学位論文要旨



No 122220
著者(漢字) 水野,貴博
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,タカヒロ
標題(和) 二重君主制時代のブダペストの都市計画に関する研究
標題(洋)
報告番号 122220
報告番号 甲22220
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6425号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 加藤,道夫
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 本論文が対象とするのは、ハンガリーの首都ブダペストにおける都市計画の展開である。主にオーストリア=ハンガリー二重君主制成立(1867)から第一次世界大戦の敗戦後のその体制の崩壊(1918)までの時期を扱う。

 19世紀のヨーロッパは、都市の大改造が盛んに行われた時期である。大都市にふさわしい表情を与えるために新しい広い道路が拓かれ、都市全体が芸術作品やモニュメントのように表現されていた。ブダペストは2つの丘が川に面した、地形的に特徴のある都市でもあり、この時代にモニュメンタルな計画を求めるのには格好の舞台であった。

 ブダペストが他のヨーロッパの都市と異なる背景として、1873年まで一つの都市ではなく、ドナウ川を挟んだペシュト、ブダという2つの中世起源の都市が統一されて誕生した新しい都市であるということがある。また、国自体が1867年にオーストリアとの和解によって自立した、新興国の首都である。このような背景から、市の統一的景観と首都にふさわしい壮麗さを表現することが都市設計上重要な課題の一つであった。

 ブダペストは、統一後の初期に計画された大環状道路と1本の放射道路(アンドラーシ通り)を除き、大規模な都市計画が行われた都市ではなく、むしろ全体的な計画がないまま建設が進められた都市だとされている。実際に、都市設計の意思決定機関FKT(首都公共事業評議会)は、大規模な道路敷設や公共建築の配置にはきわめて消極的であった。

 しかし、建築家や在野の都市計画家からは、個別の建築計画に絡めて数多くの都市計画の提案が行われている。それらの発想や理念は必ずしも先進諸国の受容・模倣ではなく、この都市に見られる固有の状況に応じて生まれたものであった。これらの提案の多くは、川や丘の景観を活かしたものであり、大規模な都市改造への期待ができない状況にあって、また街区への介入を最小限に抑え、既存の道路網を活かした中に公共施設やわずかな新しい道路をうまく導入することで、都市の構造を変えていくことも目指していた。こうして提案されたものの中で実際に採用されたのは一部だが、公的機関の計画にも間接的に影響を与え、現実の都市の姿にもその名残を留めている。このような建築家や一般からの提案と公的機関の計画の両面を見ることで、この時期の都市計画の展開を明らかにしていくのが、本論文の目的である。

 ブダペストの場合、このような提案に、各時期にこの都市の構造がどのように把握されていたのか、一般の建築家がどのように変え、表現しようとしていたのかも明快に示されている。従来の研究では、このような建築家からの提案は、行われた設計競技なども含めてほとんど知られていない。当時の報道や設計競技の結果から、既往研究では全く触れられていない計画や提案が多く判明し、それらも含めて見ることによって、双子都市がどのように構造を変えていったのかを明らかにすることができた。

 第1部では、ブダペストの統一前から1872年の「一般整備計画」の成立までの期間の都市全体の整備構想と計画案を扱う。第1章の前半で扱う鎖橋の成立過程を除けば、この時期はわずか数年の短い期間であるが、ブダペスト統一の全体構想が語られ、実際に計画された時期である。

 第1章では、「鎖橋」と呼ばれるドナウ川両岸を結ぶ初めての橋について述べた。この橋が架けられた位置は同時期の他の提案とは異なり、既存の都市構造に基づくものではなく、両市の中間点として選ばれている。その結果、周辺の道路整備に無理を生じさせながらも、1867の年国王の戴冠式を通して国土の中央として象徴的な役割も担うことになる過程を検証した。

 第2章では、最初に両都市の統一の気運が見えた1860年代に見られる都市整備構想について述べた。文章で構想された案の中に登場する提案が、第3章で分析する一般整備計画設計競技の背景となったことを検証した。次に、FKT(首都公共事業評議会)の設立と役割、1870年頃に決定される放射道路アンドラーシ通りの位置選定過程について記述した。

 第3章では、1871-72年に行われたブダペストで最初の都市設計競技「一般整備計画」設計競技各案の再現を試みた。この設計競技は、統一後のブダペストの青写真を作成するためのものだったが、図面が失われており、結果として成立した計画図が凡庸で消極的なものであったため、設計競技自体、特に1位案に対しての評価が低かった。しかし、各設計者が提出した詳細な趣旨書から図を再現することにより、設計競技に提出された案は時代を先取りするものも含む多様なものであることがわかり、それらと実際に作成された一般整備計画図の異同を明らかにすることができた。

