学位論文要旨



No 122221
著者(漢字) 尹,世遠
著者(英字) YOON,SEIWON
著者(カナ) ユン,セウォン
標題(和) 日本近代病院建築における形式的基準に関する研究
標題(洋)
報告番号 122221
報告番号 甲22221
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6426号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 千葉,学
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、日本の近代病院がつくられ、論じられる際に、その形式的基準を与えるものが何であったか、そしてそれはどのような内容を表現するものであったかを検討し、近代病院建築についての知見を得ようとするものである。

 第1章では本論における問題の設定とその意義について述べた。本論が設定した問題は以下の通りである。

(1)「病院」が新しいビルディングタイプとして導入されとき、その固有な形式と内容は何であったか

(2)社会的・制度的背景は、病院建築においてはどのように表現されたか

(3)戦前にはどのような論理によって病院建築を設計したか、また何を課題としていたか

 第2章では、主に軍病院において設計の基準となった標準設計とモデル病院について検討した。まず維新戦争における軍陣病院の経験を通して近代医療の形式と内容を経験したことに触れ、松本順によってその内容が医療・看護・衛生にまとめられたことを示した。

 陸軍では、軍医を中心に病院建築の標準設計を通して形式的基準を与えようとした。明治7年という非常に早い時期に上申された「鎮台陸軍病院一般ノ解」は、陸軍病院の基本的な形式を定めたものとして重要である。それはまず、病院や病床の規模を規定することから始めている。病院の配置と病舎の構成方法については、「一般ノ解」の翌年に建設された「熊本鎮台病院」を見れば分かりやすい。「本舎」の後から、吹きさらしの回廊をめぐらし、その周りに、士官病舎と兵士病舎、それから附属舎を配置する。「士官病舎」は個室から、兵士病舎は8床室から構成され、病舎と病舎は、その高さの2倍以上離して配置し、屋根や壁から換気を行うようにしている。

 明治26年には、ドイツから最新の衛生医学を学んできた小池正直や森林太郎などが中心となり、病院建築の原則をより鮮明に定めている。そこでは病院の建築式についての言及があって、その主題が衛生であることをはっきりと述べている。当時の衛生とは主に、如何にして室内に新鮮な空気を供給し、また、光を適切に調整するか、ということであるが、特に病室の場合には、患者から発生する「有害な瓦斯」をどう処理するか、ということが重要な問題であった。

 一方、海軍はこれとは異なったやり方で、異なった病院建築をつくっていった。例えば佐世保海軍病院では、30床前後のオープンワードといくつかの附属室から構成された、典型的なナイチンゲール病棟を造っていた。つまり海軍病院では、陸軍と違って病舎全体の配置形式というよりは、病棟の形式を定めていたのである。

 このような病棟形式は、後に海軍医の主軸となる医師たちが、こぞってセント・トーマス病院に留学していたことによる。特に高木が設立した東京慈恵医院は、ナイチンゲール病棟を踏襲するだけでなく、王室の後援によって施療診療を行い、また一方で看護婦を養成することもセント・トーマス病院に範をとった。以上で示した典型的なナイチンゲール病棟は、日本では非常に珍しいものであり、これらの病院の存在を示したのは本論の成果の一つである。

 第3章では、中間考察として制度によって病院がどのように規定されていったのかを、避病院と一般病院とを通して説明した。

 明治期の最大の医療課題は伝染病であったが、その対策として打ち出されたのが避病院である。しかし、避病院の設立を定めた規程は、具体的な医療や看護に関する内容を持たず、建物は重症・軽症・快復患者をそれぞれ分けて収容するあばら屋でよいとした。こうした内容と形式の両方における規程の不十分さは、人々に避病院への恐怖と嫌悪を懐かせ、感染の拡散を助長する結果となった。

 明治20年代後半に避病院の問題がまずもって建物の不備の問題として指摘されるようになって、ようやく避病院の標準的な設備を制度的に規定するようになった。ここから避病院は伝染病院へ、さらに市民病院へと変わっていくことができたのである。例えば駒込病院がその模範的な例である。しかし、依然として、とても病院とは言えないようなものがたくさんあったことが報告されている。

 戦前の病院の特徴は、私立病院が公立病院より遙かに多く、病床規模が小さく、主に中等以上の上等民を患者としていたことである。

 このような特徴は、当時の医療制度にも反映されたが、病院建築においては、病室の規模(病床数)に表現された。明治9年に竣工した東大医学部附属医院では、診療科別ではなく等級別に病棟が区分されていた。病室の等級が病床規模に反映されることは、例えば済生会病院のような施療病院においても典型的に示される。反対に、実費診療所では、無理をしてでも病室を細かく区画しようとした。

