学位論文要旨



No 122225
著者(漢字) 頴原,澄子
著者(英字)
著者(カナ) エバラ,スミコ
標題(和) 近現代における廃墟保護の建築・都市史的研究 : 第二次世界大戦期の英国における戦災建物の扱いを中心に
標題(洋)
報告番号 122225
報告番号 甲22225
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6430号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 助教授 藤井,恵介
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、18世紀後半から20世紀における廃墟を残すための行為・理念・制度・技術等を論ずるものであり、既往の建築保存修復論と廃墟論をつなぐ建築・都市史的研究である。本論文でおもな分析の対象とするのは、第二次世界大戦期の英国における戦災建物の扱いであるが、本研究は、20世紀における戦災建物の扱いという横断的研究を見据えている。

 第1章では、まず、古建築には多かれ少なかれ備わっている「古び:古びたものの美」の価値を、18世紀から19世紀にかけて活躍したW.ギルピン、G.G.スコット、A.W.N.ピュージン、J.ラスキン、W.モリスの5人がどのように認識していたか、そして、彼らがこの建物の古びた様相を護るためにいかなる実務的貢献をしたかを検証した。この考察を通して、従来「ゴシック・リヴァイヴァリスト」「アーツ・アンド・クラフツ推進者」「宗教者」等の視点から同類とされてきた人物間の関係を、「古び」の価値認識とその保護に対する実務的貢献度から再構成することを試みる。

 第2章では、おもに中世に起源をもつ建物で廃墟となったものの法的・技術的・理念的保護の過程を分析した。この結果、まず、ようやく20世紀初頭に中世修道院・城砦の廃墟が法的に保護されるようになったことが明らかになった。そして、ティンタン修道院における構造補強工事の内容およびその評価を分析することで、廃墟の保護に必要な実践的技術が獲得され、認証されていく過程を明らかにした。また、1946年に起こったファウンテンズ修道院の復原の是非をめぐる議論から、少なくとも中世の修道院廃墟に関しては、実用のものとして供する価値よりも、廃墟としてあり続けることの価値が確認されたことを明らかにした。

 第3章では、戦災建物の記録活動(戦時芸術家諮問委員会・国立建造物記録局・戦災建物記録集の出版)を通して、単なる絵画の画材としての戦災建物の価値から、教訓的・美的価値を持つものとして廃墟のまま残す価値が認識されるようになったことを明らかにした。1945年に戦災建物を廃墟として残す価値をうたった小冊子『戦争記念碑としての爆撃された教会』が発行されたことは、廃墟保護の一つの画期であった。なお、これらの記録活動に関わった人物を見ると、そこには古建築保護協会を中心とした人的ネットワークが存在したことが窺えた。

 第4章では、第3章で取り上げた戦災建物の記録活動の中でもたびたび名前の見られる建築家H.S.グッドハート-レンデルの戦災建築の扱いに関する考えと実作を分析した。この結果、グッドハート-レンデルの戦災建物の扱いはかなりの幅を持ったものであり、いわゆる「傑作」に関しては戦災以前の形への忠実な復原を提案する一方で、鉄筋コンクリートなどの現代的材料を援用した修理や、平面計画の変更に対しても積極的な面があったこと、そして修理不可能なまでに破壊を受けたものに対しては廃墟として残すという考えにも賛同していたことが明らかとなった。彼の意見は実践においては必ずしも多く採用されるものではなかったが、このように多様な建築保存修復のあり方を一人の建築家が呈示しつづけえたことに、グッドハート-レンデルの底力と、英国における建築保存修復論の成熟度が窺える。

 第5章では、戦災で廃墟となったロンドンのシティの教会が、戦後、オープンスペースとして整備された過程を、戦前から戦後に至る行政側と教会側の思惑を明らかにしつつ分析した。

 この結果、まず教会側は、戦前は定住人口の減少に伴い教会を閉鎖していたが、戦災を経て、ほとんどの教会を何らかの形で存続していくという方向転換をしたことが分かった。一方、行政側は、戦前は私的所有権を所有者に残したままに、オープンスペースの管理権を獲得する法制度を整備していたが、1960年代以降、戦災で廃墟となった3つの教会については、敷地および廃墟を購入してオープンスペース化をすすめるという手続きを取ったことが分かった。

 そして、3つの教会のオープンスペース化の過程を見ると、廃墟の残存程度には大きな差があった。教会の手を離れ、都市のアメニティーの場として整備された廃墟では、宗教的な祈りの場としての性格よりも、他の都市計画的・政治友好的事情が優先されることにもなったのである。けれども、異なる3つの教会廃墟の保護の有様からは、廃墟保護の意義の多様性を確認することができる。