 第2部以降では、ブダペストの6つの地区を取り上げ、1872年以降の変遷をたどる。このように地区ごとに分けたのは、都市全体を対象とした計画がこれ以降登場せず、建築家から提案された、他の地区とも関連するような大きな建築・モニュメントなどの計画が誕生する地区がこの6箇所にほぼ収斂しているである。その6箇所は、ゲッレールトの丘、ブダの王宮の丘、ヴァーロシュリゲト、リポートヴァーロシュの兵舎ウーイ・エーピュレト跡地、エルジェーベト橋のペシュト側のたもと、ベルヴァーロシュのカーロイ兵舎とその周辺である。この6箇所をさらに分けると、モニュメントの存在が重要であったのが前者3箇所、再開発による道路計画や公共建築の配置が重要となったのが後者3箇所なので、これを第2部と第3部に分けている。

 第2部では、ナショナル・モニュメントの舞台となった地区を取り上げている。都市計画を扱うこの論文でこのようなモニュメントを扱うのは、ブダペストで提案されたこれらのモニュメントの多くが、丘の上の都市景観上重要な位置に計画され、他の地区との関係を意識しているからである。

 第4章では、「パンテオン」と「建国千年記念碑」の2つの言葉に代表されるナショナル・モニュメントの提案の流れを追う。これらは主にブダの南のゲッレールトの丘に提案されていたものである。当初構想されていた施設は市街の喧騒を離れた墓地であったものが、市街に背を向けてそびえる霊廟となり、市街に向かい合い、コンセプトを変化させ、より人の訪れやすい施設に変化していく。

 第5章では、漁夫の砦、エルジェーベト王妃記念碑という王宮の丘に提案された二つのモニュメントを第4章との関連で検証する。漁夫の砦は修復中の教会にモニュメントを組み合わせ、城壁の砦をその土台とすることで、丘の一角を歴史モニュメントとして表現する、他に類例のないナショナル・モニュメントの提案であった。この提案は、肝心のモニュメントを欠いて実現することになった。また、エルジェーベト王妃記念碑は、前章のパンテオンの流れを引き継ぎ、静かな礼拝堂に帰結する、丘に提案されたモニュメントの最終局面を示すものであった。

 第6章で扱うのは、ブダペスト唯一の計画的放射道路アンドラーシ通りの終点である。前2章で扱ったモニュメントが民間からの提唱であったのとは異なり、唯一公式のナショナル・モニュメントとして建てられた建国千年記念碑は、この種のモニュメントには適していると思われる丘の上ではなく、市中心部から比較的距離のあるこの位置が選ばれている。その後モニュメントの周囲の空間は、「英雄広場」と名づけられ、政治集会や祝祭の場になっている。この場所が誕生した背景を、この背後にある公園ヴァーロシュリゲトで行われた博覧会「建国千年祭」の会場配置計画の成立から考察した。

 なお、この後の補論は、この建国千年祭のメインパヴィリオンにおいて、ハンガリーにおける建築史展示施設としての役割とその後に及ぼした影響を探っており、前章の建国千年祭が担っていた意味の解釈を補足するために付した。

 第3部では、1890年代以降にペシュトの中心部で行われた3箇所の再開発計画を取り上げ、計画家の発想と公的機関との駆け引きで生まれた計画の変遷をたどった。

 第7章では、この時期のブダペスト中心部の最大の空地であった兵舎跡地の再開発計画の変遷を追う。この敷地では、敷地分割の道路を延長して市内の各拠点を結ぶ総合的な都市計画を求める計画家と、逆に周囲の道筋を引き込むだけの消極的な案を求める当局側の対立が先鋭化し、当時のブダペストにしばしば見られる図式を呈するが、この敷地は当事者が最終合意に至った唯一の例であった。

 第8章では、ペシュトの旧市街と対岸を結ぶエルジェーベト橋の建設に伴う周辺整備の構想を検証する。この橋は、大通りの延長上に架けられた他の橋とは異なり、旧市街の中心を貫く道路工事を伴う計画であった。この橋の建設に伴い、ここを両岸の共通の中心と解釈し、統一の象徴となる市庁舎を配置して旧市街全体を整備する発想が生まれ、展開する過程を検証した。また、この計画の挫折後、この地区の整備進行中に起こった教区教会の曳家問題の顛末をたどっている。

 第9章では、エルジェーベト橋のたもとの市庁舎の計画が否定され、旧市街外縁の旧カーロイ兵舎が市庁舎の敷地に決定したことから、川沿いを離れた新たな都市の核の提案に結びついていく様相をたどる。市庁舎を大通りの焦点となるように配置する発想が生まれ、次に市庁舎のファサードにあわせた新たな放射道路の提案、さらに既存の複数の放射道路の交点を目指して市庁舎の敷地の変更を求めていくものであった。この発想はその後それまでのブダペストの構造を大きく変えるもので、戦間期にさらに発展していくものであった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文が対象とするのは、ハンガリーの首都ブダペストにおける都市計画の展開である。主にオーストリア=ハンガリー二重君主制成立(1867)から第一次世界大戦の敗戦後のその体制の崩壊(1918)までの時期を扱う。

