学位論文要旨



No 122252
著者(漢字) 寺尾,京平
著者(英字)
著者(カナ) テラオ,キョウヘイ
標題(和) マイクロ加工技術を用いた染色体DNAの液中分子操作
標題(洋)
報告番号 122252
報告番号 甲22252
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6457号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲津,正夫
 東京大学 教授 石原,直
 東京大学 教授 牛田,多加志
 東京大学 教授 藤井,輝夫
 東京大学 講師 小穴,英廣
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の背景

 本論文は、染色体DNAと呼ばれる、染色体を構成する巨大なDNA分子を顕微鏡下・溶液中で操作する技術に関するものである。この技術開発の目的は、1分子を対象にした新たなDNA解析ツールの実現にある。

 近年、医学分野では遺伝子疾患の診断ツール、基礎科学分野では生体分子間相互作用解明のための実験ツールとしてDNA分子操作に関する報告がされてきた。DNA操作技術の医学・生物学での利用が試みられる一方で、半導体微細加工技術を利用したマイクロマシニング技術の進歩により、微小な物体を操作・解析するための技術が開発されてきた。本論文では、近年開発が進められてきたマイクロ加工・操作技術を利用することで、遺伝子診断と生物学に対して新たなDNA操作技術の提案を行なう。

2.遺伝子診断におけるDNA分子操作

 DNAは直鎖状分子であり、その長さは真核生物の場合、mm-cmオーダーに達する。DNAは、細胞核内で数μmにまで折りたたまれ染色体として存在している。つまり染色体はDNA鎖が高度に折りたたまれた「糸鞠」状構造体である。

 遺伝情報が詰め込まれた染色体は、遺伝子に起因する疾患の情報が含まれている。このため、染色体を検査することは医療において有用な知見をもたらすと考えられる。実際に、染色体中の特定塩基配列に蛍光プローブを結合させるFISH(Fluorescence In-Situ Hybridization)法により遺伝子疾患を検出する診断が行われている。しかし、染色体はDNA鎖の糸鞠であるために、染色体を対象にしたFISHは空間分解能が低い(300μm程度)。それに対して、糸鞠の染色体DNAをファイバー状に展開すれば、サブミクロン長の高い空間分解能が得られる。これにより遺伝子異常(転座や欠失)を検出することが可能となる。

 1994年にDNA展開技術Molecular Combing法が開発され、上記のDNA展開の重要性が認識されるようになった。しかし、Molecular Combing法に代表される従来の染色体DNA展開操作は、展開DNAファイバー位置が制御不能、DNAが断片化する、プローブの結合効率が低いという欠点があり、遺伝診断ツールとしてのDNA展開操作が普及するには至っていない。本論文では、上記の問題点を解決するため、マイクロ加工技術と電気浸透流を組み合わせた新たなDNA展開手法を開発した。

3.染色体DNAファイバー化展開

 電気浸透流(Electro Osmotic Flow,以下EOFとする)とは,外部から印加された電界により発生する溶液流のことである。EOFとマイクロ構造体を組み合わせた染色体DNA展開デバイスを図1に示す。

 ガラス基板上にマイクロポケット・マイクロピラーと呼ぶ微小構造体がフォトリソグラフィーによりパターニングされている。マイクロ構造の周囲には4枚の電極を配置してある。本デバイスは1)細胞配置、2)DNA展開、3)DNA液中保持の3つの機能を1つのチップ上に集積したものである。

DNA展開の手順を図2に示す。

1) デバイスに細胞懸濁液を滴下し、電圧を印加しEOFを発生させる(図中右方向)。これにより細胞がマイクロポケットに入り込み、トラップされる。

2) トラップされた細胞を破壊し、内部の染色体DNAを露出させる。EOFを図中左に向かって発生させ、流体力により染色体DNAをファイバー状に展開する。

3) EOFを図中上向きに発生させ、DNAをマイクロピラーに接触させる。マイクロピラー表面には予め表面修飾により正に帯電させ、DNA(負に帯電)を静電的に吸着させる。これにより、展開DNAファイバーがマイクロピラー間で溶液中に浮かんで保持される。