 第6章で取り上げたコヴェントリー大聖堂では、ロンドン・シティの教会に比べれば、比較的スムーズに廃墟保存が進んだ。だが、コヴェントリー大聖堂においても廃墟をどの程度残すかという問題、また、廃墟に隣接して新しく建てる新大聖堂の様式はどのようなものにするべきかという問題が残された。

 1951年のコヴェントリー大聖堂設計競技に提出された219の応募案を見ると、まず、旧大聖堂の鐘塔以外の残存度にはばらつきが見られるものの、大方の応募者は廃墟をできる限り残す方針であったことが読み取れる。後にR.バンハムは廃墟を残すことは「ピクチャレスクの反撃」だとして非難したが、審査員の一人であったモーフはできるだけ廃墟を残す主義であったことが審査メモから明らかである。また、当選したB.スペンスの新大聖堂の提案は、旧大聖堂と同じゴシック様式でもなく、いわゆるル・コルビュジエ風のモダン様式でもなく、彼独自の様式で作り上げたことが、最終的に現代的様式と評価されるに至ったことを明らかにした。

 第7章ではひきつづきコヴェントリーの復興都市計画を検証した結果、まず、当初提出されたフォード案とギブソン案の比較からは、フォード案は昔ながらの町割りの中に歴史的建造物を残していたのに対し、ギブソン案は、旧大聖堂の象徴性を強調するあまり、他の歴史的環境に対しては破壊的ともいえる案であったことが分かった。けれども、ギブソン案は後に政治的・経済的状況の変化により譲歩を余儀なくされ、その過程でフォード救貧院やカウンティ・ホールといった他の歴史的建造物が救出されることになった。一方、ギブソンの後任のA.リングにより、ブロードゲイト・ショッピングセンターには3つの高層棟が建設されることになった。旧大聖堂の鐘塔を含む3つの歴史的建造物の鐘塔は、これらの現代的な高層棟に対峙させられることになったのである。つまり、旧大聖堂の鐘塔は圧倒的な象徴性を保ちつつも、町の歴史的建造物の一つにたち返りつつあることが分かるのである。

 付論では、原爆ドーム保存過程の研究の第一歩として、1945年から1952年の間の平和記念公園構想における原爆ドームの建つ敷地(細工町・猿楽町)の扱い、および関係者の原爆ドーム存続に関する考えを見た。この時代は、原爆ドームの存廃は五里霧中にあった。だが、少なくとも原爆ドームの建つ敷地が公園(中央公園・平和記念公園)範囲に取り込まれ、丹下やその協働者らによって原爆ドームの象徴性が認識され、さらに原爆ドームを平和記念公園の軸線の焦点として設定した丹下らの案が当選したことで、原爆ドームは存続に向けて大きな力を得ることになったのは確かである。付論ではこの過程を地図・議事録・新聞・雑誌記事、市勢要覧等の史料をもとに詳察した。

 最後に、終章ではこれまで分析した近現代における廃墟保護の諸側面を俯瞰して、次の3点を指摘した。

 まず、英国においては古建築保護協会宣言に見られるような厳格な建築保存修復論が19世紀末に形成されたものの、実務をとおして、構造的補強の必要性、および戦災建物については極限られたものに関しては復原を認めるという譲歩があったことである。だが同時に「すべてを保存し何も模造しない」という基本原則を持った人々は容易に戦災建物の復原を許さず、やがて廃墟を廃墟のままに保存するという考えが生まれる素地を用意したのも事実であった。

 次に、戦災建物の保護に関しては、英国と日本では盛期に差が見られるということである。英国においては戦災建物を戦争記念碑として保存する考えは戦中戦後の比較的早い時期に形成されたが、1960年以降の戦災建物保存事業においては、他の優先事項により戦災建物が更なる破壊を受けることもあった。一方、日本においては、少なくとも原爆ドームについては、保存の気運は徐々に形成され、現在も進化を遂げている。

 これに関連して最後に言及したのは、廃墟保護の将来とその危うさである。現在、脆弱さを懸念される原爆ドームについては、鞘堂建設、レプリカ制作までが検討されている。廃墟の永久保存とは、このような問題と直面せざるを得ないのである。だが、永久保存のあり方については、他例を参照しつつ、将来にわたって説得力のある方針を検討していく必要がある。