 19世紀のヨーロッパは、都市の大改造が盛んに行われた時期である。大都市にふさわしい表情を与えるために新しい広い道路が拓かれ、都市全体が芸術作品やモニュメントのように表現されていた。ブダペストは2つの丘が川に面した、地形的に特徴のある都市でもあり、この時代にモニュメンタルな計画を求めるのには格好の舞台であった。

 ブダペストが他のヨーロッパの都市と異なる背景として、1873年まで一つの都市ではなく、ドナウ川を挟んだペシュト、ブダという2つの中世起源の都市が統一されて誕生した新しい都市であるということがある。また、国自体が1867年にオーストリアとの和解によって自立した、新興国の首都である。このような背景から、市の統一的景観と首都にふさわしい壮麗さを表現することが都市設計上重要な課題の一つであった。

 ブダペストは、統一後の初期に計画された大環状道路と1本の放射道路(アンドラーシ通り)を除き、大規模な都市計画が行われた都市ではなく、むしろ全体的な計画がないまま建設が進められた都市だとされている。実際に、都市設計の意思決定機関FKT(首都公共事業評議会)は、大規模な道路敷設や公共建築の配置にはきわめて消極的であった。

 しかし、建築家や在野の都市計画家からは、個別の建築計画に絡めて数多くの都市計画の提案が行われている。それらの発想や理念は必ずしも先進諸国の受容・模倣ではなく、この都市に見られる固有の状況に応じて生まれたものであった。これらの提案の多くは、川や丘の景観を活かしたものであり、大規模な都市改造への期待ができない状況にあって、また街区への介入を最小限に抑え、既存の道路網を活かした中に公共施設やわずかな新しい道路をうまく導入することで、都市の構造を変えていくことも目指していた。こうして提案されたものの中で実際に採用されたのは一部だが、公的機関の計画にも間接的に影響を与え、現実の都市の姿にもその名残を留めている。このような建築家や一般からの提案と公的機関の計画の両面を見ることで、この時期の都市計画の展開を明らかにしていくのが、本論文の目的である。

 ブダペストの場合、このような提案に、各時期にこの都市の構造がどのように把握されていたのか、一般の建築家がどのように変え、表現しようとしていたのかも明快に示されている。従来の研究では、このような建築家からの提案は、行われた設計競技なども含めてほとんど知られていない。当時の報道や設計競技の結果から、既往研究では全く触れられていない計画や提案が多く判明し、それらも含めて見ることによって、双子都市がどのように構造を変えていったのかを明らかにすることができた。

 第1部では、ブダペストの統一前から1872年の「一般整備計画」の成立までの期間の都市全体の整備構想と計画案を扱う。第1章の前半で扱う鎖橋の成立過程を除けば、この時期はわずか数年の短い期間であるが、ブダペスト統一の全体構想が語られ、実際に計画された時期である。

 第1章では、「鎖橋」と呼ばれるドナウ川両岸を結ぶ初めての橋について述べた。この橋が架けられた位置は同時期の他の提案とは異なり、既存の都市構造に基づくものではなく、両市の中間点として選ばれている。その結果、周辺の道路整備に無理を生じさせながらも、1867の年国王の戴冠式を通して国土の中央として象徴的な役割も担うことになる過程を検証した。

 第2章では、最初に両都市の統一の機運が見えた1860年代に見られる都市整備構想について述べた。文章で構想された案の中に登場する提案が、第3章で分析する一般整備計画設計競技の背景となったことを検証した。次に、FKT(首都公共事業評議会)の設立と役割、1870年頃に決定される放射道路アンドラーシ通りの位置選定過程について記述した。

 第3章では、1871-72年に行われたブダペストで最初の都市設計競技「一般整備計画」設計競技各案の再現を試みた。この設計競技は、統一後のブダペストの青写真を作成するためのものだったが、図面が失われており、結果として成立した計画図が凡庸で消極的なものであったため、設計競技自体、特に1位案に対しての評価が低かった。しかし、各設計者が提出した詳細な趣旨書から図を再現することにより、設計競技に提出された案は時代を先取りするものも含む多様なものであることがわかり、それらと実際に作成された一般整備計画図の異同を明らかにすることができた。

