学位論文要旨



No 122243
著者(漢字) 三輪,潤一
著者(英字)
著者(カナ) ミワ,ジュンイチ
標題(和) 抗原抗体間相互作用を用いたマイクロ細胞分離デバイスの開発
標題(洋)
報告番号 122243
報告番号 甲22243
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6448号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 笠木,伸英
 東京大学 教授 鷲津,正夫
 東京大学 教授 藤井,輝夫
 東京大学 助教授 鈴木,雄二
 東京大学 助教授 鹿園,直毅
 東京大学 助教授 古川,克子
内容要旨 要旨を表示する

 生体を構成する組織細胞の起源である幹細胞を体外培養・分化誘導を経て患部へと移植し,生体の自己再生能力を利用して病変や疾患を治療する再生医療が,有望な次世代医療技術として期待されている.万能細胞である胚性幹細胞(ES細胞)を利用した再生医療技術の実現に向けた動きが注目される一方,倫理面での議論や拒絶反応などの問題を回避する方策として,成人体内に微量ながら存在する体性幹細胞を用いた組織再生技術の発展に期待が向けられている.血中に存在する造血幹細胞や骨髄由来間葉系幹細胞などに代表される体性幹細胞は,その存在頻度が低いことから体内からの抽出が非常に困難であり,生体内からの幹細胞の効率的抽出が再生医療の実現・普及に向けた重要な技術課題の一つに据えられている.従来の細胞分離手法では幹細胞のような希少細胞を,分離後の培養・分化誘導にたえうる状態で取得することは困難であり,再生医療における幹細胞抽出に適した細胞分離を行うための手法およびデバイスの開発が望まれている.本研究では,抗原抗体間の相互作用により特定種類の細胞の運動を制御することにより細胞を分離する手法を提案し,これを実現するマイクロデバイスの開発を行うことを目的とする.

 本研究において提案する細胞分離手法は,生体内において白血球が血管外へと脱出する際,抗原抗体間の結合により血管内壁上で減速する機構を模擬したものである.特定の細胞に対し特異的に結合する抗体分子をマイクロ流路壁面上に固定することにより,壁面に特定細胞種に対する特異的接着性を付与する.複数種類の細胞が懸濁した試料流体がマイクロ流路内を流れる際,抽出すべき標的細胞のみが流路壁面上において接着力を受け減速し,結果として試料細胞群を試料の流れ方向に分離することが可能となる.典型的な抗原抗体間の結合力を化学動力学モデルを用いて予測した結果,細胞が機能化壁面上で受ける結合力は細胞と同程度の寸法を有するマイクロ流路内流れの壁面せん断力と同程度のオーダーであることが示され,本手法の実現可能性が示唆された.本細胞分離法を実現する際には,膜剥離モデルの予測結果より,淀み点などの低流速領域の存在は流路内での細胞の捕捉,つまり損失につながることが予想される.また選択的接着面の有効面積を稼ぐ目的から,流路寸法は細胞直径と同程度とすることが望ましく,扁平な矩形流路から成るマイクロ流路により細胞分離デバイスを構成することにより効率的な細胞分離が可能となると考えられる.

 抗原抗体間相互作用を用いた細胞分離デバイスの開発にあたり,まず抗体を強固な化学結合によりマイクロ流路壁面上に一様に固定するための材料を選択した.一般に,基板表面に生体分子を強固に固定する際には,石英のシラン化や金表面へのアルカンチオール化合物の吸着など基板表面に反応性を付与するための特別な操作が必要となる.本研究では,より簡便に反応性を有する基板表面を形成するための材料として,機能化ポリパラキシリレン樹脂を選択した.ポリパラキシリレン樹脂は常温での気相蒸着により三次元形状を有する表面全体を被覆することが可能であり,マイクロマシン製作技術に対する互換性に優れ,さらに生体適合性が高いことから細胞の非特異的吸着による凝集が起きない.以上の特徴から,上記材料は抗原抗体反応による特異的な接着作用を用いた細胞分離に用いる流路内壁材料として非常に適しているといえる.本研究では,アミノメチル[2,2]パラキシリレンを気相蒸着し,表面のアミノ基をローダミンコハク酸エステルにより蛍光染色することで,本材料を用いて反応性官能基が十分に存在する表面を形成可能であることを示した.次に,ビオチンコハク酸エステルをdiX AM表面に共有結合により固定し,続いてビオチンに対し親和定数10(15)の高い親和性を示すストレプトアビジンを介しビオチン標識抗体を固定することで,モノクローナル抗体の強固な固定に成功した.形成した機能化表面上への抗体の固定量を水晶振動子電子天秤を用いた質量計測により定量的に評価した結果,アミノメチル機能化ポリパラキシリレン表面には約4 pmol/cm2の面密度で抗体を固定可能であることが示された.以上の結果により,本抗体固定法を用いて形成した機能化表面上で,典型的な流量範囲内において流れの壁面剪断応力と同程度の特異的接着力を細胞に対し作用させることが可能であることを示した.

