学位論文要旨



No 122298
著者(漢字) 栗田,玲
著者(英字)
著者(カナ) クリタ,レイ
標題(和) 単成分分子液体における液体・液体転移
標題(洋)
報告番号 122298
報告番号 甲22298
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6503号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 特任講師 奥薗,透
内容要旨 要旨を表示する

 液体は、固体や気体と同様に物質の基本状態の一つである。これらの状態は物質を構成する原子分子の配列の違い・運動性の違いによって生じていることはよく知られている。分子が互いにほとんど相互作用無く運動しているのが気体であり、分子が無秩序なまま凝集し相互作用下で運動している状態が液体、規則を持って並んでいる状態が固体である。固体は周期的な構造のため量子力学として確立され、デバイスや発光ダイオードなど現在の生活に大きく貢献している。また、気体に関しては古くから研究されており、気体の状態方程式から真空技術に至るまで解明され、これらの研究はエンジンなどにおいて利用されている。

 それに対して一方、液体には未だ多くの未解明な問題が残っている。たとえば、準安定状態にも関わらず過冷却状態の長時間にわたる安定性や結晶化せず非エルゴード状態のガラスに転移するガラス転移もさまざまな理論が考案されているもののまだ解決していない。われわれが日常的に接している水に関しても、密度が4℃で最大になることや、粘性や比熱の低温での異常な上昇、2つのアモルファス状態の存在など未解明な問題が存在する。さらに、近年「単成分系の液体状態は唯一である」という常識を破る液体・液体相転移現象の確実な証拠が見つかってきた。液体・液体相転移とは単成分の分子からなる液体に2つ以上の液体状態が存在し、その間を一次相転移する現象である。これまでの液体に関する常識に反するため、液体・液体相転移の存在自体が興味を集めている。この液体・液体相転移の解明は、液体の本質のより深い物理的理解、上述の他の液体の未解明問題の解明にも資すると考えられ、液体の新しい工学的応用の展開も期待される。

 こういった状況の中、液体・液体相転移の存在を示唆する結果はいくつか見出されたものの、その起源や性質、普遍性などについてはいまだ未解明である。そのひとつの要因は、これまで液体・液体転移の発見が高温・高圧という厳しい実験条件を要する原子性液体に限られてきた点にある。また、数値シミュレーションにおいても計算コストから来る制約のため、小さな系の相挙動の研究にとどまり、その転移のキネティクス、さらには物理的な起源に迫ることは困難であった。このような困難を打破するため、我々は、測定が容易な常圧で液体・液体相転移を示す物質を発見することが重要であると考え、分子性液体に注目した。そこで、分子性液体における液体・液体相転移の直接観察により、キネティクスを研究し、液体・液体相転移の起源にせまること、および、その普遍性の検討を目的として研究を行った。さらには、工学的応用という観点に立ち、液体・液体相転移による物性の変化を調べ、液体物性の制御もあわせて目的とした。

 我々は、典型的な分子性液体の一つであるTriphenyl Phosphite(TPP)に注目した。KivelsonらはTPPに新しいアモルファス相(Glacial相)があることを発見した。その後多くの研究がなされたが、その相の正体については様々な提案、時には互いに矛盾する報告もあった。他の研究者がミクロな状態を調べていたのに対し、我々は直接顕微鏡観察により相転移過程におけるマクロな相変化のキネティクスを調べた。その結果、核形成・成長型、スピノーダル分解型という2種類の転移過程を発見した。このことからGlacial相は第2液体のガラス状態であることが明確に示され、TPPにおいて分子性液体としては初めての液体・液体転移を確認することに成功した。スピノーダル分解が系の秩序変数の揺らぎの情報を持つことに着目し、スピノーダル分解型転移のキネティクスを詳細に研究した。特に、構造因子の特徴的な波数、および、その強度の時間変化に注目した。初期過程では波数は一定であり、強度は指数関数的に増大することを見出した。これはカーンの線形領域と呼ばれ、スピノーダル分解に特有である。後期過程では波数は時間の0.5乗に比例して減少し、この指数は非保存系スピノーダル分解と一致した。また、最終的に均一な相となることが明らかとなり、これも非保存系の相転移の特徴を示している。線形領域の波数から求められた系の相関長の温度依存性である。スピノーダル温度に向かって発散し、その指数は平均場理論と一致した。相関長が極めて長いことと平均場であることは理論的に一致している。この相関長の発散は液体・液体転移の臨界点があることを示唆しており、このことは密度以外の秩序変数がこの転移を支配していることを示唆している。すなわち、気体・液体相転移を支配するのは密度であり、液体・液体転移を支配しているのは非保存系の新たな秩序変数であることがわかった。また、転移温度において液体2は液体1に比べエネルギー的に安定であるので、転移中に潜熱が開放される。そこで、転移中における熱量の変化を調べたところ、顕微鏡観察と同様に核形成・成長型とスピノーダル分解型の2種類の相転移パターンが現れ、そこから求められる性質が顕微鏡観察と完全に一致した。ここで重要なことは、顕微鏡観察では屈折率を通して密度の変化を測定しているのに対し、熱量測定では非保存系の秩序変数の変化を測定していることである。密度の変化は非保存系の秩序変数の変化によって誘起されたものであり、すなわち、液体・液体転移を支配しているのは非保存系の秩序変数であることがわかった。

