学位論文要旨



No 122229
著者(漢字) 銭,毅
著者(英字) QIAN,YI
著者(カナ) チェン,イー
標題(和) 中国広東省開平市における開平楼の歴史と保存に関する研究
標題(洋)
報告番号 122229
報告番号 甲22229
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6434号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 藤井,惠介
 東京大学 助教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

第一章 序章

開平〓楼の定義

 「開平〓楼」は、現在の開平市を中心として、五邑僑郷地区の広範囲に分布、存在し、防御機能と望楼(見張り)機能を主とし、その一部は居住する機能を兼ね備えた多層の建築物である。

研究の背景

 中国広東省の開平市は、中国最大規模の僑郷(華僑の故郷)-「五邑」地区の一つの都市であり、現在開平市の全域、特に農村部に現存する「開平〓楼」と呼ばれる近代の建築物は、2019棟の多くを数える(図1)(図2)。「開平〓楼」を世界文化遺産への登録申請の展開により、開平〓楼は「五邑の僑郷文化」中の身近な文化遺産の代表として、徐々に多くの人に知られるようになった。2003年から開平〓楼に対して悉皆調査を行い、研究を展開することになった。

第二章 開平〓楼の起源と初期開平〓楼

開平〓楼の起源

 開平〓楼の起源は、以下4つの方面からの影響を受けていたことが、考証を通じて明らかになった。

 (1)現在知られている最も古い開平〓楼は、16世紀中期に建造された三門里の迎龍楼であり、当時開平周辺の情勢は不安定であったため、民衆は自身の安全のため、防衛能力の高い建物を建設する必要があった。

 (2)明朝初期から清朝まで、政府は「屯田地」などの辺境を充実させるための政策を実行したが、辺境省の各地の至る所に作られた開拓地には、大量の駐屯「屯堡」と「〓楼」が建てられ、各開拓地の軍民の安全を守った。この方法は全国に広範な影響を与え、開平は「屯田地」から県へと発展したが、開平〓楼の出現もこの全国的な背景と一致する。1823年の「開平県誌」の「南境図」には、軍事構造物と集落が描かれており、その中に〓楼と類似した建造物がある。

 (3)また、開平〓楼の起源は、古代城郭建築からの影響もある。

 (4)客家移民が広東省北部、江西省南部から開平一帯に大規模に移住してきた時期の17世紀80年代に、これらの地区で客家集落には〓楼が建設されることが非常に一般化していた。そのため、客家移民と客家〓楼が初期開平〓楼の発展と変化に影響を及ぼした可能性は非常に大きい。

初期開平〓楼

 開平〓楼の起源となる時期は、16世紀中期から1900年前後までとする。本論文では、この時期に建造された〓楼を「初期開平〓楼」と称する。

 初期開平〓楼の特徴について以下の点をまとめる。(1)初期開平〓楼は、その外観・構造や建築材料において中国伝統建築の特徴を備えており、中国伝統建築の範疇に属するものというべきである。(2)初期開平〓楼は、外観や造りは素朴であり、様式上の特徴は基本的に防衛の用に供するためである。(3)初期開平〓楼は、村の公共防衛と見張るための〓楼に属する建築物と言える。(4)この時期の〓楼で現存するものは数少ない。

第三章 近代開平〓楼の発展と変容

 清朝末期から最後の〓楼を建造した1950年代初期まで、この時期に建造された〓楼は、「初期開平〓楼」と比べて建築技術、様式、風格、機能などの面で比較的大きな変化が見られ、外来文化や近代技術の影響を明らかに受けていると見られることから、これらを「近代開平〓楼」と称することとする。

