/pect1-6の稔性が低下する原因は,雌雄の生殖器官形成の異常と,変異の浸透性の不完全さから一部のpect1-4/pect1-6胚が致死となることによる複合的な効果によることが分かった.

 pect1-4ホモ接合体,pect1-4/pect1-6植物のロゼット葉における脂質組成を調べた結果,PECT活性の低下に伴ってPEの割合が野生型と比べてそれぞれ92%,65%まで低下し,逆にホスファチジルコリン(PC)の割合が増加した(図5).またチラコイド脂質が少ない黄化芽生えの場合,pect1-4ホモ接合体でPE の割合が野生型と比べて77%まで低下していた.pect1-4/pect1-6植物の黄化試料は著しい矮性のため分析に供する量が確保できなかったが,pect1-4ホモ接合体から得られた結果を外挿することによって,黄化したpect1-4/pect1-6植物ではロゼット葉より大きなPE量の低下が期待される.脂質に結合している脂肪酸の組成に注目すると,PEでは野生型と変異体の間に顕著な違いは見られなかったが,PCでは炭素数16の脂肪酸の割合が増加していた.これらの結果から,ロゼット葉および黄化芽生えの脂質合成においてCDP-エタノールアミン経路がPE合成の主要経路の一つであることが示唆された.またこの経路の抑制がPE以外のリン脂質の代謝を変化させることがわかった.

<表現型の回復について>

 上記の表現型はtransPECT1の導入によって完全に回復した.このことから,シロイヌナズナの正常な生育とリン脂質合成には十分なPECT活性が必要であることがわかった.一方,transPECT1を局所的に発現させた場合は,表現型の回復が不完全であったことから,pect1-4/pect1-6の表現型は,異なる組織の異常に影響されたものと結論できる.

 生組織におけるPECT1タンパク質の発現を調べるため,野生型シロイヌナズナにPECT1-EYFP融合タンパク質をPECT1全長プロモーターの支配下で発現させた形質転換植物を作出し,落射蛍光顕微鏡下で観察した.この植物では,すべての組織で蛍光が認められたが,茎頂と根端の分裂組織付近,側根の形成部位,花茎とロゼット葉の維管束,花粉の中央などで,特に強い蛍光が認められた(図6A-6E).また,共焦点レーザー走査顕微鏡下での観察により,胚での発現も認められた(図6F).以上の結果は細胞の分裂や伸長が盛んな組織でCDP-エタノールアミン経路の働きが強化されている可能性を示唆している.

 根の表皮細胞におけるPECT1-EYFP融合タンパク質の局在を共焦点レーザー走査顕微鏡により観察したところ,リング状の蛍光像が観察された(図6G).この蛍光像はミトコンドリアを染色するMito Tracker色素による染色蛍光像(図6H)と重なり,EYFP の蛍光はミトコンドリアを取り巻くように観察されることがわかった(図6I).過去の植物PECTの研究から得られた知見も考慮し,PECT1はミトコンドリア外膜の細胞質側に存在する膜タンパク質であると結論した.植物のCDP-エタノールアミン経路によるPE合成にミトコンドリアが関与している可能性が考えられた.

まとめ

 私は,本研究でPECT1遺伝子座の複数の変異アリルを単離し,その解析を行った.ヌルアリルpect1-6のホモ接合体が胚性致死であることを見出し,PECT活性がシロイヌナズナの初期の胚発生に必須であることを示した.また,PECT活性が大幅に低下したpect1-4/pect1-6 植物の表現型解析および,PECT1の発現解析から,PECTが植物細胞の分裂や伸長にとって重要な役割を担っていることを示唆した.さらに,pect1-4/pect1-6植物ではPE量が低下していることを示し,CDP-エタノールアミン経路が発芽後の生育においてもPE合成の主要な経路として機能していることを示唆した.

 今後,pect1変異と他の変異との遺伝学的相互作用を調べることで,表現型とPE量との関係を深く理解することが可能になると期待される.また,本研究において得られたPE量が減少した植物は膜脂質の性質が変化していることが予測され,植物の脂質代謝,膜タンパク質の活性,小胞輸送などの制御に関する研究に寄与する材料となると期待される.

図1 ホスファチジルエタノールアミン(PE)の合成経路

シロイヌナズナでは,ホスファチジルエタノールアミンを合成する経路は3つあることがゲノム情報から予想される.

図2 pect1変異体のロゼット葉におけるPECT 活性

pect1-4ホモ接合体は野生型の26%,pect1-6ヘテロ接合体は野生型の53%のPECT活性を示した.pect1-4/pect1-6植物のPECT活性は野生型の19%まで低下した.

図3 pect1-6ホモ接合体の表現型

pect1-6ヘテロ接合体の自家受粉による開花後4日目の胚の形態を示す.75%の胚は(A)のように正常な発生を示したが,25%の胚は致死であり,最も発生の進んだ胚でも8細胞期を越えなかった(B,C). Bar=10μm.

図4 pect1-4/pect1-6植物の表現型

(A)pect1-4/pect1-6植物(右)は野生型植物(左)と比較して顕著な矮性を示した. Bar=1cm.

