学位論文要旨



No 122199
著者(漢字) 石川,里奈
著者(英字)
著者(カナ) イシカワ,リナ
標題(和) ウニ精子における鞭毛の振動開始機構に関する研究
標題(洋) Studies on the mechanism of initiation of flagellar oscillation in sea urchin sperm
報告番号 122199
報告番号 甲22199
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5062号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 真行寺,千佳子
 東京大学 教授 馳澤,盛一郎
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 豊島,陽子
 東京大学 助教授 奥野,誠
内容要旨 要旨を表示する

序論

 真核生物の鞭毛運動の特徴は,振動運動である.ウニ精子鞭毛では,鞭毛基部で両方向に屈曲が周期的に形成され,先端へと伝播する.この振動運動は,軸糸内のダブレット微小管上に並ぶダイニンが,ATP加水分解のエネルギーにより,ダブレット微小管間に起こす滑り運動を原動力としている.屈曲は,滑り量の差がある部分に形成されること,また,鞭毛のどの部分でも,屈曲形成の能力をもつことが実験的に示されている.しかし,屈曲形成がどのような機構により振動運動となるのかについては,まだ明らかにされていない.鞭毛運動においては,屈曲の形成,成長,伝播,逆方向への屈曲形成が,連続的におこるため,屈曲形成が連続的な振動となる条件,すなわち振動開始の要因を特定することは容易ではない.従って,振動の誘導の開始過程を解析するには,特別な実験系が必要である.

 これまでに,機械的に鞭毛を変形することにより,鞭毛運動の変化やダイニンの活性化が起こることが報告されており,力学シグナルがダイニンの活性化の調節に関与すると考えられている.また,ADPの存在が,鞭毛運動やダイニンの活性制御に関わっていることも知られている.しかし,力学シグナルやADPが,振動運動の制御において,具体的にどのような役割を果たすのかは,まだわかっていない.

 本論文では,鞭毛における振動開始機構の解明を目指した.具体的には,低濃度ATP存在下で運動を停止している除膜鞭毛に,力学シグナルを与えることにより振動運動を誘導するという独自の手法を開発し,これを用いて振動開始におけるATPとADPの役割,および鞭毛に沿った反応性の違いの役割を検討したので,その結果を報告する.

材料と方法

アカウニPseudocentrotus depressusの精子を用いた.海水に希釈した精子を除膜後,ATPを含む再活性化溶液で再活性化した.鞭毛に力学シグナル("機械的変形"または"機械的揺動")を与えるには,精子の頭部を0.1%ポリリジンであらかじめコートしたガラス微小針で保持した.機械的変形では,鞭毛先端に付着させたもう1本のガラス微小針により,鞭毛を曲げた.機械的揺動では,頭部を保持した針を取り付けたマニピュレーターに軽く触れた.暗視野顕微鏡下でimage intensifierをつけたCCDカメラにより画像をビデオに記録後,モニター画面上でOHPシートにトレースし,解析した.

結果と考察

低濃度ATP下における鞭毛の再活性化

 再活性化率は,10μM ATPでは95%以上を示したが,5.0μM以下では除々に減少し,2.0μM ATPで5.8%となり,1.5μM ATPでは運動はみられなくなった.運動をしていない鞭毛は,まっすぐ,またはゆるやかな屈曲を示し,"rigor wave"ではなかった.自発的振動運動に必要なATP閾値濃度(約2.0μM)の存在は,振動運動には,ある割合のダイニンが協調的に運動することが必要であることを示しているものと考えられる.

外部からの屈曲(機械的変形)による鞭毛反応の誘導

 1.0-4.0μM ATP存在下で運動を停止しているウニ精子の鞭毛が屈曲するように変形を与えた.鞭毛前方に1つの屈曲が形成されるように鞭毛を変形した場合は(図1A),鞭毛反応は誘導されなかった.一方,一対の屈曲が形成されるように変形した場合は(図1B),「屈曲形成」("bend formation")に続いて,「伝播」("propagation"),「1周期」の運動("fullcycle"),「周期的運動」("beating")の反応のいずれかが起こった(図1C).これらの鞭毛反応の出現頻度は,ATP濃度に依存していた.「周期的運動」は2.0μM ATP以上で誘導され(図1D),「周期的運動」に必要な最少のATP濃度は,自発的振動運動と同じであった.また,誘導された「周期的運動」の鞭毛打頻度は,ATP濃度により変化した.このことから,誘導された「周期的運動」は,通常の振動運動におけるダイニンの活性制御を反映していると考えられる.しかし,鞭毛先端に付着させたガラス微小針を取り除くと,誘導されていた鞭毛反応は停止し,振動を持続させることはできなかった.このことは,この一連の鞭毛反応が受動的な反応の要素を含む可能性を示す.そこで機械的揺動による反応の誘導を試みた.

