学位論文要旨



No 122246
著者(漢字) 佐藤,義久
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヨシヒサ
標題(和) 炭化水素の低温酸化反応過程に関する素反応のラジカル分光計測
標題(洋)
報告番号 122246
報告番号 甲22246
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6451号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 丸山,茂夫
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 助教授 高木,周
 東京大学 助教授 三好,明
 富山大学 教授 手崎,衆
内容要旨 要旨を表示する

 炭化水素ラジカルの素反応機構を理解することは,燃焼反応や大気化学反応に共通して重要な課題である.本研究では特に,HCCI機関の制御やエンジンのノッキングの抑制に重要と考えられている低温酸化反応に注目し,レーザ分光により未解明の反応素過程に対して反応速度の測定・生成物の検出と定量を試みた.これらのレーザ分光による素反応追跡により,低温酸化反応解明に対してのアプローチを行った.

 反応素過程で注目した炭化水素ラジカル種は,ビノキシラジカル(CH2CHO)のメチル置換体である1-メチルビノキシラジカル(CH2C(O)CH3)と2-メチルビノキシラジカル(CH3CHCHO),シクロヘキシルラジカル(c-C6H(11))である.これらの反応に関して,ラジカル,もしくは生成物をレーザ分光計測により観測し,反応速度と生成物の検出・定量を行った.

 本論文では以下の3つのテーマに関して実験,及び計算結果を報告する.

○ 1-メチルビノキシラジカルと酸素分子の反応速度と,生成するOHラジカルの定量.

 CH2C(O)CH3は,塩素(Cl2)の光分解(355nm)で生成したCl原子とアセトン(CH3C(O)CH3)の反応により生成させ,O2との反応により減少するCH2C(O)CH3の反応速度定数測定と,生成するOHラジカルの収率を,レーザ誘起蛍光法を用いて測定した.CH2C(O)CH3+O2の反応速度定数は室温における圧力依存に関して二つの報告が対立している.測定した圧力範囲において、反応速度の圧力依存がないとしたHassouna[1]らに対してOguchi[2]らは同様の圧力領域において低圧で速度が減少する結果を報告した.本研究で測定した反応速度定数はOguchiらよりもfalloff圧力が低圧側へシフトしており、Hassounaらの計測した圧力範囲においては一致する傾向が得られた(Fig.1).本研究で更に低圧での測定を行った結果,30Torr以下では明確な圧力依存性を示すことが明らかとなった.また,室温において生成物に含まれると考えられるOHは観測されず,700Kにおいてもわずかに観測されたものの,CH2C(O)CH3+O2からの直接的な生成物であるとは確認出来なかった.700K,35TorrにおいてOH収率の上限値を求めたところφ<0.02を得た.室温,40TorrにおいてOHの収率が0.15のビノキシラジカル(CH2CHO)とは大きく異なり,CH2C(O)CH3+O2より生成するOHの収率は大きく減少する(Fig.2).これより,CH2CHOに対してホルミル基(CHO)のHをメチル(CH3)置換することによりOHの収率は大きく減少すると考えられる.

○ 2-メチルビノキシラジカルと酸素分子の反応により生成するOHラジカルの定量

 CH3CHCHOの生成には1-プロペニルメチルエーテル(CH3CHCHOC2H5)の光分解(193nm)を用い,O2との反応により生成したOHラジカルをLIF法により観測した.LIF強度の時間変化を測定し速度定数を求め,また,N2Oの光分解(193nm)により生成するO(1D)とH2の反応より生成するOHラジカルの蛍光強度を基準とし,CH3CHCHO+O2より生成するOHラジカルの定量を行なった.本実験は全て室温で行った.

 CH3CHCHO+O2より生成するOHラジカルの生成速度はOguchi[2]らによって求められた反応速度と一致し,OHラジカルが直接的な生成物であると確認された.10-100Torrの範囲でOH収率を測定したところ,収率は圧力に対して依存し,およそ0.08-0.02となった(Fig.2).OH収率の圧力依存に関して,CH2CHO+O2の場合と同様に,圧力の増加に伴い収率が減少し,再結合生成物への安定化と競合していると考えられる.OHの反応収率がCH2CHOに比べて半分以下に減少したことについては,CH3置換基の付加により分子内自由度が増加し,O2が付加して生成するCH3CH(O2)CHOの有するエネルギーがより多くの反応座標に分散されるため,OH生成へと進む反応座標にエネルギーが集中する確率が減少したと考えられる.