本デバイスは従来法の問題点を以下のように解決することが期待される。

1) 細胞1個レベルで基板上に配置することにより、展開DNAファイバーの位置を制御可能。

2) EOFを用いることでDNAにかかる力を調節することができ、断片化が防止される。

3) DNAファイバーは溶液中に浮かんだ状態である。したがって、解析プローブのアクセスが確保される。これにより、プローブの結合効率の向上が期待される。

 最初に細胞配置の結果を図3に示す。マイクロポケットにそれぞれ1個ずつ細胞がトラップされ、細胞1個レベルでの配置に成功した。

 細胞からの染色体DNA展開の結果を図4に示す。展開された染色体DNAの長さは0.8mmに達し、これは従来法の上限値の3倍以上の長さである。EOFを用いることでDNAの断片化が防止されたことが要因と考えられる。

 染色体DNAの液中保持の結果を図5に示す。染色体DNAを展開後、マイクロピラーに接触させたところ、展開DNAがマイクロピラーに吸着し、マイクロピラー間で保持された。

 以上の結果から、細胞配置・DNA展開・DNA液中保持が可能なことが確認された。本研究では、実際に展開された染色体DNAへFISHを行うことで、遺伝子位置を可視化できることを確認している。前述のDNA展開法とFISHを組み合わせることで、遺伝子位置の高分解能観察が可能となり、遺伝子診断への応用に繋がることが期待される。

5.1分子生物学における染色体DNA分子操作

 DNA1分子操作技術は生物学分野でも研究が進められてきた。現在まで、DNA1分子を溶液中で自由に操作することで、DNAの物性評価やタンパク質との相互作用の解析が行なわれてきた。しかし、対象となるDNAは数10μm長程度までの短いものに限られる。短いDNAはDNAの物性や局所的に起きる現象を解析することには適しているが、染色体スケールで起きる現象を解析することは不可能である。染色体DNAのような非常に長いDNAは断片化しやすいために1分子で操作する技術は未だ確立されていない。

 染色体DNA1分子を溶液中で自由に操作することができれば、染色体スケールで起きるDNA高次構造変化などの現象を解析することが可能になると期待される。このことはエピジェネティクスに重要な知見をもたらすであろう。そこで、本研究では染色体DNA1分子を溶液中で操作するためのツールを開発した。

6.光駆動微小構造体を用いたDNA1分子操作

 染色体DNA1分子を操作するため、釣針状微小構造体(マイクロフック)をファトリソグラフィーにより作製した(図6)。

 染色体DNAを展開した後、マイクロフックの集団を溶液に分散し、集光したレーザーを導入する(図6参照)。そのとき、マイクロフックは光ピンセットの原理によりレーザー焦点位置に1個だけ捕捉される。光ピンセットの特徴として、マイクロフックのような縦長の構造の場合、長手方向がレーザー光軸方向と一致する。したがって、マイクロフックは基板に対して垂直に立ち上がった状態で捕捉される。レーザー焦点位置を動かすことでマイクロフックを移動し、展開された染色体DNAに接触させる。DNAはマイクロフックの開口部から入り込み鉤型構造によりマイクロフックに把持される。レーザー焦点位置を移動することによってマイクロフックを介して染色体DNAをその場で操作することが可能となる。

 マイクロフックは染色体DNAの一部分を操作することには適しているが、長大な染色体DNA1分子を丸ごと液中で操作することは困難である。そこで、展開された染色体DNAを糸巻き状の微小構造体(マイクロボビン)で巻取り、コンパクトにして操作するという手法を考案した(図7参照)。

 二本のレーザー光を導入し、光ピンセットによりそれぞれの焦点位置にマイクロボビンを1個ずつトラップし。一方のレーザーを回転させる。これにより、染色体DNAはマイクロボビン間に巻き取られる。マイクロボビンごと移動することにより、染色体DNAの「丸ごと」操作が可能となる。マイクロボビンから染色体DNAを外すときは、巻き取り時とは逆方向にマイクロボビンを回転させることでマイクロボビンからリリースする。