 以上のように、近現代における廃墟保護の建築・都市史的研究は、過去の事象に対する実証的研究であると同時に、現在進行中の問題にも繋がるテーマなのである。

審査要旨 要旨を表示する

I.研究目的及び意義

 本論文は、18世紀後半から20世紀における廃墟を残すための行為・理念・制度・技術等を論ずるものであり、既往の建築保存修復論と廃墟論をつなぐ建築・都市史的研究である。本論文でおもな分析の対象とするのは、第二次世界大戦期の英国における戦災建物の扱いであるが、本研究は、20世紀における戦災建物の扱いという横断的研究を見据えている。

第1章

 まず、古建築には多かれ少なかれ備わっている「古び:古びたものの美」の価値を、18世紀から19世紀にかけて活躍したW.ギルピン、G.G.スコット、A.W.N.ピュージン、J.ラスキン、W.モリスの5人がどのように認識していたか、そして、彼らがこの建物の古びた様相を護るためにいかなる実務的貢献をしたかを検証した。この考察を通して、従来「ゴシック・リヴァイヴァリスト」「アーツ・アンド・クラフツ推進者」「宗教者」等の視点から同類とされてきた人物間の関係を、「古び」の価値認識とその保護に対する実務的貢献度から再構成することを試みる。

第2章

 おもに中世に起源をもつ建物で廃墟となったものの法的・技術的・理念的保護の過程を分析した。この結果、まず、ようやく20世紀初頭に中世修道院・城砦の廃墟が法的に保護されるようになったことが明らかになった。そして、ティンタン修道院における構造補強工事の内容およびその評価を分析することで、廃墟の保護に必要な実践的技術が獲得され、認証されていく過程を明らかにした。また、1946年に起こったファウンテンズ修道院の復原の是非をめぐる議論から、少なくとも中世の修道院廃墟に関しては、実用のものとして供する価値よりも、廃墟としてあり続けることの価値が確認されたことを明らかにした。

第3章

 戦災建物の記録活動(戦時芸術家諮問委員会・国立建造物記録局・戦災建物記録集の出版)を通して、単なる絵画の画材としての戦災建物の価値から、教訓的・美的価値を持つものとして廃墟のまま残す価値が認識されるようになったことを明らかにした。1945年に戦災建物を廃墟として残す価値をうたった小冊子『戦争記念碑としての爆撃された教会』が発行されたことは、廃墟保護の一つの画期であった。なお、これらの記録活動に関わった人物を見ると、そこには古建築保護協会を中心とした人的ネットワークが存在したことが窺えた。

第4章

第3章で取り上げた戦災建物の記録活動の中でもたびたび名前の見られる建築家H.S.グッドハート-レンデルの戦災建築の扱いに関する考えと実作を分析した。この結果、グッドハート-レンデルの戦災建物の扱いはかなりの幅を持ったものであり、いわゆる「傑作」に関しては戦災以前の形への忠実な復原を提案する一方で、鉄筋コンクリートなどの現代的材料を援用した修理や、平面計画の変更に対しても積極的な面があったこと、そして修理不可能なまでに破壊を受けたものに対しては廃墟として残すという考えにも賛同していたことが明らかとなった。彼の意見は実践においては必ずしも多く採用されるものではなかったが、このように多様な建築保存修復のあり方を一人の建築家が呈示しつづけえたことに、グッドハート-レンデルの底力と、英国における建築保存修復論の成熟度が窺える。

第5章

 戦災で廃墟となったロンドンのシティの教会が、戦後、オープンスペースとして整備された過程を、戦前から戦後に至る行政側と教会側の思惑を明らかにしつつ分析した。

 この結果、まず教会側は、戦前は定住人口の減少に伴い教会を閉鎖していたが、戦災を経て、ほとんどの教会を何らかの形で存続していくという方向転換をしたことが分かった。一方、行政側は、戦前は私的所有権を所有者に残したままに、オープンスペースの管理権を獲得する法制度を整備していたが、1960年代以降、戦災で廃墟となった3つの教会については、敷地および廃墟を購入してオープンスペース化をすすめるという手続きを取ったことが分かった。

 そして、3つの教会のオープンスペース化の過程を見ると、廃墟の残存程度には大きな差があった。教会の手を離れ、都市のアメニティーの場として整備された廃墟では、宗教的な祈りの場としての性格よりも、他の都市計画的・政治友好的事情が優先されることにもなったのである。けれども、異なる3つの教会廃墟の保護の有様からは、廃墟保護の意義の多様性を確認することができる。