CH2CHO, CH2C(O)CH3, CH3CHCHOのビノキシ型ラジカルの反応を比較すると,メチル置換基の付加位置により,以下の影響が生じる.

・ CH3置換基が付加することにより,反応速度が増加し,OH収率が減少する.

・ -CHO基のHがCH3に置換されることでOHの収率は大きく減少する.

・ ビノキシ型ラジカルが酸化反応においてOH生成には,-CHO基を有していることが重要である.

○ シクロヘキシルラジカルと酸素分子の反応より生成するc-C6H(11)O2の熱分解速度定数の測定,とHO2, OHの収率の測定,及び低温酸化反応機構の検討

 c-C6H(11)は,Cl2の光分解(355nm)で生成したCl原子とシクロヘキサン(c-C6H(12))の反応により生成させた.分子総密度[M]=1.2×10(18) / molecule cm(-3)一定の条件において,[O2]>>[c-C6H(11)]とし,平衡濃度がc-C6H(11)O2に十分偏った条件において,c-C6H(11)O2をUV吸収法により観測し,熱分解速度定数を550,600,650,700Kで測定した.反応速度のアレニウスプロットより,以下のアレニウス式を得た.

また同実験条件において,OHとHO2を近赤外光周波数変調分光法により観測し,収率の測定を行った.OHは500-700Kにおいて本実験装置では検出されず,収率の上限値をφOH<0.03-0.05と求めた.HO2の収率を298-750Kの温度範囲で測定したところ,500K付近より増加し,700K付近において1.0に飽和する傾向が得られた(Fig.3).これは既に報告されているC2H5, C3H7, c-C5H9+O2より生成するHO2の収率と類似しているが,c-C6H(11)+O2は他の炭化水素ラジカルの反応と比べると,やや高温側にシフトする傾向が得られた.また,625Kにおいて,圧力を変化させHO2のプロファイルを観測したところ,反応開始直後に素早く立ち上がる成分と,その後緩やかに増加するHO2のプロファイルが観測された.これは,c-C6H(11)O2で一旦安定化せずにHO2を生成するPromptな成分が,観測した圧力範囲において圧力依存性を有しているためであると考えられる.また緩やかに生成するHO2は,安定化したc-C6H(11)O2の熱分解反応より生成したものであると考えられる.本実験において観測されたHO2のプロファイルを,測定したc-C6H(11)O2の熱分解速度,HO2の収率,既に報告されているHO2の自己消費反応速度[8],HO2+c-C6H(11)O2の反応速度[9]を用いて反応モデルを提案したが,HO2の立ち上がりと減衰プロファイルが一致しなかった(Fig.4).これらは,OHの連鎖反応,PromptなHO2の生成,他の熱分解反応の影響によるものと考えられる.

参考文献[1] M. Hassouna et al., J. Phys. Chem. A, 110, 6667, 2006[2] T. Oguchi et al., J. Phys. Chem.A, 105, 378, 2001[3] K. Imrik et al., Phys. Chem. Chem. Phys, 6, 3958, 2004[4] R. Cox et al., Chem. Phys. Lett, 173, 206, 1990[5] E. Clifford et al., J. Phys. Chem. A, 104, 11549, 2000[6] J. DeSain et al., J. Phys. Chem. A, 105, 3205, 2001[7] J. DeSain et al., J. Phys. Chem. A, 105, 6646, 2001[8] H. Hippler et al., J. Chem. Phys., 93, 1755, 1990[9] D. Rowley et al., J. Phys. Chem., 96, 4889, 1992[10] H. Curran, et al., Int. J. Chem. Kinet, 32, 741, 2000.

