No | 122204 | |
著者(漢字) | 仲,忠臣 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ナカ,タダオミ | |
標題(和) | 鯨類における循環調節とナトリウム利尿ペプチド | |
標題(洋) | Natriuretic peptides and circulatory regulation in cetaceans | |
報告番号 | 122204 | |
報告番号 | 甲22204 | |
学位授与日 | 2007.03.22 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第5067号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 生物科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 序論 海棲哺乳類とは、食肉目の一部(ホッキョクグマ、ラッコ、鰭脚類)、カイギュウ目(ジュゴン、マナティー)、クジラ目からなる動物群である。彼らはその生活史の一部またはすべてを水中環境に依存しており、その依存度は水中生活への適応度によって異なっている。そのなかでも、鯨類はおよそ5000万年前に陸上から水中へと進出した動物群であり、もっとも高度に水中生活へ適応している。現在知られているおよそ80種の鯨類のうち、すべての種が一生を通じて水中生活を送っている。彼らは進化の過程で非常にユニークな解剖学的、生理学的適応を遂げてきた。その代表が水中での心臓血管系の調節機構である。陸上で生活するすべての動物は等しく重力の影響下にあり、その体液は体の下方へと押し下げられている。いっぽう、水中や宇宙空間では重力から開放され、押し下げられていた体液は胸郭部へと上昇し、心臓へと灌流する静脈血(静脈還流)が増加して、全身の血行動態の変化を引き起こす。一生を通じて水中生活を送る鯨類は常に重力の影響をほとんど受けず、その血液は偏ることなしに全身を循環していると考えられる。しかし、鯨類が潜水を行う際には徐脈がおき、さらに抹消の血管が収縮することで血液は体幹部に集まり、心臓や脳などの低酸素に弱い器官を中心に灌流するということが知られている。また、ほとんどの鯨類は浸透圧が体液より約3倍高張である海水中に生息しており、真水に触れることは一部の種を除いて起こり難い。したがって、鯨類は餌に含まれる水分や、脂肪およびタンパク質を代謝することで産生される代謝水、また、時には海水を直接飲んで体内の水分バランスを保っているとされているが、彼らの体液調節機構についてはいまだ多くの議論がなされている。これらの点から、鯨類の循環・体液調節は非常に興味深いが、大型動物であるために実験が困難であることや、動物愛護の観点から実験を行うには大きな制限があり、特にこれらの調節にかかわる内分泌学的な側面については現在でも情報は非常に限られている。 心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)およびB 型ナトリウム利尿ペプチド(BNP)は、ともに循環の中枢である心臓から分泌されるペプチドホルモンであり、強力な血管弛緩と腎臓における水・ナトリウムの再吸収抑制を引き起こす。その結果、血液量が減少し、血圧が低下することで心臓の負荷を軽減させる作用を持っている。ナトリウム利尿ペプチド(NP)は、心臓保護作用をもつことから臨床医学や基礎医学においてヒトや実験動物を用いて多くの研究がなされてきた。いっぽうで、重力とNPに関する研究も行われており、ヒトやイヌを水中に浸漬した場合、増加した静脈還流によって心臓が大きく伸展し、血中のANP濃度が上昇して利尿が引き起こされることが知られている。宇宙空間で重力から開放された場合にも、血漿ANP濃度は一過性に上昇する。 このように、NPは実験動物だけでなく野生動物においても循環調節、水・電解質代謝に重要な役割を果たしており、海棲というユニークな生態をもつ鯨類におけるNPの作用は非常に興味深い。しかし、現在までに鯨類のNPに関する情報はまったく存在しなかった。そこで、私は博士課程において、鯨類でANPとBNPを同定するところから研究を開始した。同定した配列を基にラジオイムノアッセイによる測定系を確立して、組織や血液中の分子種を高速液体クロマトグラフィー(HPLC)や質量分析により同定することにより、鯨類のANPとBNPのプロセシングの過程を明らかにした。さらに、水棲動物である鯨類の心臓血管系の調節におけるANPやBNPの関与を調べるために、飼育下の動物を用いて重力がANPとBNPの分泌に及ぼす効果について検討した。 鯨類のANPとBNPの同定およびプロセシング過程の解明 まず、バンドウイルカ(Tursiops truncatus)、カマイルカ(Lagenorhynchus obliquidens)、イシイルカ(Phocoenoides dalli)の3種の鯨類の心臓から、ANPとBNPのcDNAをクローニングした。