 19世紀末から20世紀の初めにかけて、多くの開平籍の華僑達は、海外で数年又は数十年間肉体労働或は商売を通じて少しずつ貯蓄してきたお金を持って故郷に戻り、故郷で結婚し、子供を生み、家屋を建てたが、そのことは、彼らにとっては一番大事なことである。当時、開平の情勢は、それ以前より更に社会が不安定に陥っていたが、横行した匪賊から民衆は自身の安全を守るため、〓楼のような防衛能力の高い建物を建造する必要が高まり、そこで大量の〓楼が建てられ、家族と財産を保護した。1920年代を建設のピークとして、その数は3000棟余りなった。

 多くの華僑と華僑資本によって、近代開平〓楼は、その機能、建築材料、構造、様式、空間等の特徴が大きく変化した。レンガ、土、石などの伝統材料が引き続き採用されたと同時に、鉄筋コンクリート材料も広い範囲で使用されていた。進取的社会気風と新材料の使用によって、また建築主としての華僑たちの見聞と体験を託する〓楼建築は、益々高くなる傾向となり、西洋風が主流であった。昔から続いてきた、村全体の公共防衛や避難するための〓楼-「衆楼」と見張るための〓楼-「更楼」と異なって、帰国華僑が自家の防御と居住用の〓楼-「居楼」の建設を始めた。また、大量の華僑資本によって、開平の金融業が栄え、金融店舗などを守るために建てられた、店舗に附属する〓楼-「舗楼」が現れた。

 近代開平〓楼の中で、数が一番多い居楼の特徴は、初期公共性〓楼の密閉性を高くした特徴と伝統の「三間両廊」式民家の居住性平面の空間特徴を吸収し、かつ幅広く外来の外廊空間である開放型の生活空間を取り入れた、地方的特徴を有する近代的な空間を形成した。(図3)。

第四章 開平〓楼の防御機能と象徴性

 近代開平〓楼が興隆した原因の一つは、近代の開平で横行した匪賊を防御することにあり、当時の〓楼は村民の有効な防御施設として、華僑世帯或は村全体の防御に対して非常に大きな役割を果していた。もう一つの原因は、帰国した華僑たちは故郷に錦を飾ること、或は外国の近代建築の体験を実現するため、高く華麗な〓楼を建造し、昔日貧苦の運命と別れることにあり、自分たちの経済的な実力と社会的な地位のシンボルとして誇示した。

第五章 開平〓楼の建造

 開平〓楼を建造するには多額の資金が必要となる。それは当時の普通の世帯にとっては巨大な金額であり、独資で〓楼を建造することが出来る世帯は金持ちの華僑世帯に過ぎない。その他の公共〓楼を建造する資金を集める方式は、伝統的な割り勘方式と近代思想の影響を受けて、株式を買う方式が存在した。

 資金を集めた後、施主は直接建築請負人に委託するか或は入札方式をとって、建設工事を落札した者に委託する。そして建築請負人と工事の契約を締結する。

 〓楼の建築請負人と設計者の中に建築の専門家は極めて少なく、その殆どは当地の職人達であった。この職人たちは、建築の教育を受けてはいないが、自らの「大量の〓楼など近代建築の建造」という実践の中で、直感からの習熟と理解によって、近代的な洋風な〓楼を設計したのである。

 開平〓楼の建設工事の過程では、まず基礎工事に入る。基礎工事は大体先に大きい穴を掘って松杭を打ち、杭と杭の隙間に石材或はコンクリートを埋めて、その上に青レンガを敷く。基礎が完成した後で足場を組み立てて、それから建築主体の構造工事を行い、最後に内部と外部の装飾の仕上げをする。これが基本的な工事工程であった。

