学位論文要旨



No 122263
著者(漢字) 鬼頭,朋見
著者(英字)
著者(カナ) キトウ,トモミ
標題(和) 限定合理性を導入したマルチエージェントシステムに関する研究
標題(洋)
報告番号 122263
報告番号 甲22263
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6468号
研究科 工学系研究科
専攻 精密機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上田,完次
 東京大学 教授 新井,民夫
 東京大学 教授 毛利,尚武
 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 助教授 武市,祥司
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では,マルチエージェントシステムが不完全情報下において適応的な解を創出するためのアプローチとして,エージェントに限定合理性を導入する手法を提案し,その有効性を検証する.

 近年,組織や社会のみならず人間が設計し操作対象とする人工システムにおいてさえも,それを取り巻く環境は大規模・複雑化し,その構造自体も複雑多様化している.そのような状況下で何らかの目的を実現するシステムを設計するためには,ボトムアップ的なマルチエージェントアプローチが有効となるが,とくに実世界においては,エージェントが多様な意思決定主体であり得る.これに対し,目的を実現するマルチエージェントシステムの設計を,多様な意思決定エージェントの局所的相互作用からシステム全体としての意思決定解を創出するという共創的意思決定の概念で捉えることで,より柔軟で適応的なシステム設計が期待できる.しかしその半面で生じる困難さとして,エージェント個々の目的の総和が必ずしもシステム全体の目的と一致しないという問題がある.そのためエージェント間で競合が生じ,システム全体としての性能は低下してしまうことになる.

 本研究ではこのジレンマ的状況を,従来のように個々に対して全体に関する情報やトップダウン的なルールを与えずして解消するアプローチとして,エージェントに限定合理性を導入することを提案する.経済学や認知心理学で議論されてきた限定合理性を人工エージェントのモデルに対応づけて論じることで,設計における限定合理性の捉え方を明らかにする.またそれを踏まえ,従来の工学がおこなってきた制約条件下での最適化ではなく,合理的であろうとする動機に不完全性を付与することで限定合理性をモデル化する手法を提案する.提案手法においては,意思決定に利用できる情報を体系的に表現する意思決定マトリクスを構築し,それに対して合理的な操作を規定することで合理的意思決定の手続きを記述する.さらにその操作に対し,入力情報に応じて時に意思決定の手がかりの妥当性の情報を利用しないという不完全性を付与することで,動機の不完全性をモデル化する.

 本論文では,提案モデルの検証実験として,まずアリの群れによる餌の採集行動を模したアントシステムシミュレーションに限定合理的エージェントを導入して実験をおこなった.この実験により,限定合理的なアリを導入することで群れ全体の採集効率が向上し得ることが示された.また,限定合理的エージェントは自身の目的の達成度が低いもののシステム全体の性能向上に貢献することから,利他性があるとも見てとれる.それにより合理的エージェントと限定合理的エージェントとの間で役割分担が創発し,局所的競合が回避されている様子が確認された.さらに,実際の製造フロアのデータを用いた自己組織化生産システムのシミュレーションに,限定合理的エージェントを導入する実験をおこなった.この実験においても同様の結果を確認し,提案モデルの工学的な実用可能性を示した.

 本論文では,エージェントに限定合理性を導入するという提案の意義を,マルチエージェントシステムの設計に関する研究という側面と,意思決定の限定合理性に関する研究という側面の2つから考察する.マルチエージェントシステムの設計において限定合理性の導入は,トップダウン的なルールやシステム全体の情報を与えることなく局所的競合を回避し得るアプローチであり,要求性能への収束速度の向上および低コストでの要求性能の実現という2つの有効性があるといえる.また,状況の不完全性の種類に応じた限定合理性を導入することで,システムの適応性・頑健性が増す可能性を示唆できた.限定合理性に関する研究として観たときには,提案したモデルにより,経済学や認知心理学で分析的に見出したさまざまな側面での限定合理性を体系的に表現でき,それらが完全合理性の前提に対してどの条件を緩和したものであるのかを明確化することができるといえる.

