学位論文要旨



No 122227
著者(漢字) 禹,成勲
著者(英字) WOO,SEONG HOON
著者(カナ) ウ,ソンフン
標題(和) 高麗の都城開京に関する都市史的研究
標題(洋)
報告番号 122227
報告番号 甲22227
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6432号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 早乙女,雅博
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、開京という高麗の都城・都市における都市空間の変容とその背景を時間軸に検討する第1部と、その空間がもつ特性について検討する第2部、そして開京という都市空間の実態の解明を試みる第3部の、三つの内容から研究を行った。

 第1部第1章は、韓国の都市に対する先行研究を紹介し検討した。

 第2章では、建国期にあたる太祖代を中心に、開京への遷都と都城化について検討した。

 遷都以前から整っていた開京の地理的条件と都市的・都城的基盤は、高麗という新王朝の対民政策を実践的に表象し、遷都の妥当性と新王朝による支配を正当化する手段となり、開京への遷都を可能にする前提条件であった。これとともに太祖祖先からの居住地であり支配地であったという開京の場所的特性は、祖先の逸話の操作を通じて太祖にとって国王としての正統性が主張できる重要な根拠であった。こうした開京の抱いた特性に加え、風水地理と宗教理念に則って都城を建設し、その上に様々な仏教儀礼を行うことで不規則な開京を巧みに都城空間化した。

 第3章と第4章は、遷都と同時に始まった開京の都城化と都市化の変容について問うものである。

 6代成宗は、国際秩序に適していない都城の問題と仏教による社会問題とを、儒教的理念に則って解決しようとし、それによって開京には宗廟と社稷をはじめ幾多の官庁が建立され整備された。しかし、統治施設の建設によって既存の開京を全く新しい空間に変えたわけではない。それは、成宗が模範とした唐の長安城と異なり、宗廟・社稷をはじめ大部分の官庁が皇城外部の都城空間内に分布していたことが端的に示している。

 高麗都城の空間構造は、1029年に羅城の完成を契機に完成したと言えるだろう。それは、その後大きな変化は見出されないためである。ところが、水口を含め28ヶ所に及ぶ羅城門の一部は、既存の道路と羅城壁が交差する地点に位置しており、羅城の外部からも開京の行政区画が確認された。こうしたことは、開京の羅城が既存の都市構造を認めながら建設されたということを意味する。つまり、遷都から羅城が完成されるまで110年間、羅城や羅城門のような要素によって制限されずに開京の都城化と都市化が進行したということを示しており、このことは開京という都城の重要な特徴としてあげられる。

 このような内容に加え第4章4節では、行政区画とは違う地域・住居単位である「洞」の名称を素材とし、高麗末期開京には、商業的進展とそれを土台とした都市的集積が起きていたことと、行政区画とは関係ない機能的に分化された都市的空間が形成され始めたことが確認できた。

 以上、三つの章で検討した都城化や都市化による開京の変化は、第5章で検討した京中支配構造の変遷を通じて一目瞭然にうかがえる。

 高麗太祖が設置した行政区画の「開州」は、都城と後代の京畿一帯とを区別せず包括していた広域的かつ一元的なものであった。それは、先代逸話の操作を通じて王室家系に神聖と正統性を付与することにあたって、先代と係わる実際の地名や施設は操作した内容を事実として主張できる重要な根拠になるからであった。。したがって、たとえ都城と周辺地域の差は存在しても、これらを区分して統治・支配することはできなかったのである。

 6代成宗時の995年に至って開州は13県に区切られ、都城空間が県から区別され始めたことは確認できるものの、都城とその周辺の県は開城府によって一元的に支配された。

 こうした変化は、地方制度の改定とともに、遷都後約80年間開京で進んだ都城化と都市化を反映したことでもあった。要するに、開京内には幾多の寺院が建てられ、酒店などの商業施設、官庁の整備と国家儀礼施設の建立によって、名実共に都城空間と化したのである。開城府が中央機構に、その首長である開城府尹が中央官僚に属していたことは、都城化と都市化で高まった開京の位相が、その支配機構に反映された結果であった。

 以上のような都城と周辺地域に対する一元的支配は、顯宗代に至って根本的に変化する。つまり、開城府が革罷され京畿の12県は開城県令と長湍県令とが分割支配し、都城は開京五部が治めるようになる。これは、遼の侵入で破壊された都城の復旧と羅城建設がもたらした変化であったに違いない。

