学位論文要旨



No 122212
著者(漢字) 行谷,佑一
著者(英字)
著者(カナ) ナメガヤ,ユウイチ
標題(和) 津波浸水値データおよび震度分布に基づいた過去の巨大地震の断層面上のすべり量分布の推定
標題(洋)
報告番号 122212
報告番号 甲22212
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6417号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 都司,嘉宣
 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 纐纈,一起
 東京大学 教授 佐藤,愼司
 東京大学 教授 目黒,公郎
内容要旨 要旨を表示する

【1. 本研究の目的】

 日本列島西半分、すなわち中部地方以西近畿・四国・九州の南方海上には東西に南海トラフと呼ばれる海溝軸が走っている。その起点は駿河湾の最奥部であて、この海溝軸の南からはフィリピン海プレートが毎年4〜5cmの速度で北上しており、西日本を乗せるユーラシアプレートの下に潜り込んでいる。両プレートの境界面では沈み込む海側プレートが陸側プレートを引きずり込んでおり、蓄積された応力が臨界値を越えると地震が発生すると考えられている。

 ところで、近年の地震学の発展から、アスペリティ領域というものが注目され始めてきた。このアスペリティ領域とは、普段は断層境界面において海・陸両プレートがすべり合わず固着した領域のことである。この領域では定常的な海側プレートの沈み込みにもかかわらず、普段は海・陸両プレートが固着しているため、大地震発生時にはすべり量がとくに大きくなる。すなわち、大きな地震波を生成する領域であると言える。

 一般に、アスペリティ領域の位置やすべり量を把握するためには、観測機器により測定された地震波形や津波波形といった時系列データのインヴァージョン解析がもっとも基本的な推定方法となる。たとえば、永井他(2001)は三陸沖に注目し、そこで過去に発生した2回の地震、すなわち1968年十勝沖地震および1994年三陸はるか沖地震の観測地震波形をインヴァージョン解析した。その結果、両地震のアスペリティ領域の位置は同じ所にあることを報告した。このことは、将来起きる地震のさいにもやはり同じ所で大きくすべる可能性が高いことを意味しており、その後の地震学の発展に大きな貢献をしている。

 しかしながら、将来の発生が予測されており社会的にも深く関心が持たれているプレート境界型の南海地震については、歴代の地震のアスペリティ領域が一致するかどうかはわかっていなかった。というのも、歴代の南海地震について、観測によって得られた地震記録や検潮儀による津波記録の完備した事例は、もっとも最近に起きた1946年昭和南海地震ただ一例だからである。すなわち、アスペリティ領域の位置が固有であるかどうかを知るためには、少なくとも2例の地震を解析する必要があるが、昭和南海地震以前の南海地震は時代を遡る順に1854年安政南海地震や1707年宝永地震などであり、地震計や検潮儀のない時代に発生し時系列データが記録されていないため、従来のインヴァージョン解析手法が適用できないのである。

 いっぽう、1854年安政南海地震に関しては、おもに古文書記録といった歴史史料から地震の被害震度、津波の高さ、および地殻変動量の3種類のデータを推定することができる。津波の高さデータは、時系列データの最大値を意味する物理量であり、このデータは時系列データではないために従来のインヴァージョン手法が適用できなかった。

 そこで、本研究では歴史記録から得られた津波の高さデータおよび地殻変動量を入力データとして、アスペリティ領域すなわち断層すべり量分布を推定する同時インヴァージョン手法を提案・確立し、それを安政南海地震に適用した。そしてその得られた断層すべり量分布が強震動をも発生させたと仮定し、経験的グリーン関数法により地震動および震度を計算し、歴史記録から推定された震度と一致するかを確認した。さらに、この同時インヴァージョン手法により推定されたアスペリティ分布の位置が、1946年昭和南海地震のそれと一致するかどうかを比較し、三陸の例と同様に南海地震においてもアスペリティ領域の位置が固有かどうかを検討した。

【2. 手法】

(I:津波高さ・地殻変動量同時インヴァージョン)

 まず、南海地震発生領域に45km×45kmの面積を持った小断層を28枚おき、各小断層1枚のみが単位量すべったさいの、沿岸における津波時系列水位をグリーン関数として計算した。計算した地点は、歴史記録により安政南海地震の津波高さが判明している67地点でである。このグリーン関数を計算しておくと、28枚の小断層の各すべり量を28次元ベクトルxとおき、グリーン関数を67×28の行列Gとおいた場合、任意のすべり量xを与えたときの津波時系列水位は、行列とベクトルの積Gxで表すことができる。

 いっぽう、歴史記録から得られた津波高さy(67次元ベクトル)は、時系列データではなく最大値データであることから、津波高さ分布から断層すべり量分布を求める問題は、S=Σ{yi- max(Gx)i}(**)2で定義される残差自乗和Sを最小にする断層すべり量xを求める問題になる。すなわち、この残差自乗和Sのxベクトル微分が0となるような断層すべり量xを推定する問題に帰着する。この問題は、Gxの最大値をとるという作業が入っているために、非線形インヴァージョン問題である。すなわち、津波高さ分布yをもっとも説明しうる断層すべり量xを求めるには、非線形方程式を解く手法として基本的なGauss-Newton法や最急降下法といった手法を用いて反復計算により求めることになる。そこで、この反復計算についてはGauss-Newton法および最急降下法の折衷を採用したPowell(1970)によるHybrid法を用いて計算した。

 また、津波のグリーン関数Gを計算するさいには、津波伝播を線形長波で近似し、差分法により数値計算を行った。そのさい、沿岸部周辺では差分メッシュ間隔を細かくしていく手法をとった。そして、海岸と陸域の間は鉛直壁・完全反射があるものとして境界条件を与えた。本研究では計算津波最大高さをこの鉛直壁計算により算出したものと、それを入力とした遡上計算により算出したものの2通りについて計算し、それぞれインヴァージョンの中に組み込んでいる。

 なお、歴史記録の中には地殻変動量データも存在する。とくに安政南海地震の例では四国および和歌山沿岸で古文書記録により40地点の隆起沈降量が判明している。本研究では津波高さおよび地殻変動量の両方を最も説明しうる断層すべり量分布を推定することを目的としているため、本研究では上記の津波高さデータyおよび計算最大高さmax(Gx)の中に地殻変動量のデータおよび計算値をそれぞれ含ませて、同時インヴァージョンを行った。すなわち、ベクトルyおよびベクトルmax(Gx)はともに67+40=107次元ベクトルとなっている。

(II:再現震度計算)

 上記Iで提案した同時インヴァージョン手法により推定された断層すべりが、強震動を生成したとして地震波形を経験的グリーン関数法により計算した。そして得られた地震加速度時系列データから気象庁計測震度を計算した。さらにその計算された計測震度と、歴史記録から判定された被害震度を比較した。

(III:同時インヴァージョン手法の妥当性)

 上記Iで提案した同時インヴァージョン手法が正しく機能するか確認するために、歴史記録から得られたデータyのかわりに、フォワードモデリングによる数値計算データを入力データとして与えた。すなわち、仮想的に断層すべり量xを与え、数値計算により得られた津波高さおよび地殻変動量を入力データyとするのである。そしてこの入力データyに同時インヴァージョン手法を適用すると、反復計算ののち、もとの断層すべり量xを求めることができた。

 また、実際に現象として起きた事例として、2003年十勝沖地震の津波浸水高データおよび地殻変動量を入力データとして同時インヴァージョン手法を適用したところ、得られた断層すべり量分布が、津波時系列データや地震時系列データなどから推定した既往の研究結果とよい一致を示した。このことは、本研究で開発した同時インヴァージョン手法が実現象にも適用できることを示している。

 なお、この2003年十勝沖地震の津波高さデータおよび地殻変動量データを同時インヴァージョンしたさいに得られた断層すべり量分布を用いて、上記IIの手法により震度を計算したところ、観測された計測震度とよい一致を示すことができた。

【3. 結果】

 本研究で提案した同時インヴァージョン手法を安政南海地震(1854)の津波高さデータおよび地殻変動量データに適用したところ、つぎのことがわかった。

 すなわち、安政南海地震のアスペリティ領域は、高知県足摺岬東方海域、室戸岬周辺、および紀伊半島南部周辺の3カ所にあり、それらの位置はおのおの昭和南海地震のそれらと重なり合うこと、しかもその各すべり量が大きかった範囲が昭和南海地震のそれらより南方海域に延びていること、およびすべり量の絶対値が安政南海地震の方が大きかったことが示された。そして安政南海地震のモーメントマグニチュードMwは8.6と推定され、エネルギーは昭和南海地震の約2倍であることが判明した。さらに、ここで得られた断層すべりが強震動を生成するとして地震波形を経験的グリーン関数法により計算し、その波形から震度を算出すると、古文書記録から得られる被害震度とおおむねよい一致を示すことがわかった。

