学位論文要旨



No 122208
著者(漢字) 本多,賢彦
著者(英字)
著者(カナ) ホンダ,マサヒコ
標題(和) マウス胚性幹細胞を用いた心筋発生に関する研究
標題(洋) On the studies of cardiomyogenesis using mouse ES cells
報告番号 122208
報告番号 甲22208
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5071号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 浅島,誠
 東京大学 教授 武田,洋幸
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 野中,勝
 東京大学 助教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

 心筋は最終分化した細胞で、生後すぐに細胞周期から不可逆的に脱し、それ以降増殖することはないと考えられている。心筋梗塞や虚血などにより負った傷害が自然治癒することはなく、失われた機能の回復は見込めない。そのため心筋の再生は実現が待ち望まれている。また先天性の心疾患も数多く報告されており、それらの原因を探り治療法を開発する上で心筋発生の過程を解明することも重要な研究課題である。

 胚性幹細胞(ES細胞)は再生医療の材料として、また哺乳類の発生過程の研究のための重要なモデルとして期待されている。ES細胞は胚盤胞に含まれる内部細胞塊と呼ばれる将来の胚体になる領域に由来する培養細胞であり、初期胚と同等の全能性を持っていると考えられている。さらに白血病抑制因子(LIF)存在下で全能性を維持したままほぼ無限に増殖することが可能であると考えられている。LIF非存在下でES細胞を浮遊培養すると、胚様体と呼ばれる細胞塊を形成する。胚様体の中では三胚葉に由来する種々の組織細胞の分化が正常発生を模倣した形で進むことが知られている。ES細胞は心筋分化についての研究にも数多く利用されてきた。自律的に拍動する心筋はその視認性の高さから簡単に得ることのできる細胞であると考えられており、ES細胞を用いた心筋分化誘導系はすでに確立されたとすら考えられている。しかし実際には選択的に心筋を分化させることに成功した例はほとんど無い。このことは、ES細胞を材料とした再生医療の実現にとっても、また、ES細胞を心筋発生の研究にとって有用なものするためにも大きな妨げになっている。

 本研究において私は、マウスES細胞から大量の心筋を選択的に取り出すことを実現するために二つの方法を模索した。一つは心筋分化を促進する因子の探索である。探索にあたっては血清の影響をできるだけ排除した条件で分化誘導を試みることにした。なぜなら血清には既知のものだけでなく、未知の分化に影響を与える因子が数多く含まれており、血清存在下では誘導因子の効果を十分に検討することや、特定の細胞系譜への高効率な分化誘導を行うことは困難であると考えられるためである。もう一つは、心筋前駆細胞を濃縮する方法の開発である。開発された濃縮法は、心筋を選択的に分化させる誘導系と組み合わせることで、純度の高い心筋を大量に作り出すことが可能にすると同時に、心筋の発生過程の解明にも有用であると考える。

 第一章ではRXRリガンドが心筋分化に影響を及ぼすことを示した。レチノイン酸(RA)はビタミンAの代謝産物で、核内受容体に結合して標的遺伝子の制御を行う。RAの受容体にはレチノイン酸受容体(RAR)とレチノイドX受容体(RXR)の二つのサブファミリーが存在し、どちらのサブファミリーもα、β、γの三つのサブタイプに分けられる。各サブタイプの発生過程における機能は詳細な検討がなされており、心臓の発生にも深く関与していることが知られている。しかし心筋発生に対してどのような関与をしているかは未だ明らかでない。

 RAにはall-trans RA(ATRA)と9-cis RA(9c-RA)の二つの異性体があり、それぞれに結合できる受容体が異なる。ATRAはRARと9c-RAはRXRと結合することが知られている。マウスES細胞を用いた分化誘導系において、血清存在下でATRA、9c-RAは双方とも心筋の分化を促進することが知られている。しかしこれらの異性体は相互に異性化することが知られており、受容体特異的な機能を解析することは困難である。近年、RARもしくはRXRと特異的に結合し、アゴニストもしくはアンタゴニストとして作用する合成レチノイドの開発が進められている。私はこのような合成レチノイドを無血清条件の下でES細胞を用いた分化誘導系に投与することで、RARとRXRとでは心筋の発生において異なる機能を担っているのでないかという仮説の検証を行った。

 無血清の分化培地を用いて培養したES細胞由来の細胞塊をEBS(Embryoid Body-like Sphere)と名づけた。この章ではEBSを作製するにあたって、ES細胞のコロニーを、原型をとどめた状態で単離して利用した。このEBSにPA024というRXR アゴニストを作用させると心筋を含むEBSが高頻度に現れた。PA024の至適濃度は5 x 10(-6)M(頻度;>90%)で、何も作用させなかったものやATRAを作用させたコントロール群に比べて心筋を含むEBSの出現頻度に有意な差があった。このような変化はRARアゴニストを作用させたときには見られなかった。RXR アゴニストには心筋の分化を早める効果もあることがわかった。PA024処理群のEBSでは、コントロール群よりも一日だけ早く心筋の分化が起こった。これはPA024が心筋分化の比較的後期のステップを促進していることを示唆しているのかもしれない。またRXRアンタゴニストであるPA452をEBSに作用させると、濃度依存的に心筋分化を抑制する傾向が認められた。このことからRXRを介したシグナルが心筋分化に影響を及ぼすことが示唆された。

 第二章では血清の影響を完全に除いた条件の下ではBMP4を投与することで心筋が選択的に分化することを示した。またこの分化誘導系においてN-cadherinが心筋前駆細胞を濃縮するためのマーカーとして利用可能であることを示した。

 前章で採用したEBSの作製法では血清の影響を完全に除くことは難しいと考えられる。そのため、この章ではEBSの作製法に修正を加えることとした。まず完全に解離させたES細胞を、数回に亘り洗浄することで血清成分を除いた。さらこの細胞を無血清培地に懸濁してマルチウェルプレートのウェルのなかで凝集させEBSとした。無血清条件の下でES細胞に凝集塊を形成させ、培養を続けると中胚葉への分化が阻害され、心筋の分化も起こらないことが既に知られているが、この方法により作製したEBSも同様の分化の傾向を示した。BMP4はツメガエルを使った実験系においても、ES細胞を用いた実験系においても、腹側中胚葉を誘導する活性がある因子として既に知られている。また心臓原基の決定や心筋の成熟などのステップに深く関与していることも知られているので、私は新たな方法で作製したEBSにBMP4を投与して効果の検討を行った。すると心筋の分化が起こることが確認された。さらに心筋の分化に適した培地の組成の検討を行ったところ、二種類の培地が見出された。一つはDMEM培地に終濃度15%のKSRと10ng/mlのBMP4を加えた培地(15% KSR DMEM with BMP4)でもう一つはGMEM培地に終濃度5%のKSRと1ng/mlのBMP4を加えた培地(5% KSR GMEM with BMP4)である。これらの培地でEBSを培養したしたところ、90%以上のEBSに心筋が分化した。それぞれの方法で分化させた心筋の様子を観察すると、15%KSR DMEM with BMP4を使って分化させたときよりも5% KSR GMEM with BMP4を使って分化させたときの方が、EBSのなかに占める心筋マーカー(cTnT)陽性細胞の割合が大きくなっていることが示唆された。さらにウェスタン解析によりcTnTの発現量を比較したところ、5% KSR GMEM with BMP4中で分化させたEBSの方がcTnTを多く発現していることが示された。また5% KSR GMEM with BMP4を用いて培養を行うと、正常発生と同様の中胚葉形成の過程が観察されることが示唆された。よってこの分化誘導系を利用した初期中胚葉から心筋までの過程の解析が見込まれた。

 さらに私は、5% KSR GMEM with BMP4を用いた分化誘導系からより純度の高い心筋を取り出すための方法として、心筋前駆細胞の濃縮を試みた。現在のところ、心筋前駆細胞を同定する際に利用可能なマーカーはほとんど知られていない。そのなかで Flk1は最も有用であるとされているマーカーである。しかしながら、Flk1の発現は一過性であり、その機能も心筋の発生にとって不要であることが知られている。私は、Flk1以外にも利用可能なマーカーが必要であると考え、上述の二つの方法で作成したEBSを比較することで心筋前駆細胞の表面抗原の探索を行った。その結果、候補として N-cadherinを見出した。N-cadherinの発現は心筋の発生過程を通じて持続し、心筋発生にとって重要な機能を果たしていることが知られている膜タンパク質である。セルソーターを用いて細胞を分画した結果、この系においてFlk1の発現の有無は心筋への分化に明確な影響を及ぼさなかったが、N-cadherin陽性の細胞は陰性細胞に比べてNkx2.5、Tbx5、Isl1といった初期心筋マーカーの発現量が多かった。また、分画後の細胞をストローマ細胞と共培養した結果、N-cadherin陽性の細胞の方が心筋への分化効率も高かった。この結果はマウス ES細胞を用いた無血清分化誘導系において N-cadherinが心筋前駆細胞の表面抗原として有用であることを示している。

 本研究において心筋の分化を促進する因子としてRXRアゴニストとBMP4が確かめられた。さらに選択的に心筋が分化する分化誘導系において、心筋前駆細胞を濃縮して心筋の純度を高める際のFlk1に変わるマーカーとしてN-cadherinが有用であることが示された。これらの知見によりES細胞から純度の高い心筋を大量に作り出すことが可能になり、心筋を対象とした再生医療の実現やES細胞を用いた分化系による心筋発生の解明に一歩近づけたと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は二章からなる。心筋は医療の面で高い需要があるだけでなく、その発生過程にも注目を集めている組織である。胚性幹(ES)細胞は、その全能とも言われる多分化能により、心筋の再生や発生にとって有用な研究材料として多くの期待を集めている。しかしながら、高効率に分化させるための分化条件はいまだ確立されておらず、ES細胞を用いた心筋発生の研究はわずかな進歩しか見せていない。本多君は本論文において、マウスES細胞を用いて心筋を大量かつ選択的に取り出す方法の検討を行い、いくつもの優れた結果を得た。

 第一章はRXRリガンドがマウスES細胞を用いた分化誘導系において心筋分化に影響を与えることについて述べている。RXRはレチノイン酸をリガンドとする核内受容体のうちの一つである。レチノイン酸の受容体にはほかにもRARが知られている。これまでノックアウトマウスの表現型よりRXRが心臓の形成に重要な働きをしていることは知られていたが、心筋の発生への関与は明らかで無かった。また、天然レチノイン酸を用いた実験では、受容体を個別に制御することは困難であった。本多君の研究の新規性は、RAR又はRXRを選択的に調節できる合成レチノイドを用いて受容体個別の心筋発生に及ぼす影響について検討したことにある。特に合成レチノイドの効果を明確にするためにレチノイン酸を含まない無血清の培地を使用する工夫を行っている。本研究では本多君はES細胞のコロニーを利用してES細胞由来の細胞塊(EBS)を形成させ、これに合成レチノイドを投与してその効果の検討を行った。その結果、RXR特異的なアゴニストであるPA024に心筋分化を促進させる効果があることを見出した。このような変化はRARアゴニストを作用させたときには見られなかった。またRXRアゴニストには心筋の分化を早めるという結果も得た。PA024処理群のEBSでは、対照群よりも一日だけ早く心筋の分化が起こった。これはPA024が心筋分化の比較的後期のステップを促進していることを示唆する結果と言える。さらにRXRアンタゴニストであるPA452をEBSに作用させた実験において、濃度依存的に心筋分化を抑制する傾向も観察した。本多君の実験によりRXRを介したシグナルが心筋分化自体にも影響を及ぼしうることが初めて明らかになった。

 第二章では、心筋を選択的に分化させることが可能なES細胞を用いた分化誘導系において、心筋前駆細胞を選択する際に利用できる表面マーカーとしてN-cadherinが利用可能であることについて明らかにしている。本多君は、まずEBS作製法の修正に取り組んだ。そしてES細胞を完全に分散させて血清成分を完全に洗い落とした後に、BMP4を添加した無血清培地中で再び凝集させるという方法を採用した。この方法においてBMP4を添加しなかった場合には心筋分化がほとんど起こらなかったため、前章で採用した分化誘導系よりも精密に心筋の分化を制御することが可能になったと考えられる。さらに心筋の分化に適した培地の組成の検討を行って二種類の培地を見出した。どちらの培地を用いた場合にも90%以上のEBSに心筋が分化したが、それぞれの分化条件において各EBS中に占める心筋の割合が大きく異なることが観察された。心筋の増加はウェスタンブロットによるcTnTの発現量の比較でも確認された。さらに心筋が拍動する以前の時期のEBSに占めるN-cadherin陽性細胞の割合を、フローサイトメトリーを用いて二つの条件間で比較すると、心筋分化効率の上昇に伴ってN-cadherin陽性細胞の割合が上昇していることを見出した。ソーティングの結果、N-cadherin陽性細胞は陰性細胞よりも心筋に分化しやすいという結果も得られ、よってN-cadherinが心筋前駆細胞を濃縮するための表面マーカーとして利用できるととが示された。これまで利用可能な表面マーカーがわずかしかなかったため、心筋前駆細胞の濃縮は非常に困難だとされていた。新たに利用可能なマーカーを提示した本多君の研究結果は、心筋前駆細胞の同定に発展をもたらすと期待できる。

 このように本多君の行った研究は、これまで不足していたES細胞から心筋を大量かつ選択的に取り出すための方法やツールを提示したものであり、ES細胞を用いた心臓病治療や、未だ謎の多い心筋の発生過程の解明に大きく寄与し得るという点で学問上大きな価値のある研究である。

 なお、本論文第一章は、浜崎辰夫・駒崎伸二・影近弘之・首藤紘一・浅島誠との共同研究であり、第二章は栗崎晃・大沼清・浜崎辰夫・大河内仁志・浅島誠との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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