 マイクロフックによる染色体DNA操作の結果を図8に示す。大量のマイクロフックの中から1個をレーザートラップした。続いて、図中下方向にマイクロフックを移動することで展開DNAに接触させた。その後、マイクロフックを、DNAから離す方向に移動したところ(図中上向き)、DNAはマイクロフックから離れることなく、マイクロフックに引きずられるように操作された。

 マイクロボビンによる染色体DNAの巻取りの結果を図9に示す。2つのレーザー焦点位置にそれぞれ1個ずつマイクロボビンをトラップし、写真中右上のマイクロボビンを時計回りに回転させた。マイクロボビンの回転と共にDNAが巻き取られ、最終的に完全にDNAが巻き取られた。

 ここで述べた染色体DNAの部分・全体操作を組み合わせることにより、染色体DNA1分子の自在な操作が実現されると考えられる。

7.結論

 本論文はマイクロ加工・操作技術を用いた染色体DNAの液中操作手法を提案した。1つは遺伝子診断の実現を目的として、電気浸透流とマイクロ構造体を組み合わせ、染色体DNAを液中でファイバー状に展開するというものである。もう1つは、生物学への応用を目的として、光ピンセットで駆動された微小構造体を用いて、染色体DNA1分子を液中で自在に操作するというものである。ここで開発された種々の技術は、従来法にはなかった技術的価値を持つ。本技術を用いることで、簡便・迅速な遺伝子診断技術の開発、及び染色体DNA1分子レベルでの機能解明への道が開けるものと期待される。

図1.染色体DNA展開デバイス模式図

図2.DNA展開手順、

a)細胞配置

b)染色体DNA展開

c)展開DNA液中保持

図3.細胞配置結果 a)位相差観察像, b)DNA蛍光観察像

図4.展開染色体DNA蛍光観察像

図5.染色体DNAファイバー液中保持結果(左:蛍光観察像,右:模式図),a)染色体DNAの展開,b)染色体DNAとマイクロピラーの接触,c)DNA吸着の確認

図6.マイクロフックによるDNA操作,a)マイクロフックのトラップb)マイクロフックによる展開DNAの捕捉・操作

図7.マイクロボビンによるDNA巻取り,a)マイクロボビンのトラップと巻取り,b)マイクロボビン間で巻き取られた染色体DNA。

図8.マイクロフックによるDNA操作、赤丸はレーザートラップされたマイクロフックの位置を示している。a)展開DNAと光ピンセットでトラップされたマイクロフックの初期位置,b)マイクロフックの展開DNAへの接触,c)展開DNAの捕捉

図9.マイクロボビンによるDNAの巻取りa)展開DNAの巻取り開始時,b)巻取り完了時、白矢印はマイクロボビン間に巻き取られたDNA

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は,遺伝子診断及び生物学への貢献を目指し,基盤技術となる染色体DNAの1分子操作技術の開発を行っている.

 第1章では,染色体DNA分子操作技術の背景,DNAと染色体の構造・機能について述べており,染色体DNA操作技術が遺伝子診断と生物学においてどのような役割を担い得るかについて議論している.

 第2章では,遺伝子診断への応用を目的とした染色体DNAの展開法について報告している.電気浸透溶液槽の開発,染色体DNAの単離と電気浸透流による染色体DNAの展開について述べ,従来のDNA展開法に対する優位点と残された課題について議論している.第2章における研究成果は以下に要約される.

 1) 再現性・操作性の高い電気浸透溶液槽を開発し,基板表面で一様な溶液流を,速さ・向きが制御された形で発生させることに成功した.

 2) 基板上で連続的に,細胞の破壊と染色体DNAの弛緩を行った.

 3) 電気浸透流により,弛緩した染色体DNAを展開し,従来法と比較して3倍以上長いDNAが展開できることを示した.

 しかしながら,以上の結果と共に以下の課題が明らかになった.a) 展開染色体DNAがバンドル化したまま伸長される,2) 細胞位置がランダムである,3) 染色体DNAが展開状態で液中保持できない.バンドル化に関しては電気浸透流の向きを変え,染色体DNAファイバーを長さの違いによって分離する手法が解決策となりうることを示した.

