No | 122207 | |
著者(漢字) | 堀,沙耶香 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | ホリ,サヤカ | |
標題(和) | 固定したミツバチを用いた視覚連合学習系の確立と視覚認知能力の解析 | |
標題(洋) | Establishment of visual associative learning paradigm using harnessed honeybee and analysis of its visual cognitive capacities | |
報告番号 | 122207 | |
報告番号 | 甲22207 | |
学位授与日 | 2007.03.22 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第5070号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 生物科学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)は高度な視覚認知能力を持ち、働き蜂は花の色や形や、巣の位置、周囲の目印を識別・記憶し、採餌と帰巣を行う。また、オプティカルフロー(視界を横切る視覚情報の流れ)から飛行距離を算出し、独特なダンスによって仲間に伝えることができる。このようなミツバチの視覚認知能力は自由飛行する個体の行動観察から明らかにされたが、その神経基盤及び分子基盤は不明である。私は修士課程において、ミツバチの視覚認知能力に関わる脳機能を解析する目的で、固定した蜂を用いたパブロフ型の視覚連合学習系を確立した。固定した蜂にショ糖溶液を与えると口吻伸展反射を起こすが、同時に単波長(618nm;赤橙色)の光刺激(条件付け刺激)を与えるトレーニングを繰り返すと、光刺激だけで口吻伸展反射を起こすようになる。私は通常の蜂は固定すると視覚記憶が成立しないが、触角を根元から完全に除去すると視覚記憶が成立することを見いだした。連合学習系は末梢神経から脳高次中枢における一連の認知過程(感覚情報の受容、識別、記憶、想起)を検出できるため、ミツバチの高度な視覚認知能力を解析する上で優れた実験系である。博士課程では様々な条件付け刺激(他の波長の光刺激やオプティカルフロー)を用いた視覚連合学習系を確立し、さらに固定した蜂の視覚認知能力を解析した。 本博士論文は2つの章からなる。第一章では、光刺激-口吻伸展反射連合学習について述べる。まず触角を切除した蜂で見られた学習率向上が、触角からの感覚(匂いや機械感覚)が遮断されたことによるのか、身体的ダメージによるのかを検証するため、両方の触角の先端一節のみを切除した蜂の学習を解析した。結果、この群では学習率は向上せず、ダメージにはよらないことが示された。 次に、固定した蜂の色識別能力を解析する目的で、540nm(緑)の光刺激を学習した蜂(3回連続して条件付け刺激に反応した個体)に対して、光強度を揃えた540nm(緑),439nm(青),618nm(赤橙色)の3種類の単波長の光を照射し、口吻伸展反応を観察した。その結果、540nm(緑)では78%、618nm(赤橙色)で60%の蜂が反応し、439nm(青)では反応が全く見られなかった(図1)。このことは固定した蜂は540nm(緑)と618nm(赤橙色)の区別はできないが、540nm(緑)と439nm(青)は区別して記憶することができることを示している。ミツバチの複眼には、3種類の光受容体(紫外線受容体、青受容体、緑受容体)が存在し、540nm(緑)と618nm(赤橙色)は主に緑受容体で受容し、439nm(青)は主に青受容体で受容されるため、固定した蜂の色識別能力は関与する光受容体の性質に依存すると考えられる。一方、この実験において、540nm(緑)の光刺激を学習した蜂は439nm(青)の光刺激が消えた瞬間に口吻伸展が起こることを見いだした(図1)。540nm(緑)、618nm(赤橙色)の光刺激が消えたときの口吻伸展率はそれぞれ15%,10%であったが、439nm(青)では65%であった。このことは固定した蜂では、439nm(青)の光刺激が消えた瞬間に、540nm(緑)と類似した色残像が生じると解釈することで説明できる。 最後に、光刺激-口吻伸展反射連合学習の分子基盤の解明を目的とし、環状グアノシン一リン酸(cGMP)情報伝達系や環状アデノシン一リン酸(cAMP)情報伝達系が関わるかを検証するため、cGMP依存性プロテインキナーゼ(PKG)を活性化する薬剤(8-Br-cGMP)、又はcAMP依存性プロテインキナーゼ(PKA)を活性化する8-Br-cAMPを経口投与し学習率を解析した。その結果、cGMPの学習獲得への関与が示唆された。ミツバチの嗅覚学習ではcGMPの学習獲得への関与は知られておらず、嗅覚記憶と視覚記憶の神経基盤の違いが示唆された。 第二章では、色覚だけでなく、オプティカルフロー(動き)や形などの視覚情報を処理する脳機能を解析する目的で液晶プロジェクターを用いた実験系を確立したことを報告する。本実験ではオプティカルフローを条件付け刺激として用いた。方法は円錐形のトレーシングペーパーをスクリーンとして、固定した蜂の視野全体を覆うように設置し、円錐装置上で幅6mmの同心円が速度12mm/秒で移動するように、左右2台の液晶プロジェクターを用いてGIFアニメを投射した(図2)。円錐装置の頂点から裾に向かうフロー方向を「順向きフロー」、反対方向を「逆向きフロー」と定義した。色学習系と同様にミツバチの触角を除去し、順向きフロー(条件付け刺激)とショ糖溶液を同時に与えるトレーニングを2分間隔で10回行った。非連合学習群(対照群)では、フロー刺激とショ糖溶液刺激を1分間隔で別々に与えた。その結果、連合学習群ではトレーニング7回目以降で40%の口吻伸展率が得られ、非連合学習群との間に有意差が検出された。よって、オプティカルフロー連合学習系が確立できたと判断した。次に、フロー学習においても触角切除が必要かを解析するため、触角を切除した蜂と、切除せず残した蜂を用いて同じ実験を行った。その結果、切除しなかった蜂ではトレーニング回数に依存した口吻伸展率の上昇は観察されず、フロー学習においても触角切除が必要であることが示された。 パブロフ型学習系では、学習成立後、報酬なしで条件刺激のみを繰り返し与えると記憶が消去されうる。そこで、本学習においても消去が起こるか解析した。まず、順向きのフローとショ糖溶液を同時に与えて条件付けトレーニングを7回行い、その後消去テストとして、ショ糖溶液は与えず順向きフローのみを10回提示した。しかし結果は、10回の消去テストでは有意な記憶消去は検出されなかった。固定したミツバチを用いた嗅覚刺激-口吻伸展反射連合学習では3回の消去テストで嗅覚記憶が消去されることから、嗅覚記憶と視覚記憶の神経基盤は異なっていることが予想される。 次に、固定したミツバチがフローの向きを区別できるかを知る目的で、まずは逆向きフローを学習できるかを解析し、順向きフローと同程度の学習が成立することが示された。そこで次に、7回の順向きのフローで条件付けした蜂に対して、条件付け直後(2分後)に順向きと逆向きのフローを提示し、口吻伸展反応を観察した。また、24時間後、48時間後に同様の実験を行い、記憶の保持時間についても解析した。その結果、ミツバチは、逆向きフローより順向きフローに対してより高頻度で口吻伸展反射を示した(直後の順向きフロー;44%,逆向きフロー;15%)。この結果、ミツバチは単にフローの動きだけでなく、向きの情報も識別・記憶(認知)していることが示された。さらに24、48時間後では口吻伸展率は徐々に低下したが、向きの区別は可能であった(24時間後の順向きフロー;30%,逆向きフロー;0.0%。48時間後の順向きフロー;15%,逆向きフロー;7.4%。)。向きの異なるオプティカルフローは、例えば蜂が旋回する際に左右の眼で感知される。フローの向きの識別・記憶能力は、蜂が採餌活動を行う際に自分の空間位置の記憶の更新に役立つものかも知れない。また、フローの速度を区別できるかを知る目的で、7回の速度12mm/秒の順向きのフローで条件付けした蜂に対して、6mm/秒または0.6mm/秒のフローを提示し、口吻伸展反応を観察した。その結果、12mm/秒と6mm/秒とは区別できないものの、12mm/秒と0.6mm/秒とは区別できることが示された。なお、育児蜂(巣の中で育児を行なう)と採餌蜂(巣の外で花粉や花蜜を集める)の学習率を比較したが、有意な差は検出されず、両者はほぼ等しい学習能力を持つことが示された。 以上、本研究では固定したミツバチを用いて、色識別、色残像現象、フローの向きの記憶・識別などの視覚認知能力が検証できることを世界で初めて示した。連合学習が生じたミツバチの脳では、認知された視覚情報に応じて固有の神経回路に記憶痕跡(memory trace)が形成されている可能性がある。今後、脳を露出した状態で神経活動をモニターし、in vivoで神経生理学的手法や遺伝子操作技術を用いて解析することで、視覚認知のメカニズムを、神経・分子レベルで解析することが可能になると思われる。また固定したミツバチでは触角を除去しないと色及びフローの記憶ができないことから、触角からの感覚情報が視覚認知に影響する可能性を示唆した。また、ミツバチではダンスコミュニケーションの際、オプティカルフロー(視覚情報)が距離感に変換される。ヒトの認知でも、心理学的研究により異種感覚間相互作用の重要性が指摘されているが、その神経基盤に関する研究はほとんどない。本実験系は今後、動物の認知能力における、異種感覚の統合や相互作用の神経基盤を解析する上でも優れた実験系になると期待される。 図1 固定したミツバチの色識別と色残像現象 緑色で学習した蜂について、緑(540nm)(パネル1〜3)、赤橙(618nm)(パネル7〜9)では光照射時(パネル2、8)に口吻が伸展した。青(439nm)(パネル4〜6)では光消灯時(パネル6)に口吻が伸展した(矢印)。 図2a, b オプティカルフロー連合学習系 a; 装置図。b; 連合学習群(赤)と非連合学習群(青)の口吻伸展率。連合学習群では、トレーニング回数依存に口吻伸展率の上昇が観察された。 | |