 さらにn-ブタノールにおいても同様な液体・液体転移を発見した。この物質においても、核形成・成長型、スピノーダル分解型という2種類の転移パターンを観察することに成功した。TPPの時と同様に詳細な解析を行った結果、2つの転移パターンともにキネティクスはTPPと全く同じであった。ここで重要な点は、TPPとn-ブタノールは分子形状や分子間相互作用は全く異なる事である。このことから、液体・液体転移は分子形状そのものや分子間相互作用には関係なく、通常の相転移と同様に秩序変数だけで記述できることが予想される。このことは、液体・液体転移は多数の物質で見られること(普遍性)を示唆しているが、実際には結晶化やガラス転移などによって隠されていると考えられる。

 この非保存系の秩序変数の候補として、局所安定構造の数密度(S)を考えた。局所安定構造は水やリンでは正四面体構造、液体金属では正20面体構造を取ることが知られており、多くの物質の液体状態に存在することがわかっている。この局所安定構造の数密度は非保存系パラメータとして考えられ、これまでの実験結果と矛盾しない。このモデルを2秩序変数モデルという。我々はランダムな分子と局所安定構造という2準位系を考え、さらに、協同性を取り入れ、自由エネルギーを求めた。自由エネルギーのLandau展開を行い、2秩序変数モデルの数値シミュレーションを行った。数値シミュレーションで得られた結果は、実験結果を全て再現することが明らかとなった。このことから、液体・液体転移は非保存系パラメータによって支配されていることが確認された。

 この非保存系パラメータが局所安定構造の数密度(S)であることを確認するため、放射光を用いたX線回折実験を行い、液体の構造の変化を調べた。液体・液体転移中における局所安定構造の数密度の変化を示唆する構造変化が実際に確認され、その時間変化は熱量の時間変化と一致した。これは、熱量の変化は局所安定構造の増加を反映したものであることを示唆している。これにより、液体には、密度以外に局所安定構造の数密度という秩序変数が存在し、この秩序変数によって液体・液体転移は支配されていることが明らかになった。

 さらに、揺らぎの相関長がスピノーダル温度近傍ではマイクロオーダーとなることから、マイクロオーダーの空間に閉じこめると液体・液体転移のダイナミクスが変化すると考えた。カバーガラスで平板間閉じこめを行い、実験を行った。閉じこめにより、スピノーダル温度が低くなり、同時に裸の相関長も短くなることがわかった。これは、ナノチューブといった狭い場所での液体の物性が異なることを示唆しており、液体を理解する上で重要な実験結果であるといえる。

 閉じ込めという幾何学的外場と同様に、流動場という外場中での液体・液体転移のダイナミクスを調べた。閉じこめとは逆に、流動場では液体・液体転移が誘起されることがわかった。単純液体ではニュートン流体であることが前提とされていたが、液体・液体転移を起こす物質において、強い流動場によって不安定化が起きることがわかった。また、この機構に関しても粘性が局所安定構造の数密度に強く依存することを考えることによって説明可能であり、液体物性制御に今後役に立つと思われる。

 また、この秩序変数が未解明問題の一つであるガラス転移との関係についても研究を行った。ガラス形成物質では、ガラス転移温度に近づくにつれ、緩和時間の温度依存性がアレーニウス型から逸脱し、緩和時間が数桁にわたり急激に増大することが知られている。この逸脱度をfragilityと呼び、急激に増大する液体はfragile、アレーニウスに近い液体はstrongと呼ばれている。このfragilityは分子固有の性質と考えられ、その物理的起源について未解明である。この現象は他のガラス転移の問題にも大きく関係があると考えられており、その解明が待たれている。そこで、液体1、液体2、その中間状態の液体のfragilityを測定した。液体1はfragileな液体であるのに対し、液体2に向かって連続的にstrongな液体になっていくことがわかり、fragilityは局所安定構造の数密度に依存していることが明確に示された。このことは、ガラス転移の謎にも大きく迫るきっかけを与えたと考えられる。

