学位論文要旨



No 122307
著者(漢字) 山口,哲生
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,テツオ
標題(和) 粘着剤の剥離過程のダイナミクス
標題(洋) Debonding dynamics of soft adhesives
報告番号 122307
報告番号 甲22307
学位授与日 2007.03.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第6512号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,正男
 東京大学 教授 田中,肇
 東京大学 教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 酒井,啓司
 東京大学 特任講師 奥薗,透
 工学院大学 教授 小野,拡邦
 お茶の水女子大学 教授 奥村,剛
内容要旨 要旨を表示する

研究要旨

粘着剤は、弱く架橋されたエラストマーであり低い弾性率と高い粘性を持つ。粘着剤を基板から引離したときの応力-を測定する、いわゆるプローブタック試験を行なうとき、粘着剤中にキャビティと呼ばれる空孔が発生することが観察されているが、キャビテーションのメカニズム、粘着特性に与える影響、表面エネルギー・粘弾性などの物性との関連についてはそれほど理解が進んでいない。そこで本研究では、以下のように実験・理論の両面から粘着剤の引離し挙動の解析を行なった。まず、粘着剤引離し中の可視化実験については、粘着剤を引張りながらその内部構造を直接観察する手法を開発し、キャビテーションと界面破壊過程との関連を詳細に調べたところ、キャビティが基板表面から発生すること、粘着剤の架橋密度を上げるとキャビティの形状が扁平になり合一しやすくなることで応力-歪み曲線が急激に変化することなど、これまで推測の域に過ぎなかった事柄をはじめて明確に示した。次に、粘着剤引離し挙動のモデル化に関しては、これまでは粘着剤を理想弾性体や理想粘性体とみなす簡単な解析が行われていたのみであり、粘弾性体中での複数のキャビティの生成、成長を考慮したモデル化は行なわれていなかったが、本研究では引離しに伴う負圧の生成とキャビテーションの競合こそが現象の本質であるとの立場に立ち、粘着剤の内部の負圧分布とキャビティの成長を記述する2つのモデル(2次元ブロックモデル及び3次元ブロックモデル)を提案した。このモデルには、粘着剤の粘弾性、キャビテーション、界面でのすべりの効果が考慮されている。このモデルに基づくシミュレーションにより、プローブタック試験の特徴(応力の時間変化、引き離し速度や粘着剤の厚みの効果)がほぼ再現できることを示した。さらに、粘着剤引離しの単純なモデルとして超弾性構成方程式に従う2枚の平板に挟まれたゴムの引離しに関する定式化を行ない、応力-歪み曲線や変形挙動を表現する解析解を得た。

1. 粘着剤引離しにおけるキャビティ立体形状の可視化実験

1-1 背景

粘着剤中のキャビテーションに関する可視化実験は多数報告されているが、これまでの実験ではガラス基板を通して下から観察されたもののみであり、剥離挙動を界面における動的破壊現象としてみた場合に重要な、微小亀裂(キャビティ)の立体形状に関する情報が得られていなかった。そこで本研究では、キャビティの立体形状のその場観察する方法を新たに開発し、粘着剤引離し中の界面破壊挙動を調べた。

1-2.結果と考察

まず、図1(a)に示すような観察手法を開発した。

従来行なわれていたガラス基板の真下から観察する方法とは異なり、ガラス基板の横側から見ることにより、ほとんど水平に近い角度でキャビテーション挙動を観察することができた。また、架橋密度の異なる3種類のアクリル系粘着剤試料(架橋密度1倍、10倍、30倍)を作成し、引張試験機を用いて引離しを行ないながらこの方法による可視化実験を行なったところ、図1(b)のように架橋密度を増すにつれ、引離し応力はピーク後に急激に減少した。これらの現象は、架橋密度を増すにつれ図1(c)のようにキャビティが球形から平坦な形状に変化し、それによってキャビティ端での応力集中や沿面方向のキャビティ成長が促進されてキャビティ同士が早く合一しやすくなり、その結果引離し応力が急激に減少したと考えることで説明できる。

2. 2次元ブロックモデル

2-1. 背景

1で見た粘着剤引離し挙動に関する理論的なアプローチとしては、これまで粘着剤を理想弾性体や理想粘性体とみなす簡単な解析が行われていたのみであり、粘弾性体中でのキャビティの生成、成長を考慮したモデル化は行なわれていなかった。本研究では、引離しに伴う粘着剤内部の負圧の生成とキャビテーションの競合こそが現象の本質であるとの立場に立ち、粘弾性体中の複数のキャビテーションを考慮した2次元モデルの開発を行なった。