 第2章で明らかになった染色体DNA展開の課題を受け,それらを解決するためのデバイスを開発し,第3章で報告している.このデバイスは細胞配置・染色体DNA展開・展開DNA液中保持の3つの機能が1つのチップ上に集積されている.報告されている成果を以下に示す.

 細胞配置にはマイクロポケットと呼ぶ微細構造を用い,電気浸透流と組み合わせ,細胞を1個レベルで基板上に配置することに成功した.展開DNA液中保持には,マイクロピラーと呼ぶ微小柱をアレイ状にパターニングしたものを用いた.マイクロピラーには正電荷を付与しておき,展開染色体DNAを静電相互作用により吸着固定することで染色体DNAを展開状態で保持することに成功した.

 さらに著者は,上記デバイスを応用することで,染色体DNAを完全に1本のファイバー状に展開する手法を提案している.これにより,従来法では不可能だったmmオーダーの染色体DNAの液中完全展開が実現されている.

 第4章では,第3章で開発したデバイスを用いて,遺伝子診断に用いられる解析手法,ファイバーFISHに実際に利用可能であるか確認を行なっている.

 FISH解析を行なう際,バックグラウンド蛍光を低減させる必要がある.そこで,まず,自家蛍光が低いことで知られている素材を用いたマイクロピラー作製プロセスを考案しFISH観察条件の改善を実現している.

 続いて実際に特定の遺伝子をターゲットとしたファイバーFISHを行っている.ターゲット遺伝子が存在すると期待されるDNAの末端領域でシグナルが確認され、本技術がファイバーFISHに利用可能なことが実証された。このことから遺伝子診断への応用が期待される.

 第2章から第4章までは遺伝子診断への応用を目的とした染色体DNA分子集団の展開法について述べている.第5章では染色体DNA1分子に着目し,1分子を物理的に操作するツールを報告している.これは,基礎科学への貢献として,1分子レベルでの染色体DNAの構造・機能の解析に利用することを目的としている.現在までDNA 1分子操作は数10μmの短いDNAに限られてきた.本論文では,光ピンセットを用いた新たなDNA操作手法を考案し,mmオーダーの長大な染色体DNAを1分子で操作可能なことを示している.成果は以下に要約される.

 立体形状により染色体DNAを物理的に捕捉するという手法を考案し,微小な釣針状構造体(マイクロフック)を微細加工技術の応用により開発した.このマイクロフックを光ピンセットで操作することにより,染色体DNAを捕捉し,マイクロフックを介して染色体DNAを部分的に操作することに成功した.さらに,長大な染色体DNA1分子を丸ごと溶液中で操作するため,微小な糸巻構造体(マイクロボビン)を開発し,染色体DNAを溶液中で巻き取ることによりコンパクトにし,染色体DNA1分子の丸ごと操作を可能にした.マイクロボビンからの染色体DNAのリリースはマイクロボビンを巻取り時とは逆方向に回転させることで可能なことを示した.

 マイクロフックによる染色体DNA1分子の部分的な操作とマイクロボビンによる1分子丸ごとの操作を組み合わせることにより,従来技術では操作できなかった染色体DNA1分子を液中で自在に操作することが可能になると考えられる.

 以上を要するに,本論文はマイクロ加工・操作技術を用いることで従来は困難であった染色体DNAの液中操作手法を提案している.第一は遺伝子診断の実現を目的として、電気浸透流とマイクロ構造体を組み合わせ,染色体DNA分子集団を液中でファイバー状に展開するというものである.実際にこの操作技術が遺伝子診断技術へ利用可能なことが示されている。第二は、基礎科学への貢献を目的として、光ピンセットで駆動された微小構造体を用いて、染色体DNA1分子を液中で自在に操作するというものである。ここで著者が開発した種々の技術は、従来法にはみられない技術的価値を持ち、それぞれの分野における基盤技術と成り得るものと考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク