学位論文要旨



No 122297
著者(漢字) 井口,雄介
著者(英字)
著者(カナ) イグチ,ユウスケ
標題(和) 金属ナノ系における電子構造を用いた分子動力学法の開発と応用
標題(洋)
報告番号 122297
報告番号 甲22297
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6502号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 市川,昌和
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 助教授 初貝,安弘
 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
内容要旨 要旨を表示する

 近年のオーダーN法の発展により、シリコンなどの半導体においては大規模な系における電子構造を含めた分子動力学法が可能になった。これまでに行われたシリコンにおけるへき開の計算では、亀裂の進展や表面再構成において電子構造が重要な役割を担っていた。一方で従来、金属系の分子動力学計算は古典力学を用いて実行されることが多かった。しかし金属系においてもナノ系においては半導体系と同様に電子状態が分子動力学に大きな影響を与えうるのではないかと考えられる。そこで本論文では金属系の分子動力学計算に必要な理論と応用の二つの面から電子構造を用いた金属系の分子動力学法の発展を目指す。

 Mehlらは基底を非直交にすることにより、従来の直交基底を用いたスレーターコスター型のハミルトニアンを用いた強束縛近似計算に比べ、広いエネルギー幅で電子状態と全エネルギーを合わせることができることを示した。[1]彼らのパラメータ付けは結晶における平衡点周りの計算では、全エネルギーと電子状態をよく再現できる方法として知られている。しかしこの手法は重なり行列を用いて一般化対角問題を解くので、必ずしも解があるとは限らない。もし、重なり行列の固有値に負があったばあい、逆行列が計算できるとは限らないからである。原子が近づくと重なり行列の非対角成分がパラメータの関係上大きな値を持ちやすいため、負の固有値を持つようになりやすい。実際、分子動力学計算を行った場合、結晶状態に比べて低い配位数が高い頻度で現れ、重なり行列の固有値が負になりエネルギー固有値が計算できなくなることがよく起こる。

 本論文ではこのような不安定性を排除するために、Mehlらの手法を拡張し、非正規非直交の基底を提案する。オリジナルの手法ではハミルトニアンの対角成分は有効電子密度の多項式によって決められる。これと同様の手法を重なり行列の対角成分にも適用する。これによって、たとえ原子間隔が狭くなり非対角成分が大きくなっても、固有値が負になる領域を狭くすることができる。これは広いエネルギー幅で電子状態を再現できるという性質を失わずに、より広い原子配置空間で電子状態を計算可能になるということを意味する。実際に白金などについて非正規非直交基底のパラメータを与え、従来よりも広い原子配置でエネルギーが計算可能になったことを示した。

 次に本論文では金属ナノワイヤ系において電子構造を含めた分子動力学計算を行い、電子構造が原子構造に与える影響を調べている。電子ビーム照射を用いて作製された金ナノワイヤは特異ならせん状の構造を取ることが近藤らによって近年報告されている。[2]この報告の中で近藤らはナノワイヤの構造が多層殻構造になっていることを明らかにし、また多くのナノワイヤで最外殻とその内側の殻の一周原子数の差が7であることからこの数を魔法数と命名した。これまでらせん状ナノワイヤについては多数の理論的研究がなされたが、以下の点について未だ系統的な説明は行われていない。(1)どのようにして面心立方格子がらせん状多層殻ナノワイヤに変化するのか。(2)魔法数の由来は何か。(3)なぜ金と白金で同様にらせん状構造が見いだされるのか。これらの疑問に答えるために、本論文では金らせんナノワイヤの模型を提案し、分子動力学法を用いて計算を行っている。

 本論文で提案する模型は以下の通りである。もともと面心立方格子から切り出した(110)ナノワイヤは、非らせん多層殻構造をとっている。このナノワイヤは4つの(111)面と等価な面と2つの(001)面と等価な面を持つ六角形の断面を持つ。金の清浄表面では(001)表面は(111)表面によく似た六回対称な(001)-hex面に再構成することが知られている。ナノワイヤの(001)面と等価な面においても、滑り変形が起きると清浄表面の時と同様に(001)面が(111)面に変化する。(001)面が(111)面の変化は粗な構造から密な構造への変化であるので、表面に原子を補充するとこの変形を安定化させることができる。これによって、最外殻の一周原子数が1増える。もともとの断面の最外殻が六角形の面心立方格子から切り出したナノワイヤは、最外殻とその内側の殻との一周する結合の数の差は6であった。これに1を加えると7になり、魔法数と一致する。魔法数の由来である。また対称性の良い断面における最外殻の一周原子数は偶になることが多い。これに表面再構成のための1を加えると一周原子数は奇数になる。一周原子数が奇数の場合、(111)面の並進周期が結合2つ分であるため、同じ原子をつなぐと必然的にらせん状になる。これがらせん状ナノワイヤの生成される理由である。このように表面に原子が補充されて、表面原子が内部原子と不整合が発生すること、そしてそれに引き続く表面再構成の二段階再構成がこの模型の中心となる概念である。