 顯宗代に始まった都城と京畿に対する二元的支配形態は長い期間維持されていたが、元に支配され始めた1308年に再び変わる。この時期の変化は、開城府の首長が宰相級に格上げられたのみならず、開城府が完全に独立した中央機構になり、都城と京畿を一元的に管轄することと要約できる。これは、京畿と開京居住民たちに対する徴税と労役動員の便宜はもとより、第4章4節から明らかである都市的進展が著しく現われ始めた開京に対する統治が、以前より重要になったためであった。

 高麗時代、都城と京畿に対する支配構造が最後に変化したのは、1390年であったが、それは、官吏に支給する土地の供給先として、京畿が再び重要になってから起きた変化であった。

 以上の結果から都城に対する観念の移り変わりをみると、太祖によって用いられた風水論や仏教という自然にたいする観念と宗教観念は、高麗が終わるまで引き継がれたものの、6代成宗の時は儒教観念に、また高麗末期になると経済観念に変わってゆく様子もうかがえる。

 第2部では、開京の都城としての特性について検討した。

 第6章では、各種の国家行事や儀礼及び政治的事件などを記録しながら、その場所として寺院の名称が書かれている史料を取り上げ、開京寺院の役割を考察した。開京寺院は、国家権力の補完施設ではなく、宗教性に根ざした国家権力のあり方そのものを体現する存在であった。

 第7章では経済的な状況と政治的な状況の変化に即して開京市場の変化を検討した。その結果、開京の市場は、国家政策の結果であり、それを実行する対象であると同時に政策を施行する意志を表す手段でもあったことが明らかとなった。またそこでは、第10章で述べたように、観覧、宴会、娯楽の場所として、また恤民施設としても使われた。

 これに加えて補論では、高麗の都城に築かれていた官僚住居を素材として、開京の都城としてのあり方を検討した。開京に位置していた官僚住居は、目的や理由を問わず頻繁な国王の訪問と滞留、そして死亡場所にもなっていた。これは、朝鮮時代の国王が官僚住居を訪問したことが前期に集中し、回数も多くないこととは確かに区別される違いの一つである。また、政策の論議や決定が行われ、また政治事件の要素であると同時に対象物でもあり、政治意図を現わす一種の政治的装置でもあった。

 第8章では、政治、商業、住居施設と都市空間で行われる仏教行事や仏教寺院化に関する史料を取り上げ、宗教化する開京の様子を検討した。その結果、宮廷、官庁、市場、住居などが、宗教的空間・施設化していたことが確かめられた。また、開京という都市空間も様々な仏教儀礼や仏事の場所になっていた。政治の中心地としての性格が、宗教、経済、生活空間を政治空間化したように、宗教の中心としての性格は、政治、経済、生活空間はもとより都市空間全体を宗教空間に化していたのである。

 特に、燃燈会や「街衢經行」などの仏教儀礼が国家の主導で開かれると、宮廷から始まった儀礼動線は都市空間にまで延びる。この時には、仏教儀礼に参加した国王が都市空間を通りながら一般民と会い、また、一般民が宮廷に招待されることもあった。

 以上のような事実は、そもそも身分や階層によって区別されていた国王・官僚・一般民が、仏教儀礼や行事を契機として繋がっており、また、各々の機能によって区切られていた政治・経済・生活空間が、宗教を媒介として均質な空間になったということを意味する。すなわち、開京という都城空間は、政治や宗教の論理によって支配されていた重層的かつ両義的空間構造を取っていたのである。

 第3部は、寺院に関する情報が含まれている第2・5章、官庁の分布状態が描かれている第3章、羅城・城門・部坊里という行政区画の位置を検討した第4章、市場の二重的構造やその変化を述べた第7章に加えて、開京という都市空間の実態をより鮮明にするものであった。

 まず第9章から、高麗正宮の配置は都城空間構造に多大な影響を及ぼしたことが明らかとなった。つまり、第3章でも述べたように、宮城周辺の地理条件は皇城の正門である広化門を東向きにし、これによって大部分の官庁は広化門から東西に延びる官道に沿って西から東へ連なり、開京という高麗都城の特徴的な空間構造を成したのである。