 実際に細胞分離を行うためのデバイスとして,細胞分離法の原理確認および実証に用いる抗体固定マイクロ流路構造を機能化ポリパラキシリレンの熱圧着法をはじめとしたマイクロマシン製作技術を用いて製作した.さらに,本デバイス内に形成した抗体固定平面上での特異的接着力による細胞減速効果を評価するため,抗体固定流路内における細胞の運動について可視化計測を行った.ヒト臍帯静脈血管内皮細胞に対し選択的に結合するマウス由来坑ヒトCD31モノクローナル抗体をマイクロ流路壁面全体に固定し,流路壁面上を流れる血管内皮細胞の移動速度を時間連続的な顕微鏡画像よりより算出した.試料流入口の直下流における細胞移動速度を評価したところ,抗体を固定していない流路内と比較して細胞は30%程度減速しており,また,表面への抗体固定量の増大により減速効果はさらに促進され,最大で70%程度の減速効果を得た.このとき,速度の瞬時値は時間的にほぼ一定値を示した.従って,細胞減速の影響は流路最上流部において定常状態に達しており,流路全長にわたって抗原抗体間相互作用による減速の影響を保持することが可能であることが示された.さらに,試料流量が細胞減速の程度に与える影響を拡張二次元膜剥離モデルを用いて評価した.実験結果に対し,最小二乗法を用いて導出した係数値を他の抗体濃度条件に適用したところ,実験結果とモデルによる予測結果とはよい一致を示し,本実験における細胞減速現象が抗原抗体間の特異的結合力によるものであることが裏付けられた.血管内皮細胞に対し特異的結合作用を示さないマウス由来抗ヒトCD86抗体を流路壁面上に固定した場合の細胞減速効果はCD31抗体固定流路内におけるそれと比較し十分に小さく,本研究で提案した細胞分離手法およびこれを実現するデバイスの有用性が裏付けられた.

 上記の細胞減速効果確認実験の結果を踏まえ,血管内皮細胞およびヒト白血病細胞を混合した細胞懸濁液プラグをCD31抗体固定表面上でそれぞれの細胞種へと分離する実験を行った.分離デバイスは体積2 μLの試料懸濁液を12 μLの抗体固定流路内において分離することを想定して設計・製作した.高時間分解能で顕微鏡観察を行うため,二種の細胞のうち一方のみを蛍光染色し,分離流路内における染色細胞の滞留時間を計測することで分離性能の評価を行った.実験の結果,CD31抗体に対し特異的に結合する血管内皮細胞は抗体の影響を受けない白血病細胞に対し約1.4倍の滞留時間の後に流出しており,本細胞分離デバイスを用いて有効に細胞を分離することが可能であることを示した.細胞減速効果を評価する際に算出したモデル予測結果を考慮すると,試料の濃度および速度を本研究で行った実験の条件に対し10倍にすれば,毎秒100個程度以上の処理速度で細胞分離を行うことが可能であると予想される.

 以上,本研究では,抗原抗体間相互作用により微小流路内を流下する細胞に働く特異的接着力を用いた細胞分離法を提案し,これを実現するマイクロデバイスの開発を行った.流路壁面上に抗体を強固な共有結合により固定する手法として新規材料である機能化ポリパラキシリレンを用いるものを開発し,本材料を用いたマイクロ流路製作法を確立した.製作した抗体固定流路内において,壁面上における抗体濃度の調整により抗体固定壁面上を流下する細胞の移動速度は最大約70%低下し,流路壁面材料や特異的結合作用のない抗体については減速効果が働かないことを明らかにした.最後に,壁面上の抗体に対しそれぞれ陽性,陰性の性質を持つ二種類の細胞を含む懸濁液を流路内に導入し,流下速度の差により試料がそれぞれの細胞種へと分離可能であることを実証した.また,本マイクロ細胞分離デバイスを用いて従来のより複雑な動作原理に基づく細胞分離デバイスと同等の性能を得られる可能性を示した.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,「抗原抗体間相互作用を用いたマイクロ細胞分離デバイスの開発」と題し,7章より成っている.

 様々な組織細胞へと分化する能力を有する幹細胞を体外培養の後に移植することで重度疾患を治療する再生医療が,高度な次世代医療技術として期待されている.最も優れた多分化能を有する胚性幹細胞の使用は倫理的な問題をはらんでいるため,成人の体内に存在する幹細胞の効率的な抽出の重要性が指摘されており,複数種類の細胞を含む懸濁液より単一細胞を抽出する高精度・高効率な細胞分離法の必要性が高まっている.幹細胞のような希少細胞の分離には,細胞種やその状態に応じ細胞膜上に発現する抗原と,これに対し特異的な結合を形成する抗体とを用いることが望ましい.しかし,蛍光細胞分離法や磁気細胞分離法など既存の手法を用いる場合には目的細胞の標識に必要な微粒子が分離後の細胞に及ぼす影響が懸念され,より幹細胞抽出に適した細胞分離法が望まれる.本論文では,細胞分離に標識粒子を必要とせず,また分離後の細胞回収が容易な手法として,マイクロ流路壁面に固定した抗体による特異的接着力により目的細胞と他の細胞との速度差を生成するものを提案している.また,生体適合性に優れた新規材料を用いた抗体固定表面形成法を開発し,マイクロマシン技術により製作した細胞分離デバイス内において二種類の細胞の分離を達成している.

