学位論文要旨



No 122273
著者(漢字) 田中,健作
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ケンサク
標題(和) 昆虫の高度制御システムの研究
標題(洋)
報告番号 122273
報告番号 甲22273
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6478号
研究科 工学系研究科
専攻 航空宇宙工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 教授 鈴木,真二
 東京大学 教授 中須賀,真一
 東京大学 教授 神崎,亮平
 東京大学 教授 下山,勲
内容要旨 要旨を表示する

 現在,世界各国で数センチメートルから十数センチメートルサイズの小型飛行体(MAV:Micro Aerial Vehicle)の研究が行われている.しかし,室外で長時間,安定性と飛行性に優れ且つホヴァリングが可能なMAVは,いまだに開発されていない. 主な原因としては推進機構の問題,揚力発生メカニズムの問題,飛行制御の問題が挙げられるが,本研究では飛行制御の問題に取り組んだ.

 MAVの飛行制御システムを考える上で,自然界を飛行する昆虫は理想的なモデルと言える.昆虫の歴史は3〜4億年と言われ,長い進化の過程を経て現在に至っている.その間,昆虫は数多くの自然淘汰の洗礼を受けており,飛行制御メカニズムは極めて洗練されていることが推測できる.歴史がその信頼性を保証しているところに,モデルとしての昆虫の魅力がある.近年,そのような昆虫の飛行制御則をMAVの制御系に取り入れようとする研究者が増えつつある.

 しかし,肝心の昆虫の飛行制御則に関して,定量的な解明がほとんど進んでいないのが現状である.現在までこの分野の研究を主導してきたのは生物学者であり,静的な飛行条件下における翅の運動や,それに関わる現象を統計的に処理する研究は数多く行われたが,運動の物理モデルは確立されていない.そこで本研究では,昆虫の高度制御飛行に着目し,周波数応答を測定して制御系の伝達関数モデルを導くことを目的とした.

 実験昆虫としてはマルハナバチを用いた.一般にハチ類,あるいはハエ類の昆虫は,視覚情報を用いて飛行を制御する.例えば,上向きに移動する光刺激を与えれば,マルハナバチは自分が落下していると錯覚して,高度を回復させるために上昇飛行をする.逆に,下向きに移動する光刺激を与えれば,マルハナバチは自分が上昇していると錯覚して,下降飛行をする.このような性質を利用して飛行実験を行うために,「光刺激装置」と呼ぶ装置を自作した(図1).図2のような測定システムを構築し,光刺激装置の内部にマルハナバチを固定して,上下に振動する光刺激を与えた.この時のマルハナバチの応答を,ロードセルを用いて上下方向の力として計測した.光縞の振動数を5種類(ω = 3, 6, 12, 24, 47 rad/s)に変化させて,周波数応答を測定した.

 本実験では,開ループ応答と閉ループ応答の測定を行った.測定システムのブロック線図を図3に示す.開ループ応答は,図3のSW(図2のSWに対応)が開いている時の応答である.この時,光縞はマイクロコンピュータに予め組み込まれたプログラムに従い,上下振動する.閉ループ応答は,SWが閉じている時の応答である.この時,マルハナバチの力の応答がマイクロコンピュータに取り込まれる.マイクロコンピュータはマルハナバチの仮想の高度変化を計算し,光縞の位置変化にフィードバックする.閉ループ系において光刺激装置に表示される光縞の位置は,強制振動とフィードバックの効果を重ね合わせたものとなる.

 開ループ応答の測定結果の代表例を図4に示す.赤い実線は計測した力の生データ,青い実線は赤の波形をロー・パス・フィルタ処理したデータ,緑の破線は光縞の位置を示す.全ての周波数に対して,マルハナバチが応答していることが分かる.ただし高度制御システムの特性を論じるためには,入出力の次元を一致させることが望ましい.そこで,力の応答から計算される仮想の加速度を2階積分し,マルハナバチの仮想の高度を計算した.入力を光縞の高度,出力をマルハナバチの仮想の高度として,両者の振幅比と位相差をボード線図にまとめた(図5).図5より,ゲイン余裕(GM)と位相余裕(PM)の値がともに正であることが読み取れる.本結果は,昆虫の飛行制御の動的安定性を定量的に示した初めてのデータである.更に,得られた周波数特性からマルハナバチの高度制御システムの伝達関数を求めた.ゲイン及び位相のクロスオーバ周波数(ω(gc), ω(pc))付近の一致を重視し,なるべく簡単な伝達関数を同定した結果,(1)式の伝達関数によりマルハナバチの応答を近似できることが分かった.

図5より,マルハナバチのゲイン・クロスオーバ周波数はω(gc,bumblebee)〓11(rad/s)であり,また昆虫の神経・筋肉系の情報伝達遅れの大きさはτ(e,bumblebee)〓0.02(s)と言われているため,(1)式は(2)式のように書ける.