 第10章と第11章では開京の中心部に置かれていた市場の建築形式やその役割について検討した。

 その結果、開京の大市では廊・廊廡という商店の基本的な建築形式が連続的に繋がれながら開放と閉鎖の程度が違う「廊廡・行廊・歩廊」を形成し、これらが中心街路沿いに細くて長い線形の「長廊」をなし、専用商業施設である「市廊」になっていたことが明らかになった。これによって、市廊や住居区域の災害、そして商行為を含めた各種行事が行われる中心街路空間と住居区域が効果的に分離・共存することができた。このような市廊は中心街路と裏面街路に向けた門の開閉によって可変的に対応できる形式となっており、平屋の商店と重層の樓が連なって多様で活力ある町並みをなしていた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論は、高麗の都城開京(現在の北朝鮮開城)に関する都市史的研究であって、とくにその空間構造の特徴と都城としての特性を明らかにしようとするものである。

 従来高麗時代の朝鮮半島の都市については資料的制約によりその実態解明が著しく遅れており、そのなかでも平壌については一定の研究蓄積がみられるものの、都城開京の都市史はほとんど先行研究がみられない。そうした状況のなかで、本研究は建築史の方法を駆使して当該期の資料を徹底的に読み解くことによって、はじめて開京の実態に迫ったものとして高く評価できる。

 当該期の資料としては、『高麗史』、『高麗史節要』、『宣和奉使高麗図経』などが知られていたが、本研究では高麗時代文人の文集、地方誌類、絵画資料、古地図などを利用して、可能なかぎり都市空間の物的構成を復元しつつ、その背景となる政治的・経済的・文化的状況を明らかにしている。

 論文は全体として3部からなり、それに序と結論が付く。

 序ではこれまでの韓国における都市史の研究史が跡づけられ、本研究の立脚点が述べられる。すなわち韓国の都市史はその資料的制約と方法論的問題から、従来、日本の歴史学の影響を受けた政治史、社会経済史的研究は一定程度進展してきたが、空間的立場からの研究はほとんどみるべきものがなく、その分析視角も未熟な段階にとどまっていると指摘する。

 第1部「開京の都城的・都市的展開とその理念の変化」では、平地でなく地形的に複雑な場所に遷都された開京が次第に都城化されてゆくプロセスが明らかにされる。遷都前の鐵圓は明快なグリッドをもった都城であったが、開京は地形条件から整形プランをとることができなかった。したがって都市化・都城化は遷都以後徐々に進行したのであって、当初寺院などの宗教施設が政治・国家儀礼の場として代替され、その後官庁および官僚組織が整備されていくことになる。都城の重要な要素である羅城もまた、遷都当初は建設されておらず、およそ100年後に完成している。典型的な都城である長安や日本の平安京などと比較すると、時間をかけて都城化する開京独特の性格がみられる。

 第2部「開京の都城としての特性と重層的空間構造」では、第1部でみた開京の特殊性の背景となる要素について詳細な分析が行われる。すなわち国家権力の都市支配装置としての寺院の役割、市場の設置とその変化に対する政治的・経済的背景が述べられ、これらが重層的に展開することで開京固有の都城性ともいうべき都市の質が形成されることになる。ここでは寺院や市場の立地を空間的手法を駆使して復元的に考察しており、この種の試みは本論が最初のものである。

 第3部「都市空間の実態と開京の位相」は、第1・2部を補完する考証で、政治の中心施設である高麗正宮の配置に関する復元的考察および都市内商業施設となる市場のさらに詳細な建築的実態に関する考察からなる。ここでは先行研究を検討しながら、独自の空間復元案が提示されている。

 上記の考察を総合して、結論部分ではあらためて開京の都城・都市としての特質が述べられ、時間性と重層性という従来の都城論で見過ごされていた論点が抽出される。

 以上のように本論は高麗時代の都城・開京の全体像をはじめて明らかにした力作であって、限られた資料を深く読み込んだうえでの論理展開はきわめて説得力がある。とりわけ空間的立場を基軸にすえた都市の政治的・経済的・文化的特質に対する考察は、既往研究の欠を埋めるばかりでなく、この分野の研究水準を一挙におしあげる成果となって結実した。よって、本論は博士(工学)の学位にふさわしい業績として認められる。

UTokyo Repositoryリンク