(B-E) pect1-4/pect1-6植物の花(C)は,野生型の花(B)と比較して,雄蕊が未発達であった.また雌蕊の中には,野生型の胚珠(D)のような構造が見られない異常な胚珠(E)が多くみられた. Bar=1mm (B,C),50μm(D,E).

図5 pect1変異体のロゼット葉における脂質組成

PECT活性の低い植物では,PEの割合が減少した.減少分は主にPCによって補われていた.

図6 ProPECT1:PECT1-EYFPの発現

PECT1-EYFPの蛍光は全ての組織で認められたが,分裂組織の周辺(A,茎頂;B,根端;C,(D),花粉(E),胚(F)で特に強かった.

根の表皮細胞においては,PECT1-EYFPの蛍光(G)が,ミトコンドリアを染色するMito Tracker色素の蛍光(H)を取り巻いている様子が観察された(I,両者を重ねた像).

Bar=100μm(A-E),50μm(F),10μm(G-I).

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる。第1章は、イントロダクションであり、生体膜を構成するリン脂質であるホスファチジルエタノールアミン(PE)の物理化学的性質、様々な生物における生合成経路と、既知の生理学的機能について述べている。また、研究の目的として,モデル植物であるシロイヌナズナにおけるPEの生理学的機能を解明することと、その生合成に関与する3つの経路のひとつであるCDP-エタノールアミン経路の役割を検証することを挙げている。

 第2章では、CDP-エタノールアミン経路の鍵酵素であるCDP-エタノールアミン合成酵素(PECT)をコードするPECT1遺伝子の突然変異アリルの単離について述べている。逆遺伝学的なスクリーニングの手法としては通常DNAフラグメントの挿入変異を探索するが、本研究では一塩基置換をTilling法で探索し、性質の異なる複数の突然変異アリルの単離に成功している。pect1-4アリルは、ミスセンス変異で、そのホモ接合体のPECT活性は野生型の26%まで低下する。また、pect1-6はスプライシングの異常によるヌルアリルで、ヘテロ接合体のPECT活性は野生型の51%まで低下する。また、両者の交配によって作出されたpect1-4/pect1-6 F1植物は、PECT活性が野生型の19%まで低下する。これらは、植物においてPE合成経路の酵素活性が低下する変異体を単離した初めての例である。

 第3章では、胚発生におけるPECT1の役割の検証について述べている。pect1-6ホモ接合体は胚性致死であり、胚発生の8細胞期に生育を停止することを示し、シロイヌナズナの初期胚発生にとってPECT1が必須であると結論している。また、pect1-4ホモ接合体の胚は生育が遅延すること、pect1-4/pect1-6 F1胚は生育遅延に加え、部分的な致死性を示すことから、初期以降の胚発生においても十分なPECT活性の維持が必要であると結論している。これまでPE生合成の各経路が植物の胚発生においてどのような役割を担っているのか不明であったが、以上の結果は、CDP-エタノールアミン経路がシロイヌナズナの胚の生育にとって重要な役割を持つことを明らかにした点で新奇性がある。本章では、さらに、野生型とpect1-6ヘテロ接合体の相反交雑により、pect1-6アリルを持つ配偶子が野生型アリルを持つ配偶子と稔性に差は見られないことを示して、PECT1の発現は配偶子世代では必要ではないことを明らかにし、その理由に関しての考察を述べている。

 第4章では、栄養生長および生殖生長におけるPECT1の役割の検証について述べている。まず、pect1-4/pect1-6 F1植物が著しい矮性を示すことから、この表現型について解析を行い、組織切片の観察結果から、矮小化の原因として細胞数と細胞サイズの減少、細胞間隙の発達阻害を指摘している。また、pect1-4ホモ接合体とpect1-4/pect1-6 F1植物の示す稔性の低下について解析を行い、これらの植物では、雄性・雌性の各配偶体を作る能力が低下しており、正常な配偶体の数の減少が稔性低下の原因であることを指摘している。以上の結果から、シロイヌナズナの栄養生長・生殖生長にとっては十分なPECT活性が必要であると結論している。また、これらの植物における膜脂質の組成を分析し、極生グリセロ脂質のうちPEの占める割合がpect1-4ホモ接合体で野生型の92%、pect1-4/pect1-6 F1植物で野生型の65%になっていることを示している。pect1-4/pect1-6 F1植物の矮性化を考慮すると、この結果は、数字以上にシロイヌナズナのPE生合成にとって、CDP-エタノールアミン経路が主要な役割を果たしていることを示している。これは過去の代謝研究による予測に対して分子遺伝学的な証明を与えたものとみなせる。

 第5章では、考察および将来の展望が述べられている。まず、本研究によって得られた知見から、植物のPE合成経路について考察している。また、PE含量の低下によって最初に影響される因子を探索するためのアプローチについて展望が述べられている。

 本研究は、植物において、PE含量の低下した変異体を単離した始めての例である。また、この変異体は、植物におけるPEの生理学的機能を調べる上で、重要な材料となりうる。

 なお、本論文第2章、3章及び4章は、西田生郎・中村正展との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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