これは,パイロット-航空機系で良く知られている「クロスオーバ・モデル」((3)式)に対応する制御モデルと言える.

本研究では,式で表されるマルハナバチの高度制御則を,「2乗クロスオーバ・モデル(Square crossover model)」と名付けた.

 「クロスオーバ・モデル」と「2乗クロスオーバ・モデル」を用いて,人間とマルハナバチの制御特性を比較した(図6).最も顕著な違いはゲイン特性である.人間のゲイン特性が入力周波数に対して-20dB/decadeで変化するのに対し,マルハナバチのゲイン特性は-40dB/decadeで変化する.その結果,低周波数域のゲインはマルハナバチの方が人間よりも高い.これは,マルハナバチの方が定常特性に優れていることを意味する.一方,高周波数域においては,マルハナバチの方がゲインが小さくなる.これも,雑音の影響を抑えるために望ましい特性と言える.また,速応性の指標となるゲイン・クロスオーバ周波数の大きさは,マルハナバチの場合,パイロット-航空機系の約2倍であることが読み取れる.減衰特性の指標となる位相余裕の値は,マルハナバチとパイロット-航空機系の場合でほぼ等しい.以上より,マルハナバチは,パイロット-航空機系の制御システム以上に定常特性と過渡特性の望ましい両立を果たしていることが分かった.

 次に,閉ループ応答の測定結果を示す.閉ループ測定では,フィードバック・ゲインKを1,0.5,2に変化させて測定を行った(図3).測定結果を(4)式の閉ループ伝達関数と比較した.ただし,M(s)は力測定システムの伝達関数である.

通常のフィードバックであるK=1の結果を図7に示す.(4)式の伝達関数(G1(s))は,ゲイン・位相共に測定結果とほぼ一致することが分かる.ω=4 (rad/s)でのゲイン特性がずれるのは,測定結果に誤差が含まれるためだと考えられる.応答があまり小さい時はゲインと位相の読み取りが不可能であるため,データから除外した.ω=47 (rad/s)における実際の応答の平均値は図7に示したデータよりも小さいことが考えられ,G1(jω)の特性に近付くことが推測できる.以上を考慮すると,マルハナバチは(2)式で示した開ループの制御則をほとんど変化させずに閉ループ飛行を行っていることが分かる.

 次に,K=0.5の結果を図8に示す.測定結果とG(0.5)(s)及びG1(s)の周波数特性を示した.特に低周波数域の位相特性に着目すると,G(0.5)(s)よりもG1(s)の方が測定結果との一致が良いことが分かる.また,K=2の結果を図9に示す.測定結果とG2(s)及びG1(s)の周波数特性を示した.G2(s)は共振が大きく不安定である.しかし,マルハナバチは明らかに安定な制御を行っている.位相特性に関してはG2(s)の方が測定結果に近いが,全体の制御特性は明らかにG1(s)に近い.以上より,マルハナバチは環境の変化に適応し,自らの制御特性を変化させることで,一巡伝達関数の形を「2乗クロスオーバ・モデル」に整えるように高度制御を行うことが分かった.この性質は,人間が一巡伝達関数を「クロスオーバ・モデル」に従うように適応制御を行う性質と類似している.

 最後に,「2乗クロスオーバ・モデル」がMAVの制御系設計に果たす役割を考察した.現在,昆虫の応答特性をMAVの飛行制御に適用しようとしている研究者は他にもいるが,彼らが注目しているのは「motion-detection response」と呼ばれる応答である.これは,昆虫が視対象の移動(optic flow)を検知して,その速度の大きさを一定に保つように飛行制御するというものである.応答はoptic flowの方向によって変化しないのが特徴である.一方で,昆虫の応答には「optomotor response」と呼ばれるものがある.これは,昆虫が視対象の移動方向を検知して,それを追いかけるように飛行するというものである.本研究の測定結果は明らかにoptomotor responseに基づく.これら2つは類似の光刺激に対して現れる異質の応答であり,応答を分岐する要因はいまだに解明されていない.本研究では,昆虫の飛行制御システムとして多重ループの構造を仮定することで,2つの応答の役割を説明した.(図10A).このモデルを用いて過去の研究を整理すると,optomotor responseは飛行の安定化を目的とした応答であり,motion-detection responseは飛行経路の最適化や速度制御に用いられる応答だと考えられる.このような制御ループはパイロット-航空機系でも同様である(図10B).パイロット-航空機系の制御ループにおいて「クロスオーバ・モデル」が内部ループの制御則として用いられるのと同様,本研究で求めた「2乗クロスオーバ・モデル」も昆虫の高度制御系における内部ループの制御則だと考えられる.現在,optomotor responseをMAVの制御系に取り入れる試みは少ないが,「2乗クロスオーバ・モデル」をMAVの高度制御システムの基底の制御ループとして組み込むことにより,上下方向の飛行安定性を向上させることが期待できる.