 第4章では、建築計画論の中で病院建築がどのように論じられているかに焦点を合わせた。最初の本格的な模範病院と評価されたのは日本赤十字社病院であるが、その計画に際しては、ハイデルベルク大学附属病院を参考にしたことが知られている。重要なのは、片山東熊がそれを「型」の問題として理解したことである。以後、病院建築の形式的な基準は「型」としてまとめられていく。この段階ではパビリオン型は配置の形式としての位相しか有しなかったが、そこに示されたパビリオン型は、日本の病院建築に典型的に見られる特徴をよく表している。本論ではそれを、回廊を中心に病棟を並べた配置形式、片廊下式の病室構成、病棟を分割して小病室にしていること、の3点にまとめた。

 パビリオン型に次の重要な変化をもたらしたのは、講座制の確立である。帝国大学医科大学附属医院では、各パビリオンが多くの機能を取り入れ、それ自身で完結するようになった。ここにパビリオン型の第二の位相が示されたことになる。また、暖房を利用して本格的な機械換気を行うようにしたことも重要である。

 自然換気より機械換気に重点がおかれるようになると、病室衛生に関する論理が変化する。大病室は患者から発生した有害な「瓦斯」が広がるという短所が強調され、逆に小病室は衛生上有利とされたのである。医療の面からも、症状や治療の方法が異なる患者を一緒に収容することは非合理である、との主張が出され始める。

 決定的だったのは、患者の慰安という側面が病院建築の主題として登場したことである。大正期には、「患者から見た病院」という主旨の論説が登場するようになるが、それらはおしなべて「日本人は雑居を好まない」、つまり小病室を好む、という見解を持つものであった。したがって、衛生・医療・患者の慰安のいずれにおいても、小病室の優位が根拠づけられることになった。

 このような主流となった見解とは異なる論理によって設計された病院が登場する。近藤十郎が設計した東京同愛記念病院である。近藤は設計の中心に「看護」をおき、キュービクルシステムを備えた24床のオープンワード病棟を計画した。また、病棟単位や看護半径のような、戦後の計画理論に発展しうる概念も提出した。近藤は自らの設計や概念を「純粋なパビリオン式病院」と呼んでいるが、それは、看護効率や自然換気のメリットを強調したものである。

 一方、感染の防止が必ずしも建物自体の分離を要求せず、特に都市部ではパビリオン型配置ができるような土地を獲得することが困難なことなどから、病院建築はブロック型が中心となり始めていた。しかし、当時のブロック型は、パビリオン型のような分かりやすい明確な形式をもった「型」ではなく、一時病院計画的には後退したと言われるような病院が多数建てられるようになり、近藤が提示した概念も深く追究されることはなかった。

 以上をはじめの問題設定に即して整理する。

(1)病院建築に最初に形式的な基準を与えたのは、標準設計、モデル病院、制度である。陸軍病院の標準設計は最新の衛生論という内容を満足させる形式を示したことに意義がある。これは新しい病院管理方式を示した総合病院のモデルプランの場合も同じである。

(2)避病院のように制度的に定められた標準が意味を持つためには、それを超えて模範病院をつくろうとする意志が不可欠で、そうでなければ低質のものを正当化する手段となることがある。

(3)海軍病院ではセント・トーマス病院をモデルにしてナイチンゲール病棟を取り入れたが、日本ではこのような病棟形式はあまり普及しなかった。

(4)「型」は病院建築の構成や設計法に説明を与えるものである。しかし、それが病院の質についての具体的な内容を満足させる理論や形式的基準を備えていなければ、計画的に後退することがある。

(5)パビリオン型には、配置の形式・病棟の自立性・病室構成の形式、という3つのそれぞれ異なる位相が認められる。それらは感染防止や療養環境に関する衛生論理、講座制に基づく診療科別病棟構成、看護・監督の効率などの論理によって裏付けられている明快な形式である。

(6)戦前の日本の病院建築は、まず配置の形式としてパビリオン型を取り入れ、次に各舎の自立性を確保していったが、都市病院の要求と衛生論の変化によりブロック型に移行した過程として理解することができる。

(7)日本のパビリオン型病院はオープンワードを採用せず、病室をできるだけ細かく区分けして片廊下で繋ぐ、という形式であった(片廊下式小病室主義)。

(8)小病室主義は、日本人が個室を好むということが最大の理由とされたが、大病室が施療病院と結びつけられて考えられたことや、付添看護人が重要な役割を果たしたこととも関係が深い。大正時代に入ってからは感染の防止と患者の慰安という論理によって裏付けられるようになった。しかし、ここに見られる形式化は、大病室の多様な展開を阻み、ナイチンゲール病棟が含んでいる概念を見過ごす原因の一つとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、明治維新以来、日本の近代病院がつくられる過程において、その形式的基準を与えるものが何であり、どのような内容を表現するものであったかを検討し、未だ充分な研究がなされていないわが国の第二次世界大戦までの近代病院建築についての知見を得ることを目的としている。