 限定合理性の工学的応用を見据えたとき,その性質に認知的妥当性は必ずしも必要ではない.モデルを提示し,それに対する不完全性として限定合理性を捉えることで,アナリシスからは見出されない新たな限定合理性のモデルがシンセシスされる可能性があると考えられる.エージェントのレベルで観れば非合理的な意思決定が,システム全体として観たときの合理性に繋がることもある.エージェントのレベルのみならずシステム全体のレベルの視点をもつことで,限定合理性の研究が今後,マルチエージェントシステムの設計へのアプローチとして有効性を持ち得る可能性があると示唆できる.

審査要旨 要旨を表示する

 鬼頭朋見(きとうともみ)提出の本論文は「限定合理性を導入したマルチエージェントシステムに関する研究」と題し,全6章より成り,マルチエージェントシステムに限定合理性を導入する手法の提案および検証と,それを通して得られた知見に関する考察・今後の発展可能性について述べている.

 第1章には,研究の背景および目的と,論文の構成を記している.環境が複雑多様化する状況下でシステムが柔軟・適応的に振舞う有効解を創出するためには,マルチエージェントアプローチが有効であることを述べ,その半面生じる困難さとして,エージェントの個々の目的の総和とシステム全体の目的の総和の不一致というジレンマ的状況を指摘している.本論文は,そのような状況をボトムアップ的な枠組みの中で解消するアプローチとして,エージェントに限定合理性を導入する手法を提案するものである.

 第2章では,限定合理性のモデル化をおこなっている.まず,経済学・認知心理学分野において人間の性質として分析的に研究されてきた限定合理性を,人工エージェントのモデルにおける不完全性と関連づけて論じ,他の研究に対して本研究の立場を位置づけている.それを踏まえ,合理的であろうとする動機に不完全性を導入するモデルを提案している.

 第3章では,提案したモデルに基づく限定合理的エージェントを導入したアントシステムのシミュレーションをおこなっている.実験の結果として,限定合理性を導入することでシステム全体の性能が向上し得ること,さらに,性能が向上する場合には,限定合理的エージェントは自身の目的達成度が低くシステムのレベルで観れば利他性があり,合理的エージェントと限定合理的エージェントとの間に役割分担が創発していることが確認されている.また,3つのタイプの限定合理性について実験をおこない,そのタイプ別の結果の分析をおこなっている.

 第4章では,実際の製造フロアのデータを用いた自己組織化生産システムのシミュレーションをおこない,提案モデルの工学的実用可能性を検証している.この実験においても限定合理的エージェントの導入により生産システムの性能が向上し得ることが示されている.また,2つのタイプの限定合理性の相違の分析もおこなっている.

 第5章では,「マルチエージェントシステムに限定合理性を導入する」という提案の意義を,2つの側面から考察している.マルチエージェントシステムの設計に関する研究という側面からの考察においては,限定合理性がエージェント個々とシステム全体の目的との間のジレンマ的状況を解消し,要求性能への収束速度の向上および低コストでの要求性能の実現という有効性をもつことを示している.さらにタイプ別の分析を通して,状況の不完全性に応じて適した限定合理性を導入することでシステムが頑健性・適応性を増す可能性を示唆している.また限定合理性に関する研究という側面からの考察においては,提案モデルにより,経済学・認知心理学で分析的に見出した様々な限定合理性を体系的に表現でき,さらに分析からは見出されない限定合理性を創出し得ることを示している.

 第6章では結論として,本論文を纏めている.エージェントの非合理的な意思決定がシステム全体の合理性に繋がることもあることから,システム全体というレベルの視点を持つことで,限定合理性の研究が今後,マルチエージェントシステムの設計へのアプローチとして発展していく可能性を示唆している.

 本研究は,従来の工学が暗黙裏に前提としてきた最適化の追求に疑問を呈し,エージェント個のレベルで分析的に扱われてきた限定合理性をモデル化し,マルチエージェントシステム全体のレベルで観たときの性能向上の可能性を示している.これは,システム設計のアプローチとして有用な知見をもたらしたとともに,分析的学問分野で扱われてきた限定合理性の研究に対して,新たな工学的視点を与えたという貢献もある.

 よって本論文は博士(工学)学位請求論文として合格と認められる.

UTokyo Repositoryリンク