学位論文要旨



No 122249
著者(漢字) 杉井,泰介
著者(英字)
著者(カナ) スギイ,タイスケ
標題(和) 脂質二分子膜のマルチスケール解析
標題(洋)
報告番号 122249
報告番号 甲22249
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6454号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 教授 姫野,龍太郎
 東京大学 教授 加藤,千幸
 東京大学 教授 丸山,茂夫
 東京大学 助教授 高木,周
内容要旨 要旨を表示する

 脂質や界面活性剤などの両親媒性分子は,水中で自己会合しミセルや二分子膜を形成する.特に生体中においては,脂質二分子膜は細胞膜の基本構造を形成し,様々な生命活動を支えている.また,脂質二分子膜から成る小胞体(リポソーム)はドラッグデリバリーシステム(Drug Delivery System, DDS)用カプセルや人工酸素運搬体,造影剤等に応用されており,研究,開発が盛んに行われている.近年,それらの効率化や高機能化を目指す上で分子スケールからの設計が重要となってきており,分子動力学(Molecular Dynamics, MD)法が強力な解析手段の一つとして用いられている.しかしながら,膜の融合や付着が伴う系,膜面の熱揺らぎの影響を受けるような系などにおいては,分子スケールの現象がマクロスケールの現象に大きな影響を与えるにもかかわらず,全系でMD法を用いると計算量が膨大になるという問題がある.そのため,粗視化された分子モデルを用いる粗視化分子動力学(Coarse-Grained Molecular Dynamics, CGMD)法や散逸粒子動力学(Dissipative Particle Dynamics, DPD)法など,比較的大きなスケールを解析できる数値計算手法を用いた研究が行われている.しかしながら,それら粗視化手法を用いても,例えば直径数十nmから数百nmのDDS用カプセルのように比較的小さなベシクルの計算でさえ,計算量の問題から容易ではない.また,脂質二分子膜/水系の計算に関しては,多くの場合,興味の対象は脂質二分子膜およびその周辺に限られるにも関わらず,計算時間のほとんどが溶媒分子の計算に費やされてしまうという欠点がある.そのため,溶媒を陰的に扱うブラウン動力学(Brownian Dynamics, BD)法などを用いて解析がなされているが,流れ場の影響や流体力学的相互作用の影響を取り入れることは基本的に容易ではない.

 そこで,本研究では,近年提案されているMD計算と連続体計算のハイブリッド計算手法を脂質二分子膜/水系に適用し,膜近傍は脂質分子および溶媒分子を陽的に扱いつつも,遠方場は連続体として扱うことにより,上記のような大きなスケールでの現象を解析することを目的とする.その際,分子動力学領域では,CGMD法を用いることで計算量を削減する.また,ハイブリッド法によって得られた結果を,全領域でCGMD法を用いた場合の計算結果と比較し,ハイブリッド法の妥当性を検証する.その上,流動場中の脂質二分子膜や膜小胞体における分子のダイナミクスや変形などに関して議論する.

 まず,CGMD法によって脂質二分子膜の計算を行い,得られた結果を原子スケールのMD計算の結果[1]と比較することにより,用いた粗視化分子モデル[2]の検証を行った.MD法においてはDPPC脂質を用いた.その結果,脂質分子の膜面方向の自己拡散係数,膜面垂直方向の電子数密度分布,脂質1分子あたりの膜面積などに関して,MD法とCGMD法の結果でよい一致を示した.また,これらの結果は,実験から得られる結果ともよい一致を示した.さらに,CGMD法によって最大4096個の脂質分子を用いて二分子膜を形成し,膜面の熱揺らぎのスペクトル解析を行うことによって曲げ剛性係数の計算を行った.その結果,実験や分子シミュレーションによって報告されている値とよく一致した値が得られた.その際,膜面位置を決定するために,局所的,瞬時的な界面定義[3]を導入し,脂質/水界面を定義した.また,計算系の大きさや,捉える界面のスケールが揺らぎのスペクトル強度に与える影響に関して議論した.さらに,揺らぎの波数が小さい極限において,計算された二分子膜の挙動が膜のエネルギー式から予想される挙動[4]に一致することが確認された.これらの結果により,本研究で用いる粗視化分子モデルが,MD法による計算や実験をある程度再現できるモデルであることが確認された.