審査要旨 要旨を表示する

 近年の地震学の成果によって、プレート境界型の巨大地震が発生する際には、その断層面全体において均等にすべりを生ずるのではなく、断層面上の特定の狭い領域でより大きな地震断層すべりが発生していることが明らかとなってきた。このように断層面上で特に大きくすべりを起こす部分はアスペリティーと呼ばれる。地震観測網が確立された近年に発生した地震に対しては、地震波の解析からアスペリティー領域とその領域内でのすべり量が求められている例がある。また、津波が検潮所による測定器観測記録がある場合に対しても、アスペリティーの見積もりが行われた例がある。三陸沖の海域では、過去2回の年代の異なる三陸沖に発生した地震において、両者のアスペリティー位置が一致していることが解明されている。しかしながら、比較検討すべき地震が、近代的な観測が行われる以前に起きた事例である場合には、器械による観測データが存在せず、従来の方法ではアスペリティー分布を推定する方法がなかった。たとえば、南海沖の巨大地震は将来の再来が予測されており、社会的にも深く関心がもたれているプレート境界型の巨大地震であるが、この系列に属する巨大地震は近代では昭和21年(1946)の昭和南海地震しか事例がなく、そのアスペリティーは津波記録によって推定されていても、その一周期前の安政南海地震(1854)は江戸時代の幕末に起きた歴史地震であって、近代的な測器によって測定された地震波記録、津波検潮記録がなくアスペリティーの推定のしようがなかった。このため、昭和南海地震に対して求められたアスペリティーが、この地震だけの特徴なのか、それとも歴代の南海沖の巨大地震に共通して見られるこの系列の巨大地震に特有のものであるのかは判定することはできなかった。

 本論文の提出者の行谷佑一氏は、歴史記録に現れる津波浸水記録、海岸地方で記録された地盤の沈下・隆起の変動記録を用いて、近代的な観測記録のない歴史上の地震に対してもアスペリティーを推定する手法を提案・確立し、それを安政南海地震(1854)に応用することによってそのアスペリティーを推定し、それが昭和南海地震に相似していること、地震の規模は昭和南海地震のほぼ倍の値となることを解明した。彼は、歴史地震に対して用いることの出来る津波のデータは、近代の検潮儀による連続的な水位変化記録ではなく、ある地点での最高浸水高さの記録のみである、という不利な点を承知の上で、歴史地震に対して適用が可能なインバージョン法によるアスペリティーの推定手法を開発した。すなわち、この手法は南海沖の海域を28個の小断層区域に分割し、そのおのおのの断層すべり量を未知数として、変数28個の成分からなるベクトルと扱われ、そのベクトルがいかなる値を取るときにもっとも再現される津波、および地殻変動記録が、実際に観測されたデータに合致するかを求める問題に帰着する。彼は、ある断層すべり量ベクトルを与えたとき、それによって得られる津波浸水高さの計算値と実際に記録に残されたそれとの差の自乗を計算し、津波記録の残った60箇所あまりの点のすべてについて足し合わせた津波高さ残差指標S1と、地殻変動について同様の計算をして得られた残差指標S2との加重和Sの数値が極小となるベクトルを求めることにより、最適解ベクトルを得るという方法によってこの問題を解決した。そのさい、彼は、最急降下法と、Gauss-Newton法の両者の長所を生かしたPowell(1970)の開発したhybrid法を用いている。津波の浸水標高値を求めるさいには、本研究では、海岸線を鉛直壁・完全反射と仮定した線形計算による結果と、実際の海岸線斜面を与えた非線形計算の両方の方法で結果を得ている。ここに新たに開発された方法は、まず2003年の十勝沖地震について試験的に応用され、地震波や津波検潮記録検潮記録によって得られた地震学研究者たちの先行研究の成果と相互検証し、津波の最高浸水高さのみしか用いない本研究の方法でも十分にこれら既成の研究成果とほぼ同一の結果が得られることを示した。これによって、本研究の方法が信頼に値するものであることを検証している。

 本研究によってえられた成果によると、安政南海地震のアスペリティーのピークは、高知県足摺岬東方海域、室戸岬付近、および紀伊半島先端部周辺の3箇所にあり、それらはおのおの昭和南海地震のそれらと重なり合うこと、しかもその各ピークは昭和南海地震のそれらよりより南方海域に伸びていること、および各ピークでのすべりの絶対量がより大きいことが示された。またすべりの絶対量が解明したため、安政南海地震のモーメント・マグニチュードはMw8.6であると算出された。この数値は、理科年表などに記された数値よりも大きく、エネルギーは従来の研究の推定値の約2倍であることが判明した。さらにこの論文の提出者は、歴史記録に残された震度分布が、ここに推定された安政南海地震のアスペリティー分布に矛盾しないかをチェックするために、強震動地震研究者たちによってごく近年開発された経験的グリーン関数法によって内陸部の震度分布の理論値を求めており、それらが歴史記録から推定されたものとよい一致を示していることを指摘している。

 本研究は、近代的な観測データのない歴史時代に発生した地震に対してアスペリティー分布を求める方法を開発したという点で、地震工学、防災科学方面のみならず、理学的な地震研究にも大きな貢献をなしたものと認められ、その研究課程は独創的な研究成果と高く評価することができる。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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