学位論文要旨



No 122196
著者(漢字) 那須,信
著者(英字)
著者(カナ) ナス,マコト
標題(和) 神経系遺伝子Brn-2の哺乳類特異的なドメインの in vivo 研究から明らかになったその状況特異的機能
標題(洋) In vivo study on the mammal-specific domain in the neuronal gene Brn-2 and its situation-specific function
報告番号 122196
報告番号 甲22196
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5059号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 植田,信太郎
 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 石田,貴文
 東京大学 教授 長谷川,寿一
 国立情報研究所 教授 藤山,秋佐夫
 国立遺伝学研究所 助教授 小出,剛
内容要旨 要旨を表示する

1.導入

 脳は、ほとんどすべての生命現象を司る器官である。脳機能に変化が起これば、その宿主である生物体は個体レベルでも機能が変化し、その結果、環境における生存力に違いが生じ得ると考えられる。脳は、単一の神経細胞を起源とし、神経節としてまとまり、それがさらに高度化することで中枢神経系としての機能を担うに至った。また、最初は単純な構造でしかなかった脳は、脊椎動物進化の過程で非常に複雑化してきた。このような形態的な脳の進化は、同時に脳に機能的な進化があったことを示すものであり、そしてそれらはいずれも分子的な変化がなければ起こりえなかったはずである。しかし現在までのところ、脳の進化に寄与した遺伝子については、少数の間接的な報告があるのみであり、脳の進化がどのような機構によって達成されたのかについては、多くが未知のままある。

2.実験計画概要

 Brn-2は、脳神経系で発現する転写調節因子をコードする遺伝子である。Brn-2のノックアウトマウスでは、視床下部の室傍核、視索上核の形成不全が観察された。Brn-2遺伝子によってコードされるBRN-2タンパク質のアミノ酸配列を脊椎動物内で比較すると、それらは大きく二つのグループに分類することができる。すなわち、単一アミノ酸反復配列を持つ高等脊椎動物(有羊膜類)型と単一アミノ酸反復配列を持たない下等脊椎動物(魚類・両生類)型である(図1)。哺乳類のBRN-2は、ポリグリシン、ポリグルタミン、ポリプロリンという三つの単一アミノ酸反復配列を持つ。このうちポリグルタミンは、PQBP-1 (poly-Q binding protein-1)タンパク質と相互作用することが知られている。PQBP-1は、ポリグルタミンとの相互作用を通じて、BRN-2の転写活性の抑制に働くことが報告されているが、in vivoでの生理的機能は明らかではない。一方、魚類・両生類のBRN-2は、それらを一つも持たない。魚類-両生類-哺乳類という進化の過程が成立することを考えると、これら三つの単一アミノ酸反復配列は、両生類からの分岐後、哺乳類に至る系統で獲得されたことを示唆する。ゲノムレベルの比較から哺乳類は、下等脊椎動物に比べて、単一アミノ酸反復配列をゲノム中に豊富に含むことが報告されている。このことは、単一アミノ酸反復配列の獲得はBRN-2特異的なものではなく、両生類からの分岐以降、頻繁に起こったイベントであることを意味する。

 ここで、私は、一つの仮説を提唱する。単一アミノ酸反復配列の獲得は、複数の遺伝子に共通したゲノムレベルの進化機構と考えることができ、これによって脳の進化を含めた生物の機能的進化が誘導されたと考えることはできないだろうか。本研究では、この仮説を検証するため、マウスを用いて、Brn-2内の哺乳類特異的な三つの単一アミノ酸反復配列のコード領域(図1中赤字部分)をすべて欠くBrn-2ΔGQP(又はBrn-2Δ)を作成し(図2)、解析を行った。Brn-2ΔGQPはいわば、下等脊椎動物型Brn-2と同等と考えることができ、このことから本実験は、Brn-2遺伝子の先祖返り実験と言うことができる。

3.結果

3-1.基本的機能の保存

 単一アミノ酸反復配列をヘテロ、またはホモで欠失したマウス(Brn-2Δ/+またはBrn-2Δ/Δ)は、野生型マウス(Brn-2+/+)と変わらず、正常に発育し、妊性を持ち、寿命を迎えた。外見および脳の組織切片の観察から、BRN-2の単一アミノ酸反復配列の欠失は、胎仔期の発生および出生後の成長に影響を及ぼさないことが分かった。また、リアルタイムPCR法による定量的発現解析の結果から、Brn-2遺伝子(Brn-2+とBrn-2Δを区別しない)、およびその下流遺伝子Oxytocin(OT)、AADC(aromatic L-amino acid decaboxylase)の発現量はBrn-2の遺伝子型に依らないことが示された(図3)。以上のことから、BRN-2における単一アミノ酸反復配列が欠失しても、進化的に保存されたBRN-2の基本的な機能は影響を受けないと言うことができる。