機械的揺動による鞭毛反応の誘導

 精子頭部を保持した針に機械的揺動を与えた結果,鞭毛の前方部分に一対の屈曲が誘導され,それに続いて,変形により誘導された鞭毛反応とほぼ同様の反応が誘導された.「周期的運動」は2.0μM以上のATPで誘導された.

誘導された屈曲の特徴

 2つの手法により形成された一対の屈曲の特性と,その屈曲がその後どの段階の鞭毛反応へと発達するかを検討した.その結果,一対の屈曲のうち後方の屈曲と鞭毛反応との関連が見られたので,詳しい解析を行った(表1).鞭毛のより前方に屈曲が形成された場合(表1,*1-*4),またさらにその屈曲が成長し角度が大きくなった場合に(表1,**),より発達した鞭毛反応が誘導された.また,最初の屈曲角度の大きさにより,伝播するかどうかが決まるらしい(表1,§1 と§2).後方の屈曲の曲率と鞭毛反応との関連は見られなかった.これらの特性は,ATP濃度には依存しなかった.機械的変形と機械的揺動のどちらの力学シグナルも,振動運動の誘導に有効であり,ダイニンの協調的な運動を引き起こすことがわかった.今回「一対の屈曲」の形成が振動の誘導に重要であることが明らかになったが,これは,一対の屈曲のうち後方の屈曲における滑り運動によって,前方の屈曲のダイニンの活性が制御されるという機構が存在することによると考えられる.

ADPの効果

 次に,振動運動の誘導におけるADPの効果を外部から屈曲を与える機械的変形により調べた.1.5μM ATP存在下では「周期的運動」は誘導されなかったが,1.5-10μM ADPを加えると「周期的運動」の誘導に成功した(図2).ADP量が増えても,「周期的運動」の出現頻度や鞭毛打頻度(約0.04Hz)は変わらなかったことから,ADPがATPに変換された結果,「周期的運動」が誘導されたのではないと考えられる.振動運動の誘導は,ATP濃度のみで決定されるわけではなく,ATPとADPの両方の存在が重要であると考えられる.また,2.5μM ATP中で誘導された「周期的運動」は,鞭毛先端のガラス微小針をとり除くと停止した.しかし,2.5μM ATPとともに2.5μM ADPが存在すると,ガラス微小針を外しても,振動が1-5周期持続した.この結果は,ADPがダイニンの活性状態を高めることを示している.ADPがどのようにダイニンの働きを調節しているのかは不明である.ADPの結合によりダイニンの構造または機能が変化すると,力学シグナルに反応して,ATP加水分解エネルギーの化学-力学変換が高まるのかもしれない.

振動運動における鞭毛前方の役割

 一対の屈曲の後方の屈曲が,鞭毛のより前方(基部から3μm付近)に形成されると,「周期的運動」が誘導された(表1).従って,鞭毛の前方と後方とで反応が異なる可能性がある.そこで,後方部分に屈曲を形成することを試みた.上記の手法では,屈曲を形成する位置をコントロールできない.そこで頭部を保持するガラス微小針を利用して,全長約40μmの鞭毛の前方部分を頭部と共に保持し,制約されない鞭毛の長さ(L)を短くし,Lの部分に外部からの変形により屈曲を誘導した(図3A).実験は2.0μM ATPで行った.その結果,鞭毛の前方約半分を制約して後方に屈曲を形成した場合,「周期的運動」が誘導された(図3B).しかし,鞭毛の半分以上を制約した場合,鞭毛の後方に一対の屈曲が形成されても「周期的運動」は誘導されず,また高次の鞭毛反応の出現頻度も減少した.一方,1.5μMATPと1.5μM ADPが存在する場合には,鞭毛前方部分が少しでも制約されると「周期的運動」は誘導されなかった(図3C).このように鞭毛の前方と後方とで,運動活性制御に違いがあることがわかった.鞭毛の長軸にそった反応性の違いは,屈曲の形成と,後方の屈曲からより前方への制御を介した振動運動の開始に重要であると考えられる.鞭毛の位置による反応の違いは,ダイニンの種類の違いによるのかもしれない.また,ダイニン以外の構造的な違い,例えば,ダイニンの制御に重要な役割をもつ,中心小管やラジアルスポークなどの違いも考えられる.生理的な高濃度ATP存在下でも,鞭毛の前方と後方とでダイニンの運動活性制御が異なるのかどうかはわらない.しかし,鞭毛にそって存在する反応性の違いは,振動運動中のダイニンの運動制御の要因として重要であると考えられる.

 本研究では,振動運動を誘導する新しい手法を用いて,振動運動開始の要因のいくつかを初めて明らかにした.振動開始に特に重要なのは,ATPとADPの存在,及び鞭毛の前方と後方の運動活性制御の違い,であることがわかった.本研究は,鞭毛の屈曲という力学シグナルがダイニンの運動活性を制御していることを強く支持する.この力学シグナルが鞭毛にそってどのようにダイニンの運動活性を制御するのか,その分子機構の解明が,今後の重要な課題の一つである.