審査要旨 | セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)は高度な視覚認知能力をもち、働き蜂は花の色や形、巣やランドマークの位置を記憶し、採餌・帰巣を行う。また、オプティカルフロー(視界を横切る視覚情報の流れ)を利用して飛行距離を算出し、尻振りダンスによって仲間に伝えることができる。こうしたミツバチの視覚認知能力は、自由飛行する蜂の行動観察から明らかにされてきたが、その神経・分子的基盤は不明である。論文提出者は修士課程において、ミツバチの視覚認知能力に関わる脳機能を解析する目的で、固定した蜂を用いてパブロフ型視覚連合学習系を確立した。固定した蜂にショ糖溶液を与えると口吻伸展反射(Proboscis extension reflex; PER)を起こすが、同時に単波長(618nm;赤橙色)の光刺激を条件付け刺激としてトレーニングを繰り返すと、光刺激だけでPERを起こすようになる。博士課程では、この光刺激-PER連合学習系を用いて固定した蜂の色識別能力を調べるとともに、新たにオプティカルフローを条件付け刺激として用いた連合学習系を確立し、ミツバチの視覚認知能力を解析している。 本論文は2章からなる。第1章では光刺激-PER連合学習を利用して、ミツバチの視覚認知能力を解析している。先ず、固定した蜂の色識別能力を解析する目的で、「緑」(540nm)の光刺激を学習した蜂に「青」(439nm)と「赤橙」(618nm)の単波長光を照射し、PERを観察した。その結果、「赤」では「緑」と同様に多くの蜂がPERを示したが、「青」では全く反応が見られなかった。このことから固定した蜂は、「緑」と「赤橙」は区別できないが、「緑」と「青」は区別して記憶することが分かった。この色識別能力は、光受容体の性質に依存すると考えられた。一方、「緑」(540nm)の光刺激を学習した蜂は、「青」(439nm)の光刺激が消えた瞬間にPERを示すことが見いだされた。このことは、「青」が消えた際に「緑」と似た色残像が生じると解釈することで説明できる。さらに薬理学的実験から、この連合学習にはcGMP情報伝達系が関わることが示唆された。 第2章では、オプティカルフロー認知能力を解析する目的で、オプティカルフロー-PER連合学習系を新たに確立した。固定した蜂の視野全体を円錐形のトレーシングペーパーのスクリーンで覆い、円錐上に幅6mmの同心円が12mm/秒で移動するよう、左右2台の液晶プロジェクターからGIFアニメを投射した。円錐の頂点から裾に向かうフローを「順向き」、反対方向を「逆向き」と定義した。順向きのフロー(条件付け刺激)とショ糖溶液を同時に与えるトレーニングを行うと、7回目以降で40%のPERが観察され、オプティカルフロー-PER連合学習系が確立された。また光刺激-PER連合学習系と同様に、働き蜂の触角除去は学習率の向上をもたらした。さらに、固定した蜂がフローの向きを識別できるか知る目的で、順向きのフローで条件付けした蜂に対して順向きと逆向きのフローを提示したところ、順向きフローを用いた時に逆向きフローより高頻度のPERが観察された。このことからミツバチは単にフローの動きだけでなく、向きの情報も識別・記憶(認知)できることが示された。向きの異なるフローは、例えば蜂が旋回する際に左右の眼で感知される。フローの向きの識別・記憶能力は、蜂が採餌活動を行う際に、自分の空間位置の記憶を更新するために役立つのかも知れない。なお育児蜂(巣内で育児に携わる働き蜂)と採餌蜂(巣外で花粉や花蜜を集める働き蜂)の学習率には有意差は検出されず、両者はほぼ等しい学習能力を持つことが分かった。 以上、本論文では固定したミツバチを用いて、色識別、色残像、フローの向きの記憶・識別などの視覚認知能力が検証できることを世界で初めて示している。学習した蜂の脳では、認知された視覚情報に応じた「記憶痕跡」が形成される可能性がある。今後、脳の神経活動をin vivoでモニターし、神経生理学的手法や遺伝子操作技術を適用することで、ミツバチの高度な視覚認知メカニズムの神経・分子レベルでの解析が可能になると期待される。以上、本研究では独自の連合学習系を利用してミツバチの視覚認知能力を解析した点で動物行動学・感覚生理学の発展へ寄与するものである。 なお、本論文の第1章は、竹内秀明氏・久保健雄(東京大学)・蟻川謙太郎氏・木下充代氏(総合研究大学院大学)・市川直子氏・佐々木正己氏(玉川大学)、第2章は、竹内秀明氏・久保健雄との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験計画及び遂行を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
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