3-2.仔育ての障害

 一方、Brn-2ΔGQP対立遺伝子を持つマウスは、仔育てにおいて、欠陥が観察された。すなわち、Brn-2ΔGQP対立遺伝子の数に反比例して、仔の生存率の低下傾向が見られ、Brn-2Δ/+、Brn-2Δ/ΔはともにBrn-2+/+に比べて有意に低いことが分かった(図4中**で表した部分)。また仔の生存率低下は、仔の遺伝子型には依らず、母マウスの遺伝子型に依存していたことから、母マウスによる仔育て行動の違いに原因があると考えられる。そして、行動の違いは遺伝子発現の違いによって説明することができると期待される。

3.3マイクロアレイを用いた候補遺伝子の網羅的探索

 そこで、次にマイクロアレイ解析を行い、Brn-2の遺伝子型による違い、仔育ての有無の違いを反映する候補遺伝子を探索した。用いた個体は、 出産日に仔育てをしている野生型C57BL/6Jマウス(A群)、仔育てをしていないC57BL/6Jマウス(B群)、仔育てをしていないホモ変異型マウス(C群)である(表1)。各群3個体ずつ用いて(図6中、列の項)、ANOVAにより、群間における発現の差が有為な遺伝子をスクリーニングし(図5)、47個の候補遺伝子を得た(図6中、行の項)。C群特異的な発現変動を示す遺伝子は、BRN-2の単一アミノ酸反復配列の欠失による作用を受けて、仔育ての成績の低下を引き起こした責任遺伝子の可能性が高い。これらの候補遺伝子のうち、95%の遺伝子は、UniGene、SymAtlas、GENSAT、FANTOMのデータベースから、実際に脳で発現していることが支持された。今後、これらの遺伝子を解析していくことで、BRN-2の単一アミノ酸反復配列の仔育て行動における機能をより詳細に明らかにすることができると期待される。

3-4.母性行動の時系列的発現

 仔育て行動は母性行動と呼ばれるいくつかの行動群によって説明される(表2)。母性行動を詳細に観察した結果、少なくとも二つの行動の対照的な結果を見出した。すなわち、Brn-2の遺伝子型によらず、Placentophagia(胎盤食)はたいてい正常に行われる一方、Nursing(授乳)は、ほとんど行われることがなかった。これらを行動が見られた順で時系列的に並べてみると、母性行動の初期の行動は正常で、Nursingの発現までに異常を来していることが分かった。このことから、Brn-2の単一アミノ酸反復配列の作用点は母性行動が動機付けられてからNursingの発現までの間にあると考えられる。

4.考察

4-1.BRN-2の単一アミノ酸反復配列は状況特異的な機能ドメインである

 本研究において注目したBRN-2の単一アミノ酸反復配列は両生類までには存在せず、哺乳類に至る系統で初めて獲得されたものである。単一アミノ酸反復配列の欠失は、BRN-2において進化的に保存された基本的な機能には影響を与えず、仔育て行動という状況特異的な機能に限定して影響を与えた。このことは、BRN-2の哺乳類特異的な単一アミノ酸反復配列が、状況特異的に機能していることを示唆している。高等動物では、組織、時期、状況の違いに応じて適切に遺伝子発現を制御することが必要とされる。単一アミノ酸反復配列は、元のタンパク質の機能を乱すことなく、状況特異的に働く機能ドメインとして、遺伝子の発現制御に関わっていると考えられる。

4-2.単一アミノ酸反復配列は進化の媒体となった

 単一アミノ酸反復配列の獲得は、BRN-2に限らずゲノムレベルで広く見られることから、哺乳類の多くの遺伝子が単一アミノ酸反復配列の獲得によって機能的に進化を遂げた可能性が示唆される。このようにゲノムレベルに広げて考えると、単一アミノ酸反復配列の獲得は、ゲノムレベルで起こった機構と考えることができる。また、単一アミノ酸反復配列の獲得と喪失は頻繁に起こっているようである。単一アミノ酸反復配列は、獲得に際して過激な変化を起こさないようなDNA上の変異である一方で、 哺乳類の(もしかしたら有羊膜類の)複数の遺伝子に機能的進化をもたらし得る進化のための媒体となったのかもしれない。Brn-2の先祖帰り実験は、上記仮説を支持する結果となった。仮説のさらなる検証のためには、単一アミノ酸反復配列を進化的に獲得した他の遺伝子についても調べてみることが有効だろう。