 また、粘性や屈折率、比熱、異種物質との相溶性といったマクロな物性も局所安定構造の数密度に大きく依存していることを発見した。現在、液体を用いた製造過程、壊れやすさや透明度といったガラスの設計など、多くは経験的な知識に基づいて行われているが、局所安定構造の数密度という制御可能なパラメータの発見は工学的な観点からも大変有意義であると考えられる。 

 最後に、本研究で見出された分子性液体における液体・液体転移の研究を通し、液体・液体転移の起源やその性質に迫る道が拓かれたと考えている。これは液体の新しい物理学の創成への貢献のみならず、液体物性の新しい制御法の開発という応用面での意義も大きいと考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、単一成分からなる分子性液体において液体・液体転移が存在する確実な証拠、転移のキネティクス、外場効果、さらには液体・液体転移を用いた液体物性制御について述べている。

 第1章から第3章まで、研究の背景、目的、基礎知識、実験手法についてまとめている。液体・液体転移とは単成分の分子からなる液体に2つ以上の液体状態が存在し、その間を一次相転移する現象である。これまでの液体に関する常識に反するため、液体・液体転移の存在そのものが興味を集めてきたこと、液体・液体転移の解明が、液体の本質のより深い物理的理解、液体の新しい工学的応用の展開にも重要であることが記されている。

 第4章では、典型的な分子性液体の一つであるTriphenyl Phosphite(TPP)における液体・液体転移の実験結果について述べている。顕微鏡観察により転移過程におけるキネティクスを調べた。その結果、核形成・成長型、スピノーダル分解型という2種類の転移過程を発見した。このことから、TPPにおいて、分子性液体としては初めての液体・液体転移を確認することに成功した。また、揺らぎの相関長がスピノーダル温度に向かって発散することが見出された。このことは液体・液体転移に関連した臨界現象の存在を明確に示しており、密度以外の秩序変数がこの転移を支配していることが示唆された。

 第5章には、TPPとは分子形状や分子間相互作用は全く異なる物質n-ブタノールにおいても同様な液体・液体転移が発見されたことが報告されている。キネティクスを詳細に調べた結果、TPPの時と殆ど同様であることが明らかとなった。このことから、液体・液体転移は分子形状そのものや分子間相互作用には関係なく、通常の相転移と同様に秩序変数だけで普遍的に記述できることが予想された。

 第6章では、保存量の密度に加え、非保存の秩序変数として局所安定構造の数密度(S)を考え、それら2つの秩序変数の動的結合方程式(2秩序変数モデル)を数値的に解いた。この数値シミュレーションで得られた結果は、実験結果を全て再現することが明らかとなった。このことから、液体・液体転移は非保存の秩序変数によって支配されていることが確認された。

 第7章では、この非保存秩序変数が局所安定構造の数密度(S)であることを実験的に確認するため、放射光を用いた時分割X線回折実験を行い、液体・液体転移の過程の液体の構造変化を調べた。その結果、転移の過程で局所安定構造の数密度が変化していることを示唆する構造変化が実際に確認され、その時間変化は熱量の時間変化と完全に一致した。これにより、液体・液体転移は、実際に局所安定構造の数密度という秩序変数に支配されていることが明らかになった。

 第8章では、揺らぎの相関長と同程度の空間に閉じこめることにより、スピノーダル・バイノーダル温度とも低くなり、液体1が安定化すること、また、第9章では、流動場を印加することにより、液体・液体転移が誘発されることが見出された。これらは、幾何学的拘束、流動場といった外場により液体の状態を不連続に変えることが可能なことを示唆している。

 第10章では、fragilityという物性について実験的に調べた。この物性はガラス転移の本質にも深い関係があると考えられており、その解明が待たれている。そこで、同じ物質であるのに状態が違う液体1、液体2、その中間状態の液体においてfragilityを測定した。液体1はfragileな液体であるのに対し、液体2に向かって連続的にstrongな液体になっていくことがわかり、fragilityは局所安定構造の数密度に依存していることが明確に示された。

 第11章では、液体・液体転移の臨界揺らぎが結晶化と大きく関係していることが明らかとなり、局所安定構造が結晶化に影響を与えている可能性が示された。

 第12章では、液体・液体転移により、他の液体との相溶性が制御可能なことが示された。この発見は、応用上の意義も大きいと考えられる。

 本研究で述べられた分子性液体における液体・液体転移の研究は、液体・液体転移の起源やその性質といった液体物理学の未解明問題に迫る道を拓いただけでなく、液体そのものの本性について理解の深化にも貢献すると考えられる。例えば、液体の状態を記述するのに、従来用いられてきた密度だけでは不十分であり、局所安定構造の数密度という新たな秩序変数が必要であることが示唆された。また、液体の性質の全く新しい制御法という応用面での意義も大きいと思われる。

 以上のように、本研究で得られた成果は、物理工学上非常に重要なものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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