 この模型を確かめるためにわれわれは電子構造計算を含めた分子動力学計算を行った。実際に上記の最外殻が六角形でそれに最外殻の一周原子数が1増えるように原子を付け加えた理想的な面心立方格子から切り出したナノワイヤを両端の重心を固定して温度で緩和させた。計算の結果、全ての系で表面再構成が起こりらせん状になった。この計算の中で、最初の段階で内部の原子から表面原子が解離して最外殻全体が丸くなり、そのあと(100)面から(111)面への変形が観測された。これは提案した2段階模型と一致する。

 この表面原子の解離と(001)面から(111)面への変形がなぜ起こったのかを調べるために電子状態を調べた。局所的なエネルギーを調べてみると内部から解離した原子はエネルギー的に損をしている。特に配位数が減少したことによりs電子の損が大きい。一方でd電子では、表面が平らになったことによって(111)面が実質的に広がった分のエネルギーの得と、結合が切れた分のエネルギーの損がほぼ相殺する。結局解離した原子のエネルギー損はs電子による部分が大きく寄与する。一方、解離した原子のまわりの原子は、配位数が変化しないためs電子によるエネルギー損はない。d電子は表面が平らになったことによるエネルギー得があり、結合が切れたことによるエネルギー損はない。この表面が平らになったことによるd電子のエネルギー得は、解離した原子にとって内部の原子から引きはがす力となる。よって、配位数が減ることによるs電子のエネルギー損と表面が平らになることによるd電子のエネルギー損のどちらが大きいかによって表面原子が内部の原子から解離するかどうかが決まる。この考えが正しいことを示すために、より小さなdバンド幅をもつ銅で対応する系の分子動力学計算を行った。dバンド幅が小さい場合、dバンドに由来するエネルギーの得が小さくなるのでより解離しにくくなると言う予想ができる。実際、金の系において表面原子が解離した時間では、銅原子が解離することは無く、考えが正しいことが確かめられた。

 次に(001)面にある原子の電子状態が、(111)面に変化する前後でどのように変化するか調べた。この場合、配位数が増えるためs電子のエネルギーは得をする。また、(111)面に変化したことにより波動関数が広がりやすくなるため、d電子も得をする。よって局所的には表面再構成をした方がエネルギーが得である。しかし表面再構成をする際に周りの原子を引きずって結合を切る必要があるため、実際に再構成するかどうかは周囲の状況に依存する。今回の場合、すでに表面の原子の一部は内部の原子との結合が切れているので容易にひきずることができる。実際、対応する銅の系では再構成を起こすのにより高い温度が必要であった。

 このように表面が再構成してらせん状ナノワイヤになるのには、表面原子が最初の段階で内部の原子から解離することが重要であり、その解離しやすさはdバンドの幅に比例する。銅や銀における3d、4dバンドの幅よりも金、白金における5dバンドの幅の方が大きく、よりらせん状ナノワイヤになりやすいことがわかる。これが金と白金でらせん状ナノワイヤができる理由である。

 以上から金の生成に関して模型を提案し、最外殻がらせん状になる理由、魔法数の由来、なぜ金と白金が同様のらせん性を示すかを明らかにした。らせんの生成においては、s軌道とd軌道の競合が主要な役割を果たしている。

 本論文では、金属系における電子状態を含んだ分子動力学計算を行うのに有用だと思われる理論の拡張を提案した。また、らせん状ナノワイヤにおける理論と分子動力学計算の結果を通じてナノ系の理解の枠組みを提示した。らせん状ナノワイヤの生成では電子状態の競合が主要な仕組みとして働いている。バルク結晶では、表面はごく一部の割合の原子しか参加しないが、ナノ系においては表面と内部の原子の個数が同程度になる。この環境の違いによる原子の振る舞いの違いが競合を引き起こし、ナノ系では系全体の振る舞いを支配することになる。

[1] M. J. Mehl and D. A. Papaconstantopoulos, Phys. Rev. B 54, 4519 (1996)[2] Y. Kondo and K. Takayanagi, Science 289, 606 (2000)
審査要旨 要旨を表示する

 電子構造理論の最近の大きな課題の一つは、大規模系に対する第一原理計算手法を確立し、ナノスケールにおける応用研究を展開することである。

 著者は、大規模金属系に対する量子力学的分子動力学法の確率を目的として、環境効果を考慮したタイトバインディング・ハミルトニアン形式を取り上げ、これが大規模系に対する最も有効な形式であることを論じた後、現在与えられている形式を種々検討し必要な改良点を議論し、それらの応用として金ナノワイヤーを議論したものである。

 本論文は、4章および付録4部から成り立っている。

 第1章では,分子動力学計算において電子構造をあからさまに含むものと含まないものに分けて,これまで行われてきた計算を概括した。その上で、最も適切な形式としてSlater-Koster型ハミルトニアンを用いる分子動力学法を取り上げ、その課題を説明し,本論文の構成と目的を述べている。