図1 機械的変形による鞭毛反応の誘導

A.1つの屈曲形成

B.一対の屈曲形成

C.Bの手法により誘導された4つの鞭毛反応

D.Bの手法により誘導された鞭毛反応の出現頻度

表1.機械的に誘導された屈曲の特徴a)

図2 1.5μM ATP存在下の鞭毛反応に対するADPの効果

図3 振動運動における鞭毛前方の役割

A.誘導方法

B.2μM ATP存在下の鞭毛反応の出現頻度

C.1.5μM ATP+1.5μM ADP存在下の鞭毛反応の出現頻度

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、要旨(Abstract)、序章(Introduction)、方法(Materials and Methods)、結果(Results)、考察(Discussion)、謝辞(Acknowledgements)、参考文献(References)、表と図(Tables and Figures)から構成されている。

 真核生物の鞭毛運動の特徴である振動運動については、多くの知見が得られているが、その制御機構の全容は未だに明らかにされていない。中でも興味深いのは、屈曲が鞭毛の根元でくり返し作られ、先端へと伝播することである。屈曲の形成は、鞭毛内の微小管間にダイニンによって起こされる滑り運動によること、滑りの量の差のある部分に屈曲ができること、この屈曲形成能は鞭毛のどの部分にもあること、が知られている。しかし、どのような仕組みで屈曲が振動となるのかは明らかではない。この振動開始機構解明のむずかしさの要因の一つは、振動の要素、すなわち屈曲の形成、成長と伝播、逆方向への屈曲形成が、連続的に起こることにある。ところで、これまでの研究から、機械的に鞭毛を変形することにより,鞭毛運動の変化やダイニンの活性化が誘導できることが知られている。このことは、ダイニン活性化の調節に力学シグナルが関与することを示唆する。本論文は、この力学シグナルの役割に着目し、新たな振動運動解析法を構築するという試みからスタートしている。まず、振動の要素が連続的であることから、この連続性を抑制する条件を編み出した。膜を除去したウニ精子鞭毛は、通常の運動に必要なATP濃度の1000分の1の濃度下では自発的に運動できない。ここに力学シグナルを与えることにより振動を誘導するのである。このアイディアは斬新であり、これまでの研究には例を見ない独創的な発想を含んでいる。この手法により誘導された反応は、振動の要素を段階的に示すという興味深い結果が得られた。さらに、この手法により、従来からダイニン活性の制御に関与することが示唆されているADPの役割についても新たな知見を提示した。また、鞭毛の前方と後方の特性の違いについても興味深い結果を得ている。以下に、特筆すべき成果について概要を述べる。

 中心的手法は、精子頭部をガラス微小針で保持し、もう1本の針で鞭毛先端を押さえてこの針を動かす事により鞭毛に変形を与えるというものである。この手法では、安定した変形を与えられる。しかし、もう1つの手法(頭部のみを押さえその針を軽く揺らす)では変形は一過的に与えられるので変形の持続的影響を排除できる。この両手法により得られた結果がほぼ一致したことは、両者に共通する力学シグナル誘導条件が一定であることを示唆しており、結果の信頼度は高い。

 自発的運動をしない鞭毛において、ATP濃度が2.0 μM以上の時に力学シグナルにより振動運動が誘導された。興味深いことに、ADPが少し(1.5-10 μM)でも存在するとこの閾値濃度は、1.5 μMとなった。ATPのみの時は、ATP濃度が上がるに連れて、誘導される振動の周波数は上昇したが、1.5 μM ATPとADPとが存在する時に誘導される振動運動の周波数はADP濃度により変化しなかった。ADPは、単にATPに加えても振動は誘導できないが、変形を与えれば振動が始まる。このことから、ADPのダイニンへの結合が力学シグナルにより誘導され、それがダイニンの化学-力学変換を促進する可能性が考えられ、今後のダイニンの活性制御機構の解明にとって大きな意味を持つ結果といえる。閾値濃度が何を意味するかについては、今後さらに検討が必要であろう。

 鞭毛の前方と後方との反応性の違いについては、これまでにも示唆されているが、本論文により、振動は後方でも誘導されるが、前方がより誘導されやすいこと、一対の屈曲形成が振動の誘導に必須であり、その際一対の屈曲の後方の屈曲の成長が誘導されるかどうかが重要な条件となるらしいことが明らかとなった。この後方の屈曲の成長が一対の屈曲の前方の屈曲の成長へと導かれて、振動に至る。この結果は、これまでの予想を明確に裏付けるものである。

 本論文では、屈曲形成、伝播、一周期の運動、振動運動、という段階的反応の誘導に成功している。この現象と、力学シグナルによるADP結合との関係を明らかにできれば振動運動制御の全容解明へより近づくことができると期待され、大きな意義のある研究である。以上のように、本論文の成果は、鞭毛の振動運動開始機構解明に向けて多くの示唆に富む知見を示したものである。

 なお、本論文の一部については、真行寺千佳子との共同で行ったものであるが、論文提出者が主体となって実験・解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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