2-2.結果と考察

図2のように、粘着剤を2次元の非圧縮性をもったブロックの集まりだとみなし、各ブロックに(i)1軸伸張(ii)ポアズイユ形のずり変形(iii)界面での滑り、という単純な変形や運動モードを仮定した。また、ブロック間の隙間をキャビティだとして、キャビティ体積と内部圧力との関係式を導入した。更に粘弾性流体の構成方程式であるUpper-convected Maxwell modelを用い、粘着剤中の変形や応力の時間発展を計算した。

その結果、Fig.3に示すような応力-歪み曲線や粘着剤中の変形、キャビテーションを表現することができ、実験で見られるふるまいを定性的に再現することができた。

3. 3次元ブロックモデル

3-1. 背景

2において、粘着剤引離しにおけるキャビテーションを定性的に再現することができたが、(i)実際の粘着剤は架橋されているため粘弾性固体として取り扱うできであるにもかかわらず粘弾性流体の構成方程式を用いていた、(ii)2次元系を扱っていたなど、モデルの改良が必要とされていた。そこで本研究では、3次元ブロックモデルの開発を行ない、改めて粘着剤引離し挙動の再現を試みた。

3-2. 結果と考察

図4に応力-歪み曲線の引離し速度依存性とキャビテーション挙動スナップショット(真下から見た図)を示す。

実験において見られる引離し速度依存性や多数のキャビティが不均一に成長する様子を再現することができた。また、このモデル化を通してキャビテーションにおける粘弾性効果の重要性を示すことができた。

4. 2枚の平板間に拘束された粘着剤の変形に関する解析解

4-1. 背景

これまで、非線形弾性を示す弾性体の大変形時の挙動については、単純なずり変形や1軸伸張変形を除き、解析解は求められていなかった。本研究では、ゴムを2枚の剛直な平板に挟みこみ、平板間を引離したときの変形や応力-歪み曲線を解析的に求めた。

4-2. 結果と考察

応力-歪み曲線を図5に示す。線形弾性を考慮した微小変形の計算では求められていなかった、応力の極大が表れており、有限要素法を用いた数値計算と良好な一致を見せることがわかった。

また、ゴムの厚み依存性など実用上重要な情報についても、解析的な表現を得ることができた。

図1:(a)可視化実験のための装置の概略図 (b)3つの異なる架橋密度(1倍,10倍,30倍)を持った粘着剤試料における応力-歪み曲線 (c)それぞれの試料におけるキャビティのスナップショット。

図2:粘着剤引離し挙動のモデル化。 (左)実際の挙動 (右)非圧縮ブロックの変形、運動による現象のモデル化。

図3:計算結果。(左)応力-歪み曲線と(右)粘着剤変形のスナップショット及び内部圧力分布(右軸が圧力)。

図4:3Dブロックモデルにおける結果。(a)3つの異なる引離し速度における応力-歪み曲線。 V = 1 x 10(-5) m/sでの (b)ε=0.48,(c)ε=1.5におけるキャビティ生成の様子。

図5:応力-歪み曲線の解析解(黄緑の曲線)。

審査要旨 要旨を表示する

 粘着とは、乾燥や化学反応なしに被着物どうしをはり合わせることである。粘着の現象は、粘着テープなどの日用品から、保護フィルム、医療品、LCDパネルにいたる広範な分野で重要である。しかし、多くの応用にも関わらず、粘着の研究は比較的新しく、粘着特性を高分子の物性と結びつけて理解しようという研究は少なかった。山口哲生君提出の論文、Debonding dynamics of soft adhesive(粘着剤の剥離過程のダイナミクス)は、粘着剤の特性試験の一つであるプローブタック試験に関して、物理的な観点から研究をおこなったものである。

 プローブタック試験とは、硬い基板に塗った粘着剤に、円柱状のプローブを押し付け一定時間保持したのちにプローブを引き離し、そのときの引き離し距離と応力を測るものである。プローブタック試験の引き離し過程において、粘着剤中にキャビティと呼ばれる空孔が発生することが観察されているが、キャビテーションのメカニズム、粘着特性に与える影響、表面エネルギー・粘弾性などの物性との関連についてはほとんどわかっていなかった。本論文は、この現象に対して、実験と理論・シミュレーションの両面からの研究をまとめたものであり、3つの研究からなる。