cDNAから予想されるANP前駆体のアミノ酸配列は、鯨類を含めて哺乳類間で74%以上の保存性を示し、成熟ペプチドであるANP-28は齧歯類を除く他の哺乳類と同一であった。いっぽう、BNP前駆体は鯨類と他の哺乳類の間で保存性は低く、マウスと比較するとおよそ30%の保存性しか示さなかった。前駆体アミノ酸およびcDNA 配列をもとに哺乳類の間で分子系統解析を行ったところ、鯨類のANPとBNPはそれぞれラクダやブタなど、偶蹄目の動物のNPとクラスターを形成した。鯨類は、系統的に偶蹄目から分岐してきたことがDNAや形態学を用いた系統解析から明らかになっており、鯨類と偶蹄類は鯨偶蹄目を形成するという説が提唱されているが、機能的制約を受けるホルモン分子であるANPやBNPの解析もその結果を支持することとなった。また、両ホルモンとも心房で最も強く発現しており、心室での発現は少なかった。いっぽう、体液調節器官である腎臓では、ANP、BNPともにほとんど発現がみられなかった。 次に、組織や血中に存在するホルモン分子の生化学的な解析をおこなった。まず、ヒトANP-28とブタBNP-26の抗体を用いて、鯨類のANPとBNPに特異的で高感度なラジオイムノアッセイ(RIA)系を確立した。抗原として用いたこれらの分子は、cDNA クローニングの結果明らかになったイルカANP-28とBNP-26の配列に等しい。心臓におけるANPとBNPの組織含量を測定したところ、ヒトやブタなどの他の哺乳類と比べて著しく低い値を示すいっぽう、血漿濃度は他の哺乳類と比較して鯨類の方が高い値を示した。逆相およびゲル濾過HPLCとRIAを組み合わせて分子種を調べると、ANPは心臓ではプロホルモンとして貯蔵されているが、血液中には成熟ホルモンであるANP-28のみが存在した。いっぽう、BNPは心臓内からは低分子量の成熟ペプチドのみしか検出されなかった。鯨類のBNP前駆体には、プロセシング酵素であるproprotein convertaseの認識配列として知られるArg-X-X-Arg配列が2ヶ所に存在し、それぞれアミノ酸の数からBNP-32とBNP-26が切り出されることが予想されたが、鯨類のBNP-32のN-末端には、ブタと比べて2箇所のアミノ酸変異があるため、HPLCの溶出位置からは正確な分子種を明らかにすることはできない。そこで、心臓抽出物をイオン交換、ゲル濾過、逆相の3ステップのクロマトグラフィーによって粗抽出したのち、免疫沈降法によりさらに精製して質量分析を行ったところ、心臓に貯蔵されている分子種はBNP-26であることが明らかになった。また、血中には心臓と同様にBNP-26が存在した。以上のことから、産生されたANPは心臓にプロホルモンとして貯蔵され、血中に放出される際に成熟ホルモンに変換されるが、BNPは組織内ですでに成熟ホルモンへのプロセシングが終わっていることが明らかになった。 重力の変化によるANPとBNPの分泌変化 次に、水棲動物である鯨類の心臓血管系調節におけるANPやBNPの関与を調べるために、動物を陸に上げて重力をかけた際のANPやBNPの分泌変化を調べる生理学的な実験を行った。飼育バンドウイルカを用いて、水面で浮かんでいる動物と、飼育プールから水を抜き陸上で重力にさらした動物の血漿ANPおよびBNP濃度を調べた。その結果、2つの条件下で血漿濃度は変化しなかったが、その濃度は同様の状況にあるヒトの血漿濃度と比較すると2-3倍高い値であった。心臓に含まれるANPおよびBNP濃度はヒトと比べると低かったため、鯨類では心臓で合成されたNPはすばやく分泌されていると考えられる。また、落水により血液中のコルチゾル濃度に有意差がみられなかったため、動物に大きなストレスはなかったと予想される。落水時には心拍数が上昇する傾向がみられたが、自重によって押しつぶされた心臓が心拍出量を維持することができなくなるために、代償的に心拍数が上昇したものと考えられる。鯨類の胸郭が水圧による肺崩壊を起こしやすいように柔軟であるという特徴も、心臓の圧迫に寄与していると考えられる。落水時には重力により血液の偏りが生じ、心臓への還流血液量が減少してANP分泌が減少すると予想されたが、心拍数の上昇はANP分泌を促進するため、血漿ANP濃度に差が見られなかったものと考えられる。いっぽう、BNPは常に血中に一定量を放出する構成性分泌様式で分泌されるため、本研究のような急性実験では血漿濃度の変化として捉えることができなかったと考えられる。これまでに鯨類を陸上にあげた際の循環動態の変化については研究例がなかったが、砂浜に座礁した鯨類もおそらく同様の循環動態に陥っていると考えられる。このように、生活の場を陸上から水中へと移行させた鯨類は、完全に水中生活に適応しており、陸上にあがった際には姿勢や胸郭の形態が異なるため陸上動物と異なる循環動態に陥り、ANPとBNPも独自の分泌動態を示すものと考えられる。 まとめ 以上、鯨類のANPおよびBNPを同定し、分子系統解析を行ったところ偶蹄目との類縁性を示し、他の解析により示されている結果を支持する結果となった。