Fig.1 CH2C(O)CH3+O2の反応速度定数の圧力依存

Fig.2 CH2CHO, CH2C(O)CH3, CH3CHCHO+O2より生成するOHの収率

Fig.3 HO2収率の温度依存性

Fig.4 反応モデルにより再現されたHO2プロファイル

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「炭化水素の低温酸化反応過程に関する素反応のラジカル分光計測」と題し,HCCI機関の制御やガソリンエンジンのノッキングの抑制に重要と考えられている低温酸化反応に注目し,主にレーザ分光を用いて未解明,且つ,重要であると考えられる炭化水素ラジカルの反応素過程に対して反応速度の測定・生成物の検出と定量を試みたものである.この論文で注目した炭化水素ラジカル種は,ビノキシラジカル(CH2CHO)のメチル置換体である1-メチルビノキシラジカル(CH2C(O)CH3)と2-メチルビノキシラジカル(CH3CHCHO),環状炭化水素ラジカルの中で最も基本的な構造を持つシクロヘキシルラジカル(c-C6H11)である.ビノキシ型ラジカルに関しては不飽和結合を持つ炭化水素の酸化反応において生成するラジカル種であり,炭化水素一般の酸化反応において重要なラジカル連鎖担体であるHOが低圧,室温において生成する特徴を持つ.さらにそのメチル置換基の付加位置によりOH生成がどのような影響を受けるかに興味がもたれる.また,シクロヘキシルラジカルは最も単純な安定6員環構造を持つ環状炭化水素であるにも関わらず,素反応研究の解明が遅れている.本研究はこのような環状炭化水素の低温酸化反応機構に関して,新たな知見を与えたものである.

 「序論」として,鎖状アルカンの反応機構を基に理解されてきた炭化水素燃焼の化学反応論を示し,多種の炭化水素を含むガソリンやディーゼル燃料に対して,オレフィンや環状炭化水素の反応機構解明の必要性を示した.また,現在報告されている代表的な炭化水素の詳細反応機構を示し,反応機構の精度向上のためには未解明,且つ,ラジカル連鎖反応に重要な炭化水素ラジカルの酸化反応に関して,素反応論的な解明を行う必要があることを述べている.

 「メチルビノキシと酸素の反応」において,ビノキシ(CH2CHO)と,そのメチル置換体である1-メチルビノキシラジカル(CH2C(O)CH3),2-メチルビノキシラジカル(CH3CHCHO)の既往の研究報告を示し,二つのメチルビノキシラジカルに関して主要な生成物であると考えられるOHの定量を報告した事例が無いことを示した.この研究により,室温においてレーザ誘起蛍光法を用いて測定された1-メチルビノキシ,2-メチルビノキシと酸素分子の反応より得られる生成物であるOHの収率を定量した.その結果,1-メチルビノキシと酸素分子の反応ではOHの収率はビノキシと酸素分子の反応の半分程度となり,1-メチルビノキシでは298-700Kまで温度を上昇させてもOHの生成は観測されなかった.よって,ビノキシ型のラジカルにおいては,CH3基が付加することによってOHの収率は減少し,更に,CHO基のH原子がCH3に置換されることによりOH生成は更に不利な経路となると考えられる.また,ビノキシ,1-メチルビノキシ,2-メチルビノキシとO2の反応における量子化学計算の報告を用いて,メチル置換基の付加位置により変化するOH収率の減少を,分子動力学的な背景より考察した.

 「シクロヘキシルラジカルと酸素分子の反応」は,低温酸化反応の温度領域における素反応研究の報告が非常に少ないシクロヘキシルラジカルに対して,重要な中間生成物であるOH,HO2を近赤外周波数変調分光法を用いて反応速度と収率を測定し,その低温酸化反応機構に関して検討を行った.c-C6H11+O2において,500-700Kの温度範囲でOHの生成は検出されず,OHの収率の上限値を0.03-0.05と求めた.これよりOHの生成は主要な経路ではないと考えられる.また,HO2に関しては500K付近より生成が観測され,温度の上昇と共に収率が増加し,700K付近において1.0に飽和する傾向が得られた.また,625Kにおいて圧力を変化させHO2を観測したところ,圧力の減少に伴いc-C6H11+O2より生成すると考えられるPromptなHO2の収率が増加する傾向が得られた.これら傾向は既に報告されているC2H5,C3H7,c-C5H9とO2の反応と一致しており,これらのラジカルとc-C6H11は類似した低温酸化反応機構を有していると考えられる.最後に実験結果と既知の反応速度定数を用いてHO2のプロファイルを再現する反応機構を構築し,実験的に観測されたHO2のプロファイルと比較し,c-C6H11+O2の低温酸化反応機構に関して検討を行った.

 以上,要するに低温燃焼機構を構成する炭化水素ラジカルの酸化反応の中でも,重要且つ未解明のビノキシ型ラジカルとシクロヘキシルラジカルに対して分光計測を行い,反応速度と生成物の定量を行い,その結果と理論計算とを比較して系統的な考察を行った.本論文は燃焼シミュレーションの根幹を築いている炭化水素ラジカルと酸素分子の素反応に関して,分光計測を用いて新たな知見を与えており,燃焼化学の理解と,燃焼シミュレーションの発展に寄与するものである.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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