第6章

 コヴェントリー大聖堂では、ロンドン・シティの教会に比べれば、比較的スムーズに廃墟保存が進んだ。だが、コヴェントリー大聖堂においても廃墟をどの程度残すかという問題、また、廃墟に隣接して新しく建てる新大聖堂の様式はどのようなものにするべきかという問題が残された。

 1951年のコヴェントリー大聖堂設計競技に提出された219の応募案を見ると、まず、旧大聖堂の鐘塔以外の残存度にはばらつきが見られるものの、大方の応募者は廃墟をできる限り残す方針であったことが読み取れる。後にR.バンハムは廃墟を残すことは「ピクチャレスクの反撃」だとして非難したが、審査員の一人であったモーフはできるだけ廃墟を残す主義であったことが審査メモから明らかである。また、当選したB.スペンスの新大聖堂の提案は、旧大聖堂と同じゴシック様式でもなく、いわゆるル・コルビュジエ風のモダン様式でもなく、彼独自の様式で作り上げたことが、最終的に現代的様式と評価されるに至ったことを明らかにした。

第7章

 コヴェントリーの復興都市計画を検証した結果、まず、当初提出されたフォード案とギブソン案の比較からは、フォード案は昔ながらの町割りの中に歴史的建造物を残していたのに対し、ギブソン案は、旧大聖堂の象徴性を強調するあまり、他の歴史的環境に対しては破壊的ともいえる案であったことが分かった。けれども、ギブソン案は後に政治的・経済的状況の変化により譲歩を余儀なくされ、その過程でフォード救貧院やカウンティ・ホールといった他の歴史的建造物が救出されることになった。一方、ギブソンの後任のA.リングにより、ブロードゲイト・ショッピングセンターには3つの高層棟が建設されることになった。旧大聖堂の鐘塔を含む3つの歴史的建造物の鐘塔は、これらの現代的な高層棟に対峙させられることになったのである。つまり、旧大聖堂の鐘塔は圧倒的な象徴性を保ちつつも、町の歴史的建造物の一つにたち返りつつあることが分かるのである。

付論

 原爆ドーム保存過程の研究の第一歩として、1945年から1952年の間の平和記念公園構想における原爆ドームの建つ敷地(細工町・猿楽町)の扱い、および関係者の原爆ドーム存続に関する考えを見た。この時代は、原爆ドームの存廃は五里霧中にあった。だが、少なくとも原爆ドームの建つ敷地が公園(中央公園・平和記念公園)範囲に取り込まれ、丹下やその協働者らによって原爆ドームの象徴性が認識され、さらに原爆ドームを平和記念公園の軸線の焦点として設定した丹下らの案が当選したことで、原爆ドームは存続に向けて大きな力を得ることになったのは確かである。付論ではこの過程を地図・議事録・新聞・雑誌記事、市勢要覧等の史料をもとに詳察した。

 最後に、終章ではこれまで分析した近現代における廃墟保護の諸側面を俯瞰して、次の3点を指摘した。

 まず、英国においては古建築保護協会宣言に見られるような厳格な建築保存修復論が19世紀末に形成されたものの、実務をとおして、構造的補強の必要性、および戦災建物については極限られたものに関しては復原を認めるという譲歩があったことである。だが同時に「すべてを保存し何も模造しない」という基本原則を持った人々は容易に戦災建物の復原を許さず、やがて廃墟を廃墟のままに保存するという考えが生まれる素地を用意したのも事実であった。

 次に、戦災建物の保護に関しては、英国と日本では盛期に差が見られるということである。英国においては戦災建物を戦争記念碑として保存する考えは戦中戦後の比較的早い時期に形成されたが、1960年以降の戦災建物保存事業においては、他の優先事項により戦災建物が更なる破壊を受けることもあった。一方、日本においては、少なくとも原爆ドームについては、保存の気運は徐々に形成され、現在も進化を遂げている。

 これに関連して最後に言及したのは、廃墟保護の将来とその危うさである。現在、脆弱さを懸念される原爆ドームについては、鞘堂建設、レプリカ制作までが検討されている。廃墟の永久保存とは、このような問題と直面せざるを得ないのである。だが、永久保存のあり方については、他例を参照しつつ、将来にわたって説得力のある方針を検討していく必要がある。

 以上のように、近現代における廃墟保護の建築・都市史的研究は、過去の事象に対する実証的研究であると同時に、現在進行中の問題にも繋がるテーマなのである。

 こうした点を明らかにした本論文は建築史研究の成果として極めて有益なものであり、これら分野の発展に資するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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