ANP、BNPは発現量、組織含量から心房が主な産生器官であり、その含量が低いにもかかわらず血漿濃度は他の哺乳類に比べて高値であることから、血中へのホルモンの放出が盛んであることが示唆された。ANPは安定な前駆体として組織内に貯蔵され、心筋壁の進展などの刺激に応じて血中に放出されるが、いっぽうでBNPは心臓組織内ですでにアミノ酸26個からなる成熟ホルモンにまでプロセシングが進んでおり、合成されたBNPは血中へと速やかに放出されることが示された。生理学的にも解剖学的にも水中生活へと完全に適応を遂げた鯨類の循環動態は陸上動物とは大きく異なり、ANP、BNPの分泌動態も陸上動物とは異なることが示唆された。 図1 鯨類におけるANPとBNPのプロセシングモデル 図2 水中と陸上でのバンドウイルカの循環動態とNPの分泌動態についての仮説 | |
審査要旨 | 本論文は、General Abstract,General Introduction、Chapter 1,Chapter 2、およびGeneral Discussionの5部より構成されている。本論文の特色は、完全に水中生活に適応した鯨類のユニークな循環調節において、陸上動物の重要な循環調節ホルモンとして知られているA型およびB型ナトリウム利尿ペプチド(ANP,BNP)が関わっている可能性を、分子生物学、生化学、生理学などさまざまな観点から調べたところにある。鯨類は、約5千5百万年前にふたたび陸上生活から水中生活に戻った哺乳類のグループで、同様に水中生活をするアシカやオットセイなどの鰭脚類と比べても完全に水中生活に適応している。鯨類は、水のもつ浮力により重力の影響から逃れており、潜水時には心拍数を急激に減少させる。このようなユニークな循環調節には循環調節ホルモンが重要な役割を果たしていることは疑いないが、鯨類の循環調節ホルモンについてはまだなにもわかっていないのが現状である。ANPやBNPは心臓で産生され、心臓が膨れると分泌が亢進して心臓の負担を軽減するホルモンである。人やイヌを水に浸けると血液が体の中心に集まり、その結果心房が膨れてANPやBNPの分泌が亢進する。 Chapter Iでは、まだ同定されていない鯨類のANPとBNPのcDNAを数種の心臓からクローン化してそれらの配列を決定した。サンプルの入手が困難であったが、海岸に座礁して死亡した個体や水族館で死亡した個体、およびつきん棒漁で得た個体から心臓をいただいた。3種の鯨類からANPとBNPのcDNAを得たが、その配列は偶蹄目、特にラクダのANPやBNPの配列に特に類似していた。発現部位を調べると、ANPとBNP双方とも心房で発現が多かった。鯨類のANPとBNPに特異的なラジオイムノアッセイを確立して心臓および血液中の濃度を測定すると、ヒト、ブタ、ラットと比較すると心臓における含量が低いいっぽう、血漿濃度は高かった。すなわち、産生されたANPとBNPは、組織に貯蔵されることなくすぐに血液中に分泌されていることが示唆された。また、高速液体クロマトグラフィーや質量分析法を用いて心臓や血漿中の分子型を調べたところ、ANPはプロホルモンとして貯蔵され、分泌時にプロセシングを受けて成熟型になるが、BNPは26個のアミノ酸からなる成熟型として貯蔵される前にプロセシングを受けていることがわかった。 Chapter 2では、Chapter 1で得られた鯨類ANPとBNPの分子生物学、生化学に関する情報を基に、生理学的な実験を試みた。しかし、生理学的な実験を行うためには水族館で飼育されている個体を用いるしか方法がなく、また鯨類は動物実験の全廃をもとめる動物愛護団体の主要なターゲットであるため、最初に予定をしていた潜水中の採血を行うことができなかった。そこで、訓練を受けたバンドウイルカを用いて、水槽表面に浮かんだ状態での採血と、水槽の水を全て抜いて重力に晒した状態での採血を行い、ヒトで行われていた結果と比較した。また、ストレスの指標として血液中のコルチゾル濃度を、循環状態の指標として心拍数を測定した。血圧は測定することができなかった。その結果、イルカを上陸させても血漿ANPとBNP濃度に変化が見られなかった。ヒトでは陸上ではANP濃度が減少するが、水中生活に適応したイルカでは自重で心臓が圧迫されるため、減少した心拍出量を補充するため心拍数が上昇し、それがANPの分泌を促進することが予想された。このように、本研究はこれまでまったく行われていなかった鯨類の循環調節におけるホルモンの役割に関して新しい知見を与えるものである。 なお、本論文のChapter 1において、質量分析に関して国立循環器病センターの南野直人博士と佐々木一樹博士にご指導をいただいた。また、Chapter 2の生理実験に関して、鴨川シーワールドの勝俣悦子獣医には実験のセットアップや採血をお世話になり、三重大学の吉岡基博士にひとかたならぬご支援をいただいた。しかし、採血など部外者ができない部分を除き実験は全て論文提出者本人が行ったものである。そのため、本論文の全ての研究において論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
UTokyo Repositoryリンク |