第六章 開平〓楼及び僑郷社会と空間の近代変容

 素朴な機能主義の「初期開平〓楼」は、立派な洋風の「近代開平〓楼」へと変化し、ひいてはその変化が僑郷空間の地位転換を表したものとなり、〓楼は完全に伝統的な村の空間構造に属した建造物から僑郷農村空間の主役となった。背後には19世紀末~20世紀初頭にかけて帰国した華僑階層が、海外から持ち帰った巨額資本によって経済面で僑郷の主導的地位を占有していき、後に他の各方面にわたり大きな影響力を持つようになった。そして僑郷社会にかつてない繁栄をもたらし、当然こうした帰国した華僑階層は高い社会地位を得たわけである。この過程で、数百年、千年にも亘って続いてきた封建的宗族倫理制度を基礎とした社会秩序が少しずつ動揺し始めた。次第に資本主義の民主思想を取り入れた資本力支配型の宗族システムが出現し、社会のイデオロギーを塗り替えようとした。〓楼はまたその華僑と華僑家族を中心とした階層の地位を表す、経済的、物質的象徴でもある。(図4)。

 その一方で華僑資本への過度の依存は、僑郷の近代社会の空間構造に根本的な脆弱性をもたらすことも意味する。繁栄は開平〓楼建造の勢いと連動し、短いものであった。太平洋戦争の暴発によって、多くの華僑や華僑家族が国外へ逃亡し、華僑資本と為替送金が断ち切られ、僑郷の経済も「行き詰まった状態」に陥り、大量の〓楼は廃屋の運命を辿ることとなった。

第七章 開平〓楼の現状および保存対策

 開平〓楼、その中の多くは数十年の間廃屋状態となり、又は不適切な使用をしてきたことから、〓楼及びその周辺環境に対し、速やかに適切な保存・再生策を講じていくことが必要である。筆者は今後開平〓楼の保存・再生及び管理について以下の具体的な対策を提案する。

 「非常に多くの数が広い範囲に分散して存在する〓楼に対して、ランクとエリアを分けて保存活動を推進することにより、開平〓楼に対して全面的な保存が可能となる。同時に、〓楼に関する周辺の有形・無形の文化的遺産を保存することも重視する。〓楼の異なる状況に合わせて、各〓楼独自の再利用・再生対策を実施し、それらの活力を回復させ、更に良い保存を目指す。全体的な管理は、GISシステムを基礎として、2004年〜2005年の悉皆調査のデータと情報を利用したデータベースにより、開平〓楼の保存と管理システムを構築し、効率的な管理を実現する。」

まとめ まとめと今後の研究

 長い間、中国の近代建築歴史の主要な研究内容は、主に少数の開放された都市をその代表とし、西洋の建築文化の受動的な受け入れ同時に、植民化の強制性による西洋の近代化国家から直接導入した新たな建築体系に関するものである。

 これに対し、海外で成功し、故郷の開平に帰った出稼ぎ農民達が、自身の安全を守るため、そして故郷に錦を飾るために建てられた開平〓楼は、五邑地方の伝統的〓楼と民家の基礎の上に発展、継続し、近代的な外来の建築技術と建築文化を自発的に取り入れてきたものであり、これは中国民間建築の近代化において極めて典型的且つ特異な実例である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、広東省開平市を中心とする、いわれる「五邑華僑地区」に広範に分布する「開平〓楼」の歴史と保存に関する研究についてである。

 序章では、開平〓楼の定義と研究の背景を述べているが、今も数多く現存する開平〓楼は、五邑の華僑文化の代表的な遺産として、世界文化遺産への登録申請が展開されており、その歴史性、文化性において高い価値を有する建築物といえる。こうした背景を有する開平〓楼について、悉皆調査を中心とする実証的研究を基本に、中国農村建築の歴史的な変遷とも重ね合わせた検証によって、幅広く論じられているところに特徴がある。

 第二章では、開平〓楼の起源と初期開平〓楼の特徴について述べられている。開平〓楼の起源は16世紀中頃に遡るが、当時の社会状況や社会政策として実行された屯田地開拓、客家の当地への移住などとの密接な関係についての分析が成されている。初期開平〓楼の特徴についても、外観や構造など中国伝統建築からの分析と、防衛、見張りなどの機能面からの分析と相俟って、その特徴が明確にされているといえる。