 第2章では,電子構造計算理論に基づいてSlater-Koster型ハミルトニアンの導出を説明している。次にSlater-Koster型のハミルトニアンに環境依存性を付け加えるための種々の試みを紹介し,特に環境依存性を重なり行列で表したKirchhoffらの強束縛近似ハミルトニアン(以下ではグループが米国Naval Research Laboratoryに属するからNRLハミルトニアンと呼ぶことにする)の長所・短所について議論している。密度汎関数理論では全エネルギーを電子バンドエネルギーとそれ以外に分け、後者を斥力ポテンシャルとして表現する。NRL強束縛近似では、斥力ポテンシャルの部分もバンドエネルギーの中に組み込むように、非正規非直交基底を採用して電子系ハミルトニアンを定義し直す。NRLハミルトニアンはバルクな系を正しく表現できるように構成されるが、ナノ系の分子動力学に適用すると種々問題が生じることを明確に指摘し、その問題点を詳細に解析した。第一は原子間距離が著しく近づいたとき、第二にそしてもっと深刻であるのは、異なる環境の原子が混在するとき、または化合物系である。第二の問題は電荷移動に関して、充分な考慮が行われていないためで、さらに、電荷移動があるときにはバンドエネルギーには含めることの出来ない斥力ポテンシャルを導入しなくてはならないことを示した。第一、第二の問題に対する処方箋を詳細に示したが、同時に必要かつ充分な検討と対応は今後にゆだねることを述べている。

 第3章では,金ナノワイヤ系にNRLハミルトニアンを用いた分子動力学法を適用し、その結果を述べている。電子線の技術を用いて作製された金ナノワイヤはらせん状多層殻構造を持つ。らせん状ナノワイヤについては、これまでいくつかの計算が行われてきたが以下の3つの基本的な問題が未解決のままである。(1)どのように面心立方格子から、らせん状ナノワイヤへ変化するのか。(2)最外殻と内側殻の一周原子数の差が一定値7(魔法数と呼ぶ)になるのはなぜか。(3)らせん状ナノワイア形成に電子状態の何がどれほど影響を与えるのか。本論文では、最初の2つの問題に答える模型を提案し、実際にワイヤ状系に分子動力学法を適用することによって実験結果と一致することを確認し、電子状態解析により3番目の問題に答えている。

 結晶から切り出した(110)方向に長さ軸を持ったナノワイヤは,その側面には(001)面と(111)面が現れる非らせん状態である。(111)面は稠密面である。一方、(001)面は清浄表面では表面再構成して(111)面が形成されるので、ナノワイヤの表面でも表面再構成することが期待される。しかしその際表面の原子密度が上がるので表面を覆う原子数が不足し、この表面再構成は[110]原子列を追加することで安定化する。実際、非らせん状多層殻ナノワイヤに[110]原子列を一列付け加えた系で分子動力学計算を実行した結果,表面原子が内部原子と解離する現象と、それに続く,(001)面にスリップが入って表面再構成を起こすことが見出された。さまざまな太さの非らせん状多層殻ナノワイヤにおいて、この2段階の再構成が起き、らせん構造が生じ、かつ魔法数に対応する各殻上の原子数の差を確認した。

 さらに2段階のそれぞれにおける電子状態の変化について議論を行い、2段階のそれぞれがs電子とd電子のエネルギーの競合で起こっていることを確かめた。第一の段階(乖離)では、d軌道のエネルギー得がs軌道のエネルギー損を上回ると解離する。(001)面が(111)面へ変化する際には、d電子状態密度が非対称に変化して、エネルギーの重心が下がり局所的にエネルギーが減少する。さらに、この模型の有効性を確かめるために,AuナノワイヤとCuナノワイヤで分子動力学の結果の比較を行い、Cuナノワイヤではd電子バンド幅が狭いため乖離が起きない、または高温にしても時間がかかることを見出している。このことは実験的にCuではらせん状多層ナノワイアが見出されていないことに対応する。

 第4章は,結論と纏めである。付録Aは,重なり行列を含むSlater-Koster型ハミルトニアンの下での各種物理量の具体的表式を与えている。付録Bでは、d軌道までのSlater-Koster係数とその位置微分の一覧が与えられる。付録Cは、本論文で用いたNRLのパラメータ表である。付録Dでは、Ptナノワイヤ系における分子動力学計算の結果をもとに、NRLのパラメータの電荷移動におけるポテンシャルとエネルギーの評価における問題とそれに対する対応策について検討を加え、現れている現象といくつかの補正の結果について詳細な検討を加えている。

 以上を要するに、著者は、金らせん状多層殻ナノワイアの形成に対する2段階模型を提案し、金属系分子動力学手法により実際に金ナノワイア系では2段階のプロセスが本質的であること示すとともに、多層殻構造、魔法数、らせん構造の生ずる機構を明らかにした。さらに金属ナノスケール系の分子動力学を一般的に実現するための手法に対するいくつかの条件を明らかにした。これにより、大規模金属系の分子動力学手法の確立に一つの新たな道筋を示したものであり、物理工学への貢献は大きい。

 よって本論文は博士の学位論文として合格であると認める。

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