図1.Brn-2アミノ酸配列のアライメント。青色の四角の囲みは、DNA結合ドメインであるPOUドメインを、赤字は、本研究で欠失させた単一アミノ酸反復配列を示す。ここでは、有羊膜類の代表としてマウス(Mouse)、下等脊椎動物の代表としてアフリカツメガエル(X.laevis)のみを用いている。

図2.Brn-2遺伝子座のターゲティングストラテジー。四段目に示すのが、Brn-2ΔGQP対立遺伝子である。

図4.母の遺伝子型別にみる仔の生存率。夫の遺伝子型を区別しない三群比較(灰色の棒グラフ)でp値は'0.00028'であった(フィッシャーの正確検定による)。

図3.リアルタイムPCR法による遺伝子の定量的発現解析。

Brn-2、OT、AADCの発現量をgapdの発現量で基準化したΔCt値で表す。.

表1.マイクロアレイ解析における群分類

図5.マイクロアレイ解析を用いた候補遺伝子選別のための手順

図6.候補遺伝子を用いた階層型クラスター解析。

(A群:101-103,B群:201-203,C群:302-304)

(列:アレイ系統樹,行:遺伝子系統樹)

表2, 母性行動の時系列的発現

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり,第1章はイントロダクションであり、研究の目的と背景が述べられている。第2章は本研究でもちいた材料と方法が詳述されている。第3章は本研究によって得られた結果が、第4章では結果の考察が述べられている。

 脳神経系で特異的な発現がみられる転写調節因子Brn-2遺伝子がコードするタンパク質のアミノ酸配列を脊椎動物内で比較すると、羊膜類ではいくつかの種類の単一アミノ酸反復配列を複数有しているのに対し、両生類・魚類の下等脊椎動物では、これらの単一アミノ酸反復配列のほとんどを欠いていることが知られている。例えば哺乳類では、それぞれグリシン、グルタミン、プロリンからなる3つの単一アミノ酸反復配列を有しているが、両生類・魚類ではそれらをすべて欠いている。Brn-2の発現は、胎生初期には神経上皮に広く見られるが、やがて脳の発生・分化の進行とともに、大脳新皮質、視床下部、小脳などに限局するようになる。本論文では、哺乳類のBrn-2転写因子に固有な機能を探るため、哺乳類を特徴づける3つの単一アミノ酸反復配列のみを完全に欠失させた変異型マウス(Brn-2ΔGQPノックインマウス)を作出し、そこで生じた変化を解析している。

 単一アミノ酸反復配列を欠失した変異型マウスはヘテロ変異型、ホモ変異型ともに、正常に発育し、寿命、妊性も、野生型と同等であった。また、脳組織の組織学的観察からも異常は観察されなかった。さらに、Brn-2およびその下流遺伝子OxytocinやAADC遺伝子の転写産物量をreal-time PCR法を用いて定量解析を行っているが、遺伝子型による発現量の違いは見られなかった。これらの結果により、Brn-2の単一アミノ酸反復配列を欠失させても、その基本的な機能には影響を及ぼさないことを示した。しかし、出生した仔マウスの離乳までの生存率は母マウスの遺伝子型(+/+、野性型;Δ/+、ヘテロ変異型;Δ/Δ、ホモ変異型)に強い影響を受けていること、そして、Brn-2ΔGQPアレルの数の増加に比例して、すなわち、ホモ変異型の雌を母とする仔マウスの生存率はヘテロ変異型の雌を母とする仔マウスの生存率よりも低いことを、統計的学に有意な差をもって示した。

 次に、仔育て行動の異常に関与している遺伝子を探るためマイクロアレイ解析により発現遺伝子の変化を調べ、47の候補遺伝子を得ている。Clustering Affinity Search Techniqueを用いて変動傾向の似た遺伝子同士をクラスター化し、これら遺伝子の発現変動の傾向を分類している。なお、UniGene、SymAtlas、GENSAT、FANTOMデータベースの検索から、候補遺伝子の95%は脳で発現しているものであった。

 以上,本研究は脳で特異的に発現している転写因子Brn-2において、哺乳類に固有なBrn-2の構造体である単一アミノ酸リピートだけを欠失させた場合、哺乳類を特徴づける形質として知られる子育て行動に異常をもたらすことを示したものであり、学問的意義は非常に高い。なお,本論文は植田信太郎、吉田進昭、片岡由紀、佐藤充治、市瀬広武、との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 よって,博士(理学)の学位を授与できると認める。

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