 第2部以降では、ブダペストの6つの地区を取り上げ、1872年以降の変遷をたどる。このように地区ごとに分けたのは、都市全体を対象とした計画がこれ以降登場せず、建築家から提案された、他の地区とも関連するような大きな建築・モニュメントなどの計画が誕生する地区がこの6箇所にほぼ収斂しているである。その6箇所は、ゲッレールトの丘、ブダの王宮の丘、ヴァーロシュリゲト、リポートヴァーロシュの兵舎ウーイ・エーピュレト跡地、エルジェーベト橋のペシュト側のたもと、ベルヴァーロシュのカーロイ兵舎とその周辺である。この6箇所をさらに分けると、モニュメントの存在が重要であったのが前者3箇所、再開発による道路計画や公共建築の配置が重要となったのが後者3箇所なので、これを第2部と第3部に分けている。

 第2部では、ナショナル・モニュメントの舞台となった地区を取り上げている。都市計画を扱うこの論文でこのようなモニュメントを扱うのは、ブダペストで提案されたこれらのモニュメントの多くが、丘の上の都市景観上重要な位置に計画され、他の地区との関係を意識しているからである。

 第4章では、「パンテオン」と「建国千年記念碑」の2つの言葉に代表されるナショナル・モニュメントの提案の流れを追う。これらは主にブダの南のゲッレールトの丘に提案されていたものである。当初構想されていた施設は市街の喧騒を離れた墓地であったものが、市街に背を向けてそびえる霊廟となり、市街に向かい合い、コンセプトを変化させ、より人の訪れやすい施設に変化していく。

 第5章では、漁夫の砦、エルジェーベト王妃記念碑という王宮の丘に提案された二つのモニュメントを第4章との関連で検証する。漁夫の砦は修復中の教会にモニュメントを組み合わせ、城壁の砦をその土台とすることで、丘の一角を歴史モニュメントとして表現する、他に類例のないナショナル・モニュメントの提案であった。この提案は、肝心のモニュメントを欠いて実現することになった。また、エルジェーベト王妃記念碑は、前章のパンテオンの流れを引き継ぎ、静かな礼拝堂に帰結する、丘に提案されたモニュメントの最終局面を示すものであった。

 第6章で扱うのは、ブダペスト唯一の計画的放射道路アンドラーシ通りの終点である。前2章で扱ったモニュメントが民間からの提唱であったのとは異なり、唯一公式のナショナル・モニュメントとして建てられた建国千年記念碑は、この種のモニュメントには適していると思われる丘の上ではなく、市中心部から比較的距離のあるこの位置が選ばれている。その後モニュメントの周囲の空間は、「英雄広場」と名づけられ、政治集会や祝祭の場になっている。この場所が誕生した背景を、この背後にある公園ヴァーロシュリゲトで行われた博覧会「建国千年祭」の会場配置計画の成立から考察した。

 なお、この後の補論は、この建国千年祭のメインパヴィリオンにおいて、ハンガリーにおける建築史展示施設としての役割とその後に及ぼした影響を探っており、前章の建国千年祭が担っていた意味の解釈を補足するために付した。

 第3部では、1890年代以降にペシュトの中心部で行われた3箇所の再開発計画を取り上げ、計画家の発想と公的機関との駆け引きで生まれた計画の変遷をたどった。

 第7章では、この時期のブダペスト中心部の最大の空地であった兵舎跡地の再開発計画の変遷を追う。この敷地では、敷地分割の道路を延長して市内の各拠点を結ぶ総合的な都市計画を求める計画家と、逆に周囲の道筋を引き込むだけの消極的な案を求める当局側の対立が先鋭化し、当時のブダペストにしばしば見られる図式を呈するが、この敷地は当事者が最終合意に至った唯一の例であった。

 第8章では、ペシュトの旧市街と対岸を結ぶエルジェーベト橋の建設に伴う周辺整備の構想を検証する。この橋は、大通りの延長上に架けられた他の橋とは異なり、旧市街の中心を貫く幹線上に市の象徴となる市庁舎を配置して旧市街全体を整備する発想が生まれ、展開する過程を検証した。また、この計画の挫折後、この地区の整備進行中に起こった教区教会の曳家問題の顛末をたどっている。

 第9章では、エルジェーベト橋のたもとの市庁舎の計画が否定され、旧市街外縁の旧カーロイ兵舎が市庁舎の敷地に決定したことから、川沿いを離れた新たな都市の核の提案に結びついていく様相をたどる。市庁舎を大通りの焦点となるように配置する発想が生まれ、次に市庁舎のファサードにあわせた新たな放射道路の提案、さらに既存の複数の放射道路の交点を目指して市庁舎の敷地の変更を求めていくものであった。この発想はその後それまでのブダペストの構造を大きく変えるもので、戦間期にさらに発展していくものであった。

 このような結論を得た本論文は、建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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