 本論文は、5章で構成される。

 第1章では、問題の背景・設定を行い研究の目的を示している。すなわち小石川養生所と長崎養生所との比較を通して、「病院」が新しいビルディングタイプであり、その導入に当って、固有な形式とは何であり、社会的・制度的背景はそれに如何に表現されたか、そして第二次世界大戦後の「木造総合病院のモデルプラン」から日本の病院建築計画は開始されたが、戦前の病院建築設計論理は何であったのかを解明する目的である。なお、既往研究としては伊藤誠、ならびに新谷肇一のもの以外には、主だったものはなく、本論文の資料は貴重であると認められる。

 第2章では、維新戦争における軍陣病院の経験が日本にとって初めての近代医療への接触であり、松本順によりその内容が医療・看護・衛生にまとめられたことを示している。各駐屯地に病院を必要とした陸軍では、軍医が中心になって作られた「鎮台陸軍病院一般ノ解」が初の総合的病院建築標準設計指針であり、パビリオン形式を実現した早期の例として熊本鎮台病院を挙げている。また平面形式や構造、ベッドの配置まで規定した明治半ばの「陸軍衛戍病院新営規則」の役割を説明している。一方、海軍では、佐世保や呉の典型的ナイチンゲール病棟を持つ病院は、海軍医長の高木兼寛らが留学したセント・トーマス病院をモデルにしたと判断されること、そして高木自ら看護学校を附設した東京慈恵医院を設立し、全く同じ形式の病棟をつくっていることを示している。海軍病院のナイチンゲール病棟と施療診療を行った東京慈恵医院とは以後日本にほとんど見られない形式であり、この形式の病院の存在を示したのは本論分の成果の一つと認められる。

 第3章では、制度により病院がどのように規定されたのか、病院側からの要求が制度をどのように変化させたのかを、避病院と一般病院とを通して説明している。戦前の病院の特徴は公立病院に比べ圧倒的に多い私立病院と小規模病床の病院の存在であり、利用患者が中等・上等の階級であったことを述べている。避病院は伝染病隔離病院として制度的に設立を義務づけられていたが、医療・看護の具体的な内容はなく、建物は重症・軽症・快復患者を分けて収容するために短時間で簡便に建てられるあばら屋でよいとされ、ただ隔離収容する場所に過ぎなかった。結果として、避病院は人々に恐怖と嫌悪を懐かせるものになり、明治20年代後半にこのことが問題視され、ようやく避病院の標準的設備を制度的に規定するようになった。そして、これ以降避病院は伝染病院へ、そして市民病院への変貌を述べている。一般病院の制度的規定はゆるかったが「医制」が入院料の等級別徴収を規定したことは、済生会など施療病院と実費診療所における病床規模と病室構成に見られるように以後の病室構成に影響を与えたとしている。

 第4章では、建築計画論の中での病院建築に関する論議を扱っている。病院が最新の医療器械など設備を完備する「完全病院」を目指すようになったこと、進歩する医療技術にあわせて模範病院を思考したことを示している。次に、模範病院として大きな影響を与えた日本赤十字社病院、特に設計者の片山東熊が病院建築の型について論じたことに注目し、日本赤十字社病院において、各棟を回廊で繋ぐ分散配置と片廊下式病室構成、小病室主義という、日本の病院建築の典型が示されたことを確認している。その後、帝国医科大学病院の新築病棟において、各診療科別に独立した病棟が構成され、パビリオンの自立性が論議されたことを述べている。大正期にはいると、病院計画の中心的な換気と採光といった(衛生)問題は、設備機械の完備による解決を指向し、代わりに「患者の慰安」が据えられたことを指摘している。高松政雄のホスピタル・アパートメントという病院の理想は、病室を徹底的に「患者の慰安」から発想したものであり、医療・衛生・患者のいずれの視点からも、大病室に対する小病室の優位が根拠づけられることになった。その時代に東京同愛記念病院を設計した近藤十郎は、何より看護能率を病院の中心問題に据えることを主張し、ナイチンゲール病棟を復活させ、同時に病室形式としてのパビリオン型が備えうる利点(自然換気と採光含む衛生・療養環境の向上と看護・監督のし易さ・病棟単位の構成、さらに経済性)を明確に主張したと述べている。すでに病院建築は都市部での建設を前提として、耐震耐火の面からブロック型を中心に展開していたが、戦後吉武泰水らによって提示された総合病院のモデルプランは、看護単位の確立という視点から再びパビリオン型病棟を採用していることに言及している。

 第5章では 各章のまとめと全体の結論としての考察を行っている。

 以上のように、本論文は従来注目を欠いていた明治維新から第二次世界大戦に至る間の日本における近代病院建築の設計法や計画論について、標準設計によって形式的基準を与えた場合とモデルとなる病院から直接最新の知見をもとにその形式を取り入れた場合の典型的な事例などを比較するなど、各種資料を収集・分析し、その構造を究明して基本的な知見を示し、建築計画学の発展に大きな寄与をしたものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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