(1) プローブタック試験の応力とキャビティ生成の実験

 山口君は、プローブタック試験において、粘着剤を引張りつつ、その内部構造を直接観察する手法を開発し、キャビテーションと生成、成長過程と応力の関連を詳細に調べた。粘着剤中のキャビテーションの可視化実験は多数報告されているが、これまでの実験はガラス基板を通して下から観察されたものであった。このような観察法では、粘着剤の剥離特性に重要なキャビティの立体形状に関する情報が得られていなかった。そこで山口君は、ガラス基板の横側から見ることにより、ほとんど水平に近い角度でキャビテーション挙動を観察する方法を開発した。

 架橋密度の異なる3種類のアクリル系粘着剤試料を作成し、引張試験機を用いて引離しを行ないながら可視化実験を行なったところ、架橋密度を増すにつれ、引離し応力はピーク後に急激に減少することを見出した。この現象は、架橋密度を増すにつれキャビティ端での応力集中や沿面方向のキャビティ成長が促進されてキャビティ同士が早く合一しやすくなるということで説明した。

(2) プローブタック試験の数学的モデルの提出

 次に山口君は、粘着剤引離し挙動を理解するためのモデルを提案した。プローブタック試験に関しては、これまでは粘着剤を線形弾性体やニュートン粘性流体とみなす簡単な解析しか行われていなかった。実際の粘着剤は、粘弾性体であり、引き離し過程は多数のキャビティが成長する複雑な過程である。山口君は、引離しに伴う負圧の生成とキャビテーションの競合こそが現象の本質であるとの立場に立ち、粘着剤の内部の負圧分布とキャビティの成長を記述する2つのモデル(2次元ブロックモデル及び3次元ブロックモデル)を提案した。

 2次元モデルでは、粘着剤を2次元の非圧縮性をもったブロックの集まりだとみなし、各ブロックに(i)1軸伸張(ii)ポアズイユ形のずり変形(iii)界面での滑り、という単純な変形や運動モードを仮定した。また、ブロック間の隙間をキャビティだとして、キャビティ体積と内部圧力との関係式を導入した。更に粘弾性流体の構成方程式であるUpper-convected Maxwell modelを用い、粘着剤中の変形や応力の時間発展を計算した。このモデルには、粘着剤の粘弾性、キャビテーション、界面でのすべりの効果が考慮されている。このモデルによる計算の結果、示すような応力-歪み曲線や粘着剤中の変形、キャビテーションを表現することができ、実験で見られるふるまいを定性的に再現することができた。

 しかし、2次元のブロックモデルには、二つの問題があった。 (i)実際の粘着剤の変形は2次元モデルで仮定されているような平面歪ではない、 (ii) モデルでは粘弾性流体の構成方程式が用いられているが、実際の粘着剤は架橋されているため粘弾性固体として取り扱うべきである。そこで山口君は、これらの点を改める改良したブロックモデルを考案した。まず、連続体力学から出発しモデルの3次元化を行った。さらに、粘着剤のバルクの変形とキャビティー周辺の変形速度の違いに着目し、バルクの変形はフック超弾性体で扱い、キャビティーの成長則に粘弾性を考慮することにより、粘着剤のレオロジー特性を考慮した。このモデルにより、円柱状のプローブの引き離しの計算を行い、実験において見られる引離し速度依存性や多数のキャビティが不均一に成長する様子を再現できることを示した。

(3)フック超弾性体に対する解析

粘着剤引離しの単純なモデルとして、山口君は、超弾性構成方程式に従う2枚の平板に挟まれたゴムの引離しに関する定式化を行ない、応力-歪み曲線や変形挙動を表現する解析解を得た。これまで、非線形弾性を示す弾性体の大変形時の挙動については、単純なずり変形や1軸伸張変形を除き、解析解は求められていなかった。山口君は、ゴムを2枚の剛直な平板に挟み、平板を引離したときの応力-歪み曲線を解析的に求めた。得られた応力歪曲線には応力の極大があり、線形弾性体の応力歪曲線と大きく異なっている。この結果は有限要素法を用いた数値計算と良好な一致を見せることも示された。また、ゴムの厚み依存性など実用上重要な情報についても、解析的な表現を得ることができた。

以上のように本研究は、粘着という重要であるが基礎研究の少ない分野に取り組み、新規な観察法とモデル化により、粘着研究に新展開をもたらしたものである。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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