 第一章は序論であり,まず体性幹細胞を用いた再生医療における幹細胞抽出法開発の重要性,生体液中において希少な細胞を分離する際に抗原抗体反応を利用することの有用性について述べている.次に既存の抗原抗体反応を用いた細胞分離法およびそれぞれの特徴を列挙し,幹細胞のような未分化細胞を少量の試料中より分離するために解決するべき問題点を挙げている.以上の議論を踏まえ,再生医療に用いる幹細胞分離のためには標識粒子の使用やデバイスでの細胞の捕捉を必要としない細胞分離法の必要性を論じている.

 第二章では,序論において述べた要求を満たす細胞分離法として,抗体固定壁面上を流下する細胞に働く特異的接着力による減速効果を用いるものを提案している.また,化学動力学モデルを用いて抗原抗体間の結合力を予測し,細胞が機能化壁面上で受ける結合力は細胞直径程度の寸法を有するマイクロ流路内流れの壁面せん断力と同程度のオーダーであることを示し,本手法の有効性を主張している.さらに,目的細胞の減速による細胞分離を実現するにあたり,細胞直径と同程度の流路高さを有する扁平な矩形流路から成る細胞分離デバイスを設計している.

 第三章では,目的細胞に対し特異的接着力を作用させる抗体固定表面の形成法について述べている.既存の材料と比較し簡便な操作により強固な抗体固定を実現可能な新規材料として,アミノメチル機能化ポリパラキシリレンを採用し,その優れた生体適合性や表面の反応性について述べている.次に本材料表面アミノ基に複数の生体分子を介し抗体を固定する手法および固定条件を考案し,水晶振動子微量天秤を用いて基板の重量変化を計測することで抗体の固定量について定量的な評価を行っている.以上により,特異的接着性を付与する表面材料としての機能化ポリパラキシリレンの有用性を示している.

 第四章では,前章において開発した抗体固定法との整合性を考慮したマイクロ流路構造の製作プロセスを構築している.特に,新規材料である機能化ポリパラキシリレンの熱圧着条件を見いだし,表面アミノ基を損なわず流路のシーリングを行うことに成功している.

 第五章では,抗原抗体間相互作用による細胞減速効果を,顕微鏡下での細胞流下速度計測により評価している.モデル細胞としてはヒト臍帯静脈血管内皮細胞(HUVEC)を用い,まず抗体を固定しない流路内における細胞流下速度はバルク平均流速と同等であることを示している.次にHUVECに対し特異的に結合するCD31抗体を固定した流路内においては,HUVEC流下速度が最大70%程度まで低下することを示し,減速効果の抗体濃度および試料流速に対する依存性について述べている.一方HUVECに対し特異的結合をしないCD86抗体の影響による細胞減速効果は十分小さいことから,抗体固定表面上での細胞減速が特異的作用であることを示している.また,以上の計測結果は特異的接着力および細胞膜の変形を考慮した二次元膜剥離モデルにより近似できることを示し,計測を行った範囲外の条件での細胞減速効果について推定を行っている.

 第六章では,前章の結果を踏まえ,HUVECおよびCD31抗体に対し結合をしないヒト白血病細胞(HL60)を混合した試料を用いた細胞分離実験について述べ,第二章において提案した細胞分離法の有用性を論じている.まず,それぞれの細胞種について,細胞分離デバイス最下流部を通過する細胞数の時間推移を評価し,二種類の細胞を含む懸濁液プラグが抗体固定流路内で各細胞腫のプラグへと分離したことを示している.

 第七章は結論であり,本論文で得られた成果をまとめている

 以上,本論文では,再生医療における幹細胞抽出のための細胞分離原理として,細胞分離に標識粒子を必要とせず,分離後の細胞回収が容易であるという点で有利な,抗原抗体間相互作用による細胞減速効果の利用を提案し,実際にマイクロデバイスを製作してその有効性を示している.

その際開発した機能化ポリパラキシリレン表面への抗体固定法は,簡便な操作により強固な生体分子固定を実現するものであり,細胞分離のほか生化学センサーや表面処理など,広い応用が可能である.モデル細胞系を用いた細胞分離実験では,良好な分離成績を示しており,再生医療の重要な技術課題である高精度・高効率な幹細胞抽出法の実現への寄与が認められる.従って,本論文は,マイクロスケールでの細胞ハンドリング技術について新たな知見を加えたもので,医療工学,そして熱流体工学をはじめ機械工学の学術の上で寄与するところが大きい.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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