図1 (A)光刺激装置の外観 (B)ディスプレイを構成するLEDの配置と光縞表示

図2 測定システム

図3 測定システムのブロック線図

図4 マルハナバチの開ループ応答(光縞振動に対する上下方向の力の応答)

図5 マルハナバチの開ループ周波数応答結果と安定余裕

図6 マルハナバチの高度制御システム(2乗クロスオーバ・モデル)と パイロット-航空機系の制御システム(クロスオーバ・モデル)の比較

図7 K=1の時の閉ループ応答

図8 K=0.5の時の閉ループ応答

図9 K=2の時の閉ループ応答

図10 昆虫の飛行制御ループの仮定,及び一般の航空機の飛行制御ループ

審査要旨 要旨を表示する

 修士(工学) 田中健作 提出の論文は「昆虫の高度制御システムの研究」と題し、7章と付録からなる。

 昆虫サイズの微小飛行体(MAV)はその安全性・可搬性から大きな注目を集め、既にいくつかの試作機が飛行試験の段階に達している。しかし小型機特有の外乱への弱さ、飛行時間の制約等未解決の問題に悩んでいる。一方、多くの昆虫は飛行することができ、特に飛行によって食料を獲得するタイプの昆虫は、同サイズの微小飛行体に比べて、はるかに優れた飛行特性を示す。昆虫の飛行システムは3億年に及ぶ長い歴史に耐え抜いた実績を持っており、微小飛行体の飛行システムにとっても、多くの点で参考になることが予想される。しかしながら、これまでの昆虫の飛行システムの研究は、翅の動きに対する空気力や神経細胞の電位パルス等を静的な条件下で計測し、統計的に処理したものが大部分で、力学的な飛行運動の解明がほとんど行われていなかった。

 このような観点から、筆者はマルハナバチを研究対象として、視覚刺激により誘起される上下方向の力の変動を計測し、運動の周波数応答を求めることを試みている。ハエやハチなどの小型の昆虫は飛行に必要な情報の多くを視覚に頼っており、決まったパターンの運動を視覚に与えると、対応する飛行運動のパターンが再現性良く誘起されることが知られている。これを視覚刺激により誘起される飛行運動と言う。筆者は、さらに従来知られている人間の制御特性とマルハナバチの応答を比較して、飛行体の小型化に必要な制御特性を考察している。

 第1章は序論でありこれまでの研究を概観し、本論文の目的と意義を述べている。

 第2章は昆虫の視覚の特徴と、視覚刺激によって誘起される飛行運動について述べるとともに、実験に用いたマルハナバチについてその特徴を説明している。

 第3章は、視覚刺激を利用してマルハナバチの周波数応答を誘起するための実験システムについて述べている。ロードセルに固定したハチの周囲に、発光ダイオードのパネルを置き、輝度で表示する横縞のパターンを上下方向に正弦波状に運動させると、ハチは同じ周波数で、羽ばたき運動による上下方向の力を変動させる。事前に定めた横縞の運動が誘起する高度制御(開ループ応答)に加えて、ハチの発生する力の変動を横縞の位置にフィードバックして誘起する高度制御(閉ループ応答)の2種類の応答を可能にしている。

 第4章は開ループにおける周波数応答の計測結果を述べている。筆者はボーデ線図を用いてマルハナバチの測定結果を整理し、位相余裕、ゲイン余裕とも、人類がサーボシステムに対して経験的に見出した理想的な値になっていることを導いた。さらにボーデ線図から伝達関数を同定し、マルハナバチの高度制御特性が「2乗クロスオーバーモデル」と呼べるものになっていることを示した。人間-機械系で明らかになった人間の伝達関数としては「クロスオーバーモデル」が良く知られているが、マルハナバチの伝達関数をこれと比較して、昆虫の制御の特徴を議論している。

 第5章は閉ループにおける周波数応答について述べている。筆者は、現実の環境に対応するフィードバックゲインの時、マルハナバチは開ループにおける伝達関数をそのまま閉ループに用いていることを明らかにした。しかしフィードバックゲインを変化させると、マルハナバチは一巡伝達関数が一定となるように開ループ伝達関数を変化させて対応した。これは人間-機械系において、異なるシステムに対し人間が示す対応と良く一致している。

 第6章は前章までに明らかにした伝達関数を、マルハナバチの飛行運動の中に位置づけ、微小飛行体の制御系に、本研究の結果を応用したモデルを提案している。それは昆虫に学ぶ制御系として知られている従来のモデルと異なり、最も内側に安定性を増大させるループを組み込むというこれまでの制御工学の常識によく合致したものである。

 第7章は結論であり、本研究で得られた新しい知見をまとめている。

 以上要するに本論文は、視覚刺激に対するマルハナバチの高度制御を、伝達関数を用いて解明し、その結果を微小飛行体の制御モデルとして再構築し提案したもので、飛行力学上貢献する所が大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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