 第三章では、近代開平〓楼の発展と変容について論述したものである。近代開平〓楼は、清朝末期から1950年代までに建造されたものを指しており、建築技術、機能、外来文化など様々な側面から、分析されている。その中で、近代開平〓楼は、海外へ移住した華僑の歴史と文化と深く関わっており、華僑が海外の労働で稼いだ収入により、故郷の家族のために築いた家屋であるが、当時の匪賊の横行による社会不安から身を守るため、防御機能がより高い建造物を建て、家族の安全と財産を守るための建築物として存在した。その数は1920年代をピークとし、3000棟余りに上るが、こうした多数の〓楼の建設に発展していった要因は、正に社会不安から資産を守る防御性の重視にあった。さらに、近代開平〓楼は、近代建築技術が適用され、その多くが煉瓦積みからコンクリート構造へ移り、昔からの防御機能としての「衆楼」、「更楼」から、華僑の「居楼」へと変容し、華僑資本によって栄えた金融業の「舗楼」にまで展開していく。海外移住した華僑達は、積極的に海外文化を取り入れ、近代開平〓楼は、いわゆる洋風スタイルに変容していく。こうした、近代開平〓楼の変容について、当時の社会経済状況、華僑の海外移住と帰国後の生活にまで明快な分析が行われている。

 第四章では、こうした変容過程における華僑の故郷への思いが、村全体の防御施設としての役割を担ったり、故郷に錦を飾る象徴であったり、華麗な〓楼を建設することにより昔日貧苦と決別することであったりなど、華僑達の〓楼に対する思いを込めた建築と人間感情との係わりが浮き彫りにされている点が興味深い。

 第五章は、〓楼の建造の仕方、即ち資金長達から施工に至るまでの当時のつくり方を明らかにしたものである。個人の〓楼は金持ち華僑にしか建造できなかったが、公共〓楼建設の資金調達は、割り勘方式か株式方式によった。また建築の請負は、いわゆる随契か入札のどちらかであり、設計については、地元の職人達が建造の実践を通じて、設計の技量を高めていったものであるが、施工の順序まで含めた、いわば「一連の建造システム」が存在していたことが、数々の証言や資料から裏付けられ、明らかにされていることは高く評価できる。

 第六章は、開平〓楼及び華僑社会と空間の近代における変容について述べられている。開平〓楼は、素朴な機能主義の「初期開平〓楼」から立派な洋風の「近代開平〓楼」へ変化し、伝統的な村の空間構造に属した建造物から僑郷農村空間の主役になった。そして、長い歴史的な封建宗族倫理制度を基礎とした宗族システムから資本主義民主思想を取り入れた資本力支配型の宗族システムが出現し、〓楼は華僑の社会的地位を表す象徴的存在となった。しかし、太平洋戦争の暴発によって華僑は国外に逃亡し、華僑からの送金が断ち切られたため、〓楼は廃屋となる運命を辿った近代の変容について、十分な論証が成されている。

 第七章及び終章のまとめと今後の研究では、こうした文化遺産の保存・再生の必要性が述べられ、GISシステムを活用した管理システムやデータベースの作成など具体的な方法についての提案が成されていることも評価される点である。

 本論文は、伝統的な農村の防御のための建築「初期開平〓楼」から始まり、「近代開平〓楼」が五邑地方の伝統的〓楼と民家の基礎の上に立って発展、継続し、自発的に近代の建築技術と建築文化を取り入れてきたものであることを、歴史的事実の分析、現地で資料収集と悉皆調査等を踏まえた結果により構成されている。そして各時代の経済社会状況、近代華僑の歴史とその背景、建築技術や建築文化など、多面的に捉え、論じていることは高く評価するものである。

 今、世界遺産登録への展開過程にある「近代開平〓楼」は、そのことも含め、中国民間建築の近代化の中で、典型的且つ特異な実例として高い価値があることを十分に実証しているといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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