 次に,分子動力学-連続体ハイブリッド法を脂質二分子膜/水系に適用し,流れ場中における脂質二分子膜の変形解析を行った.ハイブリッド法における分子計算の領域では,検証した粗視化分子モデルによるCGMD法を用いることで,計算量を削減した.また,遠方場は連続体として扱った.CGMD計算と連続体計算の境界条件の受け渡しに関しては,Schwarz交換法を用いた.Schwarz交換法においては,MD領域と連続体領域の中間位置に,双方の手法で計算するオーバーラップ領域を設ける.そして,オーバーラップ領域内におけるMD計算および連続体計算からそれぞれ連続体計算,MD計算の境界条件を求め,計算を交互に繰り返し行ってゆくことで最終的に定常解を求める.また,その際,境界付近における粒子の取り扱いに関しては,Werderらの方法[5]を用いた.流れ場としては,連続体数値解析や理論解析でよく用いられている単純せん断流を用いた.また,ハイブリッド法を用いた場合と同じ計算条件を用いて,連続体の解法を用いず全領域でCGMD法を用いた計算(以下,full MD計算と呼ぶ)も行い,ハイブリッド計算との比較を行った.Full MD計算においては,Lees-Edwards周期境界条件を用いてせん断流を発生させた.

 まず,平坦な二分子膜が含まれる系を用いて計算を行った.直方体の計算セルに,セルの上下面に平行になるように平坦な二分子膜を配置した.計算セルの上端面と下端面に互いに逆方向の速度を与えることで,膜面に垂直な方向にせん断を発生させた.ハイブリッド計算においては,計算セルの上側と下側に連続体領域を設けた.連続体領域では2次元計算を行った.まず,ハイブリッド計算とfull MD計算のいずれにおいても,脂質二分子膜の中央平面において,速度のスリップが観測された.また,ハイブリッド計算においては,連続体計算とMD計算の数回の繰り返しで定常な解が得られた.また,膜面垂直方向の電子数密度分布の解析を行ったところ,ハイブリッド計算のMD領域の境界付近で水粒子の構造化が観測されるものの,その影響はオーバーラップ領域内に留まっており,脂質分子の分布に関してはハイブリッド計算とfull MD計算でよい一致を示した.さらに,ハイブリッド計算とfull MD計算の速度の誤差を評価したところ,2%程度に抑えられることが分かった.また,脂質分子の配向に関する解析も行い,ハイブリッド計算とfull MD計算で同様の結果が得られることを示した.

 次に,脂質二分子膜ベシクルを含む系を用いて計算を行った.まず,円筒状の脂質ベシクルを作成し,計算領域の中央に配置した.ハイブリッド計算においては,ベシクルから十分離れた溶媒領域は連続体として扱った.ベシクルの円筒軸方向の長さが短い計算セルを用いることで,円筒軸方向には一様であると仮定し,連続体計算は2次元で行った.まず,ハイブリッド計算とfull MD計算のいずれにおいても,せん断流中で変形したベシクルが傾き角を一定に保った状態で形状が変化せず,膜のみが回転するtank-treading運動が観測された.また,ハイブリッド計算とfull MD計算の速度の誤差は4%程度に抑えることができた.さらに,脂質/水界面を定義することで,膜面の挙動やベシクル形状の解析を行った.ベシクルの傾き角,膨潤率,変形度などを計算し,ハイブリッド計算とfull MD計算でよく一致することを示した.

 以上,MD-連続体ハイブリッド計算法を脂質二分子膜/水系に適用し,流動場中における分子のダイナミクスや膜の変形などに関して議論した.具体的には,まず,粗視化された分子を用いて脂質二分子膜のCGMD計算を行い,その結果をMD法による計算結果や実験結果と比較することにより,粗視化分子モデルの妥当性を検証した.次に,検証した粗視化分子モデルを用いて平面二分子膜やベシクルを作成し,分子動力学計算と連続体計算のハイブリッド手法を適用することにより,せん断流中の平面膜やベシクルの挙動の解析を行った.その際,全領域でCGMD法を用いた計算(full MD計算)と比較することにより,ハイブリッド計算の検証を行った.その結果,系内の速度場,脂質分子の配向,ベシクルの傾き角や形状などに関して,ハイブリッド計算とfull MD計算でよく一致した結果が得られ,脂質二分子膜/水系におけるハイブリッド計算の有効性が示された.

参考文献[1] T. Sugii, S. Takagi, and Y. Matsumoto, J. Chem. Phys. 123, 184714 (2005).[2] S. J. Marrink, A. H. deVries, and A. E. Mark, J. Phys. Chem. B 108, 750 (2004).[3] G. Kikugawa, S. Takagi, and Y. Matsumoto, Comput. Fluids 36, 69 (2007).[4] S. A. Safran, Statistical Thermodynamics of Surfaces, Interfaces, and Membranes, (Addison-Wesley, Reading, MA, 1994).[5] T. Werder, J. H. Walther, and P. Koumoutsakos, J. Comput. Phys. 205, 373 (2005).
審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「脂質二分子膜のマルチスケール解析」と題し,全5章によって構成される.

 脂質などの両親媒性分子は,水中で自己会合しミセルや二分子膜を形成する.特に生体中においては,脂質二分子膜は細胞膜の基本構造を形成し,様々な生命活動を支えている.また,脂質二分子膜から成る小胞体(リポソーム)はドラッグデリバリーシステム(Drug Delivery System,DDS)用カプセルや人工酸素運搬体,造影剤等に応用されており,研究,開発が盛んに行われている.それらの効率化や高機能化を目指す上では分子スケールからの解析が重要であり,分子動力学(Molecular Dynamics,MD)法や,粗視化された分子モデルを用いる粗視化分子動力学(Coarse-Grained Molecular Dynamics,CGMD)法などを用いた数値計算が行われている.しかしながら,DDS用カプセルのように比較的小さなベシクル(球殻状の閉じた膜構造を有する小胞)に対してでさえ,計算量が膨大になるため,全分子を陽に扱った計算は容易ではない.また,脂質二分子膜/水系の計算に関しては,多くの場合,脂質二分子膜およびその周辺に興味の対象が限られるにも関わらず,計算時間のほとんどが溶媒分子の計算に費やされてしまうという欠点がある.

 そのため,本研究では,近年提案されている,MD計算と連続体計算のハイブリッド計算法を脂質二分子膜/水系に適用することで,膜近傍は分子を陽的に扱いつつも,遠方場は連続体として扱うことにより,より大きなスケールを解析できる計算手法を確立することを目的としている.また,その際,分子動力学領域では,粗視化された分子を扱うCGMD法を用いることで計算量を削減する.そこで,まず,用いる粗視化分子モデルに関して,原子スケールのMD計算や実験と比較することにより,その妥当性を検証する.その後,検証した粗視化分子モデルを用い,MD-連続体ハイブリッド法(以後,ハイブリッド法と表す)による計算を行う.ハイブリッド計算の検証に関しては,連続体計算を用いず全領域でCGMD法を用いた計算と比較することによって行う.

 第1章は「序論」であり,研究の背景,過去の研究例,およびそれらを踏まえた上での本論文の研究目的について述べている.

 第2章は「計算手法」であり,本研究で用いた数値解析手法であるMD法,CGMD法,ハイブリッド法の概要およびその背景にある基礎理論について述べている.

 第3章は「分子動力学法および粗視化分子動力学法による脂質二分子膜の解析」であり,MD法およびCGMD法によって脂質二分子膜の計算を行っている.CGMD法によって得られた結果を,MD法の結果やこれまで報告されている文献と比較することにより,用いた粗視化分子モデルの検証を行っている.その際,脂質分子の膜面方向の自己拡散係数,膜面垂直方向の電子数密度分布,膜の面膨張係数,曲げ剛性係数などに関して検証を行っている.その結果,本研究で用いる粗視化分子モデルが,MD法による計算や実験をある程度再現できるモデルであることを確認している.

 第4章は「分子動力学-連続体ハイブリッド法による脂質二分子膜の解析」であり,ハイブリッド法を用いて,流れ場中における脂質二分子膜の解析を行っている.その際,分子計算の領域では,第3章で検証した粗視化分子モデルを用いることで,計算量を削減している.計算系としては,平坦な脂質二分子膜が含まれる系および,円筒状の脂質二分子膜ベシクルが含まれる系を用いて計算を行っている.流れ場は,連続体数値解析や理論解析でよく用いられている単純せん断流を用いている.また,連続体計算を用いず全領域でCGMD法を用いた計算(full MD計算)も行い,ハイブリッド計算の検証を行っている.その結果,ハイブリッド計算によって,系内の速度場,脂質分子の配向,ベシクルの傾き角や形状などに関して,full MD計算とよく一致した結果が得られることが分かった.

 第5章は「結論」であり,上述した内容を総括している.

 本研究は,まず,分子シミュレーションを用いて,せん断流中の脂質二分子膜ベシクルの挙動の解析を行ったことに独自性がある.また,MD-連続体ハイブリッド計算法を脂質二分子膜/水系に適用し,ハイブリッド法の有効性を示したという点において独創的であり,非常に優れた論文である.さらに,分子スケールのシミュレーションと連続体スケールのシミュレーションを結び付けようとする本手法は,多様な計算系に広く適用できると考えられ,本研究で得られた知見は幅広く計算工学に寄与すると考えられる.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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